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2018年10月27日土曜日

倭とは何か?倭人とは何者か? 〜「空白の4世紀」を読み解く〜

倭国残照


 中国の史書における「倭」の初見は、後漢の時代に班固によって編纂された「漢書地理志」と王充の「論衡」であると言われている。倭は朝鮮半島(楽浪)の東の海中にある島で「百余国に分かれている」「朝貢してきた」という認識が示されている。さらに「論衡」では、倭は揚子江下流の南、呉の国がルーツとも記述されている。のちの「晋書」「梁書」でも「倭は呉の太伯之後」と記されていて、倭が朝鮮半島ルートとは別に江南ルートでつながっていたことを示唆する記述がある。さらに古くは中国最古の地理書「山海経」に、倭人が燕に朝貢していたかの記述があるが、神話や伝説集の体裁をとっている「山海経」には神仙思想に基づく架空の国や地域の記述が多く、史実に即しているのかは疑問が持たれているという。何れにせよ、日本の歴史時代以前、中国では「倭」「倭人」の存在が認識され、交流が持たれていたことが正史に記録されている。その倭が、7世紀になって日本へと国号を変えた経緯は以前のブログでも幾たびか触れてきた。今ひとたび倭とは一体何か?倭人とは何者であったのか?史料をもとにそのプロフィールを振り返ってみたい。なぜなら日本という国の地政学的な立ち位置、日本人のアイデンティティーは倭、倭人の時代にその基層が形成されたと考えるからだ。ちなみに、「倭」だ、「倭人」だと言っているが、中国史書で呼称した(華夷思想に基づく)名称であった、列島の住人が、自らを倭人である、その集団を倭であると認識はしていなかった。自ら名乗ったわけではないのである。やがて大陸との通交が活発になり文字としての漢字を取り入れ、様々な文化的な成熟、知見の進化、それにともなう自我意識(アイデンティティー)が芽生えるとともに、そのあまり嬉しくない意味を含む文字「倭」を自分たちの集団の名称に使うのではなく、もっと美しく尊厳のある名称を使おうと目覚めた。これが「日本(ひのもと)」である。さらに「倭」の字を佳字である「和」と改め、さらに「大」を冠して「大和」とし、これを自ら住む場所の「やまと」にあてた。日本人の登場、大和王権の登場である。

 さて「倭」とは何か?「倭人」とは何者か? 中国歴代王朝の史書に記述された姿を通史的に振り返ってみると、そこにはそのプロフィールが大きく変遷していった様子が見て取れる。すなわち3世紀以前の倭の姿と、5世紀の倭の姿は大きく異なっている。後漢書東夷伝における1世紀の奴国王(漢に朝貢し冊封を受けて「漢委奴国王」の金印をもらった)の倭は、農耕や武器に必要な鉄資源などを大陸に依存する発展途上の稲作農耕集落を母体とする国であった。また、魏志倭人伝に描かれている3世紀の倭は、卑弥呼というシャーマン(巫女)による聖なる権威と、男王による世俗的権力という「祭政二元体制」をとる、いわば未開の匂いが漂う弥生的農耕集落国家連合であった。奴国も邪馬台国も超大国漢王朝、魏王朝へ朝貢し冊封を受けて、統治者(王)は中華皇帝から多くの威信財を下賜され統治権威を保証してもらう。すなわち華夷思想にもとずく「蛮夷の国」としての倭の姿である。ところが、その倭国は4世紀後半頃になると朝鮮半島に軍事的に進出し、いわば国際社会にデビューする国となっていく。さらに5世紀になると武力を背景とした世俗権力による列島内統一と、朝鮮半島において朝鮮三国と軍事的支配権を競うという軍事強国へと変化する。このわずか200年余りの間に倭人に何が起きたのか?どうもその変化の兆しをめぐるヒントは4世紀にありそうだ。

 4世紀は、中国は漢の滅亡、漢王朝の正統性を承継するとする三国時代の覇者、魏も衰退し(倭の奴国王、面土国王、邪馬台国王が朝貢した)、統一王朝を欠く(どれが「正当な王朝」かわからない)東晋と「五胡十六国」時代に突入する。中国中原の混乱の時代である。これまでの中華世界的秩序、すなわち「朝貢・冊封体制」が停頓する。華夷思想の根幹である「中華皇帝の徳」が「蛮夷の民」に届かないという中国中原の秩序不安定な動きは、その周辺部にも混乱の時代をもたらした。漢帝国、魏王朝歴代の植民地(楽浪郡、帯方郡)があった朝鮮半島には大量の難民、亡命漢人官僚、有力貴族(中国風文化政治制度などとともに)が流入し植民地が崩壊。そこに新しい高句麗(韓人というよりツングース系女真族の国?)が形成される。さらに半島南部の馬韓、弁韓、辰韓といった在来の部族国家があった地域にも進出。新羅、百済が建国される。こうして朝鮮三国(高句麗、新羅、百済)が形成される。これらの三国はいわば中華文明の移入に伴って生まれた国々で、朝鮮半島の政治/文化/社会に新たな文明をもたらした。と同時にこれ以降、絶えず半島内で三国が抗争を続けることとなる。こうした動きが海を隔てた列島に波及し倭の在りようを変えていくことになる。すなわち朝鮮半島三国は、東の海中の列島国家、倭を自国の後方を守る同盟国に引き入れようと動き始める。こうした動きは主に高句麗に対抗する百済、新羅といった半島南部の国によって盛んになる。また倭人は半島最南端の伽耶(日本側の文献でいう任那)に倭人コミュニティーを形成していたようだ。こののち朝鮮半島においては中国や倭国(のちに日本)といった「外国勢力」を半島内の紛争に引き入れて支配権を自国に有利に確立しようとする外交・軍事が伝統的な戦略となる。最初は、倭人に出兵(国家としての関与というよりは戦闘員/傭兵の調達)を促していたが、徐々に軍事的な後方兵站機能(武器の供給、軍馬の供給、技術支援など)、さらには同盟国としての武力コミットメントを期待されることとなっていった。特に高句麗と対立抗争中の百済(ひゃくさい)は、兵力としては期待できるが、文化的には劣る「未開の倭人」に必要な文化的、技術的、資源的な支援を与えることによって、より強力な「二国間」安全保障体制を形成しようとした。こうして倭人たちは半島の戦争に駆り出され、やがては集団としての戦闘能力の向上、海外での交戦能力獲得をはたし、ひいては文化的な成長、国家としてのアイデンティティーも形成され始め、やがては三国を脅かす軍事的なパワーに成長していった。いわば朝鮮三国の抗争の中で、強力な軍事力を有する倭国に育てられていったと言っても良い。こうした中国王朝の混乱、朝鮮半島の三国対立という東アジア情勢の劇的な変化が、3世紀のシャーマン(「女王」あるいは巫女)の「権威」が支配するある意味「未開で平和な弥生的農耕社会」(列島内の争いはあったにせよ)を形成していた列島の倭人コミュニティーを、4〜5世紀の男王を中心とする軍事を背景とした「権力」が支配する国家へと変貌させてゆく。この間に列島内では、チクシを中心とする倭人勢力(邪馬台国連合)の他にも、各地に国または国の連合が形成されていたであろう。そのなかからヤマトに勢力を持った初期ヤマト王権が生まれた。このヤマト王権は武力による(あるいは武力を背景とした交渉)による列島統一を始めた。これがシャーマン国家から武断国家への変貌の実相であろう。朝鮮半島への出兵をおこなったのは初期ヤマト王権・倭人勢力であろう。また、こうした朝鮮半島諸国との軍事的支援関係は、いわばその対価として大陸の先進文化の吸収、咀嚼してゆくこととなる訳である。その「文明開化」のカタリストは3世紀以前には中国王朝であったのだが、4世紀には「中華文明のフロンティア」たる朝鮮半島三国であった。

 このころの倭人に関する文献資料は極めて少なく、とくに中国王朝の混乱に伴い、正式にな史書に倭人の記述が途絶える。いわゆる「空白の4世紀」といわれる時代である。しかし、朝鮮半島側の資料の中に当時の倭人の様子が垣間見える。20世紀初頭になって中国吉林省(かつての高句麗の地)で発見された石碑「好太王碑文」によれば、4世紀末には倭人が高句麗を攻め、それを好太王(広開土王)が撃退したとある。また倭人は百済、新羅を属国化し南部の小国伽耶(日本側の文献にいう任那)を支配下に収めたかの記述がある。朝鮮半島の歴史を記述した「三国史記」にも、倭人が半島に進出し新羅を属国化し、倭国に朝貢したといった話が出てくる。この「三国史記」は後世(12世紀)の作で、一次史料は失われており、史実として正確であるのか疑わしい記述が多いとされている。一方、8世紀初頭に編纂された日本側の史料、すなわち日本書紀や古事記に記述のある「神功皇后の三韓征伐」の伝承が、こうした大陸側の出来事に当たるのか論争がある。こちらは年代が特定できておらず、「神功皇后」の存在そのものも史実であるのか疑わしいとされている。このように決定的に正確な文献史料が少ない時代である。しかし、いずれにせよ4世紀後半に倭人が朝鮮半島の紛争に引き込まれてゆき、軍事的に進出して行ったのは事実だろうと推測される。しかし新羅や百済を属国化したり、朝貢国にしたかどうかは不明であるが、倭国が朝鮮半島三国の緊張状態の中、同盟関係に誘われて進出した時期で、少なくとも朝鮮三国と「朝貢/冊封」関係とは異なる、いわばギブアンドテイクの「贈答」関係による外交が展開されていた可能性がある。このことを持って、倭国側の認識として朝鮮三国が朝貢してきて属国としたと考えた。このことが5世紀の中国の宋や晋の史書に出てくる「倭の五王」の朝鮮半島における軍事的支配権威の承認要求にエスカレートしてゆく。さらには8世紀初頭に倭国(日本)で編纂された正史である日本書紀における「神功皇后の三韓征伐」の記述の繋がって行く。

 一方、列島内に目を向けると、この4世紀は倭国の中心勢力がチクシからヤマトに遷移して行った時期であろう。大陸に近い北部九州の邪馬台国連合、すなわち祭祀による農耕社会型のチクシ倭国が衰退し、代わって列島内のいくつかの分立する地域国連合の中から、何らかの事情で近畿大和に移動し(在地勢力ではなく)拠点を置いた「王権」が、列島内の政治的、経済的かつ軍事的な勢力基盤を確立し、やがて列島の武力統一や海外進出を担う軍事国家(ヤマト倭国)に変遷したのではないか(纒向遺跡はこうした3世紀末の初期ヤマト王権の遺構であると考える)。魏志倭人伝のチクシ倭国(3世紀的倭国)から、武断的な「倭の五王」のヤマト倭国(5世紀的倭国)への変遷である。残念ながら、この間の倭の国内事情を説明し、このような仮説を証明する文献的な資料が限られており(まさに「空白の4世紀」)現時点では推察の域を出ないが、4世紀にはこのような倭国を取り巻く海外情勢の混乱があったことは間違いない。中国における史書などの文献が途切れること自体が、その混迷を物語るものであり、そしてこの混乱の4世紀こそ倭国にとっても大きくその国のありようが変わって行った激変の世紀だった。

 5世紀は武断的な「倭の五王」(初期ヤマト王権の王達)による倭国の軍事大国化が進んだ世紀である。列島内の軍事的統一を進め、さらには朝鮮半島支配権を巡って、朝鮮半島三国と競い、中国王朝に爵号、軍号を要求(倭の五王の時代)する。このころ中国はようやく、晋、宋が一部統一王朝(南北朝時代)を打ち立て、中華的な朝貢・冊封体制が復活してゆく。しかし、まだ中華皇帝の権威は十分に回復していなかった。「倭の五王」は中華皇帝から思うような朝鮮半島統治権威の承認を引き出すことができず(特に百済の軍事的支配権を認められなかった)、倭はこのころから中華王朝の朝貢冊封体制からの離脱、自立を模索し始めるのであるが、それでも中国皇帝による倭国王に対する朝鮮半島諸国の軍事的な支配権を認める軍号の付与は、こののち倭国(さらには日本)支配層に、朝鮮半島における優位性という「小中華思想」の源泉として記憶されて行く。ちなみに、列島内では、百舌鳥古墳群や古市古墳群のような巨大な古墳群が、大王(おおきみ)の倭国支配権の強大さを誇示するように構築される。これらは、湊の近くや宮都に続く主要官道沿いに造営され、外国からの使節一行への対外的な国威発揚効果をもたらすことがもう一つの目的であった。

 そして6世紀の倭は、列島の統一をようやく確かなものにしつつあったヤマト王権は百済との同盟関係を強化する。一方、新羅は「統一ヤマト王権」の中で、いまだに強力な力を持ち続ける邪馬台国連合の末裔、チクシ倭王(磐井)との同盟関係で対抗するなど、相変わらず朝鮮半島との合従連衡を続け、それに伴い反対給付としての朝鮮半島から仏教が伝来するなど、文化的、人的、交流が深まってゆく。しかし後期になると、中国に強大な隋/唐帝国が出現し、東アジア新秩序に向けて再び激動の時代へ突入する。「筑紫磐井の乱」でようやく邪馬台国・チクシ倭王権の残影を一掃したヤマト王権の倭は、遣隋使や遣唐使を派遣し、新しい中華統一王朝との関係構築を試みる。7世紀になるとヤマト倭国は宮廷クーデター(乙巳の変)により、大君の権力集中を図り、急速な政治改革(いわゆる「大化の改新」)を試みるが、朝鮮半島の同盟国百済の滅亡に直面。半島における軍事行動の終焉(白村江の敗戦)、長年争った半島における支配と利権を喪失する。こうして4世紀からの伝統的な朝鮮半島介入政策から撤退する。その背景には超大国唐と統一新羅の強力な君臣関係の成立がある。倭国の安全保障上の懸念が増大した時期であった。そして、ヤマト王権は「壬申の乱」を経て、以降その勢力を国家としての存立基盤を確かなものにするために内政重視に向ける。成立した超大国唐帝国を意識した国作り、「倭」から脱して中央集権的「近代国家」、すなわち、大王は「天皇」を称し、国号を「倭」から「日本(ひのもと)」とし、律令制による氏族・豪族の官僚化、公地公民制、天皇の祖霊神・皇祖神を頂点に置き氏族豪族の神々の体系化、国の正史「日本書紀」編纂、新都建設(藤原京)、仏教を国家鎮護の法とするなど、「天皇制国家日本(ひのもと)」建国に邁進する。いわば「大宝維新」である。あるいは「文明開化」といってもよい。以降、白村江の戦いの敗北以降途絶えていた大陸諸国との交流は、唐帝国や統一新羅、渤海、のちの高麗との遣唐使、遣新羅使、渤海使により平和的に行われる。日本は中国とは朝貢冊封関係に一定の距離を置き、いわば贈答関係による文化/文物/人の交流という形をとるようになる。こののち倭国、いや日本は16世紀の秀吉の朝鮮出兵まで、対外戦争の道を歩むことはなかった。

(前のブログを参照)

古代最大の内乱「壬申の乱」とは? 〜倭国の対外戦争に終止符を打った内乱〜

https://tatsuo-k.blogspot.com/2018/10/blog-post_13.html


 最近、学生時代に読んだ和辻哲郎の「風土」を読み直してみた。そこに倭人のプロフィールが劇的に変化した「空白の4世紀」を読み解く鍵があるように思ったからだ。

 モンスーン型風土に生きる日本人は、四季折々の変化の中で自然との対立を避け、共生し、温和な性格を形成してきた。ところがその日本人は、そうした「静感情」が、時として「激情」と交錯することがある。温帯モンスーンの島国が他者と接するときに、その温厚な性質が急変する。他者との対立が起こり、関係性のバランスが崩れると激情的になる。和辻このように分析して見せた。これは260年に渡る平和な鎖国時代が終わり、開国を経て、明治以降の急速な近代化のなかで、対外戦争の道を進み、ついには未曾有の敗戦を経験したことを念頭に置いたものと考えるが、同じことは日本の歴史の中でしばしば起きている。この4世紀の倭国が置かれた東アジア情勢の激変と近隣諸国との関係構築の歴史もそうである。それまで島国の中で温厚で平和で、自然神を敬う農耕民として暮らしていた「未開の」倭人が海外へ軍事侵攻するという、戦闘的な激情の嵐の中に飛び込んでいく。まさに和辻の言う温帯モンスーン型風土が育んだ「静感情」の一方の「激情」なのであろうか。開国、明治以降の戦争の歴史の原点は4世紀の倭国の姿、ここにあったのかもしれない。その結果として対外戦争を捨てて「倭から日本へ」転換した歴史があった。そう、歴史は繰り返す。戦後、日本は歴史に学び、平和で文化的で百姓(ひゃくせい)すなわち民の安寧を主眼とする国家へ転換する道を選択した。そして、また負のスパイラルの歴史を繰り返してはならないことを肝に命じた。


奴国志賀島の金印発見場所

「漢委奴国王」金印の碑

伊都国残照

奴国へ

邪馬台国
チクシ倭国残映

ヤマト倭国の宮殿跡(纒向遺跡)

ヤマト倭国残照