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2019年12月27日金曜日

上原美術館「伊豆を巡る名画」展へ 〜そして箕作集落の意外な歴史とは〜


上原美術館
左が近代館、右が仏教館
正面には創設者上原正吉夫妻像

1)上原美術館「伊豆を巡る名画」展 と「仏教館」

 上原美術館は、大正製薬の上原正吉前会長夫妻の上原仏教美術館と、長男の名誉会長上原昭二氏の寄託による上原近代美術館が2017年に統合されてできた下田市所在の美術館である。伊豆の穏やかな田園風景の中に佇む美術館だ。正直言って、これまで我が隠れ家からも、下田からも少々不便なところにあるので、その存在は知っていたもののなかなか足を伸ばすことがないまま時間だけが経過していた。しかし、「伊豆を巡る名画」展を開催しているというので背中を押される形で訪問した。伊豆急線の蓮台寺から「堂ヶ島」行きバス(伊豆急下田駅始発)で15分ほど乗り、「相玉」バス停で下車。そこから長閑な風景のなかを15分ほど歩いたところに静かにたたずんでいる(案内表示は整備されているので迷うことはない)。ここは天城越えで修善寺、三島へ向かう下田街道と、西伊豆の松崎に向かう松崎街道が分かれる辺り。国道をそれると道沿いには伊豆独特の海鼠塀の民家が点在し、伊豆の景観を満喫できる里である。日枝神社や下田達磨大師などの神社仏閣があり、他にもいわれありそうな小さな神社や祠が点在するただならぬ気配がする土地柄である。この地は飛鳥時代にみやこから大津皇子の事件に連座して流されてきた舎人、礪杵道作(ときのみちつくり)ゆかりの地だと伝わっている。この話は後半で触れたい。

 仏教館の方は伊豆に伝わる古仏も展示されているが、どちらかというと近現代の仏師の手になる仏像コレクションが壮観である。一方の近代館の方は上原家の絵画コレクションのルノアールやマネ、セザンヌなどの印象派作品のほか梅原龍三郎、安井曽太郎などの日本画家の作品が常設展示されている。そして企画展である「伊豆を巡る名画」展であるが、近代館と仏教館の展示室に一部が展示されている。横山大観、安田靫彦を中心に、小林古渓、今村紫紅、前田青邨、川端龍子など、錚々たる大家の作品が50点ほど揃っていることに驚いた。壮観である。横山大観や安田靫彦など日本画壇の大家の作品が、ここ伊豆の地にこれほど充実しているのには訳がある。その理由解明の鍵は、ここから下田街道を辿り天城峠を越えたところにある修善寺温泉にある。中でも安田靫彦は最もゆかりのある画家であった。靫彦は奈良で古画を学んでいたが胸を病み、友人であった修善寺の新井旅館の主人、相原沐芳(もくほう)の勧めで修善寺温泉で湯治/静養することになった。滞在中に研究を重ねて新たな画風を生み出し、回復後も新井旅館を度々訪れて画家仲間の今村紫紅や小林古径、速水御舟なども集まるようになった。沐芳自身も若い時には画家を目指していたが、新井旅館の婿養子に入り、この老舗旅館の隆盛に力を発揮して行った。特に画家をはじめ文人墨客に愛される名旅館となり、とりわけ沐芳は靫彦の生涯の友であり、良き支援者であった。また横山大観も夫婦で湯治に訪れ、沐芳と交流するようになる。大観が渡欧する際の歓送会が新井旅館で開催されたりもした。こうして相原沐芳は若い画家の支援を続け、画壇の大家となってからも公私に辺り支援を続けた。修善寺は名画の生まれる揺籃の地となり、後世に地元にも多くの作品が残され、修善寺町(現在は伊豆市)がその多くの作品を所有することとなった。そうしたレガシーをもとにこの度、下田の上原美術館と共同企画展が催されたという訳だ。なお新井旅館には文芸作家では泉鏡花や岡本綺堂、尾崎紅葉、芥川龍之介なども逗留している。一種文化サロンの様相を呈していたのだろう。現在も盛業中で、建物は国の有形登録文化財に指定されており、宿泊しなくてもゆかりの部屋のツアーに参加できる。伊豆は川端康成の作品で有名だが、川端に限らず、明治以降の文人墨客が、若い頃に療養のために逗留し、或いは心の癒しを求めて旅し、そうして名を成してからも度々訪れ、集い、語らい、創作活動に励む一種の日本の芸術文化の揺籃の地となった。伊豆はそんな山がちな険しい土地でありながらも、人を引きつける優しい土地である。




上原美術館HP:http://uehara-museum.or.jp

修善寺温泉 新井旅館のHP


近代館:

近代館
作品は撮影禁止なので
展示室を俯瞰する写真を一枚





 仏教館:

仏教館















魚籃観音像
お地蔵様
下田達磨大師堂

日枝神社

地元の鎮守社である



 2)箕作集落の歴史を巡る

 ところで、この上原美術館のある宇土金、箕作地区は、先にも触れたようにその昔大津皇子の事件に連座して伊豆に流された礪杵道作ゆかりの土地である。そのお話をここで。

 以前のブログでも度々紹介してきたように、伊豆は古代より、みやこからはるけき遠国、遠流の地として幾多の流刑者が送られてきた土地であった。歴史上有名な伊豆への流刑者としては、平治の乱で破れた源義朝の子、頼朝がいる。他にも様々な歴史上の事件に巻き込まれ、罪を背負わされた人々が流されてきた。その多くは政治的な敗者であり、犯罪者ではなく冤罪や戦乱に敗れた者であった。伊豆にはそうしたみやこのやんごとなき血筋の流刑者が住み着くこととなり、その末裔が子々孫々定着したと伝わる山里があちこちにある(以前のブログで紹介した「奈良本の庄」もその一つ)。その中で記録に残る一番最初の流刑者が、この礪杵道作だと言われている。彼は大津皇子の直属の側近、舎人(とねり)であった。天武/持統天皇の後継者争いに巻きこまれ、草壁皇子を皇位に付けるために、「謀反」という無実の罪を着せられて死を賜った異母弟の大津皇子の話は日本書紀に記録がある。また彼の墓があるとされる大和の二上山(山頂に古墳があるが、麓にある古墳が本当の墓だとの説もある)の麓には彼の死を悲しむ大伯皇女の万葉歌碑がある。しかし礪杵道作の方は記録と言っても伊豆における居住地などの確かな記録が残っておらず、地元に伝承(伝説)として残されている「言い伝え」が実態のようだ。しかし実際に彼の名前「道作(みちつくり)」に因んだ地名「箕作(みつくり)」が今もこの地の字名として使われていることから、この箕作集落辺りに定住し、骨を埋めたのであろうと伝わっている。地名は歴史の記憶を後世に残す重要なキーワードであることも間違いない。この大津皇子事件、多くの連座者はその後赦免されたが、彼だけは皇子に近い側近であったことから赦免されず当地に没したと言われている。この地には、道作の霊を慰める祠が残されていると伝わり、箕作八幡社という祠がそうであると地元の文献(下記参考文献参照)には記述があるが、Google Mapで検索してもそれらしいものは見つからない。一度、現地を探索してみたいと思っている。

 箕作集落のある辺りは陽の光に溢れた温暖で長閑な田園風景である。遠いみやこで繰り広げられた血生臭い争いの末に、無実の罪に泣き、理不尽にも流されてきた伊豆のこの土地のなんと穏やかであることか。赦免されず、みやこに戻ることを許されなかった無念の心情は察するにあまりあるが、それにしてもそのささくれだった心を癒すような、この平和で穏やかな風景。ここを終の住処にするのも悪くはないと最後は心に決めたのではないだろうか。こうした歴史の表舞台で起きた事件のもう一つの側面の出来事の痕跡をあちこちに止めるのが伊豆の歴史的風土である。



穏やかで長閑な伊豆の田園風景である
遠く天城山が見える。この天城峠を越えると修善寺だ
伊豆独特の海鼠塀の民家が点在する




この正面の山裾あたりが箕作集落
名残の紅葉
稲梓川
(撮影機材:Leica SL2 + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8-4)


参考:以下に、ネット上で検索可能な関連記述を引用する。

1)下田市観光協会HP:

米山薬師
伊豆の伝説
 日本三薬師(伊豆、越後、伊豫)の一つとして世に知られている米山薬師が箕作(みちつくり)にある。
この薬師如来は釈道牛の「由来記」(文安4年)によると、天平5年5月15日、憎行基がこの地に来られたもので、これを作るのに行基は茶粉と苦芋(ところ芋)と合わせたものを用い、斎戒沐浴、精根を傾けて、漸く48日目に完成、入仏占眼したのは同年10月20日。
この時行基は65才であったという。霊験あらたかな薬師如来さまである。
箕作の名
 米山薬師のある「箕作り(みちつくり)」という部落の名のおこり。
この箕りに箕作八幡の社があるが、これは「礪杵道作(ときのみちつくり)」の霊を祀ったものである。
持統天皇の御宇、大津皇子の謀叛(むほん)に連座した礪杵道作は、この箕作に流されたが、これが伊豆の国へ流罪を受けた最初の人であった。「箕作」という地名もこの「ときのみちつくり」 から出たものと言われている。
下田市の民話と伝説 第1集より



2)【伝説】礪杵道作。故古川智氏(平成十五年十二月一日八十才)執筆。「ふるさと下田」創刊号:
 稲梓に箕作(みつくり)という大字がある。その地名の由来と、源由である道作八幡について、その伝承の概要を紹介しよう。
 箕作は、もと道作より起り、通作・三作・見作にも作る「南豆風土誌」とある。道作は朱鳥(あかみとり)元年(六八六)十月、この地に流された礪杵道作(ときのみつくり)の名に基づくものであるが、その後、いつの頃か年代は定かではないが、この地に箕を作る産業が起こり、地名も箕作と書かれるようになったという。
 ここ箕作は農業に欠かせない道具の一つで、米山砥石と共に有名なものであったが、今では新製品の出現で、往時の勢いはない。それでも少数の人々によってその技術が継承され、細々ながらも製造が行われている。
 道作八幡の経由
 下田から八キロ余、松崎街道に分かれ河津町へ向かう国道に戸崎というバス停がある。そこから山道を二百米程入った孟宗竹の中、小字道作に、道作八満がある。
 道作八満は、その名の示す通り礪杵道作をまつる社である。

 朱鳥元年九月九日、天武天皇が没し、鵜野(うの)皇后が天武帝の遺詔として称制(大后などが天皇に代わって政務をとる)の天子となった。後の女帝持統天皇である。
天武帝在位の時より、後継者、即ち皇太子の問題で草壁皇子は天武帝と鵜野皇后(持統天皇)間に生れ、大津皇子は天武帝と太田皇女(鵜野皇后の姉)との間に生れて、両皇子は異母兄弟であった。なお、両皇子の間には、皇太子問題のほかにも、石川郎女(いしかわのいらつめ)をめぐる恋の鞘当てもあって、事情は複雑であった。

(中略)

 天武帝は、両皇子のいずれを皇太子にするか、ひそかに悩んでいた。草壁は大津より一歳年長であり、皇后の子である。大津は母が既になく、これから見れば、草壁の有利は明らかであった。然し、草壁は病弱で、それ程の才能もない温和な貴公子であり、大津は器量抜群で群臣の信望をあつめていた。
 天武八年(六七九)、天王は草壁・大津等六皇子うを吉野に伴い、ともに二心なきを誓わせた。わが子草壁を皇太子に戸願う鵜野皇后の画策と思われ、事実その二年後に草壁皇子が皇太子となった。
 ところが、翌々年二月『日本書紀』に「大津皇子初めて朝政を聴しめす」とある。草壁立太子の二年後に、大津を朝政に参画せしめた事情、草壁皇子は既に二十五歳で、天皇たるに十分な年齢にもかかわらず、それが出来なかった事情、それは大津皇子の存在とその器量であった。
 天武帝没後日浅く、殯宮(もがりのみや)のさ中、十月二日、大津皇子を謀反のかどで逮捕し、翌日死刑に処した。
 大津皇子、死を賜わりし時に磐余(いわれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌百伝(ももづた)ふ磐余の池に鳴く鴫を今日のみ見てや雲隠りなむ
 この時、大津の一味与党はすべて処罰されたが、皆短期間で罪を許された。大津の謀反が作為によるものであった証左で、只、「礪杵道作は伊豆に流せ」との皇后の詔は、道作が大津の腹臣の帳内(とねり)で大津皇子と一体であるとみなされ、その後患を憂いた為であった。
 伊豆に流された道作は、はじめは箕作字「山条」か、「庵の下」と呼ばれる所に住んだが、遂に赦免を得られずこの地に没したのであった。
 
(注、下線部は筆者によるもの)