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2013年9月30日月曜日

博多聖福寺、京都建仁寺、鎌倉寿福寺 〜栄西の足跡をたどる旅〜

 栄西の足跡をたどる旅。今津の誓願寺、博多の聖福寺に始まり、京都の建仁寺、そしてついに鎌倉の寿福寺にたどり着いた。寿福寺は鎌倉扇ガ谷にある静かな佇まいの古刹だ。今の姿は、聖福寺や建仁寺のような往時を彷彿とさせるような壮大な伽藍や広大な寺域を誇る訳ではない。源氏山一帯は文字通り源氏ゆかりの土地であり、源義朝の居館があったと言われている。源平の戦いに勝利し、鎌倉入りした頼朝が鎌倉幕府創設を企図した土地である。その一角に境内を公開もせずにひっそりとたたずむ。

 現在扇が谷と呼ばれるこの一体には、花の寺で有名な英勝寺や海蔵寺があり、源氏山に登れば頼朝の像がある。化粧坂やその他の山間谷筋の道は鎌倉独特の狭い切り通し。武家の墓である岩壁を削った「やぐら」も至る所に見受けられる。内陸の盆地である京都や奈良とは異なる独特の佇まいを見せる。武家の拠点らしい、攻めるに難しく、守るに容易な海に面した山と谷の連続の地形が鎌倉の特色だ。

 栄西は、当時宋で盛んであった臨済禅を学び、1191年に帰国後は天台教学復興のために禅を広めようと努力する。しかし京都ではなかなか臨済禅の布教を支持してもらえず、京都での禅寺の創建を一時はあきらめる。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の支援を受け、1195年にようやく博多に聖福寺を創建する。やがては武家政権の中心である鎌倉に遷り、北条政子創建の寿福寺の初代住持となる。京都に建仁寺を創建できたのは宋からの帰国後11年を経たときのことである。これも武家の棟梁である鎌倉幕府二代将軍頼家の開基によるものだ。このように臨済禅は武家社会の支持によってようやく我が国に受け入れられた。

 当時の京都は比叡山延暦寺の力が強く、なかなか新興の禅宗は受け入れられなかったと言われている。栄西自身は比叡山に学び、宋の天台山万年寺に留学している、最澄の延暦寺は天台教学、戒律、密教、禅の四宗並立で、いわば当時の総合大学のようなものであった。そこでは栄西の他にも法然(浄土宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)などの鎌倉期から室町期の新興宗派の開祖たちが学んだ。しかし、その「卒業生」が海外留学の後に持ち込もうとした臨済禅が、お膝元でなかなか受け入れられなかったとは... 仏の御心の寛容性、オープンネスの実現は、現世の人が関わると容易なものではなさそうだ。


これまで巡った栄西ゆかりの寺を創建の順番でおさらいをすると、

(1)聖福寺
 宋から帰国後の1195年、時の将軍源の頼朝に許可を得て、博多の宋人居留区であった博多百堂に我が国初の禅寺を創建。開山となる。後鳥羽上皇のご宸筆「扶桑最初禅窟」の扁額が掲げられている。創建当時ほどではないが、秀吉の博多都市整備の中で削られた後も、比較的広大な寺域を維持している。室町時代には五山十刹の第二刹に序されていた。その後臨済宗建仁寺派の寺院となるが、江戸時代には黒田藩の指示で妙心寺派に転派した。

(2)寿福寺
 1200年、頼朝の菩提を弔うために北条政子により創建された寿福寺の住持となる。創建当時は鎌倉五山第3位。七堂伽藍15の塔頭を擁する大寺院であったが、その後の火災などで現在のようなこじんまりした静かな寺になっている。南北朝時代の再建によるものと言われている。この地は源氏ゆかりの地(源氏山亀が谷)で、義朝の館があったと言われる。現在は扇ガ谷とよばれている。

(3)建仁寺
 鎌倉幕府二代将軍頼家の開基、1202年に京都では初めての禅宗寺院を創建。開山となる。臨済宗の本山ではあるが、真言、天台、禅の三宗並立の寺であった。これは当時比叡山の力が強かった京の都に禅宗を普及させることはきわめて多くの抵抗にあったため、他宗派との協調、牽制による立ち位置の確保が必要であったことによるという。京都五山の第3位。応仁の乱などでことごとく消失し、創建当時の建物は残っていない。

 現在臨済宗は15派7000末寺あり。京都だけでも建仁寺の他にも妙心寺、南禅寺、東福寺、天竜寺、相国寺などの有名な大寺院が臨済宗各派の総本山として崇敬を集めている。また鎌倉には建長寺や円覚寺がそれぞれの臨済宗派の本山として君臨している。鎌倉時代に栄西によりもたらされ臨済禅は、鎌倉幕府崩壊後も足利将軍家の室町幕府により篤く保護された。さらに徳川将軍家の江戸時代に入ると白隠禅師により現在に至る臨済宗の禅が確立された。

 それにしても、木漏れ日の中に続く山門からの長い石畳と、中門を閉ざした寿福寺仏殿の密やかな姿が印象的である。まるで禅寺というよりは尼寺のような佇まいだ。ちなみに隣の英勝寺は鎌倉では数少ない尼寺の一つだ。この源氏山の麓の亀が谷(扇が谷)の地形がまるで隠れ里のような雰囲気を漂わせているせいだろうか。少なくとも大伽藍を展開するだけのスペースが確保出来ない地形だ。それ故に頼朝も、源氏父祖の地であるにも関わらず、幕府をここに設ける事を断念している。



(博多の聖福寺。勅使門は博多の総鎮守櫛田神社に通じている)




(聖福寺山門。後鳥羽上皇御宸筆の「扶桑最初禅窟」の扁額がかかる)




(再建なった聖福寺法堂。中国風の屋根の勾配が美しい)




(京都の建仁寺法堂、天井の双龍図が有名)




(建仁寺庭園。簡素だが力強い禅宗様式の庭園だ)




(鎌倉の寿福寺山門)




(寿福寺参道。木漏れ日の中の石畳が美しい)




(寿福寺法堂。簡素な作りだ。ここから先は入れない)


鎌倉扇ガ谷散策スラードショーはこちらから→



(撮影機材:Leica M Type240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm F.2.8. Sony RX100)