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2024年4月7日日曜日

古書をめぐる旅(48)The Narrative of A Japanese:「ある日本人の物語」by Joseph Heco 〜漂流民「ヒコ」が見た幕末維新〜



The Narrative of A Japanese:「ある日本人の物語」

表紙

遭難船「栄力丸」と救助船「オークランド号」の出会い
物語はここから始まった



面白い本を見つけた。Joseph Heco:ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の自伝、The Narrative of A Japanese:「ある日本人の物語」である。ジョセフ・ヒコは江戸時代末期に日本人漂流民としてアメリカ商船に救助され、アメリカにわたり市民権を得た初めての日本人(日系アメリカ人第一号)である。カトリックの洗礼を受け、洗礼名がJosephである。タウンゼント・ハリスが下田の領事から、駐日全権公使(Minister)に昇格したことに伴い、神奈川に新設されたアメリカ領事館の通訳として日本に赴任(帰国)した。その後、日本初の日本語新聞を発刊したり、商社を立ち上げたり、長州、薩摩や肥前などの維新を主導した人々と人脈を築いた。故国日本に、日系アメリカ人として戻り幕末維新という激動の時代に活躍した人物の物語である。ピアーズ、ブキャナン、リンカーンと三代のアメリカ大統領に謁見した初めての日本人でもある。漂流民といえばジョン・万次郎が有名であるが、このヒコ:「アメリカ彦蔵」ももう一人のアメリカ帰りである。そのジョセフ・ヒコが書き残した自伝原稿を編集、出版したのが本書である。編者は、大著History of Japan:「日本史」を著した明治期のジャパノロジスト、James Murdoch:ジェームス・マードックである。以前のブログでも紹介した。

マードックは序文で、''Mr. Heco had unusual opportunities of seeing and hearing things from two stands-points, from the native as well as the foreign; opportunities of which he seems to have availed himself with no mean measure of shrewdness. ' 「ヒコ氏は二つの視点、すなわち日本人として、外国人として、激動の幕末維新を見聞する貴重な機会を得た」と紹介している。ジョン万次郎が「開国前」の日本に帰国したのに対し、ヒコは「開国後」の日本に「アメリカ人」として帰国(赴任)した、という違いがある。これについては後述する。

本書は全2巻合冊版で、1890年に初版として出されたものの再版(1950年)である。第1巻は、彼の生い立ち、生まれから漂流、渡米、そして神奈川領事館通訳として日本赴任と馬関戦争従軍まで。第2巻は、領事館辞任以降、長崎、兵庫、横浜での商社立ち上げ、新聞発行を通じた幕末維新録である。西南戦争、大津事件の記事で終わっている。

全体を通読して感じたのは、14歳の時に遭難、漂流という過酷な出来事に遭い、やむを得ず故国を離れ異国の地に過ごした9年間ののちに帰国する、という数奇な運命に翻弄されたにしては、9年ぶりに見る故国の姿に感無量で涙する、開国、激動の日本に戸惑う、などの感情表現が少ないことである。読み手からすると、艱難辛苦の末、ようやく帰り着いた故国がどのように見えたのか。それを知りたと思うのは人情だろう。かといって、すっかりアメリカ人になっていて、遠い記憶の中でしか確かめられない日本という国での「異文化体験」、といった目線や心のゆらめきものも表されていない。赴任途中にかつてアメリカ領事館があった下田に寄港し、ハリスとともに下田奉行と会った時に、初めて日本語で会話したと書いているが、だからどうという感想も書かれていない。内容もさることながらこれが通読後の第一印象であった。これまで見てきた「外国人ノン・ネイティヴ」視点の幕末・維新の日本見聞録とは異なる、「日本人ネイティヴ」の視点のそれは、編者のマードック先生の上記のコメントにもかかわらず、意外にも色濃く表現されていないような印象だ。ヒコはバイリンガルであったが、書く方は和文が辿々しくなっていて英文の方が達者であったという。その英語表現はネイティヴのそれであるが、一方で、我々ノン・ネイティヴにもわかりやすい文体で書かれている。その英文で記述された「アメリカの外交官」然とした日本観察記録のようにも感じる。この点ではサトウやミットフォード、ハリスの記録と共通性があるようにも思う。編者のマードックは、序文で、ヒコのオリジナルの原稿には手を入れていないと書いているが、ただ私的な出来事やストーリーに関連のない記述は採録を省略した、と書いているので、多少編者の意図に沿った取捨選択があるかもしれない。そこにヒコ個人の故国を思う感情表現があったのかもしれない。あるいはこの時代の日本人に特有の私情を吐露しない気質の現れなのか。彼は武士階級出身ではなく庶民の出であるが、天保生まれである。幕末に活躍した維新の志士、偉人には天保生まれが多い。明治になると「天保老人」と呼ばれ、尊敬もされたが、煙たがられもしたようだ。後述する、同じ漂流民、Ottoson(山本音吉)も、John Mung(中浜万次郎)も天保生まれである。「天保老人」恐るべしである。

本書は、維新史に名を残した重要人物からの書簡(和訳。英訳)や、重大事件や世相を表した新聞記事(英文)を多数引用しており、また、多くの人物の名前が登場するので、当時の出来事を知る記録としては興味深い。ヒコの記録には、当然ながら彼の上司であるタウンゼント・ハリスの名がたびたび出てくる。一方の「ハリス日記」にはヒコの名が一回も登場しない。これはハリス日記が1858年(安政5年)6月9日(日米通商航海条約締結交渉中)で終わっているからである。ハリスがヒコと出会ったのは、条約締結後の1859年(安政6年)。新たに駐日全権公使に昇格し、静養先の上海から日本に帰任するときである。ここでヒコを新設された神奈川領事館のドアー領事:E.M.Dorrの通訳として採用し、同じ船で横浜に赴任している。以前のブログで、ハリス日記の1858年2月末日以降の空白部分を補う記録として、ヒュースケン日記に期待したが、これもなぜか条約締結交渉中で日記が中断(1858年6月8日)していることも述べた。したがって、このヒコの自伝が、条約締結前後の記録欠如部分を補完する可能性があるとも言えるのであるが、当然ながらヒコ赴任前の出来事である条約締結交渉の経緯については記述がない。さらに、仔細に読んでみても彼は神奈川領事館通訳としての立場で書いているので、ハリスやヒュースケンが江戸の公使館で幕閣や他国公使などと直接やりとりした出来事とは多少異なる。ヒュースケン暗殺に関しては記述がある。ハリスとヒコが時間を共有していたのは1年余で、ヒコは一時アメリカに戻り、再び日本に戻った時にはハリスは退任してアメリカに帰国している。なかなか条約締結過程とその後の履行に関する混乱の「空白の日記」を埋める資料の発掘は、ハードルが高いことを改めて認識させられた。


以下に、主に本書の記述に従ってジョセフ・ヒコの経歴を紹介する。なお本文中の年月日表示には、なぜか多くの部分で年の記録が抜けているので、吉川弘文堂の「日本史年表」と照合した。


 Joseph Heco,(浜田彦蔵)

播磨國(現在の兵庫県播磨町)出身 灘五郷の酒を江戸に運ぶ大型廻船の乗組員 1837年(天保8年)〜1897年(明治30年)

1850年(嘉永3年)14歳の時に「栄力丸」で、江戸から兵庫への帰途、遠州灘を航行中、暴風で遭難、漂流。アメリカ船「オークランド号」に救助され、ハワイ、サンフランシスコへ

1853年(嘉永6年)マカオに移り、ペリー艦隊の日本遠征航海に便乗してで帰国予定。しかし叶わず、アメリカ定住を決意。カトリック系ミッションスクールへ、サンフランシスコの商社などで勤務

1858年(安政5年)アメリカ市民権取得(帰化)、カトリック洗礼 Joseph Hecoと名乗る。日本へ帰った時に厳しい処置が待っていることを予見したためとも言われる。この年ハリスの交渉成果である「日米通商条約」(安政五カ国条約)締結

1859年(安政6年)上海で、新たに駐日全権公使として赴任するタウンゼント・ハリス、神奈川領事E.M.ドアーと会い、新設された神奈川領事館通訳に採用。日本人ではなくアメリカ国籍であることを確認した上で、共にミシシッピー号で日本へ。下田経由(ヒュースケンと会う)で横浜上陸。この時上海でデント商会にいた漂流民の山本音吉:John Matthew Ottoson(後述)と会っている。また、広東で、同じく日本に赴任する駐日英国公使オルコックと会っている。またこの時同じ「栄力丸」の乗組員であった「Dan」と再会。彼はイギリス広東領事館(オルコック)に雇用されていた。オルコックからイギリス領事館の通訳にならないか、とオファーを受けたが、すでに仲間が通訳になっていること、自分はアメリカの友人から良いオファーを受けていることを理由に、丁寧に断っている。

同年、神奈川・本覚寺にアメリカ領事館開設 ハリスは江戸・善福寺に公使館開設

1860年(万延元年)ポーハタン号と咸臨丸の幕府遣米使節団派遣のため、艦隊を率いるブルック艦長の通訳を務める。出港前に正使木村摂津、勝海舟、中浜万次郎と会う 万次郎とは30分ほど話したとあるが何を話したか記述はない 

1861年(文久1年)離日再渡米 公式の外交官として任命を受けるための運動でワシントンへ

1862年(文久2年)3月12日 ワシントン・大統領官邸でリンカーン大統領に面会。 シーワード国務長官の紹介で 南北戦争(1861〜1865)

同年、10月13日に再び外交官として日本、神奈川赴任。この年にハリスは帰国し、駐日公使はロバート・プリュイン(1862年5月17日着任)に交代。この第二回目の赴任前には、アメリカ公使館のヒュースケン暗殺(1860年)、イギリス公使館襲撃(1861年:第一次東禅寺事件)、御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ち(1862年)など攘夷の嵐吹き荒れる。生麦事件が起きる

1863年(文久3年)5月 アメリカ艦が関門海峡で長州の艦船から砲撃を受ける事件発生。その翌年(1864年8月)四国艦隊下関砲撃。アメリカ艦艦長マクドゥガルの通訳として米艦ワイオミング号に乗船し下関へ。長州側と砲火を交える。

同年、生麦事件に端を発する「薩英戦争」勃発(1863年7月)。生麦事件の経緯、薩英戦争交渉の模様を新聞を引用して詳しく紹介している。「ジャパン・ヘラルド」ジョン・ブラック主筆がメインの情報ソース。やがて自分で日本語新聞を発行を志す。

1864年(文久4年) 領事館を辞し、横浜、兵庫、長崎で商社活動開始。岸田吟香と「海外新聞」発刊。2年しか続かなかったが、初の日本語新聞で、のちに「日本の新聞の父」と称されることに。南北戦争など海外ニュースのほか、綿花相場、生糸相場の「今日の値段」を知らせる新聞であった

1865年(慶応元年) 幕府に新たな国家構想、国政改革案(いわゆる「国体草案32ヶ条」をまとめた建言書を提出。しかし無視。アメリカ憲法を下書きにした、わが国最初の憲法草案とも言える。

1867年(慶応3年)6月 木戸/伊藤と面会 長州藩の長崎代理人に。グラバー商会を通じて武器調達を図ったものか。この時、倒幕、天皇の政府樹立計画を聞かされる。長州人脈を形成。先の「国体草案」を示す。

同年 肥前鍋島侯の英艦への乗艦視察斡旋。グラバー商会と肥前藩を仲介し、高島炭鉱開発。結果的にはうまくいかなかったが、これがきっかけで肥前藩との人脈形成

1868年(慶応4年)1月 戊辰戦争(鳥羽伏見〜東北諸藩〜箱館戦争)

同年3月25日「五箇条の御誓文」発布 明治維新新政府樹立  明治元年となる

1871年(明治4年)岩倉遣米/遣欧使節団出発 この時は長崎にいた。

1872年(明治5年)大蔵卿井上馨の勧めで東京へ出て大蔵省出仕。渋沢栄一のもとで国立銀行条例案策定、貨幣、税金に関する改革企画書作成。秩禄処分、廃藩置県に伴う国庫の資金難で、海外での資金調達に携わる。造幣局設立にもかかわる

1877年(明治10年)西南戦争勃発、西郷の最期、木戸の他界

1888年(明治21年)東京・根岸に転居

1894年(明治27年)日清戦争

1897年(明治30年)横浜で没す。青山の外人墓地に埋葬。

和訳本として、「アメリカ彦蔵自伝」中川努/山口修訳 平凡社東洋文庫刊


以下に、本書に記述された興味深いエピソードをいくつか紹介したい。

(1)アメリカ大統領ピアース、ブキャナン、リンカーンとの面会

Chief of Nation:「アメリカの主人」に会わせてやるからと、サンダース税関庁長官に連れられてピアーズ大統領と会った時の印象が面白い。「アメリカの主人」の居館は特に豪壮な城や宮殿ではなく、普通の建物で、その簡素な部屋に座っている平服の男がChief of Nationであった、と驚いている。これが国民の入れ札(選挙)で選ばれたPresident:「大統領」で、しかも4年経ったら普通の人に戻る!これがChief of Nation,すなわち日本で言えば大君(将軍)であるということが信じられなかったと回想している。次のブキャナンには、日本でのアメリカ代表部でのポジションを頼んだ。これはうまくいかなかったが、上院の有力者の推薦で外交官としての領事館通訳のポジションを得ることができた。ちなみにペリー来航時の大統領はピアースで、その親書を大君(将軍)に奉呈。ブキャナンは咸臨丸の遣米使節一行が謁見した大統領。ヒコは日本人として最初にアメリカ大統領にあった人物である。

次に、1862年にウィリアム・シーワード国務長官の紹介でリンカーンと面会した時のエピソードがいかにもアメリカ的でこれまた面白い。リンカーンは、長身痩躯で、髭を蓄え黒い服を着た人物。一見物静かで威厳はあるがとても「大君」には見えなかったと印象を記している。しかし、暖かな性格で、誰にでも気さくに話しかける人物で、たちまちファンになったと書いている。その時、大統領執務室には先客がいて、何か大統領に必死で頼み込んであるようで、椅子にかけてそれを聞かされている大統領は不機嫌そうであった。やっと話が終わってヒコが紹介されると、忽ち上機嫌で握手し歓迎してくれた。きっと、ヒコが就職を頼みに来たわけではないことがわかっていたからだろう、と皮肉っぽく書いている。アメリカは、上級官僚ポジションが猟官制の国で、大統領や国務長官、上院議員などには、常に就職斡旋依頼の陳情が多かったようだ。しかし、それだけではなく、ヒコが大統領に面会できたのは、アメリカにとってペリーやハリスの努力で日本が開国したこと、欧州諸国に先駆けたアメリカのアジア戦略にとって日本の重要性が増していたこともあり、日本におけるヒコの役割に期待したための面会(謁見)であったろう。リンカーンにとっても初めて会う日本人で、新たに開国した未知の国に非常な関心を持っていて、ヒコに矢継ぎ早に質問した。しかし、この頃のリンカーンの最大の政治課題は国内問題。すなわち内戦の勃発(1861年の「南北戦争」)であった。したがって、このことがハリスの帰国以降、アメリカの対日戦略に影がさすことになる。ヒコは1865年(慶応元年)にリンカーン暗殺の報を日本で聞き、ショックを受け、同じく重傷を負ったシーワード国務長官にお悔やみの手紙を送っている。リンカーンがヒコに与えた一種のカルチャーショックは、日本に帰ってからの彼の考え方や仕事にも大きな影響与え、後述の「国体草案」などに生きてることになる。


リンカーンに会った当時の雑誌に掲載されたヒコ

リンカーン暗殺の報を聞いたヒコのお悔やみ状に対する
元国務長官シーワードの自筆の礼状


(2)馬関戦争参戦と攘夷の恐怖

1863年、アメリカ船が関門海峡を通過中に長州藩の艦船から無警告に砲撃された事件がきっかけとなり、翌年に四国艦隊が下関を攻撃し砲台を占拠した事件が起きた。いわゆる「四国艦隊下関砲撃事件」すなわち「馬関戦争」である。この時、最初のアメリカ船への砲撃に対抗するために横浜を出撃した米艦ワイオミング号(マクドゥガル艦長)に、領事館通訳としてヒコは乗船し下関に向かう。マクドゥガル艦長は、出航にあたって、長州側と交戦状態になるだろうと予想し、江戸の公使ロバート・プリュインの判断を待つために出港を予定より2時間遅らせたが、ついに公使が来なかったので、独自の判断で出航することになった(横浜帰投後、ヒコが「この非常時になぜ公使は来なかったのか」と、神奈川領事に詰問した時、ニヤリとして「体調不良のため」と答えたと書いている)。マクドゥガル艦長は出撃に当たって、ヒコに長州側の出方や、その後の幕府側の反応についてアドバイスを求めている。長州側は軍艦、商船に関係なく砲撃してくるので、応戦しても問題ない。アメリカ側に国際法上、交戦国としての不利益にはなることは無いと説明している。ヒコはこうした状況判断ができる知識と能力を持っていた。案の定、関門海峡に入るといきなり砲撃を受け、たちまち交戦状態となる。彼にとって初めての戦闘参加で、砲火を交えるなか命の危険にさらされている。長州側に大打撃を与えるがアメリカ側にも死傷者が出て、この時の艦内の緊張感が記録されている。同時期にイギリス、オランダ、フランスの艦船も長州から砲撃を受けており、その翌年の共同歩調行動となる。この事件はアメリカが砲艦外交をリードした初めての事件であったことが分かる。翌年の連合艦隊の行動は迅速かつ圧倒的で、連合艦隊の優位は明らかで、長州側の砲台をたちまち占拠。降伏させる。長州藩はこの事件で欧米列強の軍事力を見せつけられ、攘夷の無謀さを悟るきっかけとなる事件となった。この歴史的事件に、アメリカ側の領事館員として日本人(日系アメリカ人)が参加していたことを彼の自伝で初めて知った。のちに木戸、伊藤と会見した時に、長州といえばあの事件、と回想している。しかし、あえてこの馬関戦争に参加した話はしなかった。長州はこの事件を転換点に攘夷から近代化に舵を切ったからだ。その結果としてこうして木戸、伊藤に会っているのだからと。彼らと会見したのは維新成就が間近な1867年のことである。

しかし、ヒコは戦火を潜って横浜に帰ってからも気が休まらなかった。というのも攘夷の嵐が吹き荒れるご時世で、横浜居留地の外国人にとっては危険極まりない状況であった。同じ年に、生麦事件をきっかけにイギリス艦隊が鹿児島に押しかけ砲撃戦になったこと(「薩英戦争」)。彼の留守中の1861年にはイギリス公使館襲撃事件(第一次東禅寺事件)で一等書記官オリファントが重傷を負って帰国を余儀なくされたこと、その翌年には御殿山に建設中のイギリス大使館が焼き討ちされたこと、その前の年の1860年には、同じアメリカ公使館の、いわば同僚と言っても良いヒュースケンが江戸の路上で暗殺されたことも生々しい記憶として脳裏に蘇った。彼は神奈川・横浜に在住する自国民(アメリカ人)の保護のために出された、ハリスやイギリスのオルコックの回状を引用し、ヒュースケン暗殺の衝撃を伝えている。また、ヒコ自身にも身辺警護の指示が来たと書いている。馬関戦争でも、四国連合艦隊の出撃を手引きをしたとして、ある日本人が殺害され、京都に生首がさらされる事件が起きた。その張り紙に「夷狄に協力した不逞の日本人を一人成敗した。もう一人いるので必ず成敗する」とあった。この「もう一人の日本人」は自分のことだと悟ったと回想している。日本人として帰国していれば、幕府の厳しい詮議が。しかし、アメリカ人として帰国(来日)してもこのような危険な目に遭うのだと覚悟した様子が、「日系アメリカ人」ヒコの複雑な心情を物語っている。


「馬関戦争」の長州側砲台と連合艦隊の配置図


(3)「国体草案」の行方と木戸、伊藤、五代、渋沢との出会い

1867年、先述の長州藩の木戸、伊藤との出会いが面白い。初めてこの二人がヒコを訪ねた時、彼らは自分たちを薩摩藩士だと自己紹介した。しかし薩摩訛りが全くない、と周りの人たちが口を揃えていうので、のちに二人に正したところ、素性がバレた。彼らは長州藩士で、幕府を倒し、天皇中心の政治体制に変えようとしているので手を貸して欲しいと、本心を明かしたという。この頃は長州人はその身分を隠して行動せざるを得なかった様子がよくわかる。ヒコは長崎においてグラバー商会などと取引関係があり長州藩の代理人、海外窓口として活動して欲しいというわけだ。情報収集だけでなく最新の武器の調達を期待したものだ。今でいう「外国の代理人」!である。こうして彼らとの活動を共にすることとなる。維新成就の一年前のことである。

この前の年に、ヒコは神奈川の幕府役人の勧めで、国家構想、国政改革案(いわゆる「国体草案32ヶ条」をまとめた建言書を幕府に提出した。わが国最初の憲法草案とも言えるものだ。ヒコは日本語文章能力が乏しく、周囲の仲間が起草を手伝ったと言われている。これはアメリカ合衆国憲法に範を取り、新しい国家像、政治体制を構想し、提言したものである。しかし、江戸の幕府は全く聞く耳を持たずうやむやにされてしまった。これに愕然としてヒコは、木戸、伊藤など新政府樹立を目指すグループに見せて議論したという。ヒコは彼自身がアメリカ大統領リンカーンに会い、大統領は、普通の市民の中から入れ札(選挙)で選ばれた国家元首であり、4年経つと普通の市民に戻ることなどを木戸や伊藤に話した。このように合衆国憲法について話すと、木戸はアメリカの政治制度に驚いた様子であった。また木戸の紹介で長崎で坂本龍馬と会って、国体草案について話したとも言われている。龍馬の「船中八策」はこれに影響を受けたものであるとする説もあるが、ヒコの伝記には龍馬との面談の記述はなく、それを窺わせる確かな資料もないので根拠の不確かな推測であろう。一方、確かに木戸はヒコの「国体草案」の趣旨を理解し影響を受けたが、彼らが抱いていた天皇中心の新政権構想に、自由主義、人権尊重、人民主権の思想はなかった。結局、アメリカ合衆国憲法に範をとった「国体草案」が、どこまで新政府の国家方針に影響を与えたのかは不明であるが、ヒコによってこのような構想が維新の志士の間である程度共有されていたことは間違い無いだろう。。

維新後のヒコは、長州の木戸。伊藤の他に、薩摩出身で大阪を拠点にしていた五代友厚とも、長崎のグラバー商会を通じて繋がっていたし、また新政府の大蔵卿井上馨とも懇意であった。井上の紹介で渋沢栄一と共に税制、通貨制度改革、国立銀行条例案の作成に携わった。また肥前の鍋島公とも高島炭鉱の経営に参画するなどの人脈を築き上げていった。こうして長州人脈、薩摩人脈、肥前人脈を形成して、新政府の中でも活躍の場を得ていった。


木戸孝允肖像

伊藤俊輔肖像

伊藤俊輔からの英文の手紙

桂小五郎(木戸孝允)からの手紙

1870年12月25日に肥前・鍋島公からグラバー経由でヒコに贈られた大判



参考:

ヒコの自筆のサインが入った書籍が偶然、神保町の北澤書店で見つかった。北澤社長が見つけて取り置きしてくれたものだ。アメリカで刊行されたShakespeare's Complete Works: 「シェークスピア全集」で、見開きに「Joseph Heco Nagasaki Oct.12th 1867」と彼の蔵書である事を示す書き込みがある。。

1867年といえば、長崎で木戸、伊藤と長州藩代理人契約を結び、グラバー商会を通じて長州、肥前と取引をしていた年である。1864年にニューヨークで出版された総革装、天金の豪華な書籍である。誰かからの贈り物なのか、購入したものなのかは不明だが、彼が確かに長崎にいた証拠がここにある。貴重な書籍である。彼はシェークスピアを愛読したのであろうか。だとすれば、日本で最初にシェークスピアを原文で読んだ日本人ということになる。

ヒコの自筆サイン
1867年10月12日 長崎にて

ヒコ所有の「シェークスピア全集」総革装の豪華本
The Works of William Shakespeare
by Alexander Chalmers in 1864
published in New York and Boston




付録:漂流者列伝

江戸時代末期、記録されているだけで15人の漂流民がいたと言われている。しかし、これは生還し、記録を残すことができた人々の数で、これ以外におそらく把握できていない遭難者、行方不明者が多数いたと思われる。そしてそのほとんどが太平洋で遭難している。小型の沿岸航海用の平底船ばかりで大型外航船の建造を禁じた幕府の鎖国政策のなせる技である。しかも、漂流民を救助しても外国船は打ち払い、入港禁止。漂流民は運よく生還できても、国禁を犯した(?)罪で、入牢/過酷な取り調べ、という理不尽な時代であった。日本人だけではない。長崎には外国人漂流民用の牢があり、15名のアメリカ人漂流民が収容されていた(日本に密入国したラナルド・マクドナルドの記録:Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald 1848-1849)。過酷な扱いを受けていた様子がアメリカでも新聞等で報道されていた。この頃、アメリカでは捕鯨が油を取るための一大産業になっており、捕鯨船がが日本近海にも多数出没しており、遭難する船もあった。ペリーが日本に開国を要求した背景には、捕鯨船の寄港地確保や遭難者の救助、保護、帰国などの必要性が高まっていたこと、それに対する日本の対応が国際社会から見ると、とても受け入れがたい状況であったことがあった。日本人漂流者中で、最も著名な人物は、ジョン万次郎:中浜万次郎であろう。そして今回紹介した、ジョセフ・ヒコ:浜田彦蔵、アメリカ彦蔵。それに意外に知られていないのが、ジョン・オットソン:山本音吉である。以下にヒコ以外の二人の経歴を紹介してみたい。


山本音吉:John Matthew Ottoson:

尾張国(現在の愛知県知多半島美浜町)出身 1819年(文政2年)〜1867年(慶応3年)

1832年(天保3年)千石船で江戸へ向かう途中遭難、漂流し、北米沿岸バンクーバー付近に漂着 13歳であった。インディアン(エスキモーとも?)に救助されるも奴隷にされ売り飛ばされ、イギリス・ハドソン会社へ、イギリス船でロンドンへ。(「Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald 1848−49」121ページにその記述がある) ロンドンに行った初めての日本人?と言われる(実際には、以前のブログで紹介した通り、16世紀末のキャベンディッシュ隊のクリストファーとコスマスがいる)

1835年(天保6年) マカオへ移り、帰国の機会を待つ。そこでドイツ人宣教師とともに「ギュツラフ版聖書」の和訳に取り組む。

1837年(天保8年)イギリス商船モリソン号で帰国を試みるも、浦賀沖で「異国船打払令」により砲撃され果たせず断念(モリソン号事件)。上海へ移りそこで定住することを選ぶ。

1840年(天保11年) アヘン戦争にイギリス兵として従軍したのち結婚。しかしのちに妻子と死別。上海でヒコが乗っていた栄力丸の生き残りと会っている。

1849年(嘉永2年)浦賀へ向かったイギリス艦マリーナ号の通訳として日本へ。さらに1854年(嘉永7年)にイギリス艦ウィンチェスター号の艦長スターリングの通訳として長崎へ。日英和親条約締結交渉の通訳として活躍した。帰国を勧められたが上海に戻ることを選択。

1859年(安政6年)上海でデント商会に勤務。2度目の結婚で家族を持つ。この時、日本に赴任する途上のヒコと会う。

結局、帰国を選ばずイギリスに帰化(正式にJohn Matthew Ottosonに改称)。上海の治安悪化(太平天国の乱など)に伴い、家族でシンガポールへ移住。彼の地で没す。子孫が明治になってから帰国している。

シンガポールで幕府の文久使節団一行と会い、福沢諭吉と面談している(後日、福沢が著作の中で言及している)

彼の生涯をモチーフにした小説、三浦綾子「海嶺」がある。


オットソンといわれる肖像画


中浜万次郎/ジョン万次郎:John Mung:

土佐国幡多郡中の浜出身の漁師 1827年(文政10年)〜1898年(明治3年)

1841年(天保12年)遭難、沖ノ鳥島に漂着。14歳の少年であった。アメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてアメリカへ。ホイットフィールド船長は万次郎をマサチューセッツ州ニューベッドフォードに連れて帰り養子とする。小学校で英語を学び教育を受け、捕鯨船員として職を身につけた。こののち、その腕を見込まれて1846年、捕鯨船フランクリン号に乗り組み、副船長まで務める。この間世界を2度回った。

1848年(嘉永元年) アメリカ船で琉球に立ち寄り、帰国を試みたが果たせず、ホノルルへ。

1849年(嘉永2年) ニューベッドフォードへ戻る。同年、カリフォルニアへ、そこでゴールドラッシュ金掘りで帰国資金を貯める。ホノルルへ。帰国準備。同じ頃ヒコが遭難してアメリカへ(この時は会ってはいない)。

1851年(嘉永4年)在米10年で日本に帰国。上海行きのアメリカ商船で琉球に上陸(途中下車)、薩摩に送られた。島津斉彬に厚遇され、外国事情の聞き取り、藩士への講義が行われた。その後長崎の幕府役人に引き渡されて長期の入牢、踏み絵、尋問を受けた。その後土佐藩に引き渡され、入牢して尋問を受ける。合わせて18ヶ月にわたる事情聴取を受けた。しかし、その知識経験が求められる時期が到来。土佐藩や幕府に重用されることに。

1853年(嘉永6年)のペリー来航。この時の通訳としては採用されなかった。まだ幕府内で外交交渉に万次郎を使うことに警戒感があったため。阿部正弘vs徳川斉昭

1860年(万延元年) 旗本に取り立てられ、幕府遣米使節団に通訳として随行、咸臨丸で渡米。出発前に神奈川領事館にいたヒコと出会っている。アメリカでは10年ぶりにホイットフィールド船長一家と再会している。

帰国後は、英語書籍の出版、教育者として開成所教授や、小笠原開拓などで活躍。しかし新政府で重用されることは無かった。

1898年(明治3年) 東京で没す。雑司ヶ谷霊園に埋葬


中浜万次郎肖像
晩年のもの


3人の漂流者の比較考察:

① ヒコはオットソンより18歳年下。ジョン万次郎より10歳年下。

② オットソンの遭難が一番古く1832年(天保3年)、続いてジョン万次郎が1841年(天保12年)、ヒコが1850年(嘉永3年)。それぞれ9年の時間差がある。

③  漂流時は3人とも13、14歳の少年。これは偶然の一致。物事の分別がつく年齢になっていたし、この若さが10年にわたる異国生活への適応、英語や異文化吸収に役立ったであろうことは想像に難くない。

④ オットソンは帰国を果たせず、イギリスに帰化。シンガポールに眠る。

1837年(天保8年)にイギリスの商船モリソン号で帰国を試みるが果たせず断念。その後イギリスの通訳として1849年、1854年に来日(日英和親条約締結の時)するも帰国せず。

⑤  ジョン万次郎は、開国前の日本に帰国を果たす。東京・雑司ヶ谷に眠る。

1851年(嘉永4年)帰国時は、ペリー来航(1853年)前、すなわち開国以前の「鎖国日本」であったため、入牢、踏み絵など長期にわたる取り調べを受けた。しかし、のちに幕府通訳として活躍、幕府遣米使節団に随行 新政府でも活躍。

⑥ ヒコは、帰国を果たせず、アメリカに帰化しカトリックに改宗。しかし開国後にアメリカ人として帰国(来日)。青山の外人墓地に眠る。

1853年(嘉永6年)のペリー日本遠征艦隊に便乗して帰国を試みるが果たせず。1859年(安政7年)すなわち開国後(日米通商条約締結後)に、日系アメリカ人として帰国(来日)したためジョン万次郎のような幕府の詮議は受けなかったが、攘夷派の襲撃対象にされた。

この3人は年齢も遭難時期も、帰国時期もそれぞれ10年ほどの時間差があるが、その10年の差が、この3人に異なった運命を与えたように感じる。変化スピードが速い激動期であったことを物語る。しかし、想像以上に当時の日本人は、異文化/海外適応能力が高い(そうせざるを得なかった事情を割り引いても)ことと、コスモポリタンなデラシネの資質を持っていることに気づかされる。16〜7世紀、戦国時代、大航海時代にも日本人がさまざまな事情で海外に進出していたことと(あのアンジロウやクリストファーとコスマスのような)合わせ、長い鎖国の時代のまどろみにあっても、一旦、島から出ざるを得なくなったら、覚醒しそこでサバイブする逞しさがDNAの深層に保存されていたをことを知り勇気づけられた。日本人は決して島国根性のガラパゴスではない!と。元来、海洋民族なのだ。


最後になってしまったが、今回のブログも神田神保町の北澤書店に大変お世話になった。貴重な書籍の発掘、紹介に改めて謝意を示したい。