ページビューの合計

2018年5月22日火曜日

多武峰妙楽寺に新緑を愛でる 〜なぜ談山神社なのか〜



 談山神社として知られる多武峰の妙楽寺は、645年の乙巳の変の功労者、中臣鎌足、のちの藤原鎌足の菩提を弔うために、唐から帰国した鎌足の長男、定慧(俗名:中臣真人)が678年に創建した仏教寺院である。

 実は、こんな短い説明の中に、我々が習った日本史の常識を覆す様々な矛盾やエピソードが潜んでいる。まず、第一に何故、仏教寺院がいま神社と呼ばれるのか。次に、何故、崇仏派の蘇我氏を滅ぼした廃仏派の中臣氏の鎌足の菩提を弔う「寺」なのか。そして、乙巳の変の功労者、鎌足の長男がなぜ仏僧になったのか。

 この三つの「何故?」を説明しよう。

 1)創建以来、妙楽寺はずっと仏教寺院であった。神仏習合で境内に社が設けられていて、江戸時代にいまの本殿に改修されてはいるが、基本は寺であった。「神社」になったのは明治の廃仏毀釈、神仏分離令以降のことである。神社としてはとっても新しい。社格は別格官幣社。すなわちここは1200年仏教寺院であった。しかし仏僧たちは還俗し、妙楽寺は突然「談山(たんざん)神社」となった。その「談山」の由来は、中大兄皇子と中臣鎌足がここ多武峰の山頂でクーデターの密議を交わしたことから「談らい山」すなわち「談山」と後世呼ばれたことに発する。仏塔である十三重塔や講堂、金堂のある伽藍配置など、どう見ても神社には見えない作りはこうした事情による。しかし、ご本尊はどこへ行ったのか?明治の廃仏毀釈で破却されてしまったのだろうか。

 2)蘇我氏=崇仏派、物部氏/中臣氏=廃仏派、と二分法で対立軸を描く歴史を学ばされた我々は、神祇職の家系で廃仏派の中臣一族。その鎌足の「菩提寺」妙楽寺と言われた途端、理解できなくなる。しかし、世の中は、そんな二分法で説明できるほど単純ではない。確かに鎌足の属する中臣氏には中臣鎌子のように蘇我氏と対立した強硬な廃仏派がいた。しかし鎌足自身はどうであったのか。蘇我入鹿の専横に反発して、中大兄皇子に接近して、クーデターを実行したのは間違いない。しかし、彼が廃仏を主張していた証拠はない。少なくとも天智帝の時代に彼が廃仏派であったとは考えられない。その長男、定慧は仏門に仕える身となっているし、さらに次男、不比等は、平城京における聖武帝の東大寺の造営、法隆寺の再建、藤原一族の氏寺興福寺造立などを支援する、奈良時代の仏教文化のパトロンといっても良い。ちなみに蘇我氏も蝦夷、入鹿という蘇我宗家は乙巳の変で滅ぼされたが、同じ蘇我氏でも蘇我倉山田石川麻呂は鎌足に誘われて中大兄皇子につき、のちに孝徳帝の右大臣にまで昇進している。むかし教科書で習った「常識」をそのまま鵜呑みにしてはいけない。その多くが新事実発見により書き換えられている。

 3)藤原氏の始祖は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であるが、その一族繁栄の基礎を築いたのは藤原不比等である。いわば、現代まで続く藤原ファミリー創業者ともいうべき不比等は鎌足の長男ではなく次男である。長男、定慧は僧になり、遣唐使に随行する留学僧として唐に渡る。なぜ鹿島神宮、香取神宮の神官の家系と言われ、天智帝政権の内臣であった鎌足の長男が仏僧になったのであろうか。なぜ藤原氏の家督を継がなかったのか。諸説あるが、鎌足が先進文化を取り入れることのできる遣唐使になるには留学僧になるのが一番だと考えたからとする説がある。すなわち鎌足が天智朝の内臣として外交に携わったことから息子を唐に出し、一族の権力基盤を強固なものにしようとしたと説明する。しかし、どうも納得できる説明ではない。天皇親政を目指した天智帝の時代は、同時に唐/新羅との白村江の戦いの敗戦で国家存亡の危機に瀕した時代であった。鎌足はその臨終の床で天智帝の見舞いに、武人として国家に貢献できなかったことを詫びたという。彼は、次男の不比等のような朝廷内で権勢を振るう藤原一族を夢見てはいなかったのではないかと思う。鎌足にとって不比等はある意味では不肖の息子だったのかもしれない。むしろ学問僧となった長男、定慧こそ自分が思い描いた跡取りの姿だったのかもしれない。

 いま、談山神社、多武峰は新緑が美しい。見事としか言いようがない。秋の紅葉も美しいが、この5月の風薫る談山神社はさらに美しい。日本の古代史の画期となった事件の密議の場として、その企ての功労者の菩提を弔う寺として、今に名を残す多武峰妙楽寺/談山神社であるが、いまは緑の大海に揺蕩う数々の堂宇の朱色がただただ美しい。そこは仏も神霊も共におわす無辺の宇宙。この穏やかで、心洗われる景観のなかに佇む自分が、時空を超えて旅する人間の一人であることを感じざるをえない。

 このあと、そんな神域をあとにして、険しいけもの道を下り、権謀術数渦巻く現実世界、飛鳥に向かった。中大兄皇子も鎌足も、かたらい山でのクーデタ計画密議ののちこの道を下ったのだろう。上集落、細川集落あたりまで来ると、ようやく里の風景となる。本来ならそろそろ棚田に水を張り田植えの季節と成るのだが、今年はまだ早かったようだ。田おこしを始めたばかりのようだ。稲渕方面を展望してもまだ棚田に水面は見えない。やがて蘇我氏の奥津城、石舞台古墳、都塚古墳のある飛鳥に降りてくる。あのクーデターの現場となった飛鳥板蓋宮はすぐそこにある。日本の古代史における国家創生の胎動はこの狭い奈良盆地の南東の一角、多武峰山麓で起こった。



藤原不比等像
藤原鎌足像




























多武峰から飛鳥へ

けもの道途中の野仏群

気都和既神社
上集落「もうこの森」

細川集落

棚田に水が張られ始めた

伝統的な大和棟の古民家
アザミ
飛鳥の都塚古墳
最近の調査で蘇我稲目の墓ではないかと言われている。
近くには蘇我馬子の石舞台古墳がある



岡寺

(撮影機材:Leica SL + Vario-Elmarit 24-90 ASPH)