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2014年5月28日水曜日

最初の開港場 伊豆下田 〜ペリー提督が歩いた街〜


 今回は第75回黒船祭開催中である伊豆下田に出没。5月16〜18日にかけてペリー艦隊一行の下田上陸、日米和親条約下田条約締結を記念して日米友好のパレードなど、いつもは静かな下田の街が国際色豊かなお祭りで賑わう。ペリー上陸地点(Perry Point)では、下田の姉妹都市でペリー提督の出身地である米国ロードアイランド州ニューポートからは市長が出席。メモリアルセレモニーでスピーチした。また、米国陸軍座間キャンプから在日米陸軍軍楽隊、横須賀基地からは米第七艦隊軍楽隊、海上自衛隊横須賀基地軍楽隊、地元中学生、幕末の仮装行列などがにぎやかに市中パレードを行った。小さな町の狭い通りでのパレードなので観客もパレード参加者も一体となった和気あいあいとした雰囲気が醸し出されていた。米陸軍軍楽隊の「星条旗よ永遠なれ」と、海上自衛隊軍楽隊の「軍艦マーチ」が共存していて時の流れを感じさせる。沿道のおじいちゃんおばあちゃんは「軍艦マーチ」と旭日旗(軍艦旗)のパレードに手拍子。やっぱそうなんだ。たしかに血湧き肉踊るなあ。でも、パレードに参加しているアメリカ人の子供の「Konnichiwa, Minasan, Konnichiwa」の連呼に沿道からやんやの拍手。このパレード一番のかわいい人気者であった。

 了仙寺では、ペリー一行と幕府代表との下田条約調印セレモニー再現劇が観客を喜ばせていた。街中では踊りや演奏会や、ストリートパフォーマンスが繰り広げられる。通りは歩行者天国になっていて町内ごとにいろいろイベントが企画され、アメリカの水兵も焼きそば食べたり、ゲームに参加したりで、和やかな雰囲気だ。やがてパレードも終わり、静かな下田公園の展望台に登る。そこから眺めた、眼に鮮やかな新緑に包まれた下田港は美しかった。夜になると湾で花火が打ち上げられた。

 ところで、なぜ開港場第一号が下田だったのだろう。

 ペリーは1853年の第一次来航では江戸湾内の久里浜に上陸し、浦賀奉行所が接遇した。しかし、幕府の交渉一年猶予の要望を受け退去する。翌年1854年に約束より半年早く(ロシアの日本への接近を警戒したと言われている)再び江戸湾に現れ、この第二次来航では幕府が指定した横浜に上陸した。そこでひと月ほど、幕府側全権であった林大学守と交渉したのち、日米和親条約の主たる条文(12か条)の締結が行われた。これが神奈川条約だ。さらに、ペリー艦隊は早速開港地となった下田に場所を移し、実況検分をかねて滞在する。そこで残りの条文(13か条)の締結した。これが下田条約だ。

 下田は伊豆半島の南端に近い港町で、江戸からはかなり離れている。江戸時代には江戸と諸国を結ぶ回船の風待ち港として栄えた。ここには幕府の御舟番所、下田奉行がおかれ、最盛期には年に3000隻の廻船が入港したという。実際は今の下田港ではなくて、少し南の大浦に舟番所が置かれていたという。今は下田東急ホテルが見下ろす静かな浅瀬の内海だ。やがて、江戸湾内の船舶往来が盛んになると1720年に奉行所は相模浦賀に移され、下田は寂れてしまった。天保年間に入り、外国船の来航にそなえるため、再び下田奉行がおかれ、浦賀・下田体制で警備にあたるようになる。しかし、とても江戸や大阪といった主要都市との通商、幕府との交渉に便利な位置ではない。なぜ下田が選ばれ、なぜペリーはそれを承諾したのか?

 もともとペリー来航の目的は日本との交易もさることながら、太平洋を隔てて中国との航路を確保することであった。当時の米国は欧州列強に伍して中国進出をめざしていて、大西洋、喜望峰、インド。マラッカ海峡経由アジアという南回り航路に代わる、太平洋ルートの開拓に国運をかけていた。その航路上にある日本は米国船への食料・薪炭補給、乗員の休息、漂流民の救助保護拠点の確保という点で重要であった。当時の外航船は外輪蒸気船で、すでに西太平洋には多くの米国船が出没していたが、航続距離の点で途中補給拠点が不可欠であった。

 またその多くは捕鯨船で、当時、鯨油をとるための捕鯨は米国の一大産業であり、世界中の海に乗り出してクジラを捕りまくっていた。そんなときに大事な西太平洋で鎖国や外国船打払なんかしておられては困る、というのが彼らの論理だ。ペリーは日本との通商をまず狙うのではなく、まず太平洋航路確保のために、日本を開国させることに力点を置いたのだろう。捕鯨船や商船の太平洋航路における避難港、食料、薪炭補給基地としては、外洋に面している下田、箱館がむしろ適していた。ペリーも、実際に下田と箱館に実地検分に出かけてそれを評価した。

 ちなみに、アメリカ東海岸のボストンやニューポートには今でも往時を偲ぶ捕鯨博物館がある。この頃からクジラの乱獲が進み、世界の海から鯨資源が枯渇し始めたのだ。当時の日本では土佐や紀州あたりで漁民はせいぜい、小舟に乗って近海で細々と鯨をとっていた程度であった。こう振り返ってみると、かつて資源を枯渇するまで大量に捕りまくったアメリカや西欧諸国に、今更日本の捕鯨活動を非難されるいわれなど無い、とつい感情的になってしまう。ちなみに土佐の漂流民、ジョン万次郎はアメリカの捕鯨船に沖ノ鳥島で救助され、船長のホイットフィールドに伴われてアメリカで生活し、教育を受けた。その後、幕末の鎖国日本に命がけで帰国し、幕末から明治初期に活躍したた話は有名だ。という訳で、小笠原諸島まで自分の庭先のようにアメリカ東海岸を基地としたの捕鯨船が往来していた。


  ペリーはポーハタン号を旗艦とした6隻の黒船で下田に入港し、湾内に停泊した(写真は下田ロープウェーのパンフレットから)。そこから上陸し(現在Perry Pointとして記念碑が建っている場所)、幕府との交渉場に指定された了仙寺まで、軍楽隊を先頭に行進した。この間わずかに800メートルくらいの距離である。現在は川沿いに古い街並の残る下田の名所になっている。ペリーロードと名付けられている。当時のイラストレイテッドロンドンニュース、ペリー日本遠征記等の記事や挿絵に了仙寺や川や橋が描かれており、今もあまり風景が変わっていないことに気づく。

 ペリー一行は日本の実情、下田港の有用性を検分するために街のあちこちを見て回っている。「ペリー日本遠征記」には、寺での水兵の葬儀の模様や、街の物売りの様子など、仔細に記述されていて、物珍しげに見て回った様子が窺える。なかでも公衆浴場が男女混浴である様を見ておおいに驚いている(ペリー日本遠征記に挿絵がある。よほどビックリしたのだろう)。街を歩き回る際、役人につきまとわれて迷惑した話や、地元民は好奇心旺盛で、友好的に乗組員たちと言葉を交わした様子が描かれている。役人が地元民に戸を閉めて家に閉じこもっているように指示したことにペリーが抗議したことも記述されている。また食事の供応で、食前酒として出された保命酒が評判が良かったようである。今でも市内の創業100年の酒店土藤商店で売られている。元々は備後鞆の浦の名産で、老中阿部正弘が福山藩主であったことから江戸幕府にも献上されていたそうだ。下田でも奉行所が取り寄せたものだとか。

 1856年、タウンゼント・ハリスが初めての駐日米国領事として下田に着任し、玉泉寺に日本初の米国領事館が開設された。するとハリスはすぐに「領事裁判権」を幕府に認めさせて、いわゆる不平等条約の走りとなる第二次下田条約を締結した。1858年、彼が全権として交渉を始めた日米通商修好条約で、ようやく通商のための港として、長崎、兵庫(神戸)、神奈川(横浜)、新潟、函館が指定開港場となる。この条約が、日本側にとって「関税自主権」「治外法権」という課題を将来に残す不平等条約と言われるものだ。いずれにせよ、ようやく日本が米国にとって、単に港を開くだけでなく、通商相手国として登場することになった。

 当時のアメリカの対アジア戦略は、イギリス、フランス、ロシアといった列強諸国のアジア植民地進出に対抗して、中国・日本との自由貿易を推進することが戦略であった。遅れてきた資本主義国としては選択肢があまり無かったのだろう。ハリスはその交渉の全権をまかされていた。幕府は同時にイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商修好条約を締結した。「関税自主権」が日本側に無いことで、日本からの輸出品の関税は高く、相手国からの輸入品の関税は安く設定され、構造的には輸入超過で通商条約による貿易上のメリット(貿易収支黒字)が望めなかった。一方、欧米諸国からの機械や武器などの輸入品を安く手に入れることが出来たので、結果的に産業の近代化に役立ったとの見方もある。日清戦争終結後の1899年、新たな日米通商航海条約が締結され、ようやく懸案の不平等条約は解消される。

 話を下田に戻すが、下田の街には、当時外国船向けに必要な物資を提供する「欠乏所」が設けられた。薪炭・食料などの必需品だけでなく日本の特産物などの土産品も扱われていたようだ。正式の条約発効前に、入港する外国船との「事実上の交易」を許すものであった。今、その跡地は平野屋というナマコ壁のしゃれたレストランになっている(ここのハンバーグはうまい)。また、初めての外国船に開かれた港として、坂本龍馬など、維新の志士が若き日に下田を訪ねている。吉田松陰はここからアメリカ密航を企て、黒船に夜陰に乗じて乗船する。ペリーもその志を是とするも幕府役人に引き渡されている。

 しかし、下田は横浜開港の6ヶ月後に閉鎖される。わずか5年の開港場であった。もとより通商拠点としては考えられていなかったためか、外国人居留地や貿易商の進出も無かった。また、1858年の日米修好通商条約が締結されたことに伴い、ハリスは初代公使となり、下田玉泉寺の領事館を引き払って、江戸麻布の善福寺に公使館を設け、遷った。こうして開国騒ぎで歴史の表舞台に躍り出た下田はもとの静かな港町に戻った。江戸時代には、先述のように横浜村より下田のほうが活気ある港町であった。横浜は、東海道の神奈川宿ハズレの名も無き小さな寒村であった。横浜村は幕末から明治にかけて開港場として急速に開発され、欧米式の港湾設備が建設され、外国人居留地が設けられ、西欧文明の玄関口としての役割を果たした。我が国初の鉄道も新橋・横浜間に開通。いまや日本第二の人口を有する大都市に発展した。

 下田は、戦後になるまで鉄道が無く、伊東から下田までの伊豆急行線が開通したのは昭和36年(1961年)のことである。それまで天城山越えの下田街道以外、唯一の交通手段は船であった。川端康成の小説「伊豆の踊り子」の有名なラストシーン、東京へ帰る学生と、踊り子の別れのシーンはこの下田港の岸壁が舞台である。皮肉にも初めての外国への開港場となった下田も、明治の近代化、昭和の敗戦(海軍基地があり空襲は受けた)、戦後のバブル、という歴史の荒波に翻弄されることなく、ある意味取り残された感がある。かつてペリーが歩いた下田はいまは、温泉や海水浴場と文学作品(「伊豆の踊り子」「唐人お吉」)、そしてアメリカとの交流の痕跡をとどめる観光の街になっている。アメリカ人であふれかえる黒船祭のにぎわいが、一瞬、栄光の歴史のフラッシュバックのように過ぎ去って行った。



(ペリー提督上陸地。Perry Point。黒船祭のメモリアルセレモニーが開催。下田市の姉妹都市で、ペリー提督の故郷ロードアイランド州ニューポート市長がスピーチ)








(ペリー艦隊一行の下田上陸、行進を思い起こさせる。日米軍楽隊を先頭に華やかなパレードが繰り広げられる)


「HeyYou!そこで何やってんだ、パレードにも参加せずもう飲んでるのか?」




(亜米利加東印度艦隊の水兵も、今の第七艦隊の水兵のように下田上陸を楽しんだのだろう)





(下田条約を締結した了仙寺で、その日米交渉の再現劇が催される)





(昔ながらの家並が続くペリーロード界隈。ペリー上陸地点から了仙寺へ向かう通り沿いだ)



(下田公園展望台からの下田港)




(同じポイントからの古写真。大正初期の写真だとか)



(ペリー日本遠征記の挿絵。下田条約が調印された了仙寺門前あたり風景。今もあまり変わっていない。)