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2018年5月12日土曜日

九州大学伊都キャンパス探訪 〜懐かしの我が母校...なのか?此処は〜

九州大学伊都キャンパスエントランス


 私は昭和49年に九州大学を卒業した。法学部である。あの箱崎キャンパスのはずれに佇む雑然とした統一感のかけらもないツギハギ校舎の貝塚キャンパスが我が青春の学び舎である。西鉄電車の九大中門下車1分。かつて帝国大学時代には箱崎メインキャンパスの正門前に威風堂々たる重厚な法文系本館が聳えていた。戦後その創学の地を捨ててこんな場末の隅っこに移ってしまった。なんでこんな風格も何も感じないオンボロ校舎に移ったのか。しかしその貝塚キャンパスも今年で閉鎖だそうだ。本年中に新キャンパス、伊都キャンパスに移転する。すでに法文系キャンパスも整備されていて、立派な研究棟群とデザイン的にも地形に合わせた斬新な中央図書館が完成している。隔世の感ありだ。

 私が入学したのは昭和44年。計算が合わない?そう一年留年した。60年代後半から70年代、この時代、大学紛争真っ只中。いわゆる全共闘世代。大学紛争戦中派である。そもそも私が九州大学に入学したのも、東京大学が入学試験を中止したからだ。あの安田講堂攻防戦のあとで、とても入学試験をやれる状況ではないという判断。前代未聞の出来事ことだった。受験生は慌てた。急遽、受験校変更を余儀なくされた。京大や東北大、九大、一橋大などに変更した。あるいはどうしても東大へ!という者は浪人を選んだ。私は周りの勧めもあって地元の九大受験に変えた。父はとりあえず地元の九大に入っておけ。嫌なら来年受け直せばいい。そんなことにはならなかったが。もっともあのまま東大受験して一発現役合格したかどうかは別問題だが。

 しかし、思いがけず入学した九州大学だって混乱に極みであった。まず入学試験は六本松キャンパスの教養部校舎で第一日目は無事終わったものの、二日目の試験に出かけたら、校舎が全共闘学生に封鎖されていた。急遽九州英数学館という予備校に試験会場が移され行われた。入学しても初日から大波乱。箱崎キャンパスの記念講堂で挙行された入学式。総長挨拶やってる途中で全共闘の学生が窓ガラス叩き割ってなだれ込んできた。「入学式粉砕!!」そのまま入学式は粉砕され流れ解散。なんてこった!

 教養課程の授業が始まった六本松キャンパス。一月も経たないうちに学園封鎖。半年後に機動隊導入で封鎖解除。そそくさと補講を受け、試験を受けて進級させられた。したがってろくに勉強などしてない。そうして2年生から法学部専門課程、あの貝塚バラックへ移動。これがあの美濃部達吉博士が創設した九州帝国大学法学部の成れの果てか。ボロボロの校舎で、飛行機の騒音に悩まされながら講義を受けた。一年の自主留年ののちに卒業。卒業式はなかった。卒業証書は法学部事務室に取りに行った。

 なのになんで一年留年してまで九大にいたんだ。バイトやサークル活動にうつつをぬかすのではなく、講義とゼミと図書館通いに明け暮れた。大学院に進学して研究者になろうと考えていた。しかしなんだか、味気ない砂を噛むような学生生活だった。虚しさを感じる毎日であった。こんなところでこんなことしてて本当に社会科学を勉強したことになるのか。世の中のことも何にも知らないのになんで民事訴訟法や破産法を勉強しているのか。刑法や刑事訴訟法の理論が頭に入らないのは当然だろう。会社法や手形小切手法が実感として身に響かない。取締役も監査役もやったことない。手形も小切手も見たことないのだから。私はアカデミズムと理論に共鳴しひらめく天才ではない。実経験にてらしてしか物事を理解できない実証主義的人間だ。観念論は苦手だ。法律学、とくに法解釈学は実務研究が中心の筈だが、いかんせん社会の仕組みも、そこに生きる人の生活も何もわかっていないのだ。そんなまま「社会」科学の研究者になる。なんかおかしくないか。少なくとも私のような凡人には無理だと感じ始めた。ただ、憲法と国際公法、法理学だけは興味深かった。こっちは「パンのための学問」ではないからだろうか。先生方が素晴らしかった。学問として純粋に楽しめた。

 もう一つは理系の研究スタイルと文系の研究スタイルの違いに驚愕した。今となっては世間知らずもいい加減にしろ!であるが。父は九州大学の薬学の教授であった。戦後、東大から九大に薬学部を創設するためにやってきた初代若手教授陣の一人である。小さい時から父の背中を見て育ち、堅粕の医学部キャンパスに遊びに行っていた私は、薬品の匂いと実験設備に囲まれた父の研究室、これが大学の研究だと思っていた。自然科学的な合理性が明快であった。教室の若い研究者、学生の熱気とキラキラした目を子供心に感じていた。憧れた。多くの学生は大学院修士、博士課程に進み、教授、助教授、助手とチームを組み研究に没頭する。いわゆる、教室、講座制である。産業界との共同研究も盛んに行われた。いわゆる産学共同である。全共闘に徹底的に糾弾されたアレである。しかし、法学部の研究は全く違うことに気づいた。教室も講座制もない。みんな一人一人勝手に研究する。研究室とは名ばかりで、殺風景な部屋に机と椅子が無造作に転がっているだけ。図書館だってない。もちろん薬品の匂いも実験設備もない。そもそも教員も学生も大学に出てこない。どこにいるのやら。まして産学連携なんてない。なぜか実社会から隔絶された世界だ。法曹に進む連中は、司法試験対策に追われていて大学にはでてこない。そもそも大学院へ進学しようなんて奴はいないし、大学の方も毎年「若干名」しかとらない。終了しても博士号が取れるとは限らない。しかも大学院出ると就職できないというおまけ付き。

 のちに在外研究員制度で海外留学させてもらいロンドン大学LSEの経済学の修士課程に学んだ経験にてらすと、そもそも大学院は、公務員になるにしても、ビジネスマンになるにしても、研究者に成るにしても、キャリアアップのためのコースである。米国のビジネススクールやロースクールがそうであるように、さらに勉強して修士や博士を取得し、より専門性を深めてキャリアップするために行くのだ。もっと下世話な言い方すると、より良いポジションと待遇と収入を得るために行く。然るに日本の大学院はどうなっているんだ。博士号もとれないのなら海外からの留学生など来るわけもない。

 自分の思い描いていた「あるべき姿」と現実のギャップの大きさに、なんか絶望的な気分であった。で、一年留年したが、大学院進学をスッパリ辞めて就職した。今にして思えば正解であった。あのまま大学に残っていたら、こんなに豊かな社会経験と充足感を得られていただろうか。世界を知り視野を広げ目線を上げることができただろうか。実社会は建前だけで動いているわけではない。裏も表も、清も濁も。もちろん世の中の理不尽や挫折感やストレスを背負い込む人生の小径をさまよい歩く日々ではあったが、いろんな人と出会い、様々な人生を知り、価値観の多様性を知り、経験と知見を得ることができた。もちろんまだまだ未熟で、この歳になって感じるのは、なお「日暮れて道遠し」ではある。が、少なくともいまなら会社法も民事訴訟法も契約法、行政法も実務として違和感なく接することができる。社会科学系の大学の研究というのは、むしろそうした実社会での経験を積んだのちに大学に戻って行うほうがいいのではないかとすら思う。

 今回、ある国際会議でのモデレータを仰せつかって、久しぶりに我が母校、九州大学に出かけた。あたらしい伊都キャンパスの椎木講堂という巨大な産業近代化遺産のような施設で行われた。来てみてビックリした。ここはあの古色蒼然たる箱崎キャンパスやバラック校舎の貝塚キャンパスとは別世界の真新しい高層建築群が立ち並ぶ新開地だ。近未来的な研究学園都市っぽい雰囲気も漂わせている。しかし、私の昔の固定観念では糸島という田舎の山奥の閉鎖空間である。なんでここに九大があるんだ。私は「母校」という言葉に騙されて異空間に放り込まれた浦島太郎だ。いや、ここはあの九州大学ではない。私の母校ではない。どこか筑波学研都市に移転した某大学然とした全くの新設大学だ。

 この国際会議自体は、九州大学の外国人の教員によりオーガナイズされ主催されている。参加者は世界20カ国から集まってきた。この糸島に... 発表者やパネラーは日本人もいるが多くは海外大学からの研究者、国際機関の職員、企業の実務者。九大からの大学院生も半数以上が外国出身(いわゆる留学生)。当然プレゼンテーションも、ディスカッションも、同時通訳なしの英語。九大の日本人教員も全員素晴らしい英語プレゼンテーション能力を発揮している。九大も国際的になったものだ。この50年で大きく変わったと感じる。この伊都キャンパスはそんな新生九州大学にふさわしいステージ、プラットフォームとして用意されたのだと考えればなんとなく納得できる。

 それにしても、あの時代を知っているものにとっては、ここには50年前の学園紛争の残り香もない。帝国大学の伝統やアカデミズムも感じない。バンカラ学生の高歌放吟の声もなく、「三池闘争」「総資本対総労働の戦い」の左派idéologueの熱き血潮も影を潜め伝説と化してしまった。大型電算機センターに突き刺さった米軍のファントム戦闘機もない。全てを過去に置き去りにして、箱崎と貝塚キャンパスに封印し、もろともに捨ててきた。そんなものはノスタルジアだとあざ笑うように、過去と決別してあえて別物に生まれ変わろうとしているようにすら見える。大学というものは、器を変えることでビジネスのようなパラダイム転換を必要とするものなのか。アカデミアは常に先端的でイノベーティヴであるとともに、持続可能な智の殿堂としての歴史、アカデミズムの伝統が息づく世界であってほしい。創業何百年という長い歴史を持つ醸造所に住み着くアスペルギルス・オリゼが醸し出す芳醇な酒を、真新しい醸造所で期待できるのだろうか。九大百年という節目のキャンパス移転だという。熟成にはもう百年かけるつもりなのだろうか。そうなると、砂を噛むような味気なさと物足りなさを感じたあの学生時代がむしろ懐かしくすらある。

初代九州帝國大學総長
山川健次郎像
このキャンパスを睥睨しながら何を思っているのだろう
理工系研究棟群

椎木講堂
大學本部

法文系キャンパス


法文系研究棟群


大学中央図書館





椎木講堂エントランスホール
このガランとした感じはなんなのか...

椎木講堂内部
産業近代化遺産のような佇まい
ここに大学本部も入っている


学生の足は自転車
しかし山坂のあるキャンパスには辛い