お台場に設置された聖火台 |
閉会式 |
緊急事態宣言下で外出自粛を求められるなか、64年の東京大会を観た「昭和老人」にとってオリンピックのテレビ観戦は、退屈で鬱々とした巣篭もり中のまたとない時間潰し、いや楽しみとなった。あんなに「こんな時にオリンピックやるなんておかしいじゃないか!」と息巻いていたのに、アスリートの活躍に歓喜し、興奮し、涙し、そして金メダルの数をカウントして朝から晩までテレビに齧り付いている自分を見て、まさに奴らの「術中にはまった」と苦笑いする日々であった。あのSNS上を席巻した怒りのコメントはなんだったのか?上から目線のボヤキ漫才?いや老人性パラノイア、はたまた老人性不定愁訴だったのか? 無観客試合という異例の開催が、自宅でのテレビとネットにかじりつかせることになったことも皮肉だ。頑張ってチケットを手に入れた人には残念だろうが、我々のように一枚もチケットをゲットできなかった「ドンくさい」人間には、小さな声で「ザマアミロ」と快哉を叫び、下劣な溜飲を下げるTV観戦だ。もっとも開会式と閉会式のチケットに大枚叩いた人たちの間では、このTVを観て「これにこんな大金払わされるなら払い戻してもらう方がよかった」との声も...まさかの「金返せ、金返せ」コールというわけだ。
事前の人選トラブルが相次いだ因縁の開会式と閉会式の出来栄えについては敢えてここではコメントしないが、しかし観客席に人影もなく歓声なく、静寂の中でただただアスリートが真剣勝負で競い合う姿が新鮮であった。がらんとした競技場にアスリートの掛け声や息遣いが遮るものもなく響き渡るオリンピックはそうないだろう。また世界が注目するイベントに海外から人々が集まり交流する祭りを求めることも不自然ではないが、こういう時期だからそういう祝祭の色合いは取り除かれても仕方ない。天皇陛下も開会宣言で「祝う」というお言葉を使われず「記念する」と述べられた。アスリートは、こういう困難な時期に開催されたことに感謝し、「ありがとう東京」の言葉を異口同音に語る。そして、だからこそこれまで磨いてきた技と力を、こうして与えられた舞台で出し切るべく競技に専念する。ある意味でのスポーツの原点を見た感じがする。もちろん海外からの観客はなく、選手団/関係者/マスメディアなどの多くの海外からの訪問客との交流はシャッタアウトされ、街に親善友好、祝祭のムードはない。期待する経済効果もなかった。本来ならこれだけでも開催する意義は半減しただろうが、そこはそれ「アスリートファースト」のIOCだ。競技さえできれば他のことは良い。どうせ放映権料を取っているのでTVで観れば良いのだし、開催さえしてくれればよいのだ。まして開催国の国民にパンデミックの厄災が及ぶかどうかIOCの問題ではない、それは開催国の責任だろう...と。
こうして強行されたオリンピックは、始まってみると多くの国民がテレビ、ネットで観戦し、コロナコロナで鬱々とした日常に束の間の非日常的なわくわく体験を思い起こさせてくれた。アスリートの活躍に元気をもらい、そしてアスリート同士の敵味方を超えたフェアプレーとレスペクトに感動をもらった。日本は史上最多のメダルを獲得し高揚感に包まれた。結局はメダルの数が大会が成功か否かを評価するのだと人は言う。だとすればこの東京大会は日本にとって大成功であったことになる。政府、大会関係者は胸を撫で下ろしているのだろう。そして、やはりこのTokyo 2020に「感動」した我々は、まんまと為政者の「策略」にはまってしまったのか? いやそうではあるまい。オリンピック開催さえすれば、なんだかんだ言ってもコロナの鬱憤を晴らし、日本選手の活躍でメダルラッシュとなれば、コロナ対策でミソつけた政権に対する国民の不満も和らぐに違いない(選挙で勝てる!)。そういう読み/期待は、開催期間中に起きた異次元の感染爆発(ついに全国で史上最多の1日の感染者15000人超)と、現場の医療崩壊危機。それに対する相変わらずの政治の迷走、思考停止に儚く潰え去った。オリンピック開会式セレモニーというスイッチが入って、一瞬、パンデミックからオリンピックへとモードが切り替わったかに見えたが、夢の饗宴に酔いしれた17日間は、閉会式と聖火の消灯とともに消え去った。たちまち酷暑の夏と、まだそこにいるパンデミックという悪夢のような現実に引き戻された。政府はコロナの感染爆発とオリンピック開催は関連性がない、と述べているが、オリンピック関係者の感染は450人を超えた。組織委員のバブル方式は機能したのか。その検証はなされていない。海外からの持ち込みだけでなく、日本からの持ち出しはこれからだろう。これからどういった影響が出るのか経過観察が必要だろう。また世論調査では60%がオリンピック開催で、緊急事態宣言と言われても開放感と気の緩みが出た、と答えている。「緊急事態宣言」と「オリンピック開催」というパラドックス。「真夏の夜の夢」の後に残った未曾有の感染爆発と、一年の延期と無観客のオリンピックで残った膨大な赤字と借金、そして危機的な日本の政治と経済の劣化という置き土産を目の当たりにして、国民は現実の厳しさに気付かされる。すでに当初の予定を大幅に超えてしまった1兆6千万円大会経費の回収は無理だ。誰がそのコストを負担するのか?そして商業主義主導で金にまみれ、政治をも動かすオリンピック興行主というIOCの正体も見てしまった。なぜこんな酷暑の夏に競技を集中させるのか。開催国だけでなく世界中がパンデミックで苦しんでいるのになぜ開催を強行するのか。素朴な疑問が湧いてきて、そうだったのか!と現実を知る。そもそもオリンピックって何?誰のためにやるのか?という根源的な問いにもぶち当たったこの夏である。
今回、オリンピック史上も前代未聞の大会となったことは間違いない。パンデミック下の一年延期、無観客、聖火リレー/交流行事中止など異例ずくめの開催。この東京大会は後世にどのように記憶されるのだろう。今回の緊急事態宣言とオリンピック開催という二律背反のパラドックスは、普段気づかない色々なことを気付かせてくれた。その一つが政治やこの国のリーダのあり方である。非常事態下におけるオリンピック開催強行は、為政者が目論んだような、国民の不満をそらして、政治への信頼回復(選挙で勝つ)や、国威発揚や、愛国心の醸成を生み出したわけではなく、むしろ皮肉にも為政者やリーダー、社会的エリートと言われる人々の、いざという時の混乱と迷走を露呈したように思う。オリンピックにしろパンデミックにしろ頑張って結果を出したのはアスリート、ボランティア、大会スタッフ、そして医師、看護師、保健師、警察官、自衛隊員、救急隊員、エッセンシャルワーカーなどの個々人であったということ。要するに現場で全ての仕事を額に汗し、手を汚し、足を動かして走り回って実行し、目的の遂行を支えた人々であったということ。彼らの努力と活躍がなければ、困難な環境下での大会運用もできなかったし、アスリート自身の努力がなければメダルラッシュもなかった。短時間での大量のワクチン接種も進まなかったし、通常医療を抱えながらの感染症対策医療現場での命の救済もできなかった。結果を出したのは彼らだ。海外のメディアから、困難な時期の開催に謝意が示され、SNS上に多くの賞賛のコメントが投稿されているのも、こうしたアスリートの活躍や現場を支えた人々へのそれだ。一方でこうした有事における事態把握、課題認識、方針/政策決定、具体的な対処責任を負う政治家、官僚、リーダーと言われる人たちは国民の負託に応える結果を出せていない。国民の不安と懸念を振り切ってオリンピックは強行して終わらせたが、パンデミックは終わってない。経済の回復もまだだ。事態を見据える視座、合理的な判断力に欠け、国民への共感力も、事態の推移の想像力も欠如し、迷走と妄言をかさねたあげく、矛盾した結論へと突き進んだということになってしまっている。「上は三流だが現場は一流だ」と揶揄される所以だ。あの戦争へと突き進んだ顛末を彷彿とさせる。そして完全な破滅に直面しているのに終戦の意思決定を躊躇していた事実(おりしも76年目の広島、長崎原爆忌である)。トップの意思決定に合理的な根拠がなく優柔不断であること。失敗を認めない、都合の悪いことはなかったことにする思考回路。「根拠のない楽観主義」と「無謬性」という虚構。責任の所在を曖昧にする組織風土。これまでの歴史にたびたび出現した問題解決に取り組む「組織風土」の宿痾がまた今回も再現された感がある。
最後に、最初にスルーした開会式、閉会式の出来栄えの話についてやはり一言付け加えたくなった。厳しい評価の根っこにあるのは、要するに何をメッセージとして世界に伝えたいのかがはっきりしない、ということに尽きる気がする。このコロナパンデミックに見舞われる世界で、今行われるオリンピックにことよせて何を伝えたいのか。「あなた」のメッセージが「我々」に伝わってこないのである。「復興五輪」なんて本当に考えていたのか?と言いたくなるほどぐだぐだになってしまった。一つ一つのパフォーマンスや演奏や寸劇、ダンスは一流のパフォーマーや演奏家、歌舞伎役者を動員しているのだが、パーツである「コント」が全体としてのモティーフ、ストーリーに繋がらない。盆踊り、東京音頭、歌舞伎、和太鼓はこのストーリー上になければ、唐突な昔ながらの日本文化紹介コーナーにしか見えなくなる。参加者であり主役のはずの各国選手は3つに分断されたエリアに閉じ込められて、イベントに参加することもなく、「ショーの傍観者」になることを強いられている。ストーリーライター、総合プロデューサーがいない。指揮者のいないオーケストラだ。政治、経済、企業にビジョナリーリーダーがいない、全体最適を図れるリーダーがいない状況と同じだ。人々を惹きつけ、共感を生み、想像力と期待を掻き立てるものが感じられない。閉会式で披露された次期開催都市パリのフランス国歌演奏に合わせたParis 2024のビデオメッセージは、大勢のパリ市民の参加を得て簡潔で明快なパリオリンピックへの期待感を沸き起こす表現とストーリーでまとまっていた。比べるわけではないが、日本の総合的なプロデュース力、オーケストレート力との違いを見せつけられることになった。いやそうは思いたくないが総合的な文化発信力の違いかもしれない。そもそも例の如く電通に丸投げして、お笑い芸人を総合プロデューサーに起用している段階で、もはや限界かな?と。そしてこの開会式、閉会式のメッセージ不達が今の日本が置かれている状況を象徴しているように感じた。例に挙げるまでもなく、言葉によるメッセージ力がキモであるはずの政治家の、演説/スピーチや国会答弁、プレスコンファレンスでの原稿ボー読みを見るとよくわかるであろう。少なくとも間違えないように読んで欲しいものだが、読んでる本人が書かれている中身のメッセージやビジョンを共有してないから、2ページも読み飛ばしても本人は文脈の不連続に違和感を感じないのだ。リーダーに求められる能力とは何か?日本に欠けているものは何か?大きな課題を突きつけられている。開会式、閉会式の空虚感は日本の抱える課題を象徴している。
Paris 2024 次期パリ大会開催に向けたポスターの一つ |