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2020年1月6日月曜日

「欲望の資本主義」の行く末と「民主主義の運命」 〜2020年の年頭に妄想する〜

トンネルの先にはどのような世界が待っているのか。
列車はどちらのプラットフォームに着くのか。


 2020年の年頭に当たり昨年の年頭に書いたブログを読み返してみた。

 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 年の初めは放談で!「未来を推し量る時に陥りがちな三つの誤り」とは?: みんな急ぎ足でどこへ行くのか?  2019年の年が明けた。「めでたさも中くらいなりおらが春」これからの世の中はどうなってゆくのか。先行き不透明な「不確実性の時代」の始まりのようでなんとなく元気が出ない。そう思いながら新聞各紙に目を通していたら日本経済新聞(20...


 あれから一年。世界は基本的には何の進展も打開点も見出せないまま、2020年に突入した。私の所感は一年たった今も変わらず、いまだに修正の必要を感じない。少なくともより楽観的な方向へ修正する感覚ではない。資本主義の行き詰まりはさらに進んだ。それに伴い恐れていた民主主義の危機もさらに一歩進んだように感じる。それだけにこれまでの一年をより深刻に受け止めて振り返り、これからの一年のあり様を考える必要がありそうだ。


 資本主義の行き詰まりと民主主義の危機

 去年の考察した「未来を推し量るときの3つの誤り」の中で一番の誤りだとした「③ 競争原理が働く経済の仕組みより中央集権体制の利点を過大評価すること」。非民主的で中央集権的な経済体制は続かないと断じていたのだが本当にそうなのか。最近ふと自信を失いかけている自分がいる。これではいけないのだが実は今でも大きな不安として心を占めている。これはむしろ中央集権的な体制のほうが資本主義的な経済成長が成功するかどうかという点よりも、ひょっとすると民主主義のレジティマシーのほうが揺らいでいくのではないかという不安である。

 「民主主義の深化がなければ資本主義的な成功は有り得ない」。中国共産党の鄧小平が改革開放路線を打ち出し社会主義市場経済体制移行を宣言した時に、そして改革開放による中国の民衆の間で沸き起こった民主化のうねりを武力で圧殺した「天安門事件」の時に、欧米の政治学者、経済学者が警告したあの言葉は、いまや空虚に鳴り響くだけなのか。いまや共産党独裁政権が主導する「資本主義」が成功の道を歩み、経済規模においても、技術優位性においても、さらには覇権主義の視点からもアメリカに追いつき追い越す勢いで突き進むのではと観測され始めている。こういう「中国モデル」が成功モデルとされると、むしろ民主主義の方が危険な崖っ淵に立たされ始めているのではないのかとの危惧感が頭を擡げる。民主主義なんてなくても経済成長する。国は繁栄する。「パンとサーカス」を提供してくれるなら自由はなくても良い。そんな歴史的な転換点に我々はいるのだろうか。中長期的に見ればそれはないと今でも思うのだが、目先では中国共産党指導部は極めて自信たっぷりで、強権的な政治指導と、監視社会化と海外における覇権主義を進めている。香港の民衆の抵抗に対する遠慮会釈もない警察権力による暴力はその表れである。香港や台湾の人々の切羽詰った危機感はけっして海の向こうの他人のことではない。彼らの激しい抵抗運動は我々に勇気を与えてくれるが、日本人の反応がいかにも第三者的で冷め切っているのをみると不安になる。近い将来に自由で民主的な大国、中国を見る事はないのだろうか。少なくとも我々が生きている間にそれをみる事はないのだろうか。「共産党一党独裁」と「資本主義的成功」という「歴史的矛盾」はもはや矛盾ではなくなったのか。


 利己的な資本主義「欲望の資本主義」

 一方で「欲望の資本主義」は行きつくところを知らぬげに厚顔無恥にどんどん進んでゆく。資本を原資とし利子と配当と利益を成長のエネルギーとする資本主義は基本的に「持てる者」を富ませる仕組みだ。それを否定したのが社会主義であり、共産主義であった。しかし、すべての人民が「搾取される側」でなく、「持てる者」の側へと言う「階級闘争」の理念は実現しなかった。共産主義という歴史実験は崩壊した。中国の共産党は党自体が資本家へと変身し「持てる者」となった。共産党とは名ばかりだ。独裁という政治体制だけが残った。解放されるべき人民は依然として民主的な選挙権すらなく「搾取される者」の側にある。しかし、その富の分配メカニズムを工夫することで格差の最小化、労働力再生産のパワーにすることができる。こうして人民の不満は抑えられてきた。高度経済成長を遂げてきた国、日本も中国もアメリカも、その余剰をうまくピラミッド全体に分配出来ている間は資本主義は成功である。ただし経済成長が止まるとこの仕組みは立ちまち破綻する。さらにマネーを中心とした金融市場が新たな富裕層を生み出していった。生産手段を「持てる者」だけが富裕層になるのではなく、マネーという価値を「持てる者」が市場を牛耳って富裕層となる。企業が稼いだマネーと余剰利益は、従業員や、消費者や、地域コミュニティーといったステークホールダーには回らず、あるはイノベーションや人材の育成といった富の拡大再生産には回らず、内部留保され、自社株買いの様な配当や株価の吊り上げに回される。さらにマネーの仮想化が推し進められると、さらにデジタル技術の恩恵を受ける層だけに富を集中させるメカニズムが生まれてしまう。ピラミッドのトップ1%に満たない富裕層がその社会の富の全体の30%以上を保有しているという社会はもはや異常と言わざるを得ない。そう言われて久しいが格差は是正されるどころかさらに進んでいる。さらにデータが価値を生み出すデータドリブンエコノミーの時代においては「持てる者」「持たざる者」の形がさらに変容していくだろう。人間の欲望は止まるところを知らない。

 これは同時に「腐敗」と言う問題を生み出す。マネーゲームで働かずして巨万の富を手に入れる人々はもはや国家をも企業をも足蹴にする。権力と権益にあぐらをかくものは腐敗する。中国共産党指導部もこの問題には敏感である。汚職幹部を血祭りにあげて見せしめにするがうまくいっているようには思えない。ついには巨大多国籍企業の中でも腐敗の権化のような人間が法の隙間をかいくぐって私利私欲に走り、挙句に自分の罪を追求しない国へプライベートジェットで逃亡する。創業者でもないのに会社を私物化して蓄財し、会社の金、従業員の金、株主の金を使って私利私欲のために散財する。そんな人間が「これはクーデターだ!」とか「そもそもこの国の刑事司法制度は云々」など、ちゃんちゃらおかしい限りだ。法的には軽微な罪かもしれないが人の金で私腹を肥やす奴がなに正義を語っているのだ。富裕層代表のアメリカの大統領を引き合いに出すまでもなく、正義、倫理、道徳の観念を忘れた私利私欲資本主義のリーダー。それを支持する無産大衆層という矛盾。これももはや矛盾ではなくなったのか。



 利他的な資本主義「正義の資本主義」

 モハマド・ユヌスの著作「三つのゼロの世界」(World of Three Zeros)に刮目させられた。彼は社会事業家としてバングラデシュはじめグラミン銀行を設立した。マイクロクレジットで貧困層の自立化を促し、新しい社会問題解決の方法を示し実践した、として2008年にノーベル平和賞を受賞した。彼のこの功績は高く称賛されるべきものである事は言を待たない。しかし、それ以上にそうした活動の背景にある経済学者としての深い理論的な考察と歴史認識にこそ共感を覚えるのである。彼は「利己的」な資本主義を見直して、「利他的」な資本主義に仕立て直すことを提唱している。その実践が先述の「社会問題の解決」のための「社会事業」である。すなわち彼は、資本主義の生みの親であるアダム・スミスを間違っていると断ずるのではなく、彼の再評価を試みている。アダム・スミスは「国富論」(An Inquiry of the Nature and Causes of the Wealth of Nations)(1776年)の利己的活動によるレッセフェール、「神の見えざる手」が有名であるが、それだけではなく、その7年前に著した「道徳感情論」(The Theory of Moral Sentiments)(1759年)のなかで、人間は「社会的な存在」である。常に他人を思いやり、他人の幸福が自分の幸福につながるようにできているものだと説いている。人への「共感」による正義と道徳的美徳を備えているのだと。そうしてアダム・スミスは「利他的」な経済活動を提起していることを見落とすべきではないと。これをユヌス博士は指摘して、そこにあらたな歴史の光を今こそ当てるべきだとしているのである。すなわちアダム・スミスの二つの論説への回帰と合体である。まるで一握りの「持てる者」の「利己主義的」な金儲けと蓄財のための道具に成り下がっている不完全な「資本主義」を、もう一度「再定義」して完成させなければならない。これがソーシャルビジネスであると。ノーベル経済学賞を受賞しているジョセフ・スティグリッツも最近、このアダム・スミスの「もう一つの」著作に言及し、資本主義を取り巻く課題を、ユヌス博士と同様に指摘している。

 またユヌス博士は、先進的な技術(Technology Innovation)を社会問題の解決に使うべきだとする。そしてそれがソーシャルビジネス(Social Business)という新たな事業モデルを生み出すとしている。「Social Technologies, Social Business to solve Social Problems and to achieve SDGs」これは彼の大好きなキャッチフレーズの一つであり、ユヌス博士から私に贈られた著作「三つのゼロ」のサインと共に記された献辞である。また、去年11月の九州大学で開催された国際会議のパネルディスカッションのメインモチーフでもあった。私がモデレータ役を仰せつかったパネルディスカッションでは、例えば、AIをコアとしたデータドリブンエコノミーなど、産業/社会におけるデジタルトランスフォーメーションが、資本主義と民主主義にこれまで経験したことのない大きなインパクトを与える。それ以前の想定を遥かに超える事態が起き、これまでの前提条件とロジックを大きく変更させる必要が出てくる。プライバシー問題、政治権力による監視社会の問題などを考えると、仮想空間のデータを、だれがどこまで集めて活用して良いのか、どのように超えてはいけない一線を定めるのか。リアルの世界における「法の支配」のようなルール化されていないことの危険性などが論じられた。これを私利私欲のために、あるいは国家権力のために使えばどのような問題が生じるかは深く考えずとも容易に想像できるであろう。

 AIやゲノム編集など技術イノベーションをただの金儲けに使えば、その分配におけるモラールとルールが機能してないと、一部の超富裕層と大多数の貧困層の格差をさらに広げるだろう。「持てる者」と「持たざる者」の格差だけではなく、「AIを使う者」と「AIに使われる者」という新たな社会格差を生み出し新たな社会問題を生み出す。正義と倫理と道徳に基づかない技術イノベーションは危険ですらある。ユヌス博士はこうした技術を社会問題(貧困、失業、CO2排出など)の解決に使うべきだと主張する。SDGsの実現に使うべきだと。企業にとってはそこにあらたな事業機会がある。そして企業活動成果の評価軸を変える必要もあるだろう。すなわち事業モデルを変える必要がある。テクノロジー、経済ロジック、市場原理、そして正義と倫理という観念を併せ持つ仕組みを創出するためには理工系技術(法律学や経済学をもそうだ)だけを学んだ人材ではだめだ。人文系、リベラルアーツを基礎的な素養として学んだ人材が必要となる。いまの日本の教育の問題はデータサイエンスなどの「理工系教育」の弱さ問題だけではない。「パンのための学問」(Brotwissenschaft)だけでは世の中は変わらないことを再認識すべきだ。人間に関する深い哲学的理解と倫理/道徳観。こうした資質の具備は歴史を超えてあらゆる人材に求められる普遍的な要請だ。とくに経営者や政治的リーダーには不可欠の資質だ。日本ではすでに渋沢栄一が「論語と算盤」において「道徳経済合一説」として「無私の」の経営を語っているではないか。いわば「正義の資本主義」という視座は「資本主義的合理性」の観念に新たな「合理性」の視点を与えるものだ。

2019年4月10日「旧渋沢邸訪問」ブログ参照)


 俯瞰的な視座を持つ

 では日本はどうしたら良いのだろう。イアン・ブレマーが言うように、経済成長しなければ政治体制も国家も崩壊する。そんな中国やアメリカのような国と違って日本は持続的な安定した経済を目指すべきだろう。中国メディアがよく「監視社会」に対する「市民」の反応として、「現在の生活が保証されているなら別にプライバシーや自由なんてなくても困らない」という「街角の声」を放映するが、まさにその生活の保証がなくなった時にこの「市民」はどう動くのかだ。経済成長しているうちは良いがそうでなくなった時の脆弱性だ。そういうゆるやかで成熟したな成長モデルを示せるのは日本しかない。しかし、それはかつての、明治維新や、戦後の高度成長の神話の復活を夢見ることではない。最近の日本は、そんなものが永遠に続くと思っているわけではないだろうが、なにか中国にGDPで追い抜かれた途端に元気をなくしている。まるで頑張って走っていたマラソンランナーが追い抜かれた途端に、心の糸が切れたように急速に順位を下げていくような姿を思わせる。たしかに世界を驚かすような技術イノベーションが最近は出てこない。世界に影響を与える経営者も出てこない。しかし道をまちがってはいけない。けっして「欲望の資本主義」を体現するような経営者の出現を期待してはいけない。日本の企業は大企業、中小企業、スタートアップを問わず、アメリカや中国のそれを後追いするのではなく、新しい事業モデルを生み出し、成長モデルを示すことができるし、そうしなくてはならない。欧州諸国、中でもドイツやフランスでは、より持続可能な事業モデルとして、SDGs実現や社会課題解決を企業の経営目標に掲げ、あらたな成長モデルを提示し実践し始めている企業が出てきている(Volkswagen社やDanon社はその代表)。こうした新しい理念の資本主義モデルを創造できるのは、ドイツや日本のような国の企業だろう。明治以来の「世界の一等国」や「GDP世界第二位の経済大国」などの「軍事大国」「経済大国」など高度成長モデル体験の幻想(いまの中国共産党指導部が追いかけているような)をいつまでも引きずっていてはいけない。それはいずれ終わるものだ。そういう歴史的過程を清算し止揚する必要がある。日本の長い歴史を俯瞰的に眺めてみると、有為転変はあるものの持続的な成長、持続可能な社会というものがどのようなものかがわかるだろう。経営においてもそうした俯瞰的、マクロ的な視野とビジョンを持てるリーダーが出てこなくてはならない。

 ちなみに、我々のようなリタイアー族は、ネット社会の今、建設的なビジョンやソリューションを提示もせずに、地道な実践もせず、怒りっぽい老人の繰り言、ぼやき漫才のような批判ばかりSNS上に繰り広げていてもなんの役にも立たない。定年で会社などの所属コミュニティーを失い、地域にも根差す事もなく社会接点を失ってパソコンとスマホの前で、SNSのみが唯一の社会接点となっている。こうした老人たちが「ネットウヨ」になったり、誹謗中傷の発信源になったり、ラディカルな「むかし全共闘」になって自己満足しがちだ。自分の境遇から来る鬱憤をネット上でぶちまけたり、「元エリート」の「おまえらのような人間にはわからんだろうが」的な上から目線コメントを垂れたり、どちらも屁の突っ張りにもならん。それよりも不満だらけの過去も、自慢だらけの過去も捨てて、自分の不明を恥、あらたに世の中を俯瞰し勉強し直し、これまでとりこぼしていた視点を獲得して、今できる「社会問題の解決」をひとつでもまず手掛けることだ。それができないなら、人の迷惑にならないように静かに余生を送ることだ。自戒を込めてあえて追記しておきたい。