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The Life of Isaac Newton 『ニュートン伝』 |
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ニュートン肖像(1698年)Wikipediaより |
アイザック・ニュートンとは何者か?
17世紀後半、イギリスで活躍したアイザック・ニュートン(1642〜1727)。ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに学び、のちに教授となる。哲学者、自然科学者、天文学者、物理学者、数学者、光学者、神学者、政治家、造幣局長官。数々の経歴を持つ彼は、総じて言えば自然哲学(Natural Philosophy)、すなわち後の自然科学(Natural Science)の祖であり、科学革命を起こした人物として歴史に名を刻んでいる。哲学と諸科学が未分化であった時代に自然科学を打ち立てたと言っても良い。中でも教科書で学んだように「万有引力の法則」「光のスペクトル分析」「微分積分」がニュートンがなした三大発見と言われている。また天体観測用の反射望遠鏡を開発したことでも知られる。しかし、彼の歴史における事績とその評価は教科書に書かれているような事柄だけなのか。もっと違う横顔があるのではないか。少し異なる角度からニュートンの実像に迫ってみたい。
『プリンキピア』と「万有引力の法則」
1687年に著された主著『プリンキピア:Principia』。すなわち『自然哲学の数学的諸原理』のなかで彼は、「我仮説をつくらず」。「あくまで観測できる物事の因果関係のみを示す」として、当時主流と考えられていたデカルトの自然哲学の仮説の理論的矛盾を指摘した。つまり「引力はなぜ発生するのか」「何のために存在するのか」といった問いには答えず、「引力の法則」がいかに機能するかの説明に徹した。形而上学的問題を避け、予測、計算、検証可能な普遍原理を追求した。これまでの自然哲学はギリシアのアリストテレス以来のスコラ哲学に基づく形而上学的な宇宙、自然理論が主流であった。またデカルトの演繹論に基づく合理主義的自然理論が、物事の運動、重力には何か究極的な原因があるはずで、それを「エーテル」の圧力や渦動に求めるなど、実験や観測で実証され得ないものを原因とすることを批判した。これらは思弁的、観念的な仮説に過ぎず、観察、観測、実験に基づく実証的な理論ではない。自然を実証的な方法で解明し、それを数式化することで一般法則を見つける。近代的な自然科学(Natural Science)が始まった瞬間である。
ニュートンといえば「万有引力の法則」:Law of Universal Gravitationの発見であろう。それは世の中にどのようなインパクトを与えたのか、それまで長く自然を支配する運動法則は天上界のそれと地上界のそれは別であると考えられていた。これはガリレオの地動説が認められてからも依然として有力な考え方であった。しかしニュートンは『プリンキピア』の中で質量、運動、慣性、力の定義を行い、三つの基本法則(慣性の法則、運動方程式、作用反作用の法則)を打ち立てた。いわゆる「ニュートン力学」と言われるものである。地上でリンゴが落ちる引力(重力)も天体を動かす引力(重力)も同じであるということ(万有引力:Universal Gravitation)を理論化してみせた。デカルト主義の哲学者、科学者は、重力や運動には何か究極的な原因があるはずで、演繹的思索の果てに、それを宇宙に充満するエーテルの力だと結論付けた。いっぽうでケプラーは磁場の力をその原因であると主張した。しかしそれらを証明する証拠は何も見つかっていないとその理論の矛盾を指摘した。こうしてニュートンはこれまでのガリレオ、ケプラーなどの先人が発展させてきた物理学を「ニュートン力学」として体系付け、これにより古典物理学は完成を見たと考えられている。
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「プリンピキア」初版の表紙 |
ペストが産んだ世紀の大発見
この「万有引力」理論発見のきっかけてなったとされる「りんごの木」の話は、今でも伝説的に語り継がれる逸話である。かれは1665年から1666年にかけて、ペストの二回目の大流行でケンブリッジ大学が休校となりやむを得ず田舎に避難していた。この時期に大学を離れ、自然豊かな環境(おそらくリンゴの木もあったのだろう)でゆっくりと思索に耽ったなかから生まれたのが「万有引力の法則」である。「光学スペクトラム」「微積分」もこの時の思索からアイデアが生み出されたとされる。後世にニュートンの「創造的休暇」と呼ばれたもので、ペストというパンデミックが歴史的な成果を生んだと評されている。現代のコロナパンデミックは、後世に何か創造的成果を生み出す機会になったのであろうか?これからの世界に何らかのインパクトを与えるニュートンのような人物が現れ、画期的発見、考察、理論が姿を表すのを楽しみにしたいものだ。
イギリス経験論哲学の継承者
彼がケンブリッジで活躍した時代は清教徒革命から1660年の王政復古。さらに1688年の名誉革命の時代である。イギリス啓蒙主義が起こり、経験論的な哲学思想、科学的な合理主義が主流となり、やがて産業革命の時代、大英帝国へと変化してゆくその前夜と言って良い。一方でニュートンの理論(『プリンキピア』で論じられた)は大陸の自然哲学者からは認められなかった。むしろ怪しげな実験や観測手法を用いるオカルトの一種とみなされたこともあった。先述の通り、ニュートンの思考方法とアプローチはデカルト合理主義(演繹論的)とは異なり、フランシス・ベーコン、ジョン・ロックのイギリス的な経験論哲学(帰納法的)を起源とする。フランシス・ベーコンは以前にも紹介したように「知は力なり」、実験や観察を重視する科学的な手法による合理性を唱えた最初の哲学者である。「我思うゆえに我あり:Cogito ergo sum」、すなわち人間の理性を第一原理とし全ての出発点と考えたデカルトとは対極にある。ベーコンの経験論哲学はジョン・ロックによって体系化された。そのロックとは交友関係にあり、大きな影響を受けた。二人の間に多くの書簡が残されている。ニュートンはまさにこのイギリス経験論哲学の継承者の一人でありその実践者である。2024年8月10日「古書を巡る旅(54)」ベーコン書簡集(1)
人間の感性とロマンの破壊者?
このようにニュートンは近代合理主義、科学の時代を生み出した輝かしい人物として評されている。ここまでは教科書に記述された我々が学んだ定番ニュートン像である。しかし、彼は科学革命を起こした近代科学の祖であり、理性の価値を高めたとされる一方で、人間の感性のもたらす価値を相対的に後退させた元凶とみなされることもある。産業革命後の科学万能、合理主義万能に対する反発は、文学や芸術の分野の文化人から起こり、特に19世紀のロマン主義の復活の時に高まって行った。19世紀ヴィクトリア朝時代末期には・ジョン・ラスキの「自然に帰れ」という思想や、アール・ヌーヴォーのウィリアム・モリスなどその影響を受けたロゼッティ兄弟の、いわゆる「ラファエル前派」のグループが、ニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言して、科学万能主義や合理主義への反動運動を起こした。ウィリアム・ブレイクの詩集「ミルトン」にはニュートンをイメージした挿画があしらわれ、人間のロマンと感性を破壊した象徴として描いている。ただ、このムーヴメントは20世紀に入ると衰微して、世紀末的芸術思想とみなされるようになるが、近代合理主義、科学万能への批判が出るたびに、その「元祖」ニュートンが象徴的に槍玉に上がる。人間の理性(頭)と感性(心)、合理主義と非合理主義。この二項対立は、圧倒的な技術革新(イノベーション)、科学万能、技術優位の動きが加速した20世紀、21世紀にこそ先鋭化しがちなテーマである。しかしこの二つは相剋しつつもブレンドし合う。これはこれからの世界でも繰り返し起こるに違いない。「産業革命」の次に来た「情報革命/デジタル革命」の時代を迎えた現代的な課題。例えば「AIと人間の感性」、といった二項対立に持ち込みがちな問題を歴史的に俯瞰してみる思考回路が求められる。これもニュートンが扉を開いた新たな自然哲学(自然科学)、科学革命が引き起こした哲学上の問題提起であろう。21世紀の現代に世界中で起きている諸問題の解決を試みる際に、イギリス経験主義哲学の系譜の上に花開いたジョン・ロック(民主主義)、アダム・スミス(資本主義)とともにアイザック・ニュートン(科学)もその哲学思想の原点に帰って理解し、その現代的意義を再評価してみる必要がある。2024年2月10日古書を巡る旅(45)「ジョン・ロック全集」、 2023年1月5日古書を巡る旅(29)「アダム・スミス全集」
ウィリアム・ブレイクの描くアイザック・ニュートン 産業革命後の科学万能時代を批判する意図で描かれた |
ニュートンの実像: 近代科学の祖?最後の魔術師?
しかし、ニュートンのこうした歴史上の偉人、レジェンドとしての姿は、後世に人々によって形作られたものである。ただその人生は観察や実験、数理的定式化、自然科学的な合理性では説明がつかないものであった。大学でのロバート・フックとの「万有引力」発見の先取り争いなど、学究生活のゴタゴタで疲弊し、長く勤めたケンブリッジの教授のポジションを捨てて下院議員として政界入りしたり、王立造幣局長官のポジションに移ったり。哲学者、研究者ニュートンの姿はない。そこには行政官としての力量を発揮し、贋金作り撲滅に没頭するニュートンがいた。死後は国葬を持ってウェストミンスタ寺院に埋葬されるという栄誉によくするが、人間ニュートンはある意味で世俗の煩悩から解放された「天上天下唯我独尊」の存在ではなく、むしろその中で呻吟し一時は精神を病む生身の人間であった。また物欲煩悩の人でもあり、「南海泡沫事件」(17世紀イギリスのバブル崩壊事件)で有名な投機目的の南海会社に巨額の投資をして失敗し財産を失った。「わたしは天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算することはできない」という名言を残したことでも知られる。
20世紀に入り、1936年にニュートンの遺稿が大量に見つかりオークションにかけられ、その半分を経済学者のケインズが落札した。驚くことにその大半は錬金術やオカルトに関する論文だった。また彼は神学においても著作を残しており「ヨハネの黙示録」など独自の終末論を展開した。自然哲学と同じくらい神学にも力を注いだ。彼はニュートン物理学を確立したが、それがキリスト教の教義と矛盾するとは全く考えていなかった。ケインズはその著書『人間ニュートン』のなかで、数学と天文学は彼の仕事のほんの一部に過ぎず、彼が最も興味を抱いたテーマではなかった。「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく最後の魔術師である」「古代/中世に片足を置き、もう片足で近代科学への道を踏んでいる」と評している。17世紀は確かに近代科学が始まった萌芽期であるが、まだ中世の残滓を多く引きずった時代でもある。ある意味で半世紀前のフランシス・ベーコンが苦闘した「魔術から科学へ」の時代からそれほど進化していない時代である。左はさりながらニュートンの哲学者、科学者としての業績が過小評価されるものではない。
デヴィッド・ブルースターの『ニュートン伝』
本書は19世紀のスコットランド人で、セント・アンドリュース大学総長、エジンバラ大学総長などを勤めた光学研究者。ブルースター角(偏光角)と屈折率の関係の発見(ブルースターの法則)、色の三原色定義や万華鏡を生み出したデービッド・ブルースター:Sir David Brewster (1781〜1868)による「ニュートン伝」である。この「ニュートン伝」の執筆も彼が後世に残した業績の一つになっている。彼自身が光学研究者であることからか、ニュートンの光学者としての功績からスタートしているが、万有引力、微積分の研究など、自然哲学(自然科学)の祖としての評価、偉大なる科学界の先達を顕彰する評伝となっていることは不思議ではない。さらに、ニュートンに関しては数多くの伝記作家や科学史家の評伝があるが、光学研究の泰斗が書いた評伝という点でユニークである。この書は1831年の初版、1855年の改訂版を元に1868年のブルースター死去後に、王立グリニッチ天文台のW. T. Lynnによって改訂、編集されたものである。出版社はCall & Inglis (London, Edinburgh)で、出版年は記されていないが1870年代以降であろう。以前の蔵書者のメモ書きで1881年とある。イギリスのこうした書籍にしては珍しく索引:Indexがついておらず、少なくともこの版に関しては学術的な研究書として刊行されたものではないのかもしれない。装丁が豪華で、科学者による「近代科学の祖」の伝記としてはやや不釣り合いにも見える、ブルークロス装に金文字、四方金のアール・ヌーヴォー調の美しい装丁である。先述のようにこの時期、反合理主義、科学万能主義への反発が文芸、芸術界で沸き起こった時期と重なる。まさにアール・ヌーヴォーの全盛期に入ろうという時代の刊行である。アール・ヌーヴォーを纏った「ニュートン伝」。これは科学界から文芸/芸術界への何らかのメッセージなのであろうか。あるいはただ読書家向けの愛蔵版としたものか。不思議なものを残したものだ。考え落ちだろうか。
CiNiiによれば日本では東北大学図書館、山梨大学図書館に収蔵されている。
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ニュートン肖像と表紙(彼の生家だとある) |
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アール・ヌーヴォー調の豪華なデザイン |
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Sir David Brewster(1781〜1868) |