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2025年1月18日土曜日

古書を巡る旅(60)『The Comedies, Tragedies, and Operas』John Dryden 〜「ドライデンの時代」の劇詩集〜

 

ドライデン肖像と表紙


今回紹介する古書は17世紀イギリスのジョン・ドライデン:John Drydenn (1631-1700)の劇詩全集である。「ドライデン『喜劇・悲劇・オペラ』全集 揃2巻 ロンドン刊」出版・販売元はロンドンのジェイコブ・トンソン:Jacob Tonson。35*22cmの大型フォリオサイズでエンボス加工された豪華な総革装の古書である。貴重な1701年の初版である。イギリス文学史の一時代を築いたドライデンのオリジナル劇詩集という内容はもとより、その書籍自体が醸し出す風格は歴史的な工芸品と言って良いほどのオーラを放っている。初版から320年。21世紀の東京、神保町の北澤書店で「発掘」された。


総革装エンボスの大型本


第1巻表紙
第二巻表紙
ドライデンの真骨頂「劇詩論」

「アンボイナ事件」を題材にした悲劇

John Dryden (1631-1700)

ジョン・ドライデンとは

著者のドライデン:John Dryden(1631-1700)は、17世紀後半、イングランドの王政復古時代に文壇の大御所として名声を博した人物である。多くの詩・韻文、戯曲、批評、翻訳を発表し、この時代はのちに「ドライデンの時代」と称されるようになる。1668年には王室桂冠詩人に、また1670年には王室年代記編纂官に選ばれる。しかし、彼はその時代の権威者のもとで主流となる政治信条、宗派を信奉するなど、日和見主義者との批判も受けたことでも知られる。クロムウェルが護民卿となりイギリスで初めての共和制を引いた時には、ケンブリッジを出たばかりのドライデンは、彼自身がピューリタンの家系に生まれたこともあり、クロムウェル政権を熱烈に支持しその共和制政権に加わった。1658年にクロムウェルが亡くなると、彼の葬儀に共和主義者であったジョン・ミルトン:John Milton (1608-1674)と共に参列し、彼を礼賛する頌徳文「Heoique Stanza」を捧げている。しかし1660年に王政復古でチャールズ2世が亡命先のフランスから帰国しイングランド王に即位すると、今度は新国王に祝意を表すため「Astraea redux」を献辞している。そして、チャールズ2世の弟で、カトリックを信奉するジェームス2世が即位すると、カトリックに改宗している。しかし、1688年のいわゆる名誉革命でジェームス2世がフランスへの亡命し、代わってオランダ統領であったオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)とメアリー2世が即位すると、イギリスにおける政治体制が「権利章典」による立憲君主制へと移行し、国教が英国国教会となる。ドライデンはカトリックから改宗しないまま王室桂冠詩人の地位を失う。政治と宗教と文筆活動が密接に結びついていた時代である。ただドライデンはその政治的キャリーは失い、失意の人となったが、その後も強かに作品を発表し続けた。


「ドライデンの時代」とは

「ドライデンの時代」は、王政復古:Restration後の文芸、演劇が活況を呈した時代である。その中心にドライデンがいた。クロムウェル共和政時代は、清教徒的な禁欲主義政策で劇場や演劇が衰退した時代であった。エリザベス朝の精華とも言うべき、シェークスピアやベン・ジョンソンすらも演じられなくなる。しかし、チャールズ1世の帰国と王政復古により、停滞していた演劇を中心とする文芸活動が一斉に復活し、音楽界ではヘンリー・パーセル:Hnery Purcellのような天才が見出される時代であった(古書を巡る旅(59)Orpheus Britannicus by Henry Purcell)。むしろ贅沢三昧の宮廷の風潮を背景により享楽的な風刺詩や劇が生まれるなど一種の反動の時代と言って良いかもしれない。こうした時代にドライデンは多くの叙事詩や英雄詩や、時代を辛辣に語る風刺詩:Satierで名声を博した。また劇詩論:Dramatic Poesiesにより演劇評論を展開し、この時代の文壇の大御所の名を欲しいままにした。そうした活躍から1668年には「王室桂冠詩人」に選ばれた。60年代から70年代にかけては劇場用作品の執筆が中心で、彼の作家としての主な収入源となった。「当世風結婚」:Marriage A-La-Mode1672のような喜劇や、当時のオランダとの海洋覇権をめぐる戦争を背景にした歴史悲劇「アンボイナ」:AMBOYNA 1673、「全て恋ゆえに」:All for Love1677などの悲劇が代表作で成功を収めた。また敬愛するミルトンの叙事詩「失楽園」の劇詩化に取り組み、The State of Innocent 1674~1677を発表する(古書を巡る旅(21)ミルトン「失楽園」)。一方で劇作家としての名声が高まるとともに、むしろ劇場外で詩人としての名声を得ようと努力した。「アブサロムとアキフェルト」1681のような風刺詩において秀逸な作品を残した。1682年には国教会の立場からイエズス会とカルヴィニズムの両極端を批判する風刺詩「平信徒の宗教」:Religio Laiciを、また、当時シャフツベリー卿により主導された反王党派のホイッグ党を批判する風刺詩「メダル」:The Medalを出している。彼が開いた独特の風刺詩の境地は、同時代のアレクサンダー・ポープ:Alexander Pope (1688-1744)や、後世のサミュエル・ジョンソン:Samuel Johnson (1709-1784)に大きな影響を与えた。ジョンソンは彼を「イギリス文学批評の父」と賛美した。


日本におけるドライデンの受容

しかし、我々日本人にとって、ドライデンは比較的馴染みの薄いイギリス作家である。シェークスピアやミルトンの作品は知っていても、現代まで語り継がれる彼の代表作は何かと問われるとあまり思いつかないだろう。なぜなのか?イギリスにおいてもドライデンは、19世紀ビクトリア朝時代にはあまり評価されなくなっていた。その再評価がなされたのは20世紀になって、T.S.エリオット:Thomas S. Elliott (1888~1965) が「ドライデンの存在が全ての18世紀のイギリスの詩の元祖であり、彼なくしてイギリスの数百年に及ぶ詩の歴史を正しく評価することはできない」と礼賛したことによると言われている。したがって19世紀後半(明治期)に欧米の文化を盛んに取り入れた日本では、御雇外国人教師でドライデンを取り上げることも稀でドライデンの作品や業績があまり伝わることもなかった。したがって翻訳者も研究者も少なかった。英国留学で多くの英文学作品を研究し、持ち帰った夏目漱石もドライデンをほとんど取り上げていない。シェークスピアの翻訳を手がけ、日本の近代演劇の祖ともいうべき坪内逍遥もドライデンの劇詩、演劇評論を取り上げていない(翻訳論でドライデンの影響を受けたとする研究がある。「坪内逍遥におけるドライデン受容の研究」佐藤勇夫1981年)。ビクトリア朝イングランドのドライデン評価が端なくも明治期の日本の文学界に映し出されている。今でもドライデン研究者は多くない。最近では、ドライデンを翻訳論や演劇評論の研究対象として取り上げる若手の研究者がいる。彼は詩人、劇作家としてだけではなく、先述のようにギリシア、ローマなど古典の翻訳家としても活躍し、また演劇評論やジャーナリズムのなかった時代に演劇批評家としても活躍した。現代の演劇論、演劇批評のルーツとして、あるいは古典翻訳方法論の開拓者として評価する研究が進んでいるようだ。今回の書籍を「発掘」していただいた北澤書店の先代の店主、北澤龍太郎氏は、東京帝大英文科出でお茶の水女子大学や都立大学で教鞭をとった英文学者で、日本では数少ないドライデン研究者であった。今回、そんな北澤書店にゆかりある由緒ある古書を手にすることができたのは誠に光栄であり、この歴史的な書籍を後世に次いでゆく責任を痛切に感じる。


職業作家と出版事業者の出現

ところでドライデンは王室桂冠詩人という栄光の座を追われてから、どのように著作活動を継続できたのだろう。桂冠詩人は国や宮廷のためにかなりの量の詩作を求められる代わりにその名誉と収入が確保(大した額ではなかったとも言われるが)されていたわけだが、桂冠詩人の地位を追われるということは、作家として詩人として収入の途が閉ざされることになるわけだ。この頃から詩作から離れて戯曲、翻訳(翻案)作品に力を入れた。しかし、戯曲の方はあまり成功せず、収入が乏しかったようだ。そこで転じて古典作品の翻訳家として活躍し、1697年ローマ時代の「ウェルギリウス全集:the Works of Virgil」、ホメロス、ホラチウス、ボッカチョ、チョーサーなどの古典の翻訳、というか韻文で翻案した「古今寓話集:Fables, Ancient and Modern」1700年を出す。以前のブログ(古書を巡る旅(17)「聖フランシスコ・ザヴィエル伝」)で紹介した「ザビエル伝」1688年もこうした翻訳作品の一つである。こうした作品を世に売り出せるようになった背景に、新たに台頭してきた出版事業者の存在がある。

この時代には出版事業が発達して、文筆を生業とするいわば職業作家が生まれた時代である。それまでの17世紀中葉(清教徒革命以前)は、詩や散文などの文芸作品は貴族や聖職者などの上流階層の嗜み、あるいは政治的な意思表明の文書として書かれ、出版人は存在したが、限られた上流階級コミュニティーに配布されるにとどまり、それを多くの人々が読むことはこと稀であった。また印刷法という出版を統制する法律やそれを執行する星室庁などの言論統制機関があって、文芸作品を誰もが自由に印刷したり出版したりすることはできず、出版事業は宮廷や教会とそこにつながる印刷、出版人(組合)が取り仕切る世界のものであった。詩作や論文、そして出版は密接に政治や宗教にリンクしていた。しかし、これを壊し「出版・言論の自由」の空気を生み出したのが1649年の清教徒革命であった。この革命は、先述のようにピューリタン的な禁欲主義の影響で、演劇や音楽、文芸活動の衰退を招いたが、一方で、皮肉なことに王政復古後、いわば「出版の自由」の勢いに火がつき、結果的に読者層も新興のジェントリー層や都市富裕層などに拡大し、商業活動としての出版事業が成長産業になっていった。先述の印刷法も星室庁も1696年には廃止される。こうした規制緩和と宮廷や貴族といったパトロン、政治や宗教といった束縛からの脱却により、作家にも自由な著作活動と出世のチャンスが生まれ、いわば新たな「文芸復興」の時代になっていった。同時代の詩人、アレクサンダー・ポープなどはその一人であったと言われる。彼はドライデンに影響を受けた当代一流の詩人であったが、桂冠詩人でも、宮廷の官僚の地位にあったわけでもないので、自由な立場から批判的詩作、彼独自の視点による古典翻訳に取り組み評価を得るようになっていった。当然、有力なパトロンも少なく経済的には困窮していた。しかし、ポープは「イリアス・オデッセイ集」の翻訳や、「シェークスピア全集」の編纂などの大作を出したことでも知られている。これを可能にしたのは出版・販売事業者:Publicher/Booksellerの存在である(この頃は出版と書店が未分化であった)。ポープは出版事業者と手を組み、作品の原稿を書くときに、事前に予約を募りお金を集め、出版時に予約者に本を渡す方法をとった。出版人にとっても事前に出版費用が手に入るし、それを元に印刷業者:Printerに発注できる。また出版人に代わって作家自体が売り歩くわけで、富裕層を新たな読者層として開拓できるメリットがあった。17世紀のクラウド・ファンディングと言っても良いかもしれない。


ドライデンとトンソン

桂冠詩人の地位を失ったドライデンもこのモデルを取り入れて、すでに得られていた名声を生かして第二の創作活動人生を歩んだ。ロンドンの著名な出版人で、のちに「近代出版事業の父」と呼ばれることになるジェイコブ.トンソン:Jacob Tonson(1655-1736)と組んで、ミルトンの「失楽園」舞台版などを売り出した。先述の「ザヴィエル伝」もトンソン出版だ。今回紹介する本書もドライデン没後の1701年にトンソンにより出版、販売されたものである。この二人は新しい出版編集企画を生み出し、まず共同作品とも言うべき「英国詩歌集」全6巻:The Dryden-Tonson Miscellanias 1684-1709を世に出す。これはドライデンを編集者としたアンソロジー集である。続いて先述の「ウェルギウス全集」「古今寓話集」といった古典の翻訳、翻案作品の出版を手掛け、トンソンはドライデンを著名編集者として売り出し、複数の訳者を集め、連載シリーズで出版する。いわばサブスク型の出版物を生み出した。こうして出版が商業的にも成功を収めることができる事業であることを証明した。もっともドライデンの方は自分の取り分が少ないとトンソンにクレームする手紙が残っているようだ。ともあれトンソンは著名作家や編集者と組む出版事業の新しいビジネスモデルを作った人物と言われている。またシェークスピアの版権を買い取るなど事業を拡大し、当時の文化サロン「Kit-Cat Club」を創設したことでも知られる。これまでの宮廷や教会、それと結びついた出版事業者というクローズドな世界、パトロン依存の芸術や著作活動から脱却する、いわばイギリスにおける新たな出版文化の開花といっても良いかもしれない。ちなみに今年の「大河ドラマ」で話題となっている江戸の出版人、蔦屋重三郎出現の100年前の話である。


Jacob Tonson (1655-1733)


参考:本書収蔵内容

(巻1)

An Essay of Dramatic Poesie :劇詩論 1668

The Wild Gallant 野生の色男  1663

The Rival Ladies

The Indian Emperour, or The Conquest of Mexico 1665

Secret-Love, or The Maiden Queen

Sir Martin Marr-all, or The Feign'd Innocence

The Tempest or The Enchanted Island  テンペスト 1667  シェークスピア作品の翻案

An Evening's Love, or Mock-Astrologer 1668

Tyrannick Love, or The Royal Martyr 1669

The Conquest of Granada グラナダの征服 1670

Marriage A-la-Mode 当世風結婚 1672

The Assignation, or Love in a Nunnery

AMBOYNA  アンボイナ事件 1673

The State of Innocence and Fall of Man ミルトン「失楽園」のオペラ台本 1677


(巻2)

Aurenge-Zebe or The Great-Mogul ムガールの大王 1675

All of Love or The World well Lost 1677

Limberham or The King Keeper

OEDIPUS 1679

Troilus and Cressida, or Truth Found too Late

The Spanish Fryar, or The Double Discovery

The Duke of GUISE

ALBION and ALBANIUS 1685 オペラ台本

Don SEBASTIAN King of PORTUGAL 1690

AMPHITRYON 1690

CREOMENES The Spartan- Hero

King ARTHUR, or The British Worthy  アーサー王 1691 ヘンリー・パーセル作曲セミオペラ

Love Triumphant, or Nature will Prevail




次回に続く:

1)劇詩論:Dramatic Poesies

オランダとの英仏海峡での海戦、という政治情勢下での演劇議論
四人の人物が、古典劇、フランス劇、英国劇についてその長所を討論を交わす

2)アンボイナ事件:AMBOYNA

1623年に東インド(現在のインドネシア)のジャワ島のアンボイナで起きたオランダとイギリスの商館をめぐる事件。
イギリス商館長とイギリス人、日本人、ポルトガル人20名がオランダ人によって虐殺された。これをきっかけにイギリスは東インドから撤退、日本の平戸商館も閉鎖する。
当時海外で日本人傭兵が活躍していた様子が描かれた貴重な作品


2025年1月3日金曜日

「門松やディストピアへの一里塚」〜水晶玉が見た2025年の世界〜





2025年年頭にあたって今年もまた恒例の「水晶玉」占い。さて2025年をどう見るのか。去年は次のような「水晶玉のご宣託」があった

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : ChatGPTより良く当たる!水晶玉が見た2024年の世界: バイデンがホワイトハウスの階段で転んだところが見えます。 トランプが笑いをこらえてガッツポーズしているところが見えます。 プーチンが高笑いしているところが見えます。 ゼレンスキーが親露派に失脚させられるところが見えます 習近平が地球儀見ながらほくそ笑んでいるところが見えます。... どうだろう、2024年の「水晶玉」占いは結構当たったじゃないか。バイデンの高転び、トランプの高笑い、プーチンのほくそ笑み、日本の不透明感は当たり。ゼレンスキー失脚、NATO崩壊、アジアでの戦争開始は外れたが、時期がずれただけでその確率は高まった。

今年の「水晶玉のご宣託」は、去年に加える新たな項目はなさそうだ。だからといって喜んではいけない。これ以上のリスクはないと言っているわけではなく、TRUMP2.0が始まるのだ。不安定化とそれによるリスクが一段と危険度を増すと告げているのだ。ある意味で占い師でなくても読める顕在化した危機になってしまったということだ。民主主義のパラドックス。欲望の資本主義。「法の支配」の「法による支配」化。これらは今年また一段と進むだろう。選挙イヤーでポピュリスト政党が躍進し世界の秩序は大きく変化する。無秩序なAIとカオスなSNSによってこれまでの民主主義のルールや価値観が大きく変わる。重要な言論プラットフォームになったSNAは企業によって運営され、自己規制もルールもない。金で支配した声のでかいものが勝つ。情報リテラシーは自己責任化する。そしてこうした急速な変化に人々が思考停止状態となる。この一年は後世の歴史家が歴史の転換点と評価する年になるかもしれない。アメリカは、関税:Tariff、国境の壁:Wall、二国間取引:Dealでますます内向きになる。グローバルサプライチェーンがズタズタになり、国内ではインフレが高まり雇用が失われ、貧富格差はますます広がる。これがうまくマネージできないまま世界中に分断が広まる。民主主義や自由、法の支配といった歴史的にアメリカが進め、守り、仲間を作ってきた戦いから撤退し自国に引き篭もるわけで、ならず者国家や非国家テロリスト政権にとっては願ってもない追い風というわけだ。あるいは西欧流の価値観と秩序に否定的な勢力に「ほれ見ろ!」と勢いを与える。国際機関、地球温暖化対策、自由貿易、核廃絶、安全保障といった多国間の枠組みやルールが崩れ、二国間の相対取引契約でブロック化してゆく。ロシアはやったもの勝ち!の味をしめ、さっそく次を狙う。「大ロシアの夢!」。アメリカの抑止力はない。むしろアメリカもロシアに負けないでやったもの勝ち競争に参入。「Make America Great Again!」。中国は少子高齢化と経済の行き詰まりで、アメリカ同様内向きになるが、国民の専制的統治への不満のはけ口を外に用意しておかねばならなくなる。台湾はそこで利用される。「おお!偉大なる中華民族」。ここでもアメリカは出てこない、絶好の機会到来だ。朝鮮半島はもともと不安定で東アジアの火薬庫。一触触発でさらに不安定化している。しかしアメリカは動かない、こうして台湾海峡と朝鮮半島から日本は戦争に巻き込まれる。日清/日露戦争、満州事変という歴史が教える地政学的リスクシナリオの展開だ。やはりアメリカは出てこない。アジアに戦争の危機がヒタヒタと迫ってくる。Gゼロとはそういう世界規模の安全保障リスクを意味する。友邦を裏切る国に未来があるとは思えないが、そんなアメリカの未来を心配をしている場合ではない。自国優先主義はそんな連鎖を世界に広げる。

ちなみにイアン・ブレーマーの「ユーラシアグループ」は今年に起こりうる10のリスクを挙げ、2025年を「冷戦初期に匹敵する地政学的に危険な一年」としている。すなわち「Gゼロ」が世界を危機に陥れる。去年のリスクは「アメリカの分断」だった。それが世界に拡大するということか。



残念ながら悲観的材料が目白押しの2025年。

「門松やディストピアへの一里塚」「めでたさも中ぐらいなりオラが春」ではある。正月休みはジョナサン・スイフトの「ガリバー旅行記」を読んでいる。別に童心に帰ったわけではない。世界最高の政治風刺物語を苦笑いしながら読み耽り憂さ晴らし。このご時世、なかなか示唆的で、読んでいていちいち合点することが多い。面白い一節があるので紹介したい。ガリバーが日本:Japonからイギリスに帰国する途中で立ち寄った架空の島国ラグナグでの不死の人物の話だ。


西がJapon:日本, その東にある島がLugnagg:ラグナグ
ちなみに「ガリバー旅行記」に出てくる国々はJapon:日本以外はどれも架空の国

「大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは、不死の人間ストラルドブラグの噂を聞かされた。自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと夢想する。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではない。老衰から逃れることはできず、いずれ体も目も耳も衰え集中力も記憶力もなくなり、日々の不自由に愚痴を延々こぼし、歳を取った結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗極まりない人間になっていく。ラグナグ国では80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま、世間から厄介者扱いされ、人間に対する尊敬の念も持たないまま生き続ける。そんな悲惨な境涯を知らされて、むしろ死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになる。」

不老でない不死。老いさらばえて「その結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗な人間」。「人を人として尊敬しない人間」。こんな人間で満ち溢れ、彼らにコントロールされる世界。死こそが人間に与えられた救済だという。このカリカチュアライズされた世界こそディストピアだ。18世紀の作家、ジョナサン.スイフトの強烈な皮肉を21世紀に生きる我々はどう受け止める?

2025年1月1日水曜日

古書を巡る旅(59)『Orpheus Britannicus 』by Henry Purcell 〜没後330年を迎える年末年始はパーセル三昧で過ごす〜

パーセル肖像と第1巻表紙



私はクラシックの中ではバロック音楽が好きだ。これは高校生の時のヘンデルのオラトリオ『メサイア』の演奏会に合唱団の一員としてフルオーケストラとともに参加した体験に由来している。あの時の打ち震えるような感動が生涯忘れられない。あの経験をして自分が音楽の世界に行かなかったのが不思議なくらいだ。確かにあの瞬間、救世主が降りてきたのだが、音楽の守護聖人St. Cetiliaは現れなかったからだろうか。この『メサイア』はアイルランドのダブリンが初演で、アリア、レシタティーボ、合唱はドイツ語ではなく英語で歌われる。私も英語歌詞なので歌いやすかった。もっとも古英語表現が至る所にあって、それがまたワクワクした。若い心に響くヘンデルであった。それからというもの、ヘンデルはもちろん、バッハ、ヴィヴァルディ、テレマンなど、後期バロックの音楽、さらには初期、中期バロックのモンテヴェルディ、カブリエリ、コレッリ、クープランなどの音楽を渡り歩き、古楽器による演奏やイムジチ合奏団やパイヤール弦楽四重奏を聴きまくった。ある時ヘンリー・パーセルに出会って、イギリスにもバロックの作曲家がいたんだと知る。彼はヘンデルやヴィバルディの前の世紀、17世紀に活躍した中期バロックに属することを後になって知った。フランスやイタリアバロックの影響を受けているものの、フランス語、イタリア語、あるいはラテン語ではなく英語の宗教曲や頌栄歌を多く発表した。英語の歌詞は、単純にイギリス人にわかりやすい、ということだけではない。宗教改革でイギリスではジェームス1世の時代に欽定訳聖書(1611年)、すなわち聖書が英訳された。讃美歌や聖歌、頌歌が英語で吟じられることはプロテスタントにとって重要なことなのである。パーセルもヘンデルもそうした欽定訳聖書を典拠とし引用して作詞、作曲をおこなったのである。

その後しばらくはパーセルを忘れていたが、イギリス留学中にウェストミンスター大聖堂とノーリッチ大聖堂でパイプオルガン演奏を聴き、それがパーセルだと知り感動したことをきっかけにハマり始めた。そもそもパーセルはかつてウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者であった。その後90年代のロンドン勤務時代には、ちょうどパーセル没後300年で記念コンサートがイギリス各地で開催され、記念のCDが出たので夢中で聴いた覚えがある。トレバー・ピノック:Trevor Pinnockのイングリッシュ・コンサート:The English Concertが多くのバロック作品を演奏し、CDのコレクションを出した。パーセルの曲はポール・マクリーシュ:Paul McCreeshのガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ:Gabrieli Concoert & Playersであった。いずれもドイツグラモフォンのアルヒーフシリーズ:ARCHIV ProduktionのCDで、トッテナムコート・ロードのHMVに通って買い集めたものだ。ロンドンの自宅に英国製オーディオセット(ArcamのバイアンプシステムにMission, B&Wのトールボーイスピーカ)を置いて、Hail, Bright Cecilia, Harmonia Scara, Fairy Queenなどを聴き、17世紀のイングランドに時空トラベルしたものだ。至福の時であった。

リタイアー生活を送るようになって、いつもお世話になっている神保町北澤書店で、なんとパーセルの「Orpheus Britannicus:オルフェウス・ブリタニクス」歌曲集の初版本を見つけた。2024年の「稀覯書フェアー」に出展されていたものである。ロンドンでは出会わなかったこのパーセル本との出会いは、時空を隔てた偶然といえば偶然だが、必然といえば必然、出会うべくして出会ったような気もする。ロンドン時代の心の友との30年後の神保町での再会。出会いとはそんなものだろう。

今回入手した「Orpheus Britannicus」はこれまでに作曲した一声、二声、三声のための歌曲を集めた初の歌曲全集である。1695年11月、パーセルのあまりにも突然の死にロンドン中がショックを受け、多くの弔辞や頌歌、詩が寄せられていた時期に、その偉業を顕彰しようと出版されたものである。2巻からなる合冊本で、第1巻は1698年初版(彼の没後3年目)、1706年第2版(新しく発見された曲を追補)である。第2巻は1702年初版で、第1巻(初版)を補完するものとされている。大型、フルカーフ革装の重厚な書籍で、まさに稀覯書と言って良いだろう。第1巻にはパーセルの肖像画とともに、未亡人フランシス・パーセルの献辞、ジョン・ドライデンのパーセルへの頌歌:Ode他、彼の師であったジョン・ブロウ、多く友人の弔辞が掲載されている。第2巻にはロンドンの著名な音楽出版人であったHenry Playfordの献辞がある。この後も1711,1712,1721年と改訂が続けられた。本書は彼を悼む人々によって生まれた、いわばパーセルメモリアル歌曲集となっている。彼の34年という短い生涯における作品の全てが明らかになっているわけではない。特に初期の作品はほとんどが散逸しており、今回紹介する「歌曲集」も、晩年の5年分の作品を集めたものだと言われている。本書も先述のように、追補、改訂が繰り返されており、いまだに研究者のあいだで。作品の発掘と整理が行われていている。Zナンバーでパーセル作品の整理を図ったアメリカの音楽学者フランクリン・ツィンマーマン:Franklin Zinmermanの研究が有名だ。彼は新たに発見された作品にはZNを付している。これからもZNナンバーの作品が次々と世に出ることを期待したい。

ヘンリー・パーセル:Henry Purcell (1659-1695) はいまだに謎に満ちた作曲家である。生まれはロンドン、ウェストミンスター近辺らしいが生い立ちもはっきりしていないし、あれほど人々に衝撃を与えた突然の死の原因も明らかでなく諸説ある。彼が生まれたのはイギリス激動の17世紀、清教徒革命のクロムウェルの共和制時代末期である。父と叔父がウェストミンスター大聖堂と宮廷合奏団の演奏者であったらしく、9歳頃に王室聖歌隊の一員となり音楽指導を受けたという。1674年、15歳の時にはウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者で作曲家のジョン・ブロウ:John Blowに師事し作曲をはじめた。しかしこの頃の作品はほとんど残っていない。1677年、王政復古でフランスから帰還し、即位したチャールズ2世の抜擢で、なんと18歳で王室弦楽合奏団の専属作曲家兼指揮者となる。国王の目に留まるのだからよほど才能が光っていたのであろう。また師匠であるブロウの後任としてウェストミンスター大聖堂のオルガニストにも就任。チャールズ2世は、王政復古とともに、衰退していたイングランドの音楽の復興に力を入れ、パーセルの才能を見出したと言われる。パーセルもこの頃チャールズ2世のためのOde:頌歌や、Anthem:讃歌を盛んに作曲し、さらに『Theodosius』などの大作を発表する。この時期が彼の全盛期で、主に宮廷向けの頌歌、祝祭音楽、中でもSt.Cetilia祝祭曲、宗教曲などを次々と作曲し名声を高めていった。1689年には彼の唯一のオペラ『ディドとエネアス:Dido and Aeneas』のロンドン初演が行われた。また1691年にドライデンの劇詩にパーセルが演劇、管弦楽、合唱、独唱をつけた「アーサー王:King Arthur」はセミ・オペラ作品として好評を博した。1688年の名誉革命で即位したメアリー2世には誕生日や祝祭のたびに曲を献上した。1694年のメアリー女王崩御にあたっては、パーセルはその死を悼んで頌歌を献じ、葬送曲を作曲したが、その翌年1695年に彼も新しい世紀の到来を待たず短い生涯を閉じた。17世紀イギリスの音楽界に彗星のように現れた天才は、新世紀を見ることなくあっという間に時代を駆け抜けて行ってしまった。どこかモーツアルトを彷彿とさせる天才の生涯であった。

現代においてイギリスの音楽家といえば、ビートルズが圧倒的存在感を放っているが、クラシック界では(ビートルズもすでにクラシックの域に入っているが)、20世紀のベンジャミン・ブリテン:Benjamin Britten (1913-1976)とパーセルくらいしか思い浮かばないだろう。ヘンデル:George Friedrich Haendel (1685-1759)はドイツ生まれでハノーバー朝イングランドに帰化した作曲家であり、確かに英語のオラトリオ『メサイア』の作曲家としてイギリスでも親しまれているが、厳密な意味でイギリスの音楽家とはみなされていないだろう。ブリテンはパーセルの曲を青少年向けに翻案した作品が多く、パーセルあってのブリテンと言っても過言ではないだろう。そういう意味ではパーセルこそイギリスを代表する古典作曲家と言って良い。惜しむらくは、あと2〜30年長生きして18世紀にも活躍していれば、宮廷向けだけでなくオペラや劇用音楽にその作品の領域を広げ、さらにバロックの大家としての名声を得ていたであろう。残念ながら日本ではあまり演奏もされないし歌われることも少ない。評伝や研究書も少なく評価が高いとはいえない。もったいないことだ。17世紀イギリスが産んだ天才音楽家の曲がもっと演奏され、聴かれても良いのではないかと思う。

今年はパーセル没後330年である。年末恒例の国民行事「紅白歌合戦」もほとんどが知らない曲になってしまった今、そして世界中で「神の摂理」と「人間の理性」が混沌として先行きが不安なゆく年くる年を、パーセルにどっぷり浸って過ごす。オリジナルの楽譜と歌詞を参照しながらパーセル三昧でCDを聴く。しばしの心のデトックス。亦楽しからずや。




フルカーフ革装の大型本である 2巻合冊

第1巻第2版表紙

第2巻表紙

ジョン・ドライデンの追悼詩:Odeが掲載されている

歌曲リストと楽譜




Jill FeldmanによるOrpheus Britannicus歌曲集CD

YouTubeチャンネルで視聴できるHenry Purcell Orpheus Britannicus