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2021年10月11日月曜日

古書を巡る旅(15) 〜「時空トラベラー」のお勧め 読んで楽しい「旅行案内書」は?〜




19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは旅行がブームとなった。特にイギリスではフランス、イタリア、ギリシアなどの大陸諸国を巡る旅行が上流階級の子弟の教育的カリキュラムとしてもてはやされた。この頃の旅行は貴族階級や、ジェントリー層、都市ブルジョワジーなどの富裕層や知識人層がもっぱらその主役である。さらに大英帝国が世界にその版図を広げ、アジア、アフリカ向けの航路が開設され、鉄道網が整備され、現地の宿泊環境が整備されていくと、未知の世界を廻る(探検する)旅行がステータスシンボルになっていった。いわゆるグランドツアーである。この頃である、開国されたばかりの未知にしてエキゾチックな極東の島国「日本」が、時宜を得た憧れのデスティネーションとして脚光を浴びたのは。旅行がブームになったとはいえ大衆がこぞってツアーに出掛けるようになるのは、ずっとのちのことである。この頃は個人旅行が中心で、それができるためには経済力と自由になる時間とともに、高い教養レベルや知的好奇心が大いに求められた。そうした欲求に応えうる「信頼に足る情報」が重要であった。それが「旅行案内」や「ガイドブック」である。

この頃の旅行案内書といえば、ドイツ・ライツヒのべデカー版旅行案内(カール・ベデカー:Karl Baedekerが1828年初版刊行)とイギリス・ロンドンのマレー版旅行案内(John Murrayが1836年初版刊行)が著名でもっとも権威あるガイドブックであった。どちらも赤い表紙に金文字のタイトルという小型本で、競争相手である両社のガイドブックがなぜこのような相似形みたいな装丁の書籍になったのか不思議だ。こうした旅行案内書に関しては両社でノウハウを交換し共有していたとも言われるがよくわかっていない。これを研究している人もいるくらいだ。内容はかなり詳細かつ正確。幾度かの改訂をを重ねることによりより正確で信頼できる情報が追補されていった。旅程や交通手段、宿泊情報だけでなく、地図や図版も豊富(特にベデカー版は定評がある)。その国や地域、都市の歴史、文化芸術、宗教、政治制度、産業、食事、建築物、特産品などが網羅され、ある程度の教養のある人向けのガイドブックである。取材、情報収集にも現地在住の本国人を駆使して、半ば帝国主義的版図拡大と情報支配力の成果物であるかのようであった。ベデカー版はドイツ語の他にも英語とフランス語版がある。ちなみに「日本」の旅行案内は、横浜在住の英国人が日本ガイドを執筆してはべデカー社に売り込むが成功せず、結局最後までベデカー版「日本」は刊行されなかった。一方で、イギリスのマレー版旅行案内には、1884年に「日本」旅行案内が追加された。あのアーネスト・サトウとアルバート・ホーズの共編著。さらに改訂版がバジル・チェンバレンとウィリアム・メイソンに引き継がれて共編著された。これでわかるように、現地在住の外交官や大学教授といった社会的に権威のある専門家による監修、編著というレベルの高いガイドブックである。単なる名所巡り、物見遊山ガイドというより、最新の現地情報を網羅した「地理事典」に近い。ちなみに夏目漱石が英国留学するに際して入手して研究したのは、べデカー版「ロンドンガイド」「グレートブリテンガイド」であった。

このべデカー/マレー版はフランスのミシュラン( Michelin Guideが1900年初版刊行)されるまでは圧倒的な人気を誇った。のちにイギリスのブルーガイド(ベデカーのイギリス人編集者が始めたBlue Guide初版1918年)が、またアメリカのテリー版 (Phillip Terry's Guideが1914年〜1933年まで刊行)が刊行された。また英国のトーマス・クック:Thomas Coock社が大衆向けのツアーを企画して、海外旅行を楽しめる層の裾野を広げていったのも画期的であった。このころからだんだんべデカー/マレーが廃れて消えてゆく。現在では観光学の研究書として古書店の本棚に希少書並の扱いで並ぶのみである。特にマレー版の「日本」旅行案内は、サトウ版もチェンバレン版も入手がなかなか難しい。古書店でも最近見かけなくなっているようだ。日本語に翻訳されたものは東洋文庫「明治日本旅行案内・東京近郊編」アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳がある。

このほかにもイギリスにはブラック版旅行案内(Black's Guide)、レイ版旅行案内(Leigh's Guide)があった。前者はスコットランド・エジンバラのAdam and Charles Black社刊行。そのカバレッジはイングランド、スコットランド、ウェールズなどブリテン島内に特化。国内旅行だけに内容も比較的平易で、マレーやベデカーとは異なる旅行者層を狙ったようだ。各所に詳細な旅程が組まれていて、船便、鉄道、辻馬車の料金や時刻表まで詳細に記述されていて、初めてでもその行程に従って旅行すれば効率的に回れるという親切さである。後者はロンドン・ストランドの書店であったLeigh & Son社(Samuel Leigh ?~1831設立、その息子に引き継がれた)の刊行で、1830年に刊行されたロンドンガイド。この本はユニークだ。文章による情報だけでなく、ロンドン庶民の生活を生き生きと描いたカラー版のイラストが前半に54枚も挿入されていている。これらはイギリスの人気イラストレーター、トーマス・ローランドソン:Thomas Rowlandson(1756~1827)による貴重な挿画集である。日本の幕末の北斎の浮世絵を彷彿とさせるようなリアリティーを感じさせられる。他のガイドブックと一線を画するユニークポイントだ。さらに本文中にはロンドンの建物や橋などの著名な建造物のエッチングによる挿画が豊富だ。当時のクリストファー・レンの歴史的建築や、大英博物館やロンドン大学がどんな建物だったのかわかる。誰をターゲットにどういう編集方針でまとめられた旅行案内なのか不思議なガイドブックだが、面白さにおいては右に出るものはない。

同時代の、有名なイザベラ・バード:Isabella L. Bird (1831-1901)のような個人の旅行記や紀行文が作品として評価される一方、旅行案内書・ガイドブックは実用書や物見遊山の書として軽視されるきらいがある。しかし、これらの時代に編纂された一連の旅行ガイドブックを侮ってはいけない。産業革命の進展や海外進出期のヨーロッパにおいて、旅行が大人への通過儀礼の一つで、教養人の人生形成過程の必須科目であった時代の、いわば世界を知るための教科書であり、指南書であった。その充実ぶりは、今読むと、当時の英国、ロンドンを、あるいは彼らが観た日本をビビッドに描き出してくれているし、また旅行者から観た(アウトサイダー視点の)その国、地域、街の姿が垣間見える。旅行者が何に関心を持っていたのかも見えてくる。個人の紀行文や旅行記のような筆者の独自の観察眼、視点による興味深さは無いものの、豊富なデータや情報がより客観的視点(いや標準的視点というべきか)を与えてくれる。また、一方で歴史書や地理書からは見えてこない生の現地記録としても貴重である。改訂版を重ねることで時系列的な推移、変遷の観察もできる。何よりも読んで面白く、自分も旅をしているような独特のワクワク感がなんとも言えない。「時空トラベラー」にとっては手放せないのも不思議ではないだろう。


ここで紹介するのは、神田神保町の老舗洋古書店「北沢書店」で折々に入手した「旅行案内」本である。


1)ベデカー版:Handbook for Travellers by Karl Baedeker

出版元:Leipzig: Karl Baedeker, Publisher

Karl Bedaeker (1801~1859)創設のドイツ・ライプチヒの出版社。旅行案内書の草分け的な出版社で、イギリスのマレー社とともに「近代旅行ガイドの始祖」と呼ばれた。現在も続いている。第二次世界大戦のときにドイツがイギリス各都市を爆撃したときには、このベデカーの案内書に基づいた正確な爆撃が可能となったといわれ、これを「ベデカー爆撃」と称していたという。


ドイツ語版ロンドンガイド
1905年第15版

英語版グレートブリテンガイド
1910年第7版

英語版ロンドンとその郊外ガイド
1923年第18版


図版はカラー


セントポール寺院の解説
以前の持ち主の書き込みがある

巻末に地名インデックスと地図が収められている
ちなみに広告は入っていない



2)マレー版:Murray's Hand-book for Japan

残念ながら現物は未入手なので、ネット検索した写真(青羽書房HPより借用)を掲載する。

John Murray III (1808~892)が創設したマレー出版社は、バイロン卿の文芸作品や、ダーウィンの「種の起源」などの重要な出版物を世に出した著名な出版社であった。イギリスで大陸旅行ガイドブックを手始めに、世界旅行案内のシリーズを手掛け、ベデカー社とともに「近代旅行ガイドブックの始祖」と呼ばれた。このシリーズは1836年から1913年まで刊行された。日本版はアーネスト・サトウやバジル・チェンバレン編著により1884年から第9版まで改訂を続けた。


チェンバレン、メイソン編著の第4版、1894年ロンドン、東京で出版




東京の都市地図は江戸を彷彿とさせる鳥瞰図





3)レイ版:Leigh's New Picture of London 9th edition, 1839 London

出版元:London: Samuel Leigh and Son, Strand

Samuel Leigh (? ~1831)が設立し、ロンドンの出版、マスメディアの中心地であるストランドの書店であったが、出版も手掛けた。アデルフィー劇場の近くにあったと言われる。ちなみに同じストランドに居住した、ロマン派の詩人で画家のウィリアム・ブレイクがこの本屋に入り浸っていたという。後に書店は息子に引き継がれた。


1839年版
黒革装のしっかりした作り


人気のイラストレータ、トマス・ローランドソンのカラー挿絵が54葉挿入されている

当時のロンドンブリッジなど橋の記録も貴重

当時のロンドンの建築の記録が充実している



4)ブラック版:Black's Picturesque Tourist of England 15th edition,1883 Edinburgh、Black's Pictureque Tourist of Scotland 17th edition, 1865 Edinburgh

出版元:Edinburgh: Adam and Charles Black

スコットランドのエジンバラの出版社。ブラック家は現代までスコットランドを代表する地元の名士として子孫が活躍しているという。巻末の鉄道会社、船会社、ホテルなどの広告を入れて、利用者の利便性と価格を抑えることを図っている。


イングランド・ウェールズガイド
1883年版


丁寧な旅程プランが記述されている

詳細な地図



航路、鉄道、ホテルの広告が巻末に掲載されている。
当時の交通手段が「蒸気機関」であったことがわかる


スコットランドガイド
1865年版


旅先で使う切り絵地図が収納されている
開いたり畳んだりしても破れないように裏打補強された地図で実用的

左は、実際の旅行に携帯することを前提に小型化されている