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2020年4月10日金曜日

古書を巡る旅(1) 〜漱石「漾虚集」「こころ」そしてTHE CHISWICK SHAKESPEAREとの出会い〜

ロンドン郊外のクラッパムにある夏目漱石旧居に掲げられたBlue Plaque


古書をめぐる徘徊では、ときに思いがけない出逢いに驚かされることがある。それは時空を超えて起きるのでますますワクワクする。手に入れてから家に帰って、あれこれと調べるうちに思いがけない「物語」がその古書に潜んでいることを発見するのが楽しい。

新橋駅前で開かれる恒例の古書市は楽しみの一つである。ある時ふと立ち寄ったテントで、夏目漱石の「こころ」の大正9年第3版(大正3年の初版)、岩波書店から出版されたものを見つけた。かなり古ぼけていて、背表紙も一部が破れている。今で言う文庫本サイズで、それにしては装丁がなかなか魅力的で思わず手にとってみた。布製の表紙に荀子の言葉を引用したデザイン、見開きに題字、朱印、検印も独自にデザインされたものである。奥付きには象形模様が施されたれたなんとも素敵な本である。今では文庫本というとハードカバーもなく活字だけの簡素な「普及版」というイメージだが、こんなに凝った意匠の文庫版は初めてだ。しかも大正時代の本だ。序を読むとこの装丁は漱石自ら手がけたと書かれている。これにも驚かされた。あの漱石は文豪であるだけでなくクラフトデザイナーでもあったのか、と。この本自体が文学だけではない一個の芸術作品を目指したものであると言えるような出来栄えである。即行ゲットした。なんと千円で...


夏目漱石「こころ」大正9年第3版 岩波書店


また別の時に、同じ新橋駅前の古書市でやはり漱石の短編集「漾虚集」(ようきょしゅう)を見つけた。いまでは「漾虚集」という名称で出版されている作品は見当たらないので、一瞬、漱石の未発見の作品集かと思ったが、中身を見ると馴染みの短編が収録されている。ジャンク箱に入っていて探し出した時は驚いた。復刻版は戦後にも出版されてたらしいがオリジナル版は珍しい。この短編集は漱石の初期の出版で、ロンドン留学から帰国後の英国土産としての「倫敦塔」「カーライル博物館」など現在お馴染みの作品が収録されている。明治39年初版で、のちに版を重ねて大正7年大倉書店印刷で第4版として発行されたものが手元にあるものだ。こちらも文庫本サイズで表紙デザイン、装丁に凝り、題字や挿画が丁寧に施された魅力的な書籍である。こちらは装丁家にデザインを依頼したようで、序で謝辞を述べている。それにしても漱石は書籍の装丁には並々ならぬ関心を持っていたようだ。これはなんと五百円でゲットした。

江戸時代には挿画が豊富な読み本は多かったようだが、表紙や題字、各章のレタリングや書籍自体の装丁、意匠にこだわる動きはまだ珍しかったのではないかと思う。明治以降は書籍の装丁にも変化が現れたのだが、デザインにこれほど凝ることがあったのか。イギリス帰りの漱石はこうした本という「作品」のデザインに大いにこだわっていたようだ。


夏目漱石「漾虚集」大正7年第4版 大倉書店


しかし、話はここで終わらない。その後不思議な接点を英国に発見することになる。

神保町に北沢書店という洋書の古書専門店がある。このオンラインショップでTHE CHISWICK SHAKESPEAREを見つけた。1900〜92年ロンドンのChiswick Press発行の、いわば文庫本版シェークスピア全集である。全巻で39巻あったようだがその一部が出ていた。ウィリアム・モリス(William Morris)のアーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts)運動の影響を受け、たいへん美しく魅力的な装丁の本である。英国のデザインの先駆者の一人であるバイアム・ショー(Byam Shaw)が装丁を手がけた。表紙は布製で金箔押し(Gilt)のモリス調の植物模様が施され、中にはリトグラフによるイラストが数多く挿入されている。題字から「終わり」まで凝ったデザインの版画プリントが散りばめられている。シェークスピアの文学的な作品としての魅力ももちろんであるが、本そのものがビジュアルアート作品としての魅力にあふれたものである。古書としても人気のあるシリーズで、ロンドンのCharing Cross RoadやTottenham Court Roard, Cecil Courtあたりの古書店で時々見かける。一冊£35〜70程で取引されているようだ。全巻揃い踏みだととんでもない値がつくのだろう。これを東京の神保町で見つけるとは。不思議な縁を感じる。北沢書店もこれに目をつけるとはさすが大したものだ。このうちボチボチ買い揃えて6冊ばかり入手した。


THE CHISWICK SHAKESPEARE Chiswick Press, 1900


しばらくこれらの古書コレクションは我が家の書棚に並んでいたが、ある日ふと考えた。まてよ、漱石が文部省の在外研究員としてロンドンに留学していたのは1900年10月から1902年12月。The Cheswick Shakespeareシリーズがロンドンで刊行されたのは1900−91年。そう!まさに漱石のロンドン滞在中ということになる。しかも漱石は英文学を研究するために渡英し、ロンドン大学(University College)のシェークスピア研究者であるクレイグ(Creig)先生による個人指導を受けていた。漱石の日記によると。まだこの頃はノイローゼにはなっておらず、足繁く、先述のCharing Cross Roadあたりの書店街、古書街をめぐって本を買い集めてた時期であった。まさに出版されたばかりのTHE CHISWICK SHAKESPEAREの美しい装丁の文庫本全集にも書店で出会っていたに違いない。クレイグ先生の勧めもあってシェークスピア関連の著作を多く購入していたようだから、その中にはこのChiswick Pressのシリーズがあったかもしれない。そう思って、先述の「こころ」、「漾虚集」の装丁を眺めていると、そのこだわり意匠のルーツはロンドンで出会ったTHE CHISWICK SHAKESPEAREシリーズにあるのではないかと妄想し始めた。しかも、漱石はシェークスピアだけではなくウィリアム・モリスの信奉者であり彼の詩集を愛したことでも知られる。そうなるとますますこの「ひらめき」の接点を探ってみたくなった。

ちなみに漱石はロンドンで何回か下宿を替わっている。そのうちロンドン南西郊外のクラッパム(Clapham)に下宿していた頃の住宅に、イギリスの歴史上の著名人の旧宅に掲げられるブループラーク(Blue Plaque)が、日本人で唯一掲示されている。近くに「漱石記念館」開館したが、残念ながら資金難から閉館してしまった。あの時行っておくべきであったと後悔している。今は個人の方が自費で離れた場所に再建したと聞く。新たに開館した記念館には漱石関連の書籍が多く収蔵されているそうだ。そこにこのChiswick Press版のShakespeare全集が並んでいるのではないかと期待しつつ、いつの日にか訪ねてみたい。「文化財 守れる人が 文化人」奈良の今井町に掲げられていた標語を思い出す。

話を「漾虚集」とThe Chiswick Shakespeareに戻す。岩波文庫やネットなどで色々調べてみたが、シェークスピアや漱石の研究者、文学者の著作の中で漱石がChiswick Shakespeare全集に言及したり、これを引用したような形跡はどうも見当たらない。もちろん素人なので全ての評論や文献をあたってきたわけではないので、どこかにそうしたつながりを示唆する記述があるのかもしれない。漱石の持ち帰った蔵書の中にそれがあるのかも興味深い。

そう思っていると最近、ネット検索で英国在住の日本人のアンティークショップのサイトにこの関係を想起させる記述がみつかった。イギリスのレディング(Reading)にある「英国アンティーク英吉利物(いぎりすもん)屋」というアンティックショップの店主のブログだ。この店主は1900年版のChiswick Shakespeareの装丁を見て、それが漱石に与えた影響を直感的に感じている。そして「漾虚集」のなかに採録されている「倫敦塔」の戦後版岩波文庫の解説のなかで江藤淳氏が記述した部分を引用し、漱石が本の装丁に凝っていた様を指摘している。下記に再引用させていただく。

「この本の版元に二つの書店が名を連ねているのは、ちょっとおかしな感じがするが、それは『漾虚集』が着色版の扉や挿絵入りのなかなか凝った本だったからだろうと考えられる。つまり、大倉書店が本文を、服部書店がイラストを担当するいうかたちで、この本ができ上がったものと推定されるからである。漱石はその出来栄えに大層満足であった。 
「漾虚集」をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術の交流の場にしたいと考えていたのである。(下線は筆者) そういう由来を振り返ってみると、この文庫版が漱石の本文だけで、扉も挿絵も付いていないのは少々残念のような気がしないでもない。」(以上、江藤淳氏の解説から引用) 

そこで店主は「漾虚集」初版本がどのような装丁であったのか、国会図書館のデジタルアーカイブスの画像とChiswick Shakespeareのそれとの比較をしている。その結果、漱石が試みたデザインは、おそらくこのChiswick Press版からきているのであろうと推理している。たしかに見比べるとそうとしか思えない。たいへん面白い論考だ。まさに私の「ひらめき」を見事に解説してくれていることに感謝したい。不覚にも私は江藤淳による岩波文庫の説明文には気がついていなかった。

ところで私が新橋の古書市で入手した「漾虚集」は大正7年版(1918年)で、上述の明治39年(1906年)の初版本よりはかなり後年のものである。国会図書館のデジタルアーカイブスで見る限り、初版本の装丁は確かにChiswick Shakespeareのそれに大きな影響を受けたであろうことが見て取れる。しかし大正9年版は、初版本とはとはかなり異なっていて、装丁がより簡素になっている。とは言っても、形押し模様の入ったハードカバーと、美しくデザインされた版画による題字。それぞれの短編作品のタイトルにも挿画と装飾文字が使用されて、Chiswick版のバイアム・ショー(Byam Shaw)の影響が表れている。さらに先述の、大正3年(1914年)に岩波書店から刊行された漱石集の「こころ」の装丁(漱石自身がデザインを手がけたという)はまさにこのモリスそしてショーの影響によるものであろう。おそらくは1902年に英国留学から帰ったばかりの漱石は、モリスの詩集だけではなく、「生活と芸術を一致させる」というアーツ・アンド・クラフツの考えに共感し、このChiswick Shakespeare全集の意匠に大きな影響を受けて、それを自分の著作集に取り入れようとしたのであろう。それが1906年の「漾虚集」の初版本であった。しかし、「漾虚集」は版を重ねるごとに出版社側の事情(デザイン担当したの服部書店が抜けた?)もあり、徐々に簡素なデザインになっていったようだ。それに漱石自身は飽き足らず(序で装丁作家に謝意を表してはいるが)、「こころ」に見られる岩波版文庫著作集では自ら装丁デザインを手がけたのであろう。表紙はモリス調の植物模様ではなくて、荀子の引用や古代漢字をデザインした模様をあしらっており、日本的、東洋的なテイストである。しかし本を文学表現の印刷媒体に止めるのではなく、ビジュアル的に魅力を持つ「作品」に仕上げることに配意している点はアーツ・アンド・クラフツ運動の精神の現れであろう。序文で自分の出来栄えに満足した様子が語られているのがご愛嬌だ。

漱石は英国留学で何を得てきたのか。何を日本にもたらしたのか。様々な評論がなされているが、この書籍の装丁を大事にする。すなわち江藤淳のいう「本を文学と視覚芸術の交流の場にしたい」という考え方はあらためて見直されるべきと考える。とりわけ現在のデジタルトランスフォーメーションの波が文学作品の書籍にも及び、Kindleのような電子書籍が出現する時代にあって、文字情報だけを伝えれば良いというトレンドに抵抗するような反応が出始めている。すなわち「本そのものが総合芸術作品である」という考え方、書籍への回帰ムーブメントである。そんな時代だからこそなおさら、その源流にあたる考え方を漱石が持ち帰ったことは大きな功績であり、それを振り返る必要があると考える。ヴィクトリア朝末期、産業革命末期のイギリスに起こったウィリアム.モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が与えた影響は大きかった。漱石はまさにその時ロンドンにいてその時代の空気を吸っていた。しかし、そのモリスの芸術やデザインの根底には日本の浮世絵や琳派の影響が現れていること、そしてそのモリスは漱石や芥川龍之介、宮沢賢治、そして柳宗悦の民芸運動に大きな影響を与えたことを考えると、なかなか意味深長である。時代や国を超えて、文化は相互に交流し接点を増やし進化してゆく。




写真解説


1)夏目漱石著「こころ」(大正3年初版、大正9年第3版 東京神田神保町 岩波書店)





表紙を含む装丁デザインは漱石自身の手になるもの

荀子の言葉を掲載した題字
布製のカバーに古代中華文字のデザイン
奥付

題字と朱印

巻末のデザインにも凝った漱石



2)夏目漱石著 「漾虚集」(明治39年初版、大正7年第4版 東京日本橋 大倉書店 秀英舎印刷)


初版本に比べるとやや簡素なデザインとなった第4版
型押しによる模様が見えるハードカバー版


奥付きのデザインも素敵だ
題字は凝ったシールで

「倫敦塔」

「カーライル博物館」


3)The Chiswick Shakespeare (1900-91, Chiswick Press,  Chancery Lane, London)


Byam Shawデザインの表紙
William Morris調の金地型押しのイラストが美しい



版画プリントが随所に用いられ視覚的にも楽しめる




挿画も豊富だ

「おわり」のシールにもこだわる



全巻で39冊あったようだ



4)今回取り上げた三冊の比較



ほぼ同じ文庫本サイズ
コンパクトで携帯にも便利
どれもこだわりの装丁

ロンドンのセシルコートの古書店街
東京の神田神保町のようなところ
古地図も豊富でその場で額装までしてくれる。
週末の散策にうってつけ
Cecil Court, London