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2014年10月27日月曜日

伊都国探訪 〜「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳」をのぞむ王都を訪ねて〜

 
 糸島は福岡市西の郊外の農村地帯で、豊かに広がる糸島平野と、筑紫富士といわれる可也山、白砂青松の海岸線、二見が浦、芥屋の大門といった名所もある自然豊かな「田舎」だ。糸島というと、福岡育ちの私にとって、西新町商店街にやってくるリヤカー部隊のおばちゃん、新鮮採れたて野菜の行商のおばちゃん、「お花よござっしょ」といいながらウチを回って来てくれたおばちゃん、絣のもんぺに手ぬぐいで頰っ被り。日焼けした元気な「おばちゃん」のイメージがを思い浮かべる。いつもお花を買うおばちゃんがそういえば「ホレ、ボッチャンに」と言ってホタルくれたっけ... 

今は福岡市営地下鉄が姪の浜から西唐津まで乗り入れしている。かつて海岸べりの単線でのどかなローカル線、筑肥線ディーゼルカーしか走ってなかったところが複線電化し、10分ごとに電車が走るようになったことから、糸島は発展著しい福岡のベッドタウンに変貌しつつある。さらに九州大学がキャンパスを糸島(住所でいえば福岡市西区だが)に移転中で、山のなかに広大なビル群が出現している。前原市と周辺町村合併で出来た糸島市の中心、筑前前原(まえばる)駅からは、なんと天神まで30分、博多駅まで45分、福岡空港までも50分という、首都圏、関西圏では信じられないようなアクセスの良さ。それでも博多湾、玄界灘に沿って走る車窓からはは美しい白砂青松の海岸を楽しむことができるシーニック路線だ。

 そんな田舎から都会のベッドタウンに変身中のここ糸島は、古代には伊都と志摩二カ国(縣)が存在し、3世紀の中国の史書、有名な魏志倭人伝にでてくる伊都国のあったところである。伊都国を含む北部九州は、朝鮮半島、大陸に近く稲作農耕文化が上陸した、いわば倭国、日本の発祥の地であるだけに遺跡の宝庫である。古代史ファンには無視できない聖地である。しかし、奈良大和や筑紫太宰府などに比して観光地としてはハイライトを浴びていない。筑紫倭国の時代の遺跡は、例えば奴国の比恵遺跡、須玖岡本遺跡、などは都市化した街中なかに埋没してしまっているし、伊都国の遺跡も広汎な糸島平野に点在しており、車が無いとなかなか回るのが大変だ。市営バスもあるが、日に数本しか運行してない。それが伊都国探訪をためらわせる原因になっていたのだが。

伊都国歴史博物館横の川原川河岸には
魏志倭人伝の一節が
ネットでレンタサイクルがあることを知り、今回は前原駅前で電動アシスト付き自転車を借りで回った。歩道、自転車道がよく整備されていては走りやすかったのがうれしい。しかし、史跡巡りをする人も、一部の古代史マニア中心で、なかなか一般の人のハイキングコースとしては定着していないようだ。週末だというのにレンタサイクルも観光案内所も閑散としている。案内標識も車で来る人には親切だが、ハイカー、バイカーにはチト不親切。何度も道に迷う。

 倭人伝に描かれた伊都国は3世紀、邪馬台国の女王卑弥呼の代官である「一大率」が置かれ、大陸との外交使節の接受を行い、筑紫を統括する役割を持っていたと記述されている。ちょうどその400年ほど後にヤマト王権の出先としておかれた大宰府と同じような位置づけであったようだ。魏からの使者は、この伊都国までやってきて滞在し、伊都国の役人からの聞き書きで、あの倭人伝に記述のある当時の「倭国」の有様、女王国邪馬台国までの道のりを記述したものと考えられている。

 倭人伝によれば、3世紀当時の筑紫倭国には2万戸を擁する奴国があり、1万戸の伊都国よりも遥かに大きく、邪馬台国に次ぐ人口を有する大国であった。奴国といえば、後漢書東夷伝に、1世紀(53年)に、奴国王が後漢の光武帝に朝貢し、「漢委奴国王」の金印を授かったとある。現に福岡市の志賀島から江戸時代にその金印が出土している。古代史上注目の二カ国、伊都国と奴国の関係がどのようなものであったのかも興味深い。

 糸島地方は古代史(弥生時代から古墳時代、奈良時代)の遺跡の宝庫である。年代重層的に遺跡が見つかっている。注目すべきは、あまりにも有名な魏志倭人伝に描かれた3世紀の伊都国の遺構よりも、さらに古い弥生の倭国(紀元前4〜2世紀)の有様を彷彿とさせる遺跡が多いことだ。しかも大陸に近い地域であることを反映して、前漢・後漢、楽浪郡、朝鮮半島との交流を示す遺物が膨大であることも大きな特色だ(これらは伊都国歴史資料館、東京国立博物館に収蔵されている)。さらに稲作農耕文化の移入を示すさらに時代をさかのぼる農耕遺跡も見つかっている。著名な遺跡だけでも考古学的に年代を整理しておかねばならない。古い順に並べると、

1)石ヶ崎支石墓(紀元前4〜前2世紀)

 朝鮮半島に多いドルメン(支石墓)である。昭和24年の発掘調査では、支石墓一基、甕棺墓23基、土壙墓3基が見つかっている。上石は3.2m×2.8mの巨大なもので、副葬品として碧玉製管玉12個が出土すると言う珍しい支石墓。弥生時代早期の有力者とその一族の墓ではないかと考えられている。さらに弥生時代中期(紀元前1世紀〜3世紀)の墓制で、朝鮮半島の影響を受けた支石墓(ドルメン)が多く、伊都国エリアに多くの遺構が見つかっている(志登支石墓もそうだ)。大陸から水稲農耕を持ち込んだ人々の墓制であろう。伊都国には大陸との交流の痕跡がいたるところに見える。
石ヶ崎支石墓遺跡
こんもりした茂みは一見古墳のように見えるが,支石墓を中心とした弥生初期の集団墓地である。

2)三雲南小路王墓(紀元前1世紀の王・王妃墓)

 江戸時代(文政5年1822年)に1号甕棺が、昭和50年1975年に新たに2号甕棺が発見されている。2号甕棺墓からは銅鏡22枚以上、翡翠勾玉、ガラス勾玉、管玉などが出土している。1号甕棺からは銅鏡35枚、銅剣、銅戈、銅矛、勾玉、管玉、璧、金銅製四葉座飾金具が出土したと伝わるが多くが散逸してしまった。弥生時代の墓としては巨大なもので、周溝が廻らされた方形の墳丘墓であったこと。他に例を見ないほど大量に出土した銅鏡は全て前漢鏡であり、豪華な副葬品を持つことから一号墓は王の、2号墓は王妃の墓と考えられている。


三雲南小路遺跡
墓の周りには周溝も検出されている


3)井原鑓溝王墓(紀元 1〜2世紀の王墓推定地)

 江戸時代(天明年間1781〜1788年)、筑前福岡藩の青柳種信により著された「柳園古器略考」に、怡土郡井原村鑓溝で多数の銅鏡が甕棺から出土した記録が残っている。銅鏡21枚(前漢鏡)、巴形銅器3個、刀剣、鎧板などが出土したとある。現在は残念ながら散逸し残っていないが、これほど豪華な副葬品から三雲・南小路王墓に埋葬された王の何代か後の伊都国王の墓であろうと考えられている。現在遺跡の場所は不明で、推定地の農地に標識があるだけ。

井原鑓溝遺跡推定地に立つ案内板。風化が激しく読めない。
ひどいものだ。案内板自体が遺跡化している。

 川原川と瑞梅寺川に挟まれた、これらの二つの王墓遺跡を含むエリア(三雲・井原遺跡)が伊都国の国邑、すなわち王都であったと考えられている。その広さは南北1キロ、東西700mと、ほぼ吉野ヶ里遺跡に近い規模の拠点集落であった。その他にも伊都国内には衛星集落が散在していた(今宿五郎江・大塚遺跡)。


4)平原(ひらばる)王墓(紀元2世紀=3世紀?の王墓)

 伊都国王都であった三雲・井原遺跡の西、瑞梅寺川を隔てた微高地、曽根丘陵にあるのが有名な平原王墓である。1号墓は方形周溝墓で、2号墓は円形周溝墓である。高祖山(たかすやま)、早良(さわら)国へぬける日向(ひなた)峠を真東に見て、西を頭に埋葬されていた。銅鏡40枚、鉄剣一本、ガラス製勾玉、メノウ製管玉などが多数が副葬されており、他の墳墓をよせつけない規模である。なかでも直径46.5センチの内行花文鏡(傍製鏡)が5枚見つかっており、一つの墓から出土した銅鏡の枚数、品質は弥生時代では日本一を誇っている。副葬品は武具よりもネックレスやブレスレットのような装飾品が多いことから、被葬者は女王(ひめみこ)ではないかと考えられている。卑弥呼のほかにも女王が統治した国があったとういうことか。あるいは、こここそ邪馬台国女王卑弥呼の墓だとする見解もある。
平原遺跡
奥に墳丘墓が見える

 平原遺跡は在野の考古学者原田大六氏により発掘調査がなされた。高祖山、日向峠、平原王墓の関連を天孫降臨と結びつける説を展開。氏はアマテラスの墓だと結論づけたと言う。原田氏とともに発掘調査に携わったという地元の方に、たまたま現地でお会いし、発掘当時の話しをいろいろ伺った。当時はアマテラスも卑弥呼も代々何人もいたのでは?と。女王あるいは巫女が統治の権威であった時代だったのかもしれない。

 このように、雷山川、瑞梅寺川と川原川の間に広がる伊都国王墓遺跡は魏志倭人伝に記述のある「代々王あり」という記述を考古学的に実証するものと考えられている。弥生時代において類を見ないほどの多数の前漢鏡、後漢鏡、傍製鏡が出土されており、おなじ弥生時代(紀元前1世紀)の遺跡である須玖・岡本遺跡の奴国王墓よりはるかに多い。ここには強大な権力と権威を備えた王がいたのではと思われる。前述のように、須玖・岡本遺跡に葬られている奴国王の数代あとの王が、1世紀には後漢の光武帝から「漢倭奴国王」の金印を授かっている。この頃は奴国が強力な王権を維持していたのであろう。しかし、その200年ほど後の魏志倭人伝に描かれた世界になると邪馬台国、投馬国に次ぐ二万戸の大国、奴国の存在は記述されているものの、王の存在が消えてしまう。一万戸の伊都国には「代々王がいる」と。しかも邪馬台国の女王卑弥呼の代官「一大率」がとどまる国となる。長い間奴国と伊都国は筑紫倭国の覇権をを競っていたのかもしれない。

 3世紀になるとその両国とも邪馬台国(九州にあったのか近畿にあったのかはさておき)の支配に属すことになる。この200年の間に何が起こったのだろう。 後漢皇帝から柵封を受けていた奴国王の倭国における力が「倭国大乱」ののち衰退し、邪馬台国女王卑弥呼が魏皇帝から柵封を受け、その筑紫支配、外交窓口の代官「一大率」が伊都国に置かれていたと史書には記述されている。それからさらに400年の後のヤマト王権の筑紫支配の出先として、筑紫官家、筑紫大宰、太宰府、筑紫鴻臚館が儺縣、かつての奴国に置かれたという史実。この辺りを解きほぐすことから邪馬台国の位置、筑紫から大和への倭国中心の変遷の過程がかいま見ることが出来るのではないかと思う。

 ちなみに倭人伝に記述のある時代の伊都国の遺跡はまだ特定されていない。例えば一大率がいたであろう府庁や、伊都国王の居館、魏使を迎えた鴻臚館、船着き場のような施設の発見が待たれる。


平原王墓の真東には高祖山と日向峠が
東西軸を意識した配置となっている

 
5)古墳群(4〜6世紀)

 伊都国や奴国などの北部九州筑紫には、近畿大和地方とは異なり甕棺墓、墳丘墓が多く見つかっている。伊都国の北の背振山脈を越えたところにある吉野ケ里遺跡に多く見つかっている土壙墓、周溝墓なども、こうした弥生時代の甕棺墓群遺構だ。北部九州に於ける初期王権の墓は支石墓から甕棺墓・墳丘墓が中心で、大型の古墳が出現するのは3世紀後半(?)以降のヤマト王権が近畿に出現し、筑紫にもその支配権をのばし始める時代(古墳時代4世紀以降)のものである(ヤマト王権の権威を示すために地方の豪族に古墳を造ることを許すという形)。伊都国でも築山古墳、端山古墳を始め約60もの前方後円墳が確認されている。この頃になると伊都国がヤマト王権に従う時代に入ったことを示している。こうして伊都国は消滅し律令体制下の伊覩縣となってゆく。

端山古墳

築山古墳



































6)高祖神社(創建時期は不明)

 怡土郡の惣社として崇敬を集めており、主祭神はホホデミノミコト、タマヨリヒメノミコト、オキナガタラシヒメノミコ:神功皇后である(北部九州には神功皇后と応神天皇を祀る神社が多い)。これは7〜8世紀記紀編纂時期以降(すなわち皇祖神アマテラスを頂点とする神々の体系化以降)のことだろう。それ以前の在地の神の姿は消されてしまったのだろうか。それとも単に記録が残っていないだけなのか。高祖山を背に太陽の昇る東を遥拝するスタイルは、大和三輪山と同じスタイルだ。すなわち神は高祖山に降り立ち、山中に磐座があったのかもしれない。この美しい甘南備型の高祖山自体がご神体山であった可能性は無いのか? 元々の縄文的自然信仰と、大陸から移り住んできた人々の弥生的な穀霊神降臨信仰が結びついたのが高祖山(高祖神社)では?と想像してみたくなる。


高祖神社大鳥居
今日は高祖夜神楽の日だ
社殿は中世に原田氏によって建てられた





6)怡土城(8世紀奈良時代)

 8世紀奈良時代に大宰大弐であった吉備真備によって高祖山に築かれた古代山城である。この時代になると、倭国は国号を日本と変え、天皇中心の中央集権的支配体制が平城京を首都として確立し、律令制の下でかつての伊都国は筑前国伊覩縣(あがた)さらに、伊覩郡(こおり)という地方組織として組み込まれてしまう。筑紫九州と大陸との外交を統括する役所、太宰府が設けられ、そこの長官(形式的には大宰率だが)が、中央政府の命により伊覩に城を築いた訳だ。何のために築かれたのか不明だが、当時新羅との関係が悪化したので、その侵攻に備えて築いたのではと言われている。「続日本紀」に築城の責任者、期間が記録されている。城壁は石垣と土塁が太宰府大野城のように西側山麓に残っているが、大野城のように全周取り囲んでおらず、工事途中で中止した、とか西からの侵攻を防ぐにはこれで十分とか、諸説ある。鎌倉時代以降はこの地をおさめた原田氏の居城「高祖城」として糸島平野を睥睨していた。なお,北部九州に多く見られる「神籠石」については、いまだに謎の古代構造物であるが、朝鮮式古代山城であろうと考えられている。伊都国では雷山の神籠石が有名。


怡土城の土塁が残る
怡土城趾碑
高祖山山麓に碑が建つ


 







平原王墓からは高祖山が真東に見える
此の山が天孫降臨の「筑紫の日向の高千穂」なのか

天孫降臨神話の起源:

 ところで、平原王墓には、鳥居のような柱の跡が残っており、そこに立って周囲を見渡すと、真東に高祖山と奴国へと続く日向峠。西には加布里湾。北には志摩半島の山々を隔てて朝鮮半島に続く玄界灘。南は雷山などの背振山脈が壁のように立ちはだかっている。三瀬峠を越えれば吉野ヶ里だ。太陽は日向峠から昇り、加布里湾に沈む。すなわち、奈良盆地と異なり北と西が海に面しているが、先述のように、大和の三輪山と二上山という東西軸と同じ宇宙観がここにも出現している。いやこちらの方が起源としては古いのかもしれない。

 この高祖山、日向峠、クシフル岳こそ、記紀に言う天孫降臨の地ではないかという説がある。原田大六氏だけでなく、記紀にある「筑紫の日向」は宮崎県の日向ではないのではとする研究者は多い(以前のブログ「アマテラスは宮崎出身?それとも福岡出身?」、「筑紫の日向(ひむか)は何処? 〜天孫降臨の地を探す〜」をご参照あれ)。「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳...」は伊都国の真東にそびえる高祖山(高千穂とは固有名詞ではなく「高くて尊い山」という意味)である。太陽はこの高祖山の日向峠から昇り、加布里湾に沈む。アマテラスは太陽の神、稲作農耕神である。縄文世界であった日本列島に、大陸から稲作農耕文明が入ってきて、次第に縄文人と弥生人が融合し、定住し、ムラが出来、クニグニが生まれ、やがてそれらが争い、まとまり倭国が出来てゆく。その稲作農耕文明の入り口が伊都国を含む筑紫、北部九州であったわけだから、アマテラス一族の天孫降臨の地がこの筑紫にあったと考えるのは合理的に思える。朝鮮半島には天から穀霊神が降臨し、その子孫が王となったとする神話が伝承されている。稲作農耕文明(鉄器製造、灌漑、土木工事技術、気象天体観測、環濠集落、支配秩序)の移入に伴い、定住生活と降臨神話に基づく自然信仰、祖霊信仰も入ってきた。倭国の起源がここにあると考える。

 記紀にはニニギノミコトが天から三種の神器とともに「筑紫の日向の高千穂のクルフシダダケ」に降臨してきたとき「此所は韓国(からくに)に向かい,笠沙の御前を真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚吉き地」との詔を発している。これぞまさに高祖山、日向峠から望む玄海灘の光景である。

甘南備型の高祖山。その山中には高祖神社、山麓には怡土城跡
どこかで見たことがある「国のまほろば」の佇まいがここにもある

南に目を転ずると峰々が織りなす背振の山並み

北西には筑紫富士といわれる可也(かや)山。
朝鮮半島から渡って来た人々が伽耶を懐かしんで命名したとの言い伝えもある。
北には糸島半島の山々
建設中の九州大学伊都キャンパスのビル群も見える


川原川と背振の峰

高祖山・高祖神社へ続く道