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2026年3月27日金曜日

NHK朝ドラ『ばけばけ』ついに最終話! 〜「期待がはずれた」のに喪失感を覚えるのはなぜか?〜

小泉八雲・セツ夫人

トミー・バストウ(ヘブン役)、高石あかり(とき役)、ふじきみつ彦(脚本)
「NHKステラ」より


NHKの朝ドラ『ばけばけ』が、本日3月27日に最終話を迎えた。

最初、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の事績を追ったストーリー展開を期待していた私には、大きく違った内容となり、終始期待がはずれたドラマであった。ハーンの多彩な著作も『Glimpses of Unfamiliar Japan』と『KWAIDAN』しか登場しないし、史実と異なる展開もあり、実際には1年しかいなかった松江時代のエピソードがあまりにも長く、端折られた時間(神戸時代、帝大時代の多く))や、ハーンに様々な影響を与えた重要人物(西田千太郎、エリザベス・ビズランド以外の、チェンバレンやメイソン、マクドナルド、大谷繞石、焼津の音吉、帝大での研究者や彼の教え子たちなど等々)にも触れられることがないまま終わった。脚本家はそんな「小泉八雲伝」や「歴史ドラマ」を意図していないこと認識させられる結果となった。しかし、「期待外れ」と言いながらなぜか毎日欠かさず視聴している自分がいた。見逃し配信もNHK ONEで観た。終わってみると、何か「読後感のさわやかさ」というか、「ニヤリとする」ウィットというか、「思わず涙する」切なさというか、取り止めのないエピソードにも良い意味で期待を裏切られた感じがする作品であった。朝ドラに相応しく一日の始まりに活力を与えてくれた。あの主題歌は、今の世相とあの時代を重ね合わせていて心に刺さる。何よりもヒロインはじめ多彩な登場人物がどれも魅力的で素晴らしいし、ベテラン、若手俳優の演技力に感動した。このドラマが才能ある新人俳優がデビューする場となったとも感じた。これほど毎日楽しみに見た朝ドラも久しぶりだ。これは文豪「小泉八雲の回顧録」ではない。小泉せつ夫人の、本当は波乱に満ちた人生なのだが、何気ない日常を描いた「ホームドラマ」なのだ。悔しいが、しばらくは『ばけばけ』ロスに苛まれそうだ。

さはさりながら、言うまでもないことであるが、ハーンは作家として、帝大英文科教師として数多くの著作そして書簡を残している。その交友関係も、喧嘩別れした人物も多かったが、日本国内外の広範囲に渡っており、それにまつわるドラマもすごく魅力的なのだ。さらに彼の死後に発表された評論など関連著作、伝記、書簡集も多く刊行されている。それ等が、このドラマではあまり触れられず描かれていないことは不満ではある。セツ夫人が主人公なので致し方ないのだろう。また別の企画でその物語をドラマ仕立てで観てみたいものだ。

私はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)ファンである。そのきっかけは、なんと言っても、学生時代に初めて訪れた出雲松江の街の佇まいが、小泉八雲の著作に情感豊かに描かれた松江の朝、松江大橋と人々の下駄の音、コメをつく杵の音などの情景描写とピッタリと重なったことであった。ハーンのファーストインプレッションが自分のそれとがシンクロしたと感じた。やはりハーンと松江は切り離せない。それから何年も経ったロンドンやニューヨークでの生活の中で、ハーンを求めて古書店を巡り、彼の古書を買い集めたものだ。彼はロンドンやニューヨークには住まなかったが、彼の地の人々のハーンへの思い入れを肌で感じることができた。ハーンはそこにいた。その後日本に帰り、神保町でも古書店巡りに勤しんだ。松江の小泉八雲旧邸にも二度ほど出かけた。杵築の社(出雲大社)にもその足跡を辿ってみた。ハーンの人生には多くのストーリーがある。それにまつわる多くの著作がある。バジル・ホール・チェンバレンとの交友関係や論争、野口米次郎のハーン弁護の評論、エリザベス・ビズランドの『ハーン全集』刊行と小泉家への支援、帝大時代の教え子たちによる『英文学史講義録』刊行など、この機会に「よきパパさん」の「文豪」「ジャパノロジスト」として事績を振り返っていただければと思い、以下に以前のブログを掲載させていただいた。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(76)ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著作と関連書籍: これまでにロンドン、ニューヨーク、東京で収集したLafcadio Hearn(小泉八雲)の著作、および講義録、評論集、書簡集を刊行年順にリストアップしてみた。彼ほどの作家になればこれ以外にも多くの著作があり、アメリカ滞在中にも翻訳や西インド諸島に伝わる伝承再話集などを発表している...

2026年3月19日木曜日

古書を巡る旅(77)バートランド・ラッセル『幸福論』The Conquest of Happiness 〜行動する知の巨人はどう「幸福」を語るのか?〜


1930年初版本

1872〜1970年
『西洋哲学史』表紙より

 "The secret of happiness is this: let your interests be as wide as possible, and let your reactions to the things and persons that interest you be as far as possible friendly rather than hostile."


3月20日は国連が定めた「国際幸福の日」だそうだ。だからというわけではないが今回取り上げる本は、バートランド・ラッセルの『幸福論』:The Conquest of Happiness。1930年初版本である。ダストカバー付きの極めて程度の良い初版本は珍しく、「ABAJ稀覯本フェア−2026」に北澤書店から出展されていたものである。日本語訳は岩波文庫から安藤貞雄訳で出ている。

20世紀の知の巨人、数学者、哲学者、平和運動家の唱える「幸福」とは? 彼自身が本書の序文で述べているように、これは哲学書ではない。深い哲学的な考察や博学な見識を述べるものではない。自分自身の経験、観察、コモンセンスからくるコメント、自分が獲得したものをまとめた読者への幸福のレシピである。良い方向に導かれるよう努力することによって不幸であると考える人が幸福になるという確信を示したものである。極めて実践的、合目的的、論理的な行動指針である点でラッセルらしい「幸福論」である。

パート1では、不幸の原因を8パターン挙げている。そしてパート2で幸福の有り様を示し解説している。まとめると、内省的、自己没頭、内向きになるのではなく、自分の関心を外(他者、社会、仕事、趣味など)に向けて自分を広げること。これに尽きるという。これは私が最近感じている、自分自身を主観的に見つめる(自分への関心を持ちすぎる)のではなく、外に向かった目を持ち、外の世界への興味と関心によって自分を客観視することと通じると、自分なりに合点している。そして個人の幸福が、ひいては幸福の社会基盤である平和につながる。

ラッセルが指摘する人を不幸にする原因の中でも、自己没頭、権力への執着、金銭欲、自己承認欲求、成功への強迫観念、被害妄想、自己陶酔。これらが自分だけでなく、他者をも不幸にする。この指摘にハッとさせられる。最近こんな人物が毎日のように世界の話題になっている。しかし、彼は世界の人々を不幸にしているばかりか、自分自身も不幸な人生を送っているのだ。いや彼が幸せかどうかなんてどうでも良いし大きなお世話だろう。ただこうした人物はあまりにも愚かで醜悪で、反面教師としても学ぶところが少ないが、少なくとも自分が、そうした自己撞着に陥らないように心がけてたいと思う。それは道徳的な意味においてだけでなく、自分の幸福感のためにも。

世界の「三大幸福論」といえば、イギリスのバートランド・ラッセル、フランスのアラン、スイスのカール・ヒルティと言われているようだ。もっともこれは「三大ナントやら」が好きな日本だけのようだが、それだけラッセルの『幸福論』は日本で人気がある。そもそも、「幸福とは何か?」「幸福になるにはどうしたら良いのか?」「不幸から逃れるには?」こうした「幸福論」には個人的にはあまり興味がなかった。どこか高いところから見下ろすような教訓めいたお説教や、徳育科目的なあるべき論、精神論を聞かされるのは苦手である。あるいは手軽な「自己啓発本」「ハウ・ツー本」として取り上げられがちで、あまりこうした本を読む気がしなかった。しかしラッセルのそれは異なっている。彼自身の生い立ちからくる個人的な体験と、数学者、哲学者、平和運動家としての活動の中で彼自身が見出した「幸福論」である。そもそも敬愛するラッセル自身の生き方に興味を抱いていたので、彼自身の思想と行動の背景を知る上でも興味深い。大きな社会的課題や企画に挑戦し成功する達成感と喜びは、それが人にどう評価されるかとは関係なく、我欲への執着によって名誉や利得を得ることより遥かに幸福である。それをラッセルは言葉だけでなく実践で示している。原題は「The Conquest of Happiness」:「幸福の制覇」。彼の幸福論は「どうしたら自分に幸せがやってくるか」ではなく、「幸せは自ら獲得しに行くもの」であるとする。「行動する哲学者」の実践的な行動指針である。まさに「幸せは歩いてこないだから歩いて行くんだね」。あの歌は深い意味を持っていたのだ。

私がラッセルに最初に触れたのは、学生時代、1970年代前半である。学生運動、反戦運動、反体制運動が盛んであった「孤立を恐れず連帯を求めて」の時代であった。私にとってラッセルは、哲学者であるとともに行動する人、すなわち、反ナチ、反ボルシェビキ運動、核廃絶運動(ラッセル・アインシュタイン宣言)、ベトナム反戦運動(戦争犯罪法廷)に積極的にコミットし、発信、行動して行くその姿に共感してのことであった。当時の全共闘など反体制運動家にとってはラッセルは体制内思想家とみなされていたのだが、英国貴族で数学者で哲学者で、生涯二度の投獄を経験した行動する知性という彼の生き様はとても戦闘的で魅力的あった。著作としては『ラッセルは語る』1964年みすず書房に始まり、『ベトナム戦争犯罪』1967年河出書房、そして大学のリーディングリストの『西洋哲学史』1956年みすず書房に至る。私にとってはそんな出会いのラッセルであったから、遅まきながらこの歳になって彼が「幸福」について著作を残していることに改めて気づき、手にしてみるとそこにも新鮮さを覚えた。しかも1930年初版。世界が世界大恐慌に始まるカオスに向かう時代の著作である。100年後の今、歴史が繰り返されて再び世界がカオスに引き込まれてゆく事態を目の当たりにして、「幸福」と「平和」の実践に指針を与えてくれる。彼の世界に向けての発信と行動は、まさに彼の「幸福の制覇」の実践であった。

年齢を重ね、社会の第一線から退いてふと我が人生を振り返るとき、若き日に感銘を受けた人物の著作との久々の再会は、ことさら懐かしく、一方であの時には気づかなかった新しい視点を与えてくれる。そしてその古典は新鮮な輝きを放つものだ。この時期の「内省」が来し方の後悔や老人性の愚痴、あるいは執着に変わりがちな時に、自分の閉じた心の外に無限の知られざる世界が広がっていることを知る。企業人としての役割は終わっても、まだやることはいっぱいある。そのことに気づくこと。これぞ「幸福」と言わずして何を「幸福」というのだろうか。自分がわかったつもりでいる世界が、お釈迦さまの掌(たなごころ)の上の話に過ぎないことに気づいた孫悟空の心持ちだ。










2026年3月14日土曜日

「ABAJ 国際稀覯本フェア−2026」:ABAJ International Antiquarian Book Fair 2026 に行ってきた

2年ごとに開催される恒例の稀覯書(貴重な古書)の国際的なフェアーが東京有楽町の交通会館で開催された。今年は海外6カ国12社を含む37社が出展している。いかにネット時代、デジタル時代とはいえ、100年1000年単位の古書は不滅である。いや電子媒体全盛になればなるほど活字と書籍は歴史的文化財になる。大事にしてゆかねばならない。会場は大勢の参加者で溢れる盛況ぶりである。そういう人が多くいることは嬉しい。

今回特に目立ったのは、海外からのバイヤー、外国人古書マニアの参加が多かったこと。欧米系の彼らの「爆買い」がこうしたトレードショーを活性化させているようだ。私が狙っていた17世紀イギリスの経験論哲学の古書は、タッチの差でまとめ買い欧米バイヤーによって買い取られてしまった。結構な値段の古書だが、彼らにとっては「お買い得」なのだろう。本国で仕入れるよりも日本で安く仕入れてニューヨークやロンドンで高く売る。「爆買い」は不動産だけではない。

かつては日本マネーが海外でアンティークや貴重な古書を買い漁っていたものだ。また日本で開催されるこの種のフェアーは、日本マネーを狙って海外の出展者が殺到したものだ。しかし長いデフレと円安で、今や「日本」は海外バイヤーによって買い漁られる国になってしまった。彼らから見れば、かつての「ジャパンアズナンバーワン」によって海外流出した「文化財」の買い戻しである。博物館クラスの古書、稀覯書やアンティーク、美術品、ビンテージものの市場動向、マネーの流れは国の経済パワーの盛衰をよく反映している。ここにも日本の経済パワーの凋落ぶりが現れている。それに伴って文化力が低下しないことを祈りたい。それを肌身で感じた稀覯書フェアーであった。


20256年版カタログ

いつもお世話になっている神保町の「北澤書店」のブースで

エントランス
開場直後は入場規制があった

(会場内の撮影は原則禁止)