ページビューの合計

2018年11月14日水曜日

明治維新150年 〜「文化大国」への第一歩〜

自然と一体となった日本建築
西欧建築から見ると木と紙でできた簡素なものであるが。
その縁側から新しい世界が見える


 今年は明治維新から150年。文明開化、富国強兵、殖産興業に邁進して来た日本。
欧米列強に負けないアジア初の西欧型近代国家を目指した。そしてついに「文明国」「一等国」の仲間入りへ!よくがんばったなあ!しかし、その「文明国」「一等国」とはなんであったのか?

1868年の明治維新以降、近代化を推し進めるに連れ、西欧列強諸国との帝国主義的な脅威と軋轢の中、軍事大国(富国強兵)への道を歩んできた。そしてそれは昭和20年1945年の未曾有の敗戦で破綻した(明治維新から77年目である)。そして1945年の敗戦以降、戦後復興から冷戦構造の中、高度経済成長/経済大国への道を歩み始めた。そしてそれは平成3年1991〜93年バブル崩壊以降、「失われた10年」「失われた20年」として終焉。低成長/少子高齢化の時代へ向かう(平成時代の終わる2019年は敗戦から74年目となる)。こうして振り返って見ると、この明治維新から150年という「文明国」「一等国」への道は、前半が軍事大国としての大日本帝国の興亡史。後半が経済大国としての日本国の興亡史であったことが理解出来る。来年は平成が終わり新しい元号が定められる。しかして次の100年は何を目指していくのか?これからはどういう「文明国」「一等国」を目指して日々努力していこうとするのか?

 世界は冷戦以降の国際協調を主軸とした体制の終焉を迎え不安定な「不確実性の時代」へ向かう。戦後、アメリカを中心とした秩序と論理の共有という西欧的な価値観の崩壊が進む。すなわち「パクスアメリカーナ」の終焉だ。ゼロGの混沌の世界へ突き進む。これまで人類が営々として築き上げてきた民主主義や法の支配、自由貿易体制、国際協調/グローバリズムの退場だ。トランプを大統領に選んだアメリカ人は、アメリカが戦後リードして来たこれらの価値観をそろそろと引っ込め、店じまいして世界の舞台から退場してゆく道を選んだ。それが彼の言う「Make America great again!」なのだ。フィルムを巻き戻して西部開拓時代、19世紀、20世紀の古き良き時代に戻ろう!?というわけだ。そこで我々はハッと目が覚めた!少なくとも、日本にとっては明治維新の近代化や、昭和敗戦後の経済復興、自由と民主主義導入のような時期に目指した「欧米先進国」というお手本、先行ロールモデルがない時代にこれからは突入するのだと。その「欧米先進国」が路頭に迷い始めたのだから。その隙をついて中国やロシアなど遅れてきた「資本主義もどき国」が新しい自分たちの価値観とルールを押しつけようと台頭してきている。古代より中華文化圏的東アジア秩序/価値観の中で生きてきた日本が、旧文明に別れを告げ、明治に目覚め西欧列強に追いつき追い越せ、「脱亜入欧」「和魂洋才」を掲げて邁進した時代は150年で終わりつつある。明治維新150年とはそういう世界の曲がり角の時代と同じタイミングであることに気づかされる。

 国権の伸長や帝国主義的拡張、戦争に邁進していた時代、資本の論理、経済合理性を極限まで追求し高度経済成長に邁進していた時代。そういった時代は早晩終わりを迎える。これからは少子高齢化、低成長、成熟のフェーズに入ってゆく。過去の「大国の興亡」の歴史を見てゆけばわかる。長いか短いかの違いはあるにしても一つの国のライフサイクルでもある。猪突猛進時代に、見逃して来た、見捨てて来た価値や思想を、これから再評価してみてはどうか。それが新しい成長、いや成熟の時代への資源となるように思う。来年は今上陛下が譲位され、新天皇が即位される。明治、大正、昭和に続き平成が終わる。改元、その次の時代は、軍事大国でもなく経済大国でもなく、文化大国への道の一歩を踏み出すことになる、そういうパラダイムに進んでゆくのが良いと考えるようになった。戦争に疲れたら、資本主義の論理に疲れたら、トランプに疲れたら、花鳥風月を愛でよう。自然と戦うのではなく自然と共生しよう。温帯モンスーン特有の風土、静謐な精神、一木一草に神宿る世界に身を委ねようではないか。

 岡倉天心は言う。「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国とよんでいる。」......「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとすれば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」岡倉覚三(岡倉天心)著「茶の本」より。

 まさにその時がやってきた。その「文化大国」への道も決して平坦ではないだろう。しかし、先人たちが、そして我々が育み、培って来た文化には幾つもの知恵と理想がレガシーとして引き継がれている。例えば茶道はその日本文化の極致だろう。要するに「茶を飲む」と言う極めて日常的な事柄をここまで儀礼化し「非日常化」する文化だ。西欧人はこうしたことが芸術や文化として見なされることに驚きを感じていたものだ。抽象化された作法やしつらえ、道具。簡素な茶室とそこへ誘う待合、飛び石、庭園。そして一服の茶。そこに美を見出しもてなしの心を紡ぎ、広大無辺な精神世界を演出する。茶室に代表される日本の建築、数奇屋造りも、西欧の建築と比べると木と紙でできた簡素な苫屋である。我々が世界の国々を巡り、その壮麗、華麗な文化に触れると日本の文化はなんと簡素、素朴(あえて言えば貧相)なのだろうと感じる。茶室などは粗末な小屋にしか見えないではないか。しかし、そこには石造りの城館を世界中の財宝で飾り立てた壮麗な西欧の宮殿とは異なる豊かな精神世界が広がっていることに気づく。決して自然を征服して支配しようとする人間の姿を誇るのではなく、自然とともに生き、自然の一部として花鳥風月を愛でる自然人の姿を見る。物欲煩悩に苛まれ、行き着くところまで行ってしまった人間は、やがて全てを捨てて自然に帰ろうとする。そこでふと自分も、路傍の一木一草と同じ自然の一部なのだと悟る。ミニマルな生活に憧れる。しかし人間が人間たる理由は物欲ではなく、その精神的な喜びを感じることにあるのだと知る。これは何も日本人に限ったことではない。

 今、日本刀ブームだという。きっかけは刀を擬人化したゲームのキャラクターが人気沸騰、デジタルヒーローを追っかける「刀剣女子」が雲霞のごとく沸き起こってきたからだとういう。京都国立博物館で開催中の企画展「日本の名刀展」が連日大盛況である。動機の良し悪しを論ずるつもりはないが、日本の刀の持つ道具としての合理性(技術的、経済的)を超えた価値は日本の文化、日本人の精神性をよく象徴していると思う。刀はそもそも武器である。軍事的にはよく切れ、折れにくいと言う強靭な武器としての実用性が最も重要である。いくさがある以上それを量産化して大量に供給する産業が生まれ、刀鍛冶ビジネスは成長産業として地域、いや国の経済に貢献するだろう。しかし、そうした軍事的、経済的合理性だけでなく、その武器を美的価値、工芸品としての「良いお道具」へと止揚してゆくところが文化なのだ。刀鍛冶はただの職工ではなく職人となる。やがては天下に名をなす名人となる。こうして刀はレガリア、権威の象徴、贈答品、美術品へとその付加価値を増してゆく。さらには歴史を経るにつれ所有者の変遷というストーリーを身にまとう道具にまで進化する。あるものは経済的価値尺度で評価することすらできない「神器」の領域にまで達するのである。

 かつて19世紀後半にヨーロッパで沸き起こったジャポニズムブームは日本人の感性が世界的に影響を与え得た好例である。江戸時代の北斎や広重の浮世絵や琳派が西洋絵画の主流を写実派から印象派へと転換させた。さらには産業革命後の工業製品のデザインに、アールヌーボ様式さらにはアール・デコ様式の時代を招いていったように、日本の美意識や技法が世界的なトレンドを生み出した時代があった。こうしたジャポニズムは、漫画やアニメを経て、デジタル時代に向けてあらたなジャポニズムとして現代のアートシーンにおいて世界に影響を与え続けている。先ほどの刀をアニメの「擬人化」してゲームストーリーを創造するなど、まさにネオジャポニズム到来であろう。

 茶道にしろ刀剣にしろ浮世絵にしろ、深遠なる日本文化のホンの一端に過ぎないのだが、こうした美意識や価値観が世界に受け入れられ始めているのは驚きだ。東洋の神秘的、珍奇な習慣や珍品としてではなく、我々日本人の美意識や精神性、感性が世界的な広がりを持ち、普遍性を有する文化として受容され尊敬されていることを知る。岡倉天心が言う所の「しかるべき尊敬が払われる時期」が来たのだ。150年前に我々があんなに憧れた「文明国」「一等国」。軍事大国の破綻、経済大国の終焉をへて、その「文明国」「一等国」の次のあるべき姿、ロールモデルを世界の先進国に先駆けて実践して見せるにやぶさかではない。





茶室の待合
これから始まる小宇宙における物語を心静かに待つ