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2023年10月6日金曜日

太宰府に幕末・維新史の痕跡を探す 〜オーバーツーリズムと歴史の町並み〜


太宰府天満宮楼門

本殿修復工事が始まり「仮殿」が設けられた






墓参で帰郷し、久しぶりに太宰府天満宮へ参拝した。太宰府といえば、この菅原道真公が祀られる天満宮で、福岡の、いや九州でも有数の観光スポットである。私は太宰府といえば、天満宮もさることながら、古代史ロマンの漂う都府楼跡、観世音寺、水城、大野城といった、太宰府政庁と条坊制の都城遺構、筑紫歌壇の万葉歌人に大きな関心を寄せるのであるが、今回は天満宮へ直行した。まずは本殿に向かう。檜皮葺の本殿は、令和5年5月から3年かけて、実に124年ぶりの大改修工事が行われており、すでに壮麗な本殿は工事用の覆いが掛けられている。天神様ゆかりの「飛梅」もその傍らにひっそりと佇んでいる。その本殿の前にユニークな仮殿が設けられている。楕円形の屋根を持つ現代的建築物で、一見、古式豊かな天満宮のイメージではない。さらにユニークなのは、その屋根に草木が鬱蒼と生い茂っているではないか。天神様のイノベーティブかつエコなご神威を表しているのだろう。不思議に神域にマッチした佇まいである。この仮殿は、大阪・関西万博の設計を担当する藤本壮介設計事務所の手になるものだそうだ。本殿改修が終わっても、残してほしいものだ。

大宰府は我が故郷でもあり、何度も来ているので、今回はなにか新しいテーマで巡ってみたいと思い、太宰府天満宮とその門前町の歴史的景観と伝統的建造物を探訪しようと考えた。特に参道の両側に連なる町家建築には以前から興味を持っていたものの、お土産屋街の雑踏を抜けて、早く天神様のおわします聖域に到達したい想いで、いつも急ぎ足に通り過ぎたものだった。帰りには、民芸品店を覗いたり、名物の梅が枝餅とお茶で一服したり、ゆっくりと参道散策を楽しんだが、伝統的な門前町の景観という視点で、じっくり眺めたことがなかった。しかし、そう思って改めて参道を見渡すと、その佇まいは、歴史の景観を今に残すというよりも、ごく現代的な観光客のニーズを満たすお土産屋街、飲食街になってしまっている。すくなくとも伝統的な町家建築の風貌を通りから確認することは難しい。いわゆる「伝統的建造物群保存地区」の指定はないので建物の改築も自由だ。最近はインバウンドが激増し、看板や案内板に簡体中文やハングルが踊り、韓国語と中国語が眼前を飛び交い、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚になっている。ツーリズム・カオスのなかでは、なかなかその「歴史的景観」の世界に浸るのは難しい。

そういう昨今の風潮の中、いくつかの町家建築は、残念ながら取り壊されてしまったが、仔細に観察すると天満宮参道には歴史的建造物の原型をとどめている町家がまだいくつも確認できる。一階の外見はすっかり店舗として改変されてしまっているものの、二階を見上げ、看板や外装を取り除いてみると、その基本的な切妻の町家構造は維持されている。しかも、最近では店舗建物の建替えに当たり、当初の姿に復元されたものもある。歓迎すべき傾向だ。ただ、残念なことに、その大半は参道沿いにお土産屋、飲食店、しかも最近流行りのファーストフード、スイーツ、キャラクターグッズを扱う店が幅をきかせている。懐かしい太宰府名物「梅ヶ枝餅」すら影が薄くなっている。ソフトクリーム舐めながら、飲み物飲みながら、立ち食いが横行し、スマホいじりながら、自撮り棒つきだしながら佇み歩き回る、品のない観光客に参道が占拠されてしまっているので、ここが歴史的な町並みだと気が付かない。

かつて天満宮参道には、有名な「梅ヶ枝餅」の香ばしい香りと、「お餅焼けてますよ」の掛け声があり、うれしいワクワク感を与えてくれたものだった。それに、昔ながらのお土産屋さんが軒を連ね、「根性」とかいたキーホールダー、ペナント、まんじゅう、せんべい、博多人形、太宰府参拝記念の手ぬぐいなどが「お土産」の定番であった。なぜか木刀が男の子の人気だった。その他にも、実はここは、書画骨董や筆、墨、和紙などの文房八珍を扱う老舗が軒を連ねていた。場所柄、天満宮の周辺には文人墨客の邸宅や別荘や書斎が立ち並んでいた。茶の湯も盛んで、和菓子の老舗も繁盛している。また、小石原焼、高取焼や古賀人形、久留米絣といった民芸品を扱う店も軒を連ねていた。参拝客向けの「梅ヶ枝餅」とお土産物だけの通りではなかった。一種の文化サロン、伝統工芸品のショーケース的な通りであった。しかし、気づくとそのような老舗は次々と姿を消し、かわりに観光客向けにキャラクターグッズを扱うお土産屋やカフェ、ファーストフード店に変身しているではないか。文人墨客に愛される店は無くなってしまい、ツーリスト向け繁華街になってしまった。今回行ってみてショックだったのは、そうした文化サロン的な老舗の一つであった「小野東風軒」が閉店してしまったことだ。とうとうここも閉店なのか!天満宮参拝の帰りには必ず立ち寄っていた店で、いつも品のある老婦人が店先に座っってた。店の奥には談話室もあり、珍しい品々を拝見しながらの店の人との会話が楽しかった。随分前に骨董専門の「日田屋」が廃業して、お土産屋になったことがあったが、それ以来の大ショックだ。集まってくる客層がすっかり変わってしまったからだろう。

ところで太宰府天満宮参道には、幕末・維新の激動期に、勤王の志士が集まり尊王攘夷運動の舞台となった宿屋が多く存在していたことをご存知だろうか。幕府御用の宿もあった。なぜ太宰府なのか?そのほとんどが今はお土産屋に改造されているが、江戸末期の旅籠の風情を今に残している。たとえば、

薩摩藩の定宿、「松屋」(木造三階建て)
長州藩の定宿、「大野屋」(現在は「まめや」)
土佐藩の定宿、「泉屋」(現在は「梅園」)
幕府御用、「日田屋」(現在は「石ころ館」)
旅籠、「大和屋」(現在は「カフェ風見鶏」)

などがそうで、現在でも、西鉄太宰府駅に近い大鳥居周辺に当時の建物が残っている。いまはお土産屋や和菓子舗、カフェなどに変わっているが、よく見ると、店先以外は江戸末期の旅籠の構造がよく残されている。門前町なので天満宮参拝の旅人向けに旅籠があるのは、不思議ではないが、なぜ幕府や西南雄藩が太宰府に定宿を設けていたのだろう。

これにはある歴史的な事件が関係がある。1863年(文久3年)、「八月一八日の政変」で三条実美など尊王攘夷派の公家5名が、京都を追われ太宰府に落ち延び、太宰府天満宮の宮司、大鳥居信全の邸宅「延寿王院」に三年にわたって滞在した。そのときには西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、伊藤俊輔、坂本龍馬など勤王の志士たちが、これらの天満宮参道の定宿に滞在して、頻繁に延寿王院に五卿を訪ね密議を交わした。一種の朝廷の「亡命政権」が太宰府にあったと言ってもよいだろう。薩摩藩は早くから太宰府に拠点を構えており、「安政の大獄」のときには、西郷は京都から鹿児島下向の途中、月照上人をここ薩摩藩定宿の「松屋」に匿った。また幕府も日田代官所の役人が「日田屋」を拠点に、こうした動きを監視した。当時はまだ薩摩藩と長州藩は対立関係にあり、土佐の坂本龍馬、筑前の加藤司書、月形洗蔵なども薩長同盟に向けて五卿と密談を交わしたと言われている。こうして倒幕派、佐幕派入り乱れての情報戦、謀議が展開された現場がここである。なぜ大宰府だったのか。三条実美は菅原道真公を深く敬愛しており、天皇に忠誠を尽くしつつも無実の罪で左遷され、この地に没した道真公に自らの境遇を重ね合わせたといわれている。古代より「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府を、自らの再起、そして王政復古の場所と考えた。維新成就に当たって、三条実美は太宰府天満宮にその「お礼」として螺鈿の柄杓を奉納している。また天神様は、学問の神様としてだけではなく、庶民にとっても手習いや至誠の神様として敬愛され、太宰府は天満宮参詣、名所旧跡めぐりなど、「さいふまいり」として多くの人々が頻繁に訪れる土地柄であった。勤王の志士にとっても、往来が比較的自由であった。また筑前福岡藩は、当時は勤王派と佐幕派が藩内で対立しており、藩主は五卿の扱いに苦慮した。幕府の意向を勘案して五卿を九州各地に送り出す、いわば厄介払いを考えたようだが、太宰府天満宮の意向には口を挟まなかった。太宰府天満宮は、幕末維新史の中で、いわば一種の治外法権の場として、重要な時代の画期の役割を担った。京都や伏見のように、かつての尊王派の根城となった寺田屋や池田屋などの旅籠が現在は失われたのとは違って、その遺構としての延寿王院、幕府、各藩御用達の旅籠が現存する土地なのである。そんな歴史をもっと知ってもらいたいし、そうした歴史の遺構をきちんと将来に残してほしいものだ。

そんな幕末・維新の時代から、ふと現実に戻り、参道に佇む我がいる。それにしても、平日だというのに太宰天満宮一帯は観光客でごった返している。太宰府駅からの参道は、韓国、中国からのツーリストがひしめき合っている。コロナ明け海外渡航解禁、国慶節連休ということもあるのか、この人出はなんとしたことだ。日本は「放射能汚染水垂れ流し」の危険な国ではなかったのか? 訪日を控えるべきではないのか? そんなの関係ない!という民の強かさ。かつての太宰府は、華やぎと賑わいはあるが、どこか凛とした空気があって、神聖な特別感があったものだが、そうした静謐な佇まいは何処かへ行ってしまったようだ。団体客といえば制服を着た中高生の修学旅行生であった。受験の神様に合格祈願するという、学生ならではの格好の参拝理由があった。しかし、少子化で日本の修学旅行生よりも、経済発展著しい隣国に近いので、インバウンド観光客の手軽なお出かけ先になってしまったようだ。日本に好感を持ってくれるのはありがたいが、アニメやコスプレ、インスタ映え、アレ食った、コレ買っただけのツーリズムでどれほど日本を理解して帰ってゆくのやら。大宰府を訪れる人の波、この入れ替わり様は時代を象徴する光景だ。「旅の恥はかき捨て」、「オーバーツーリズム」という言葉が脳裏をかすめる。インバウンド歓迎!どんどん来て、じゃんじゃんお金使ってちょうだい、か?傍若無人で行儀の悪い観光客でも、お金使ってくれるなら誰でも歓迎? 円安で経済が低迷する日本では訪日観光客が成長の救世主というわけか。「欲望の資本主義」は、ここ、天神様の御神域でも大手を振ってのし歩く。それで良いのか日本。嗚呼、またジイさんの繰り言が始まった。



天満宮宮司の邸宅「延寿王院」
奥に「五卿遺蹟碑」がある


幕府御用宿「日田屋」
かつては文人墨客ご贔屓の骨董品店であったが廃業し、現在はお土産屋になっている

旅籠「大和屋」
現在は古民家カフェとなっている

薩摩藩定宿「松屋」




土佐藩定宿「泉屋白水楼」(現在は菓子舗「梅園」)
長州藩定宿「大野屋」(現在はお土産屋「まめや」)


参道の大鳥居

参道の賑わい

老舗の「小野東風軒」は閉店 別の店に変わっていた

復元町家「かさの家」

復元された町家


炭鉱王伊藤伝右衛門寄進の鳥居


(撮影機材:Nikon Z8+Nikkor Z 24-120/4)