ページビューの合計

2020年1月16日木曜日

麗しのFormosaよ永遠なれ!〜台湾の歴史をご存知ですか?〜


台北にある故宮博物院
蒋介石が日中戦争の間も行軍とともに運び続け、
戦後の国共内戦に破れて台湾に逃亡したときに運び出した歴史的な財宝/財物を収蔵し展示する。
今は蒋介石像があちこちで撤去されている。
(1993年の写真)



ニューヨークで仕事をしていたときに、台湾からの留学生をインターンとして雇用したことがある。米国にはインターン制度というのがあり、海外からの留学生が米国の大学卒業後一年だけ、学生ビザのままで企業で仕事ができるという制度だ。日本人留学生も当時は多かったが(今は激減しているという)、台湾からの留学生は非常に多く、我が社でも数人をインターンとして採用していた。中でも彼女は聡明でよく働き、それでいて東洋的な控えめな美徳も兼ね備えた女性であった。1年間のインターンを終えると、優秀だった彼女は故郷の台湾に職を得て帰り、新竹科学工業学園都市のハイテク企業で働き始めた。私も3年後にはニューヨーク勤務を終えて東京へ転勤となった。しばらくはクリスマスカードのやり取りくらいはしていたが、台湾の交通部電信総局の招聘により台北に長期出張することになったので、久しぶりに昔の仲間である彼女に連絡を取り、会うことにした。

台北のホテルで4年ぶりに彼女と再会。すっかりバリバリのエンジニアになって活躍している旧友の様子が頼もしかった。懐かしい米国時代の話に花が咲いた。両親の自宅に私を招待し夕食をご馳走してくれることになった。初めて彼女の家族に会うわけだが、色々と想像を膨らませた。きっと台北郊外の豪邸に住む裕福な家庭の娘なのだろう。妹二人も海外留学中だという。父親はきっと政府や軍の高官か、企業の経営幹部だろう。ホテルまで両親が車で迎えに来てくれるというので。ロビーで待つことにした。ホテルの玄関には次々と高級車が乗り付け、バレットパーキング担当のボーイが対応に忙しい。あの車か?これかな?と見ているとやがて、一台の日本製の軽自動車が車寄せに入って来た。ボーイがキーを預かり、運転席から60歳位の男性が降り、続いてその妻と思しき女性、そしてあの彼女が車から降りて来た。「初めまして!よくいらっしゃいました。お待たせしてすみませんでした」その男性は全く流暢な日本語で私に駆け寄ってきて握手した。彼女の父親であった。続いて彼女の母親も「娘がアメリがでお世話になりました。本当にありがとうございました」と、これまた普通に日本人のような流暢な挨拶。これが彼女の両親との出会いであった。

その小さくて、それなりの年数を経過したであろう出迎えのマイカーは、決して裕福な家庭のそれではなかった。私の座席を確保するために、後部座席に散らかっていた雑多な荷物をトランクに放り込むと、四人が狭い車内にぎゅうぎゅうになって乗り込み、いざ自宅に向けて出発。この時点で、多分自宅が「郊外の豪邸」ではないことを予感した。案の定、父親は台北市内の狭い路地を人混みや車や自転車を巧みに、まことに器用に避けながら運転し、着いたのは古い鉄筋コンクリートのアパートであった。入り口の門には厳重な鉄門扉があり、それを開けて階段を上がる。部屋の玄関には頑丈な鉄格子然としたシャッターがある。きっと用心が悪いのだろう。それをガチャガチャと鍵で開けるとようやくドアに到達。「さあどうぞお入りください」とアパートの一室に誘われた。内部は、日本の団地サイズとさして違わぬ大きさ。我々東京のマンション族には違和感のない佇まい。ここに両親が住んでいるという。

紹興酒でカンペーし、手作りの夕食をご馳走になりながら、日本語があまりにも上手でビックリしたと言うと「我々世代以前の人は皆、学校では日本語で勉強しましたから、誰も日本語が分かりますよ」と笑う。確かに仕事相手の電信総局幹部も全員が「正しい日本語」を使っていた。会議も打ち合わせも日本語だった。カラオケの「北酒場」も達者であった。父親は紹興酒を作る公社(「日本の専売公社のようなものです」と言っていた)に勤務するサラリーマンであるという。要するに裕福な家庭と言うよりは、幹部社員ではあってもごく普通のサラリーマン家庭であった。私の以前の妄想が崩壊してゆき、むしろなんだかほっとした。しかし、なのに三人の娘を全員海外(アメリカ二人、日本一人)に留学させている。すごく教育熱心な家庭なんだなあと感じたものであるが、そんな能天気な事情でないことをすぐに知ることとなる。

色々と、アメリカでの話や彼女の新しい職場の話、東京や大阪、京都へ行った時の話で盛り上がった。家族全員が極めて親日的で(というよりほぼ日本人)とてもアットホームな暖かい家族であることに居心地の良さを感じた。一瞬話が途切れた後、父親がこう私に聞いた。「蒋介石をどう思いますか?」突然の話題転換に戸惑ったが、私は日中戦争のこと、戦後の共産党との戦いに敗れた国民党の置かれた苦しい状況を慮ってこう答えた。「蒋介石はかつて日本が戦った敵であったが、日本が中国の人々に散々ひどいことしたにもかかわらず、戦後は大陸から軍人を含めて日本人の帰国を果たしてくれた恩人です」と。何かで聞いた話を、相手国のカリスマ的指導者への最大限のレスペクトという外交的プロトコルに従い答えた。実は恥ずかしながらあまりよくこの間の歴史を知らないのだ。ところが父親の反応は意外なものであった。「そうですか。蒋介石は良い事もしたかもしれないが、悪いこともいっぱいしました」と。私は台湾人にとって蒋介石は神のような存在で、あの中正紀念堂に崇め祀られ、衛兵に守られている中華民国(台湾)の英雄だとみなしているに違いない、と思っていたので非常に驚いた、まさか地元でどういうことか分からないが「悪いこともいっぱいした」と評価されるとは。こうも言った。「あなた内省人、外省人を知ってますか?蒋介石とその一派は外省人です」と。そして日本人がいなくなってから、大陸から移ってきた外省人の内省人(台湾人)に対する苛斂誅求を語り始めた。腐敗した国民党幹部にアメリカも嫌気が差していたが、対中共(中国共産党政府)上、蒋介石を支援せざるを得なかったという。なんだか、旧南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の話かと思うくらい似ている。蒋介石は強権的独裁支配体制をとり、2.28事件や「白色テロ」と言われる徹底した台湾人への弾圧、殺害、思想統制を行なった。日本語や台湾固有の言語の使用を禁止され、北京官語を強制されたという。最後に「日本時代は良かったです」とぽつり。なにか浅学な私の教科書的台湾理解に冷水を浴びせるような話であったことを今でもありありと覚えている。

後にこの父親の言葉をきっかけに台湾の歴史を少し勉強してみてようやくわかった。私は、大陸=共産党、台湾=国民党。国共内戦ののちに大陸から逃亡を余儀なくされて台湾に移った蒋介石の中華民国こそ正当な中国の政権であると台湾の人たちは固く信じている。南北朝鮮や南北ベトナム、東西ドイツと同じ「分断国家、中国」という理解であった。またそう学校では習った。それは一面では間違いではないのだが、しかし、台湾は一様ではないことを十分理解していなかった。台湾にもともといた人達(台湾人、いわゆる内省人/本省人)の存在を全く理解もせず、その戦後の東西冷戦構造を記述する歴史教科書的な理解は彼らを我々の意識の埒外に置いていたわけだ。身近な隣国、台湾を正しく理解しているとは言えないことを知ることとなった。今となってはこのことを恥じ入るばかりである。

さらに彼女の父親は話を続けた。「中国共産党は台湾をいずれ武力侵攻すると言っています。台湾は頼りにしていた日本からも断交され、アメリカからも断交され、いつ中共と戦争になるかもしれないんです。誰が台湾を助けてくれますか?」「台湾人はいつでも海外へ逃れれるように用意をしています」と。娘達を日本とアメリカに留学させているのもその布石なのだということを悟った。日本人の平和ボケしたブランドのような「海外留学」とは全く違う緊張感伴う「リスクヘッジ」、「不透明な未来への投資」であることを知った。彼女がアメリカで必死に勉強し、我が社で一生懸命仕事して人脈を作っていたのは、近未来に起こるかもしれない不測の事態から家族を守り生きるためであったのだ。幸い、武力衝突もなく、台湾も経済発展して、IT産業が力をつけ、米国留学経験者を求める台湾企業が彼女のような人材に群がっているので台湾へ帰った。しかし、一丁有事には海外のネットワークを利用して世界のどこででも家族とともに生きていけるようにしてあるのだ。香港人と同様な「国際感覚」を台湾人も共有しているのだ。日本人が語る「国際感覚」とは全く異なる。共産党と国民党の戦争に巻き込まないでほしいものだという。我々は台湾人なのだから、人の家に上がり込んで喧嘩しないでほしい。やるなら外でやって欲しい。と慨嘆していた父親も、嘆くだけではなく家族のためにキチンを手は打っている。そのために紹興酒の会社で必死に働いてきたのだ。その家族を守ることの苦労としたたかさを感じた瞬間であった。

あれは1993年のことだから、もう27年も前のことだ。国民党の蒋介石、蒋経国親子が世を去り、悪夢の独裁が終わり、1988年には内省人の李登輝(京都帝国大学卒業)が総統に選ばれ台湾の民主化が進んだ時期である。彼女の父親の押さえつけられていた思いが一気に爆発したのは、蒋介石/蒋経国親子の独裁から解放された時代背景があったのだ。2000年には台湾の独立を目指す民進党の陳水扁が総統に選出された。ついに国民党は野党になった。台湾が中華民国ではなく台湾になろうとし始めたのはこの頃である。

そして今年2020年1月の総統選挙で、経済政策で劣勢を伝えられていた民進党の蔡英文女史(LSE卒業)が歴史的な圧勝で国民党候補を破り総統に再選された。これは、もちろん中国共産党の習近平の「一国二制度による台湾統合」に明確なノーを突きつけ、香港の民衆の民主化への要求に警察の暴力で応える中国共産との姿勢への明確な反対の意思表明である。新しい台湾の進むべき道を国民が選択した瞬間であった。新しい世代の台湾人が旧世代と入れ替わってきた、そういう時代の変わり目ともいえる。あの共産党と争って大陸を追われた国民党が、今や親中派であることには驚く。金権腐敗にまみれた蒋介石一味のなれの果てなのか、経済発展するかつての不倶戴天の敵、共産党中国にすり寄る姿勢に転換した。国民党の党是は「反共」「大陸反攻」であったはず。しかし、彼らは基本的に大陸から来た外省人で、台湾人、内省人ではないということなのだ。中高年より上の人たちは、日本統治から一変して蒋介石の国民党独裁下におかれ、日本語から引き離され、台湾独自の文化アイデンティティーも否定され、独自の言語への復帰も許されず、中国人化(漢人化)されてきた影響があり、国民党しか支持政党を知らない人が多いのだそうだ。これに対して1988年の李登輝による民主化後の世代は台湾人のアイデンティティーを重んじる。共産党 vs 国民党よりも外省人 vs 内省人がよりクローズアップされたきたわけである。ここでも世代間ギャップが広がっている。

我々日本人は、隣人である台湾人、しかも、日本の良き理解者で日本文化のファンでいてくれる台湾人の歴史をあまりにも知らなさすぎる。「反日」韓国に対する「嫌韓」や、北朝鮮の理不尽には敏感に反応するだが、「親日」台湾には鈍感だ。中国人も台湾人も香港人も一緒くたで「中国人」だと思ってる。昔、青目の「外人」を全て「アメリカ人」だと思っていたのとほぼ同じ「異人観」だ。さらには「中国人」と言っても漢族だけでなく、チベット族、ウイグル族、満州族他、多数の民族からなる多民族/多文化コミュニティーなのだ。日本人の隣人に対する理解と眼差しはその程度なのだ。しかし一方で、台湾の人々が(韓国人と違って?)親日的で、日本文化に憧れてくれているのは、日本統治時代の「善政」のせいだと思っている。ことさらそれを強調する論調もある。そんな自分に都合の良い解釈でいいのだろうか。確かに、朝鮮半島のケースと同様、台湾において、日本が現地の「近代化」に果たした役割は否定できない。多くの鉄道や道路などの公共インフラ投資をし、資本を入れて製糖産業などの産業育成を行い、雇用を生み出し、小学校から大学まで設置して教育にも力を注いだ。今日の台湾の繁栄の基礎を築いたのは日本。それを発展させたのは戦後のアメリカ。それは間違いではない。しかし、その日本へのノスタルジアや憧憬は、あの蒋介石統治下の2.28事件や白色テロという恐怖を経験した暗黒時代の反動でもあるのだ。さらには戦後の大国のパワーバランスの中で台湾人が直面した地政学的に不安定な立ち位置。日本統治時代には経験しなかった孤立感と新たな恐怖。これらが、かつての支配者、日本を仲間に入れておかねば、という冷徹なリアクションにつながっていることも知っておかねばならないだろう。こうした隣人が抱える奥底の苦悩と歴史を理解してこそ真の良き隣人であり、友人であり、ファンになれるのだと思う。





ここで台湾の歴史を簡単におさらい:


歴史上何時ごろ台湾の存在が認識されていたのか。意外にも中国の文献資料が極めて乏しいことに驚く。3世紀の三国志に呉が海洋進出に取り組み「渭州」との交易を行なった記述がある(呉志列伝)。しかしこれが現在の台湾を指すのか琉球を指すのか不明である。また隋の史書である「隋書」にも琉球との区別が判然としない記述があるが、いずれにせよ歴代の王朝が明確にその存在を確認し、具体的な通交を行った記録は少ない。

16世紀、大航海時代になると、ポルトガルやスペイン船が台湾、澎湖諸島付近に出没するようになる。台湾は欧米では「Formosa」(中国語訳で「美麗島」)と称される。これはポルトガル人がこの島を「発見」したときに「麗しの島」と命名したことによる。日本も太閤秀吉や九州の有馬氏らの西国大名が、琉球の「向こう側」にある台湾に領土的な関心を示して、台湾の「高山国」という部族国家と通交を持とうとしたが成功していない。一方で倭寇の隠れ家に利用されてた記録もある。

1624年にはオランダ東インド会社が台湾に先着していたポルトガル、スペイン勢力を駆逐して植民地化しプランテーションをはじめる。この頃のFormosa島は、先住少数民族や福建省から流れてきた漢人、倭寇が雑居するいわば「無主の地」であった。オランダは台湾開発のために大陸の広東省、福建省から大量の漢人を労働者として徴発し移住させた。歴史記録上、台湾は大航海時代にポルトガルやオランダによって「発見」され、オランダによって領有されたことになっている。

漢民族の明朝に替わって中原を制した満州族の清朝の時代になると、1661年に明王朝復興のために平戸生まれの明朝の遺臣鄭成功(母親が平戸の日本人)が台湾を占拠し、オランダを駆逐。島を制圧して大陸反攻を準備した(日本でも江戸時代に「国姓爺合戦」として耳目を集めた)。しかし、この試みは失敗し1683年には清朝が鄭成功一党を滅ぼし台湾を制圧。これが台湾を中国の版図の一部とした最初の出来事である。しかし、それは反清朝の動きを封じるための措置であって、台湾の領土的統治権を主張するまでには至ってないと考えられている。

清朝は、台湾を「化外の地」、台湾住民を「化外の民」、すなわち皇帝の徳が及ぶ地域、統治範囲である「中華世界」に対する「蛮夷の民」野蛮人とみなしていた。したがって領土的な意識が薄く、ほとんど統治していなかった。むしろ王朝の手の届かない野蛮で危険な土地として大陸からの渡航を禁止していた。

19世期になると、スペインやポルトガルに代わってイギリスやフランス、ロシア、アメリカなどの欧米列強のアジア進出が盛んになる。台湾を巡ってもフランスなどが領土的な野心を持つようになる。また、アジアの中でいち早く開国し西欧流近代化を進める日本もそのプレーヤーとして登場する。1874年になって起きた台湾住民による日本人漁民遭難者の殺害事件で、日本政府に処断を求められた清朝政府は、「清国の支配が及ばない地域での事件なので責任は取れない」とした。このことで日本政府は自国民保護のための自力救済として台湾出兵した。この事件がきっかけとなり、ようやく清国は台湾統治に踏み出し、台湾を福建省に編入した。


日本統治時代:1895年〜1945年

1895年の日清戦争後の賠償(下関条約)で清国は台湾を日本に「割譲」することとなり、以降50年におよぶ日本統治が始まる。そんな歴史観なので、清国は台湾割譲はあまり痛手とは感じてなかったのでは、と勘ぐりたくなってくる。台湾が近代化したのは日本統治以降のことだ。ただその功罪は議論がありうる。それは別途。


蒋介石国民党統治時代:1945年〜1988年

1945年に太平洋戦争が終わり、日本が中華民国を含む連合国側に降伏するとサンフランシスコ平和条約で日本は台湾の領有権/統治権を放棄。蒋介石の南京国民党政権が台湾統治を始めた。しかし、これまでの日本と比べて明らかに統治能力に乏しく、幹部のモラールも低く腐敗が蔓延した。また治安の悪化、国民党兵士による住民への暴行事件の多発や収奪が繰り返されたことから台湾人(内省人)の間に、大陸からやってきた新たな支配者、蒋介石に対する反発が高まり、反国民党支配の抵抗運動が活発化した。これに対し、蒋介石は強権的な独裁ファッショ支配を台湾人に行なった。これが2.28事件、白色テロを引き起こし、大量の犠牲者を出したと言われている。内省人対外省人の対立の歴史の始まりとなる。この弾圧でどれほどの犠牲人が出たのか、いまだに国民党は資料を公開していないため不明である。当時台湾では「犬が去って豚が来た」。すなわち日本人は吠えてうるさいが番犬にはなった。だが蒋介石は豚のように強欲で汚いだけだ。そう揶揄していたという。1949年には国共内戦で共産党との戦いに敗北した国民党蒋介石一派が台湾に逃れてきた。こうして1988年まで蒋介石/蒋経国親子による独裁支配が続く。1979年、アメリカが中華人民共和国北京政府と国交樹立、中華民国と国交断絶。日本他の国々もこれに続く。台湾(中華民国)の国際的孤立の始まり。


民主化時代:1988年〜

蒋介石/蒋経国親子の死後、1988年に内省人の李登輝が総統に選出されると、一気に国民党による長年の独裁、強権政治への不満が吹き出し、民主化への動きが加速された。李登輝はこれをリードし、軍も掌握し、孤立した外交関係もうまく修復しながらアメリカや日本とのアライアンスにも奔走した。北京政府が李登輝を危険視し、彼の米国や日本への入国に抗議してきたのはこの頃からだ。ついに1996年に初めて総統の民撰が始まり、2000年には台湾の独立を目指す野党の民進党、陳水扁が総統に選出された。独裁政党国民党が野党になった瞬間だ。その後の選挙で国民党が政権をとったこともあるが、この民主化の流れは後退することなく現在の蔡英文の総統再選に繋がっている。