ページビューの合計

2023年10月29日日曜日

古書を巡る旅(39)リンスホーテンとモンターヌス そして東洋文庫「モリソン書庫」

 

東洋文庫モリソン書庫

東洋文庫ミュージアムで「東南アジア〜交易と交流の海〜」展をやっている。古書好き、東西交流史ファンには垂涎の展示会だ。ASEAN諸国との友好協力50周年記念イベントの一環のようだ。東南アジアは、16世紀に始まる大航海時代から19世紀の帝国主義の時代に、東西を結ぶ海洋交易の中継地域であった、そして東西文明の交差点であった。大航海時代以来「東インド」と称された地域を訪れた西欧人や、華僑、そして日本人。彼らの訪問記、見聞録、研究書などのの著作や地図が多く展示されている。ポルトガルの東進、ゴア、マラッカ、マカオを拠点とした東インド交易の支配。イエズス会によるキリスト教布教。スぺインのフィリピン支配。そしてそれに続くオランダの進出。そしてイギリスの大英帝国の時代へと続く。いわば株式会社「英蘭東インド会社」繁栄の時代である。こうした西欧史に言うところの、「大航海時代」「Great Discovery」の時代は、日本の戦国時代、江戸時代初期キリシタン禁教の時代である。やがては鎖国へと。皮肉なことに、この時代は日本における戦乱による難民の増加、朱印船交易の隆盛による海外進出、やがてはキリシタン追放により日本人が多く東南アジアに進出し、やがては鎖国により残留を余儀なくされた時代でもある。そこでは西からやって来たポルトガル人、オランダ人、イギリス人とも出会った。東南アジア(東インド)はこうした東西の邂逅の舞台であった。こうした時代を通史的に、俯瞰的に振り返ることのできる展示でもある。

私にとって注目の展示は、リンスホーテンの「東方旅行記」1596年アムステルダム刊や、トメ・ピレスの「東方諸国記」1515年、サンソンの「モルッカ諸島図」などの貴重な原典が展示されていることである。その他にもシャムで活躍した山田長政に関する記録(アーネスト・サトウ「山田長政事績合考」1896年東京)や、フィリピンの高山右近を殉教者として取り上げた書(カルディン「日本殉教精華」1646年ローマ)、さらには時代を大きく遡り、漂流の後に安南(ベトナム))の長官になった阿倍仲麻呂(698−770)について記述した、旧唐書(945年)の写本などが展示されている。「東西文明の邂逅」の舞台であった東南アジア(東インド)の姿が見えてくる。









カルディン「日本殉教精華」1646年ローマ
殉教者、高山右近に付いての記述

リンスホーテン「東方案内記」1596年アムステルダム



トメ・ピレス「東方諸国記」1515年ころ

サンソン「モルッカ諸島図」17世紀初頭

セネクス「インド・中国新地図」1721年ロンドン
イギリス東インド会社


ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテン:Jan Huygen van Linschoten, 1562-1811

リンスホーテンは、以前のブログ(下記参照)でも紹介したが、16世紀末オランダのハーレムに生まれインドのゴアに移住してポルトガル商館で働いた商人、冒険者である。彼が、1569年にアムステルダムで刊行した「東方案内記」はオランダ、イギリスにとって貴重なアジア進出ガイドとなった。また日本に関する初めての包括的な記述をオランダにもたらしたことでも歴史的な意義を持つ。この初版本が、今回展示されている。当時のオランダはスペイン王家の植民地であり、プロテスタントの市民は弾圧されていたが、カトリックのオランダ人は、比較的自由な商業活動、交易が許されていて、アントワープやアムステルダムは、ハンブルクなどのハンザ同盟都市に対抗する海洋交易の拠点であった。また、航海と交易経験のあるオランダ人は、重宝され、盛んにスペインやポルトガルの海外植民地やゴア、マラッカ、マカオ、長崎などの海外拠点に進出していた。スペイン・ポルトガルに続く、オランダの海洋帝国発展へのロードマップは、すでにこの時期にその萌芽が現れていた。しかし、アジアに拠点を有していたポルトガル商館、イエズス会の活動記録は、完全機密、門外不出で、こうした情報が外に広がらないよう管理されていたので、このような案内記の出典が問われるところである。ただ、カトリック教徒のオランダ人にとっては、ポルトガル商人やイエズス会宣教師と共に活動することを通じて多くの海外情報に接する機会があったと考えられている。リンスホーテンもカトリックの家系で、インドのゴアでポルトガル商館に駐在していた。そこで、商館員、イエズス会士の報告書や手紙に接する機会があった。また日本に関する情報は、長崎のポルトガル商館に勤務経験があるオランダ人ヘリツゾーンから得ることができた。これらが「東方案内記」における「日本に関する一章」の重要な情報源であった。リンスホーテンの帰国後、オランダは長い独立戦争に勝利してスペインからの独立を勝ち取った。またリンスホーテン自身は、カトリックからプロテスタントに改宗した。本書は当然のことながら、新興海洋国家のオランダやイギリスにとっては垂涎のアジア案内書となり、オランダ語から英語やフランス語に翻訳されて、この時期の海外交易指南書の定本となった。日本に関する章は一章だけだが、その後、日本の平戸のオランド商館長となった、フランソワーズ・カロンの商館活動報告をまとめた「日本大王国誌」1661年)が出るまでは、唯一の日本関係情報源であった。既述のように、スペイン・ポルトガルの100年以上の海外進出実績と、その上に築き上げられた世界帝国が、それに続くオランダ、イギリス海洋帝国発展の揺籃であった。

リンスホーテンは、イギリスのハクルートと同じく、その地理学に関する功績を顕彰して、オランダでは19世紀に「リンスホーテン協会」が設立されている。


リンスホーテン「東方案内記」1569年アムステルダム版初版
書籍の全容を確認できる展示にはなっていないのが残念

リンスホーテン肖像


アーノルダス・モンターヌス:Arnoldus Montanus

オランダの大航海時代を代表するもう一人の著作家にモンターヌスがいる。残念ながら今回の展示には登場しないが、日本について大部の著作を著したオランダ人であるので、この機会に触れておきたい。彼についても以前のブログ(下記参照)で紹介したが、17世紀前半のプロテスタント聖職者で、「東インド会社遣日使節紀行」(1669年)という大著を著している。リンスホーテンの「東方案内記」と、この二つの著作の出版には100年ほどの時間差があるが、モンターヌスとリンスホーテンに共通するのは、両者とも出版を目的とした著作であること。それまでの記録集は、イエズス会や海外商館の活動報告や公信をまとめたものであって、出版を意図したものではなかった。読み物としての旅行記がブームとなった時期であった。そして、もう一つの共通点は、二人とも日本に来たことがないことである。リンスホーテンの方は、それでもインドのゴアで、ポルトガル人商人やイエズス会宣教師、オランダ人で日本へ渡航経験のある人物と接して、彼らから多様な情報を得ていたし、天正遣欧使節ともゴアで出会っているが、モンターヌスは、日本どころか、おそらくオランダを出たこともなく、日本やアジアとの情報接点を全く有していなかった。にもかかわらず、すでに出ていた著作や資料を参照し、大いなる空想力と、豊かな想像力を発揮してまとめた書籍となっている。特に、他を圧するのは、驚くほど多くの図版が掲載されており、ビジュアル的にもユニークな「日本ガイドブック」となっている点だ。長崎、平戸、大阪、京都、江戸と、日本の各都市、城、寺院、日本人の生活の様子を詳細に描いている。その描きかたは抽象的、観念的、ではなく妙に具体的で緻密である。まるで見てきたかのような具象性を有している。よく見ると、日本人には違和感のある奇妙な異世界、未知の文明社会という体ではあるが、どこか空想の中にリアリティーを見出してしまう不思議な世界だ。図版自体はアムステルダムの専門の絵師、版画家に描かせたのだが、彼らは何を見てこのような「写実的」光景を描き出したのだろう。誠に不思議な世界と言わざるを得ない。こうした著述業者の著作は、一次史料としての価値がない、と言われるが、実際には彼の著作は、当時のヨーロッパ世界に大きな影響を与えており、その観点から歴史的資料としての重要性は無視できないだろう。

最近、その「東インド会社遣日使節紀行」中に掲載されているオリジナルの図版の一つ「江戸城図」を手に入れた。銅板エッチングの細密画である。書籍自体はレア本で入手は困難だが、図版は時々古書市場に出回る。平戸、長崎、大阪、堺、京都、江戸などの都市図や、風俗図、地図などがあり、緻密に描写されていることに驚く。原画がどこから来たものなのか不思議であるが、おそらくオランダ商館員が長崎から江戸への参府の際に見聞してスケッチしたものが元になっているのであろう。東インド会社の公式な記録や報告書は機密資料であり、門外不出のはずなので、おそらく日本に滞在する商館員の個人的な日記やメモを参照したものだろうといわれている。もっともイザーク・コメリンの大部の著作「東インド会社その起源と発展」全四巻(1644年刊)のように、明らかに東インド会社の内部資料と思われるものが典拠となっている出版物も出回っているので、社外秘の原則とは別に、様々なルートで情報が外に流出したのかもしれない。それにしても、この江戸城描写の精密さと、そこに描かれた人々の佇まいの奇妙なリアリティーに驚くほかない。長い行列はオランダ商館長一行の将軍謁見のそれなのだろうか。江戸城の構造について英語とドイツ語の訳註が記載されており、1670年の英訳版(John Ogilby訳)に収録の図版と思われる。今回の展示ではモンターヌスは展示されていないが、同時代の資料として貴重なものである。リンスホーテンから70年ほど後の著作であり、日本は「鎖国」の時代に入っていて、極めて日本関連情報が乏しくなっていた時期である。このあと日本に関する著作は、ケンペル「日本誌」1727年を待たねばならない。


モンターヌス「江戸城図」1670年版
英語、ドイツ語版
日文研フレデリック・クレインス教授の解説



以前のブログで、リンスホーテンとモンターヌスについてより詳細に紹介しているので、ご関心ある方はご参照願いたい。 2021年12月28日 東西文明のファーストコンタクト・カピタンの世紀〜オランダ人の日本見聞録〜


それにしても、いつ来ても東洋文庫ミュージアムのモリソン書庫は壮観である。書棚を眺めているだけでも感動するが、収蔵されている書籍を仔細に見てみると、殆どがヨーロッパ語で書かれたアジア、東洋関係もので、ロンドン・タイムスの北京特派員であったモリソンが在任中に収集してものである。よくぞこれだけの書籍を集めたものだと感心する。そしてこれらの貴重なコレクションの散逸を防ぐために、全巻を買い取って東洋文庫に保存した岩崎久彌の功績にも感謝したい。何よりも、大航海時代から帝国主義の時代に西欧人がこれだけアジアを探検、旅行し、研究し、その見聞録や、研究書、案内書を出版していることに驚く。ここに並んでいる書籍は、我々馴染みの著名な作者によるものだけではない。様々な経緯で東洋へやって来た、あるいは関わった未知の作者による、未知に地域の探検記も豊富である。これらをじっくり読むのも楽しいだろう。未発掘の文献もありそうだ。まさに、知の迷宮に分け入る探検だが。

東洋文庫な関する詳細は、以前のブログをご参照あれ:2015年6月8日東西文明の邂逅 知のラビリンス「東洋文庫」探訪



右にはペリーの「ペリー艦隊訪日記録」がある



(撮影情報:Leica Q3、館内の写真撮影OK)