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2023年10月8日日曜日

博多総鎮守櫛田神社と博多町家 〜日本最古の都市 博多の歴史地区を歩く〜


博多総鎮守 櫛田神社


山笠


樹齢1000年の大銀杏


博多の歴史は古い。博多の地下を掘ると3mの地層のなかに、2000年の歴史の遺構が折り重なっている。弥生時代のムラ・クニ、倭の奴国、飛鳥時代の那の津、奈良・平安時代博多津、中世博多、室町戦国桃山時代博多黄金時代、太閤町割りの博多、黒田藩政時代博多が重層的に検出されるという。「博多遺跡」は世界にも珍しい2000年のあいだ人々が定住し続けた遺構がギュッと詰まった複合遺跡である。そういう意味では博多は日本最古の都市だといってよいだろう。しかし、長年、故郷福岡を離れ、いわば外から故郷を見ていると、福岡市民は、そんな福岡・博多の歴史をあまり知らない。そんな街に住んでいながら、博多っ子ほど新しもの好きで、これほど歴史や伝統的な景観を顧みない人たちも珍しい。伝統的な町並みは「再開発」「区画整理」と称して消え去り、歴史的な建築物は、古くなったと言ってすぐに壊して新しい建物に建て替える。福博の町は「なんとかビッグバン」と称したガラスとスチールのビルへの建替えが盛んだ。町は人口が増え、発展しているというが、世界の都市と比べると、これだけの歴史を重ねながら街の景観に、何処か趣や重厚感がないのはそのせいだろう。歴史と伝統的な建築物や都市景観を保存し、未来に繋ごうという試みが少ない。それを、「過去を振り返らない」「進取の気性に富んだ気質」などと自画自賛しているが、歴史に学ばない、先人のレガシーにレスペクトを持たないイノベーションなど、しょせんは泡となって消え去るのみだ。ちなみに私は福岡っ子であって、博多っ子ではない。那珂川の西の城下町福岡育ちで、東の商都博多の育ちではないからだ。「博多っ子」には、「江戸っ子」と同じどこか特別のプライドがあり、東京に住んでいるものが全て江戸っ子ではないように、福岡っ子がみだりに自称すべきではないと思っている。以前にも書いたが、現在の福岡市はかつての城下町福岡と商都博多のツインシティーなのだ。

実際に博多の旧市街を歩いてみる、日本最古の都市、2000年都市、博多も、昨今の発展著しい町には新しいビルが次々と立ち並び、その景観は、どこにでもある普通の都会のそれである。かろうじて碁盤の目の町割りに太閤割の痕跡が残っていて、それが山笠の「流れ」に生きているが、下川端、寿通り、は再開発でビルになり消滅した。「流れ」を歩いても江戸時代の商家や町家はおろか、明治、大正の建物すら残っていない。博多の町家はどこへ行ったのか。空襲で焼けた、というが、実際には戦後の高度成長期に区画整理や再開発で破壊されたほうが多い。この「太閤割」の基本的な都市構造は、太閤さんの本拠地、大阪の船場・島内の都市構造(筋と通りの碁盤の目状の町割り)を共有している。大阪の町も現代では大きくその姿を変えているが、それでも江戸時代、明治大正期の町家が現在でも道修町や北浜、上町筋、本町界隈には残っている。博多は、過去にもモンゴル襲来で町が焼き払われたし、戦国時代には大友、島津、大内の争いでまたまた町が壊滅し、太閤さんが再開発している。先の大戦ではアメリカの空襲で再び焼け野原になった。過去に度々壊滅的な破壊を受けており、博多っ子に歴史的建物を大事にする余裕がなかったとも言えるのだろう。そして近代化の過程で歴史へのレスペクトが薄れてしまったようだ。

駆け足で博多2000年の歴史を振り返ってみると、

弥生のムラ、クニ 奴国、伊都国 後漢書東夷伝に記録 阿曇族 大陸との交流

飛鳥、奈良、平安時代 太宰府による官製貿易 外港である那の津、鴻臚館貿易

平安末期・鎌倉時代、中世は私貿易 平清盛による袖の湊 謝国明などの博多鋼首、大唐街形成 元の襲来で壊滅も復興

室町時代〜江戸初期 明との勘合貿易で栄えるが、博多利権を巡る大内・大友・龍造寺、島津の争い戦乱で壊滅 太閤割(博多の再建) 神屋宗湛、嶋井宗室、大賀宗久、博多三傑が活躍 博多黄金の時代

江戸時代 鎖国で海外貿易は長崎へ 博多の衰退 黒田藩政下の博多へ

明治の廃藩置県後は、隣の城下町福岡と商業都市博多が合併し新しい市となる。市名は議会では一票差で福岡市となる。

アメリカ軍の空襲で町が焼ける

詳しくは、以前のブログ、2014年11月13日 日本最古の都市 博多をご参照願いたい。


櫛田神社

櫛田神社は博多総鎮守。博多祇園山笠、追い山の出発地点である。御供所町の聖福寺や東長寺、承天寺などの大陸伝来の中世の禅宗大寺院とともに博多のランドマークである。もとは肥前国神崎郡にあった平家が管理する荘園、神埼の庄の御神体を平清盛が博多津・袖の湊に勧請したのがはじまり。日宋貿易に力を入れた清盛は自ら大宰大弐の官職を望み、博多に袖の湊を築き、街の発展に貢献した。そしてその事業を代々継がせた。のちの太閤さんと共に博多の恩人だ。7月の「博多祇園山笠」は、櫛田神社の祇園社の祭礼で、博多を代表する祭り。疫病払いという点では、京都の祇園祭と同じルーツである。中でも「追い山」は「流れ」(町内)ごとの舁き山が櫛田神社を出発して、博多の町を周回して須崎の廻り止めにゴールする勇壮な祭り。また、10月には秋の大祭「博多おくんち」(長崎、唐津とあわせて日本三大くんち)も御神幸行列が盛大に執り行われる。博多といえば櫛田神社、と言えるほど博多っ子の心の拠り所となっている。


博多町家

櫛田神社門前に、博多の町家が並んでいる一角がある。「博多町家ふるさと館」と銘打った観光施設であるが、復元町家とお土産屋と展示施設の3棟で構成されており、櫛田神社と相まって、一種の「博多歴史地区」といった風情である。復元町家は、冷泉町に明治20年に建てられた博多織元の旧家(旧三浦家住宅)を移築したもので、当時の外観、間取り、内装、庭園、蔵を忠実に再現している。見事な白漆喰に重厚な瓦屋根、連子格子の商家建築である。建物の中は、手前から店、奥、機織り工房が並び、真ん中を「うなぎの寝床」の土間が貫いている。高い吹き抜けとむき出しの梁、裏には庭と蔵がある。典型的な京町家などと同様の構造だ。ただ、塀はいわゆる「博多塀」という独特のものだ。戦乱で焦土と化した博多を再建した太閤秀吉の区画整理事業「太閤割」のときに、瓦礫を利用して築かれた土塀が原型となっている。土塀に瓦や石がリズムカルに配された独特のデザインで、今でも町の何箇所かで再現されている。かつてはこのような町家が博多の町並みを形成していたのであろう。よくぞ復元してくれたと、関係者の努力に感謝する反面、このような町並みが失われ、テーマパーク然としてしか残せなかったことに悲しみを覚える。そう言えば、博多銘菓「鶴乃子」や「鶏卵素麺」の老舗「石村萬盛堂」の本店も、伝統的な町家建築(後述の写真参照)であったが、改築されて現代風のビルに建て替えられていた。この場所は、祇園山笠の追い山「廻り止め」(ゴール)であるので、多少は外見に博多の伝統を生かした作りを残しているが、これもまた寂しい限りだ。

今年3月に地下鉄七隈線が、天神南から博多駅まで延伸され、途中に「櫛田神社前」駅が新設された。天神からも博多駅からもアクセスが良くなった。駅コンコースに博多の伝統工芸品の展示ショーケースがある。博多人形、博多織、博多独楽、博多鋏などの著名作家の作品が展示されているのが嬉しい。博多の伝統文化が感じられる駅である。2000年年博多の痕跡を一つでも多く発見し、残し、保存修景してほしいものだ。


櫛田神社門前の「博多町家ふるさと館」


博多織元の旧家を移設、復元

博多旧市街を彷彿とさせる家並み

魔除けの猿


「うなぎの寝床」の土間

博多織の織機


漆塗りの豪華な内装



「博多塀」
人気漫画「博多っ子純情」の主人公たち




三階までの吹き抜け

今年3月開業の地下鉄七隈線「櫛田神社」駅

駅コンコースの博多工芸品ショーケース
博多塀があしらわれている

博多人形「黒田官兵衛と松寿丸」

博多人形「「菅原道真公」

博多献上

山笠っ子



在りし日の「石村萬盛堂」本店(同店HPより)
追い山「廻り止め」の計測結果が表示されている



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)