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2022年6月3日金曜日

惜別 伊豆奈良本の「隠れ家」 〜「作右衛門宿山桃茶屋」の思い出〜


盛業中の時の「作右衛門宿山桃茶屋」入口

伊豆奈良本の隠れ家「作右衛門宿山桃茶屋」が廃業してしまった。コロナ禍と高齢となった女将の体調不良が理由だという。3年ほど前にご主人が亡くなって以来、女将が一人で切り盛りしてきた。。そして後継者が見つからない。去年の3月に店と宿を閉める決断をしたという。去年は2月に伊豆へ行って以来、コロナ規制による外出自粛や家内の骨折などで、結局一度も伊豆の第二の棲家と隠れ家へ足を運ぶ機会がなかった。年が明けて5月になってようやく出かけることができた。一年半ぶりに山桃茶屋を訪ねようと電話したら、女将が出て「去年閉店してもうやってないんですよ」と申し訳なさそうに言う。コロナコロナでちょっと時間が空いてしまったので嫌な予感がしていたが、それが現実のものになってしまった。閉店になってから残念がっても後の祭りだ。行かないのが悪い。特に家族でお世話になった女将には申し訳なかったと悔悟の念が湧いてきた。もちろん我が家だけのために店を開けてくれていたわけではないし、そんな偉そうに言えるほどの贔屓にしていたパトロンでもない。しかし家族の長年の思い出が詰まった山桃茶屋の閉店は心にポッカリと大きな空白を生み出すことになった。また一つ、我が時代が終わったと感じた。

そして、今回、これまでのお礼とお見舞いを兼ねて女将を訪ねた。何よりもお元気なのか顔を見たかった。大きな山桃の木があった入口の看板が板で覆われてしまっていた。いつもなら手入れの行き届いた庭と玄関の植木も伸び放題になっていた。なんとも哀れだ。女将は元気そうであったので少し安心した。久しぶりの再会を喜んでくれた。しばし思い出話に花が咲いた。しかし何と言っても40年以上続けてきた宿と店を閉めた虚脱感に苛まれているという。ひとりぼっちでやることも無くなってしまった...とポツリと語る女将が気の毒であった。女将は同じ伊豆の蓮台寺の出身で、ここ奈良本の庄屋の家に嫁いできた。以前に聞いた話だが、ここ伊豆という土地の歴史というか土地柄というか、当時は蓮台寺の親戚からは「なぜ奈良本に嫁に行くのか」と反対されたという。我々には窺い知ることはできないが、どうやら蓮台寺の実家は名家で、たとえ奈良本の庄屋であろうと家格が違う、ということなのだろうか。女将が小さいころ、実家では奥さんは「お方さま」と呼ばれていたと語っていた。言葉使いがみやこ風で優雅だったと語っていた。伊豆らしいエピソードだ。歴史上も、以前のブログで紹介したように、伊豆は古代から中世にかけて奈良、京都からの政治闘争に敗れた人々の流刑地であった。従って多くの「貴種」がみやこからやってきた土地である。特に蓮台寺あたりには「大津皇子の謀反」事件の時に舎人であった土岐の道作り(箕作)が流されてきたとされているし、箕作の地名が今も残る里にその末裔が住み着いたとの伝承がある。彼を祀る神社が里人によって守られている。また古代、中世に開基された小さな古刹があちこちにある。また奈良本も、その名の通り奈良から移り住んで来た人々が開いた里である。地元の氏神様である水神社の縁起に記されている。みやこから見れば遥けき東国、さらに山と海に隔てられた辺境の地であったのかもしれないが、風光明媚で温暖かつ豊かな土地柄である。彼の地を新たな定住の地として選び、子々孫々まで家系が続いたとして全く不思議ではない。きっと女将も世が世なれば貴種であった家系の末裔に違いない。その風貌佇まいにはどことなく漂う気品がある。今はこのお屋敷に一人で暮らしているという。思い出話に花が咲いているうちに、宅配弁当屋さんが弁当を届けにきた。女将の今夜の夕食だという。あんなに盛業で多忙な料理旅館を切り盛りしていた女将が、今は一人で弁当... なんか悲しかった。そう思うのは失礼なのだろうか。

山桃の大樹が玄関に聳える主屋は築100年を超える堂々たる古民家。ここが山桃茶屋として開放されていた。池越には伊豆独特の海鼠塀の蔵屋敷がある。ここは一日二組限定の温泉宿として提供されていた。先述の通りここは江戸時代には代々奈良本の庄屋屋敷で、明治になると一時は村役場になったこともあったそうだ。その庄屋家の末裔夫婦が、戦後は、熱川温泉の観光客誘致を掲げる町役場の要請もあり、40年以上に渡って「蔵の宿」と「山家(やまが)料理」の料亭として屋敷を開放し、観光客だけでなく地元にも愛され親しまれた。ある意味では古民家活用ビジネスの先駆けであったとも言える。一時期はテレビや雑誌にも取り上げられて話題になったが、かといって、幸いにも海岸沿いの熱川温泉街からは離れた山間の里であるため、観光客でごった返す「人気スポット」的な俗化やオーバーツーリズムを免れて、知る人ぞ知る「穴場スポット」、「隠れ家」として事業継続してきた。こうして地元に愛され、ツウに愛され、家族親戚で切り盛りするファミリービジネスモデルを続けてきたのでである。

「山家料理とは」伊豆ならではの山海の珍味を味わう家庭的な温もりある料理。田舎料理の素朴さと懐石料理の繊細さを併せ持つ。一品一品をコースとして出すのではなく、先付け以外はいっぺんに出てくるので誠に豪勢だ。自家製の山桃酒に始まり、天城山系で採れる猪肉や鹿肉が供されるかと思えば、伊豆稲取港、伊豆北川(ほっかわ)港で上がったばかりの金目鯛の煮付けや、鯵、雲丹、鮪、烏賊などの新鮮な刺身。タラノメ、ゼンマイ、タケノコなどの季節の山菜の天ぷら。女将丹精のバラエティーに富んだ漬物、らっきょうや梅干しもオーセンティックなツウの味。伊豆の名産わさび、そばはもちろん膳の主役だ。シメにはここの女将お手製の奈良本伝統の「へらへら餅」。これは自然薯を練って蒸しあげて餅状にしたものに胡麻と甘味噌のタレをかけていただく奈良本の隠れた名物。一時途絶えていたレシピをここの女将が復刻して再現した郷土の味だ。デザートのフルーツには伊豆定番の蜜柑や枇杷。こうした山海の珍味を、ゆっくりと時間をかけ、広々とした静かな古民家の座敷で堪能する。春から夏は蚊取り線香を焚き縁側で庭の山桃の木を眺めながら、晩秋から冬は囲炉裏端で、炭火の赤々とした炎と鉄瓶の湯気を眺めながら食事する。なんとも至福の時間である。贅沢な時間とはこういう時間のことを言うのであろう。

帰りには女将手作りの梅干し、漬物、山桃ジャムをしこたま仕入れて帰る。何よりも女将や板長さん、お手伝いのおばさんたちの暖かいもてなしと、地元の伊豆にまつわる話を聞くのが楽しみであった。女将はじめ土地の人々の人柄に触れることが大きな癒しになったことは言うまでもない。都会の論理と、生活テンポ、人間関係に疲れた人間にとっては、まるで故郷の田舎の実家に帰ったような安らぎと落ち着きを得ることができる場所であった。それがもう味わえないのかと思うと悲しい。役場の人からもせめて古民家カフェでもいいから開いてくれないか、と頼まれたと言うが、後継者もいないしもう決めたことと断ったらしい。勿体無いことだが、女将の年齢と体力を考えると、よくここまで頑張ってくれたとその労をねぎらいたい。ただ少なくともこの古民家は壊さずにどうにか次の世代に継承して欲しいものだ。なんとかならぬものかと思案中...

この山桃茶屋と我が家は、伊豆熱川に第二の棲家を得て以来、30年以上のおつきあいになる。思い返せば早いものだ。亡くなった父もここをこよなく愛した。母を乗せて大阪から車を飛ばしてやってきたものだ。私も米国赴任中に一時帰国して家内と息子、娘を連れて遊びに来たこの庭この座敷。結婚してニューヨークから里帰りした娘夫婦も、この日本の原点の極みのような時間と空間を楽しんだ。特に米国籍の娘の連れ合いはこの和の佇まいの中で冷酒を嗜む時間が至福だと気に入っていた。孫娘にとっても古民家を探検して過ごした時間が良い思い出となることであろう。家族が集まりリラックスできるかけがえのない場所であった。まさに故郷の実家のような存在であった。思い出の詰まった空間がなくなるということは、その思い出が時の流れとともに消え去るようで無性に寂しい。時の流れは人の大切な時間をそのままに保存してはくれないようだ。

「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」


主屋とシンボルツリー山桃の大樹

玄関

夏は蚊取線香焚きながらお庭を見物

冬は囲炉裏端で

名物「山家料理」

梅酒とアペリティーフ


奈良本の郷土料理「へらへら餅」

女将と愛猫

もう一人のこの家の老婦人

孫は珍しさもあってあちこち探検してはしゃいでいた






閉店してしまった「山桃茶屋」

玄関も閉じられたまま

蔵屋敷の戸も閉じられてしまった

玄関前の山桃の大樹も少し痩せてしまったようだ

主屋座敷縁側

蔵屋敷
温泉つきの作右衛門宿として利用された

惜別