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2019年5月14日火曜日

ボート遊びだけではない洗足池の物語

洗足池



 子どもの頃の思い出には色々あるが、ボート遊びは父親との思い出につながることが多い。私の場合も、父親にボート乗りに連れて行ってもらった思い出が遠い記憶に刻まれている。福岡の博多湾岸の今川橋育ちなので、夏の百道(ももち)の海水浴場のボートを思い出す。樋井川の川向こうに海水浴場があったので父がまずボートを借りてきて、川のこっちで待っている私をギッチラコッと漕いで迎えにきてくれたものだ。小学一年生なので堤防から乗るときにちょっと揺れて怖かったのを覚えている。生まれも育ちも東京山手の連れ合いは、洗足池のボートが思い出だという。やはり父親に連れて行ってもらったのだという。今みたいに足こぎのスワンなどなくて全て手漕ぎボートなので父親の腕の見せ所だった。我々の子供の頃は、週末の家族での娯楽といえば遊園地や水辺でのボート乗りであった。思春期になると大濠公園での甘酸っぱいボートデートの思い出になる。今の連れ合いに出会う、ずっとずっと古の昔の出来事である。もちろん今の連れ合いとも井の頭公園でのボートデートの思い出があるのだが...  まあそんな話が今回のテーマではない。

 話は洗足池のことだ。東京の城南に暮らす人々にとっては「洗足池」というと「ボート遊び」を連想するという。あと桜の名所であるがそれ以外なにかあるのか洗足池。地元の人にとってもイメージがわかないようだ。現在の住居表示は大田区千束。あたりは高低差のある地形で東急池上線沿線の閑静な住宅街である。私にはあまり馴染みのない土地柄だったのだが、連れ合いが幼少期から女子高生時代まで過ごした土地である。で、洗足池に妙に親しみを抱いたというわけだ。そんな洗足池、実は意外なストーリを持つ池なのだ。

 「千束(せんぞく)」という地名の初見は平安時代の文書だという。稲束千束の免税特権があった寺社領地があったのでこの名がついたという。鎌倉時代になるとここは日蓮聖人所縁の地となる。日蓮が身延山久遠寺から常磐國に向かう途中、千束池端の草庵「御松庵」に立ち寄ったという。ここはのちに江戸時代には「妙福寺」という日蓮宗の寺となり現在まで続いている。今は境内に日蓮聖人「袈裟懸けの松」がある。また日蓮聖人が足を洗ったので洗足池と呼ばれるようになったとも伝承されている。ありがちな地名由来であるが。このように日蓮聖人にゆかりのある場所なのだ。日蓮聖人といえば池上本門寺。その創建を担った池上氏はこの辺りを治めた有力な豪族であった。平安時代、平将門の乱を収めるために京都から派遣された鎮守副将軍藤原忠良がここの千束八幡を氏神として定住し、その末裔が池上氏となったという。池上氏は日蓮聖人を保護し、その入滅の地に池上本門寺が創建される。

 洗足池は湧水池である。4箇所の水源から地下水が流れ込んで出来ていると言われる。江戸時代には大池とか千束池と呼ばれていたようだ(広重の絵にも千束池とある)。この辺りは当時、江戸近郊の農村地域で、農産物を湧水池で洗って出荷していた。こうした遊水池がこの池上台地上のあちこちにあった。台地が海に落ちるあたりにある大井町の「大井」もこうした湧水池に由来する地名だ。湧水池や水神様の名残は高低差ファンには嬉しいランドマークだ。歌川広重の名所江戸百景にも「千束池と袈裟かけ松」として取り上げられ庶民の行楽の地であった。

 時代を下る幕末から明治。実は洗足池は勝海舟と西郷隆盛という時代を作った英雄にまつわるエピソードが残る地である。江戸城総攻撃のために進軍してきた新政府軍の本陣が池上本門寺にあった。ここに進駐してきた参謀の西郷隆盛に勝海舟は旧幕府代表として会いにきた。歴史に名高い「江戸城無血開城」の会談だ。会談は何度か行われた。歴史ドラマのように江戸高輪の薩摩藩邸で、勝海舟の談判に西郷がいきなり「わかり申した」となったわけではない。駿府における山岡鉄舟の会談に始まり幾たびかの交渉があった。ここ池上本門寺での勝海舟と西郷隆盛の会談で大方の段取りが決められたようだ。勝海舟は西郷隆盛との交渉に向かう途中、中原街道沿にあった洗足池傍らの緑濃い高台の茶屋で一息入れてから本門寺へ向かったという。ここで大きく深呼吸したに違いない。

 明治になり、懐かしさもあったのであろう勝海舟はこの地を愛し、ここに土地を購入し別邸「洗足軒」を建て終の住処とした。西郷も度々ここを訪れては勝と歓談したという。そのすぐ近くの池畔には西郷隆盛の留魂詩碑がある。西南戦争で自刃した西郷隆盛を偲んで勝海舟が自費で建てたものだ。あの歴史的偉業を成し遂げた二人の英雄が合間見え共有した時間。それを思い起こさせる史跡である。勝は西郷を、西郷は勝を深く敬愛し、西郷の死後はその遺児の育英に力を尽くすなどその遺徳を偲ぶ活動を続けた。すぐ隣には勝海舟夫妻の墓がある。海舟は死後、富士の見えるこの地への埋葬を望み、青山墓地に埋葬されていた妻の遺骨もその隣に並んで埋葬された。勝海舟と西郷隆盛。時代の画期を駆け抜けた二人の好敵手が、双方の信頼感と時代認識の共有により偉業を成し遂げた。そうした友情の証がここにある。盟友が寄り添い永遠の安らぎを得た地が洗足池だ。勝海舟夫妻の墓碑には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。

 現在、「洗足軒」跡は区立中学校になっているが、その隣に勝海舟記念館が建設中だ。旧「清明文庫」の古い建物を保存改修してして令和元年9月にリニューアルオープン予定だ。勝海舟没後、財団法人「清明会」が、海舟関連の資料/図書の収集、閲覧、講演会などの目的で昭和8年に「清明文庫」を開館した。戦後、この建物は学習研究社の所有となっていたが、平成12年に国登録有形文化財指定を受け、平成24年に大田区が土地建物の寄贈を受けた。ネオゴシック調の外観を持つ美しい近代建築遺産を生かした記念館の開館が待ち遠しい。


歌川広重 名所江戸百景
「千束池の袈裟掛けの松」

日蓮聖人「袈裟掛けの松」
妙福寺
日蓮聖人

境内の竹林の緑が爽やか

黄菖蒲の季節








名馬「池月」
源頼朝がこの地で、美しくも猛々しい名馬を見つけこれを吉兆として喜んだという伝承がある。
「宇治川の先陣争い」で佐々木高綱の騎乗馬となった「池月」だ。
ちなみに梶原景季の騎乗馬は「磨墨」。



西郷隆盛の留魂詩碑

西郷が読んだ漢詩
が刻まれている
徳富蘇峰が供えた碑文



勝海舟夫妻の墓碑

旧清明文庫
勝海舟記念館としてリニューアルオープン予定