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2012年1月22日日曜日

下関・長府散策 ー長門國國府のその後ー

長府は今や下関市の一部になっているが、その名の通り、奈良時代に長門國の国府がおかれた所で、府中とも呼ばれた時代もある。この町には思った以上の多彩なドラマと豊かな時間が流れている。

戦国時代の中国地方の覇者、毛利家は、関ヶ原の戦いではで石田三成の西軍に立っていた。毛利輝元は西軍総大将に祭り上げられていたが、戦況を模様眺めて、家康軍と一戦を交える事は無かった。しかし、戦後は、その敗者としての処分を受け、長門、周防二国の領主に減封されてしまう。藩庁は,大内氏が築いた小京都、山口ではなく、日本海側の萩に置いた。この時、長門の国府,長府は、毛利分家の知行地、長府藩として成立。面白いものだ、長門國の国府が長州藩の支藩として幕末まで続く事になる。

長府は武家屋敷街の続く美しい町だ。毛利家の長府屋敷はじめ長府庭園、毛利家の墓所がある功山寺、忌宮神社(長門國國府趾ではないかと言われる)など、武家の町としての歴史が今に息づいている。町を歩いてみると、古い武家屋敷はかなり改装されて、今風の建物に立て替えられている所が多いようだが、昔の土塀が復元され、あるいは修復されて、武家屋敷街としての景観がよく保たれている。萩ほど観光客が押し掛ける所ではないが、俗化されていない風格のある町だ。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」で出てくる、乃木希典将軍はここ長府藩の出身であり、隣の徳山藩出身の児玉源太郎との203高地攻略を巡る確執、いや友情?が話題になっている。地元の人に言わせると,司馬遼太郎の乃木像は少し納得がいかないようだ。ここに乃木将軍の幼少時代を過ごした旧邸が保存されている。2部屋に土間が付いた質素な家屋だ。ここで父母から漢籍の薫陶を受ける稀典の少年時代の姿が人形で復元されているが、あの頃の日本人は、このような極めて質素、いや貧乏な生活の中でも、漢籍の素養を身につけ、武道に励み、来るべき時に備えて日々、身辺簡素に生きていたのだ。資料館には乃木将軍ゆかりの品々が陳列されている。

この旧邸の隣には有志により、乃木神社が創建されており、今では地元では学問の神様としても崇敬されているという。このように長州藩の中にあっても、その支藩のあまり恵まれたポジションにあったとは言えない乃木であったが、こういう境遇の中から明治日本を引っ張るエネルギーが生まれてきた,その原点を知ることが出来たような気がする。まさに坂の上に雲があった時代の立身出世物語だ。

長府には功山寺という禅寺がある。鎌倉時代の創建と言われ、鎌倉の円覚寺にも似る唐風仏殿を持つ寺である。
ここは毛利家の墓所であるが、明治維新前後ののいくつかの重要な出来事の舞台となった所でもある。まず、高杉晋作が、藩内の俗論派に対して決起したその場所である。功山寺決起、回天義挙と呼ばれている。有名な高杉晋作の馬上像はここにある。そしてもう一つは、幕末、三条実美など政変で京を落ち延びた七卿のうち五卿がこの寺にかくまわれた。その後、さらに七卿は筑前太宰府へ落ちる事となる。いわゆる七卿落ちの舞台だ。

功山寺の境内には下関市立長府博物館があり、ここでも明治維新にまつわる興味深い展示が目を引く。坂本龍馬の「船中八策」、「日本を今一度洗濯いたし候...」の原文が特別展示されていた。また、一昨年の大河ドラマで、坂本龍馬が京都で長州藩の用心棒に護衛されていたとして、長府藩出身、槍の三吉慎蔵の名が出ていたが、ここの展示資料によると、彼は龍馬の単なる護衛ではない。長府藩が生んだ維新の志士の一人である、という解説が,延々と書き記されていた。維新後の三吉慎蔵は故郷の長府へ戻り、大官を望まず静かな余生を送ったとされる。

大河ドラマ「龍馬伝」は司馬遼太郎の作ではないが、戦後の司馬遼太郎史観が、まるで日本史の常識、定説であるかのように受け止められている事についてはいろんな異論、反論、オブジェクションが出されている。例えば、薩長連合についても、当時の尊王攘夷運動の急先鋒の一つであった筑前福岡藩(筑前勤王党)の役割はほとんど看過されている。加藤司書、月形洗蔵、野村望東尼など筑前勤王党の名は何処にも出て来ない。福岡藩内の佐幕派に粛正され,ほぼ抹殺された彼等の活躍と、維新に果たした役割は歴史の表舞台から消えかかっている。長府藩という長州の中でも比較的小さな藩の視点から見ても、維新の立役者の位置づけについていろいろな意見があるのであろうと思う。

関門海峡は、平家が滅亡した壇ノ浦や安徳帝を祭る赤間宮。宮本武蔵/佐々木小次郎が戦った巌流島などの各時代の名所が多い。日清戦争後の講和会議を行った下関の料亭春帆楼もこの近くだ。時空トラベラーにとっては思った以上に訪ねたいスポットが多い所だが、なにしろ出張ついでの通過では時間に限りがあり、次回に。

が、一つ思いを馳せるのは、目の前に広がる、彦島だ。幕末の尊王攘夷運動の急先鋒であった長州藩が、下関で関門海峡(馬関海峡)を通過する四国艦隊に砲撃を加え、逆襲されて敗戦したいわゆる「馬関戦争」の現場である。フランス、イギリスの戦争博物館には様々な彼等の帝国主義戦争で獲得した戦利品の数々の展示があるが、その中に日本からの戦利品も並んでいる。一つはこの四国艦隊砲撃事件の時、下関砲台を占領した連合国が奪った長州藩の大砲。もう一つは薩英戦争時の薩摩藩の大砲。日本人にとっては歴史の激動を複雑な気持ちで見ることとなる展示だ。しかし,これを境に長州も薩摩もナイーブな攘夷運動から、一段止揚された近代化による列強との対抗へと、歴史が動いた事件である。薩長が幕府に先駆けて軍備の近代化を進めれたのも,この苦い経験があるからだ。

この馬関戦争の終戦交渉時に、連合国側は、長州藩に対して、この彦島の租借権を主張した。これを、断固拒否したのが交渉に参加していた高杉晋作だったいう。高杉晋作は、自ら清國、英領香港を幕末に訪れており、日本がこのような欧米列強の植民地になる事を最も恐れたと言う。このときの現場感覚が、彦島租借要求をナニが何でも拒否しなくては、という強い思いに繋がっていたのだろう、と、伊藤博文が後日回想している。確かにその時これに同意していたら、彦島は香港島、下関半島は九龍半島になってしまい、下関が香港になっていたかもしれない。もっとも、当時の欧米列強のアジアの植民地経営の現状から見ると、中国と比べて,さらに遠い極東の日本にどれほどの植民地としての魅力を感じていたかは不明だが。

この話は,伊藤博文による後日の脚色もあるのかもしれないが、しかし、清國の現状を目の当たりにした明治の若者にとって、「植民地化」に対する強烈な恐怖心と危機感があった事だけは確かだろう。いずれにせよ、下関は、他国の領土となる事無く、捕鯨とフクと港町で有名な日本国の本州再西端の町として栄える事になる。

ふくの季節、唐戸市場で新鮮な海の幸を堪能し、小さなフェリーで、寒風吹きすさぶ関門海峡を渡り門司港へ。週末なので電車で博多へ行こうと思ったが、小倉で下車。神戸に向けて新幹線で帰途についた。

故郷の筑前博多は遠かった。

長府功山寺にある高杉晋作騎馬像