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2020年8月7日金曜日

蘇峰公園と山王草堂探訪 〜「知の巨人」彷徨の軌跡を追う〜

徳富蘇峰像 山王草堂記念館
旧徳富蘇峰邸入り口


大森山王の蘇峰公園、山王草堂記念館は私の大好きな散策コースである。徳富蘇峰という歴史に名を残す偉人の邸宅跡であるという「時空トラベラー」的感動だけでなく、我が家から最も近くにある都心には貴重な緑のオアシスであるからでもある。それと、徳富蘇峰といえば私にとってはもう一つ思い入れがある。私の父がまだ小学1年生の時、昭和天皇御大典記念に揮毫した書道作品が天皇陛下に献上になったことがあったそうだ。この「事件」は学校や地域でも名誉な快挙として大いに沸き立ったと言う。とりわけ息子の快挙を我が家の誉と感じた父の母、すなわち祖母が孫の私に繰り返し繰り返し聞かせてくれたので嫌でも記憶に残っている。現に、ご褒美に頂いたという「二宮金次郎」の銅像(卓上サイズ)が、我が家の家宝として大事に床の間に飾られていた。時代だなあという記念品だが。ちなみに父はこの時のことをあまり私に話してくれたことはなかった。幼少期のことで記憶にないのか(そんなことはないと思うが)、そんな大層な話ではないと感じていたのか。祖母ほどには感激していなかったようだったのがおかしい。父が亡くなって遺品を整理していた時、書類入れの中から古ぼけた一枚の賞状が出てきた。それがあの時の賞状であった。それをとっておいたのだから父も大切な思い出にしていたことがわかった。それを見ると、この御大典記念の天皇陛下への献上作品の募集を行なったのは、徳富猪一郎(すなわち蘇峰)主宰の「国民新聞」であった。賞状の左には皇族の名前に連なって国民新聞社社長徳富猪一郎、と墨書してある。生前、父を連れてここ蘇峰公園に何度か散歩に来たことがあるが、父は徳富蘇峰と自分の幼少期の(祖母が狂喜乱舞した)あの経験とが結びついていなかったようだ。なぜかそういう話題にはならなかった。思えば父はロマンチストではあったが「科学的合理主義」の人であった。


ともあれ、ここは徳富蘇峰が1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)まで住んだ邸宅と成簣堂(せいきどう)文庫跡、一枝庵、牛後庵という庵跡、庭園が整備されて、現在は区民の憩いの場となっている。池泉回遊式の庭園には肥後椿が咲き誇り、新島襄からアメリカ土産にもらったカタルパの樹には白い花が咲き、中国曲阜の孔子廟から苗木が移植されたランシン木、秋には紅葉とイチョウが美しく、早春には紅白梅が香りたつ。蘇峰の木造二階建ての旧宅(山王草堂)の玄関と二階の書斎部分をそのまま記念館建物の内部に復元している。彼が「近代日本国民史」を執筆した書斎と、その原稿、全集100巻が展示されている他、多彩な交友関係を物語る手紙や、「国民之友」「国民新聞」の縮刷版などが展示されている。残念ながら国宝を含む膨大を書籍を収納していた成簣堂文庫は失われ、蔵書は御茶ノ水図書館に移されている。ここでかの大著「近世日本国民史」の大半を執筆。1952年に全100巻を完成させた。


徳富蘇峰の事績

徳富蘇峰(本名猪一郎)は明治から昭和という激動の時代を生きた思想家、言論人、歴史家である。

1863年(文久3年)熊本県益城町の生まれ。父、徳富一敬は熊本藩の横井小楠の一番弟子で肥後藩の改革派、実学党のリーダーであった。作家の徳冨蘆花(旧邸が「蘆花恒春園」)は実弟である。
その父の薫陶を得て育ち、横井小楠の孫弟子を自認していた。その後、熊本バンド プロテスタント系キリスト教団体に加わり熊本洋学塾に通う。熊本英学塾解散に伴い、大挙生徒が上京し新島襄の同志社英学校に入学。新島襄の薫陶を受ける。。
1882年:熊本へ戻り父と共に大江義塾創設。人材の育成に努める。
このころは明治新政府の富国強兵策、欧化政策に批判的で、国権主義、軍備拡張主義に対抗して平民主義を訴える。
1886年:東京へ出てジャーナリストとして活動開始
1887年:民友社を設立し「国民之友」創刊。ここでも欧化政策、その一方の国粋主義に反対して「平民的急進主義」を訴える。
1890年:国民新聞社創設。オピニオンリーダーとなる。勝海舟、伊藤博文、板垣退助など幅広い人脈を得る。
1894年:日清戦争に記者として従軍。この戦争を日本発展の絶好の機会と捉え、日本膨張論を唱える。
1895年:戦後の「三国干渉」に衝撃を受け、国権膨張主義者へと転換してゆく。
1897年:松方内閣勅任参事官に就任。やがて元老の山縣、桂と結びつく。
こうして在野のジャーナリストから政権中枢へと軸足を転換してゆき、その「変節」を批判される。のちに「言論界と政界の両棲動物」と揶揄されるようになる。
1904年:日露戦争、1913年:朝鮮併合、大正デモクラシーのなかで、国権膨張主義の色合いを深めてゆき、軍国主義的な海外膨張政策を容認してゆく。
1929年:創設した「国民新聞」を去り「大阪毎日新聞」へ。
1935年:日独伊三国同盟を建白
1942年:東條首相主導の「大日本言論報国会」会長に就任。文化勲章を受ける。
1945年:戦後、A級戦犯容疑となるも病気のため訴追されず公職追放。
1952年:「近世日本国民史」全100巻を刊行。
1957年:熱海にて逝去(享年94歳)


徳富蘇峰の評価

キリスト教的な博愛主義、自由民権運動から来る平民主義から出発したはずなのに、やがて国権主義へ、さらには軍国主義的拡張論者へと転換。在野の言論人から権力中枢に寄りそう「変節」の人生、「言論界」と「政界」の両棲動物などと揶揄されることが多かった。特に戦後は、日本の軍国主義の伸長と帝国主義的な侵略を容認し、著作や言論でそれを進めたことでA級戦犯容疑となったことからも、その評価は確定したように言われる。蘇峰自身も自らを「尊王攘夷の士、自由民権運動の士、国権主義、国権膨張の士」と表しているように、平民主義から国権主義と大きな振れ幅を持つ思想信条の変遷を自認している。しかし、思想信条に関わらない幅広い人的交流があり、言論人、思想家、歴史家としての豊かな知見と洞察力、多くの著作や言論での実績。しかもキリスト者であり続けたこと。こうした器の大きさが、なにがしかのレッテルを貼ることも、一言で人物をいい表す事もできない、いわば「知の巨人」と言わしめる所以であると感じる。


その思想的背景:佐幕派の大藩出身者の運命?

このように見てくると徳富蘇峰は九州の反薩長藩閥政府運動、そこから生まれた自由民権運動の来し方行末を体現する人物の一人と言ってよいと思う。どういうことかと言うと明治維新の動きに乗り遅れ、その後の政治ムーブメントを主導できなかった西南の雄藩(熊本、福岡藩)出身の「尊王攘夷」派、あるいは一連の不平士族の反乱で賊軍にされた薩長土肥の下野組の怨念の軌跡の延長上にある人物に共通する悲劇という側面があると思う。第一世代の維新の英傑にもなれなかった、新政府の中枢にいて第二世代の富国強兵と一等国の担い手にもなれなかった。そして軍国主義化の成れの果てとしての敗戦という「明治維新の破滅」の歴史を表舞台で主導した第三世代でもなかった。しかし明治以降の日本の破綻の歴史を担った流れは他にもあった。そう言う時代を生きた知識人であった。

その一つの流れの代表が熊本藩出身の徳富蘇峰で、そのもう一つの代表が福岡藩出身の玄洋社の首魁、頭山満であろう。どちらも維新第一世代(天保老人などと言われる)ではなく、その第二世代に属するし、いわば第三世代のイデオローグとなった。徳富蘇峰は言論界で、頭山満は政治の裏社会で隠然たる勢力を有し、薩長藩閥政府や元老にとっては厄介な存在であったであろう。

先述のように熊本藩には維新の功労者、横井小楠がいた。しかし、佐幕派の藩として彼を活かすことなく、福井藩の松平春嶽の政治顧問にとられてしまう。蘇峰の父、徳富一敬も熊本藩内では冷飯を食らった尊王攘夷派であった。また肥後勤王党の宮部鼎蔵兄弟のような維新の志士も池田屋事件や禁門の変で失われ、やがては熊本藩は維新に乗り遅れる。この動きは隣の福岡藩でも同じであった。ある時代、尊王攘夷運動の拠点であった福岡藩も筑前勤王党の家老加藤司書や月形洗蔵、野村望東尼など多くの志士を処刑、粛清してしまい、平野国臣は獄中で死亡するなど、生きていれば維新を主導したであろう人士を失ってしまった。藩論が二転三転し、土壇場で佐幕派に抑えられたことから、福岡藩も維新に乗り遅れ、新政府のもとで苦杯を味わうことになる。そうした歯軋りを強いられた維新第一世代の「子供たち」が蘇峰や頭山であった。

こうした明治新政府では主流とはなり得なかった藩の出身者の政治への関わりは、最初は旧士族の乱、やがては「自由民権運動」となって爆発していった。まず薩長藩閥政府への反発は、佐賀の乱(佐賀)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)、神風連の乱(熊本)、そして西南戦争(鹿児島)という「不平士族の反乱」と後世語られる一連の反政府武装闘争という形で現れた。しかし維新の英傑、西郷隆盛の死を持って九州・山口の反藩閥政治グループは軍事的、政治的に敗北し、そのエネルギーを武装闘争やテロリズムから自由民権運動へと転換してゆく。下野した土佐藩の板垣退助らと同調してその運動を全国各地に広げてゆく。その中でも特に福岡藩の無念の「尊王攘夷派」の子供たちは、自由民権運動から派生して、政権中枢に対抗する裏政治集団を形成し、特異な道を歩む。これが頭山満を首魁とする玄洋社だ。あるいは、その流れを汲む広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎(旧藩校修猷館出身者たち)だ。また一方では玄洋社とは関係ないが、三井財閥の団琢磨、憲法草案、日露講和の金子堅太郎、外務省の栗野慎一郎、日露戦争の裏工作の明石源二郎などの政官財のエリート集団(これも修猷館出身者たち)も維新第一世代には名を連ねなかったが、第二世代で登場してくる。

一方の、熊本藩の「尊王攘夷派」は横井小楠を失い、宮部鼎蔵兄弟の死による維新英傑を失い、神風連の乱で過激な政治結社は壊滅する。先述の「実学党」、藩内改革派の流れを組む若手のキリスト教団体「熊本バンド」から新島襄の薫陶を得た連中が、「平民主義」や「自由民権運動」グループを通じて在野の言論界、ジャーナリズムの世界に自己実現の活路を見出してゆく。その代表が徳富蘇峰だ。しかし、のちには先述のように蘇峰は政治の世界へ足を踏み入れ、桂や山県有朋などとの人脈形成を通じて政権中枢へ入り込んでゆく。在野の言論界の住人は、国権膨張主義、帝国主義的膨張側に住所を移す。「変節」と批判される所以だ。

そうしたなか、熊本藩出身で、徳富蘇峰の大江義塾の門下生であった宮崎滔天は 在野に徹し、浪曲師などとして活躍しつつ、大陸浪人として世界を股にかけ、欧米列強からのアジアの植民地解放闘争に積極的に関わってゆく。いわゆる「大アジア主義」を唱え、民衆の自立と連帯を通して真の独立を勝ち取ろうと、先述の玄洋社の頭山満等とともにインド独立や、フィリピン独立を支援する。とりわけ孫文の「辛亥革命」を全面的に支援した。この功績により宮崎滔天は中国においては「革命の友」として尊崇を集めており、今でも駐日中国大使は宮崎家を必ず表敬し、国慶節には国賓扱いで迎えている。

こうした「大アジア主義」に、愛弟子である宮崎滔天や頭山満との交流があった徳富蘇峰は共感を示し、中国の辛亥革命、インドの独立運動を支持を寄せていた。滔天は早世するが、蘇峰と頭山はやがては、ともに理想とはかけ離れた日本の帝国主義的、軍国主義的な国権伸長の道を唱導し、東條政権の登場とともに軍国化への道を歩むイデオローグ「危険な極右主義者」(戦後のGHQの玄洋社解散命令での表現)とレッテルを張られることになる。こうして在野の勢力ははコントロールを失った危険思想人士として戦争責任を問われ、敗戦すなわち明治維新の破綻を導いた人物として記憶されることになる。自由民権運動の闘士、平民主義のキリスト者がなんと皮肉なことか。


「右翼」「左翼」というレッテルを貼って片付けることの合理性?

戦後、こうした幕末の尊王攘夷、明治の不平士族反乱、自由民権運動の政治的、思想的末裔は、「右翼」、「国粋主義者」として十把一絡げで片付けられ、歴史から葬り去られることになる。しかしこうした人士の出てきた明治維新という「革命」の背景、性格と、その実態を再評価し、そしてなぜああいう結果に結びついてしまったのか、たった78年で「明治維新」と言う国家形成事業が崩壊してしまったのかを検証してみる必要があると考える。その一環として「右翼」とレッテルを張られてしまった思想家、活動家の背景と変異プロセスを批判的に再評価してみることが必要ではないか。一時期、新左翼運動が盛んで、旧「左翼」を攻撃し続け、それがやがては極端なテロリズムに変異していった時代にも、「右翼」の批判的評価の試みがなされたことがあった。しかし、当時のような新左翼に対する新右翼のような対抗概念で議論するのではなく、「右翼」の歴史的な系譜を再検証してみる必要がある。これは、決して戦前の国権主義、帝国主義的拡張主義や軍国主義、皇国史観に光を当てて復活させようということではない。そうなってしまったのはなぜか、と言う視点での再批判、再評価である。朝鮮半島をめぐる日清/日露戦争の勝利から、満州事変、日中戦争、そして対米戦争という、およそ合理的でも理性的でもない戦争へ突き進んだ明治維新の目標の一つ「富国強兵」政策があった一方で、民間による大アジア主義・欧米列強からのアジア植民地解放への連帯というある意味崇高な理想が、それに奇妙な形で結びつき、国粋主義、軍国主義、帝国主義的膨張主義へと変質していった(「大東亜共栄圏構想」という)。明治維新第一世代の退場と、第二世代による条約改正、富国強兵、戦争勝利による一等国への道、そして第三世代でコントロールを失っての明治維新の崩壊という歴史をもう一度振り返る必要がある。それはまた政治や戦争を主導した政権/軍部中枢だけでなく、民間、言論界、在野勢力における「崩壊プロセス」への関与あるいは主導という視点を取り戻してみるということだ。ある意味では「知識人」の彷徨の軌跡に学ぶことだろう。言論人であり思想家であり歴史家であり、そして振幅の大きな政治信条を持つ「知の巨人」徳富蘇峰。彼の生まれた時代の立ち位置から来る心の軌跡と懊悩、実践を振り返ってみるとそこに何か教訓が学べるのではないかと思う。

またしても「日暮れてなお道通し」であるが...




写真集

1)蘇峰公園

旧邸の庭園を修景保存し、一般に公開している。緑濃い都会のオアシスで四季折々の花々が美しい。とりわけ新島襄から贈られたカタルパの木、中国の孔子廟から移植されたランシン木、そして蘇峰の故郷の肥後椿が目を引く。



緑陰散策が楽しい

蘇峰の銅像があった台座
戦時中の金属供出で持っていかれた

この東屋での休息はちょっとした森林浴

小さな古塚がある
平安時代末期のもので何らかの祭祀跡だそうだ
石碑には「馬頭観世音菩薩」とある

左は記念館
その前に植えてあるのは中国曲阜の孔子廟から苗木で移植されたランシン木

秋は紅葉が美しい

肥後椿

芍薬

カタルパ
新島襄のアメリカみやげ
紫陽花



睡蓮の池






2)山王草堂記念館

蘇峰の邸宅「山王草堂」の玄関と二階部分を記念館内部に復元保存している。蘇峰由来の貴重な資料を保存展示するスペースとなっている。また蘇峰の愛用したデスク/椅子や杖やコートなどの遺品を見ることもできる。


山王草堂記念館
「近代日本国民史」原稿
「近世日本国民史」原稿
楕円形のテーブルを中心に具える書斎


旧徳富邸二階の書斎を復元




板垣退助の手紙

伊藤博文の手紙

勝海舟直筆の扁額

新島襄直筆

父徳富一敬の手紙

「国民之友」

蘇峰の直筆原稿

成簣堂文庫跡

徳富蘇峰肖像
(館内の撮影は許可を得ています)