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2023年7月2日日曜日

古書を巡る旅(35)Black's Young Japan Yokohama and Yedo 〜「近代日本ジャーナリズムの父」が見た幕末・維新のニッポン〜


John Reddie Black's "Young Japan Yokohama and Yedo" 2 volumes in 1880, 1881


本書は、幕末・維新の時代に横浜を拠点に新聞発行人として活躍したジョン・レディー・ブラック:John Reddie Blackが著した「ヤング・ジャパン:Young Japan Yokohama and Yedo」である。この「ヤング・ジャパン」は、条約締結の1858年(安政五カ国条約)から、西南戦争(1877年・明治10年)1879年(明治12年)までの21年間の記録で、外交官でもなく、新政府のお雇い外国人でもない、民間のジャーナリストが見た幕末維新のニッポンを記録したものとして貴重な著作である。また、日本(横浜)において印刷出版された最初期の英語版書籍でもある。第一巻(1880年)は横浜居留地16番の彼の事務所で、第二巻(1881年)は横浜居留地70番のJapan Gazette:ジャパン・ガゼット社で印刷。横浜のKelly & Co.:ケリー社から出版された。この初版本がロンドンのTrubner & Co.:トラブナー社から世界に配本された。本書は、いわゆるプライベート・プリント本であり、このイエロー・クロスのハードカバーの初版本は現存する部数が限られているため古書としても貴重である。再版の希望が多かったため、1883年には、ニューヨークでアメリカ版が出版されている。


ジョン・レディー・ブラック:John Reddie Black (1826-1880)

スコットランドの代々名門の海軍士官の家に生まれ、彼自身も学校卒業とともに任官するが、やがてこれを辞し、1854年にオーストラリアへ移住。一時期そこで何でも屋的な商社を起こし成功するが、数年で事業をたたみ、歌手デビューする。インド、上海、香港、長崎などを公演で渡り歩く。その公演で1861年に横浜へ。横浜で新聞事業に携わることになる。彼の息子は、日本初のイギリス人落語家、快楽亭ブラックである。

彼が携わった新聞は、次の通り。

1)The Japan Herald 1861年 日本初の新聞(週刊)。長崎を拠点にした印刷出版業界の名家ハンサード家が、横浜に移り創設した新聞の共同編集人に選ばれ、主筆となって社説を書いた  横浜居留地60番

2)The Japan Dairy Herald  1863年 日刊紙に 横浜居留地28番

3)The Japan Gazetteを発刊 1867年 横浜居留地70番

4)The Far East 写真誌を発刊 1870-1875年  横浜居留地98番

5)日新真事誌 1872年 初めての日本語新聞を創刊 東京築地

ブラックはこのように新聞発行人、新聞編集者として活躍した他、各紙の主筆としても論陣を張った。日本初の日本語新聞「日新真事誌」を発行したことで「近代日本ジャーナリズムの父」と言われている。新聞がまだ日本ではいわば「ニューメディア」であった時代で、初期においては地域の情報誌といった体であったが、週刊から日刊へと本格的な新聞事業へと発展させた。当時の内外の事情を知るために不可欠な情報を提供。さらに論説により世相分析、政策批判も展開し、ジャーナリストとしての批判精神を十分に発揮している。日本人の購読者は当初少なかったようだが、福沢諭吉はこのブラックの新聞を、彼の研究、講義の情報ソースの一つとして熱心に購読し、翻訳して塾の教材とした。

幕末の日本においては、新聞社やジャーナリストといった、はっきりした業種、職業が確立していたわけではなかった。ブラック自身も、オーストラリアで事業を始めたり、歌手になったり、インド、中国などアジアの流浪の旅に出て転々としたのちに横浜にたどり着いたというのが実情で、彼が回想しているように、具体的な目的があって日本に来たというわけではない。当時の横浜居留地にはヨーロッパやアメリカから流浪の末やってきた「山師」的な人間が多くたむろしていて、ハリー・パークスやアーネスト・サトウの言葉を借りれば、「横浜居留地はヨーロッパの掃き溜め」とさえ表現される状態であった。ブラック自身も、最初は歌手としての公演でやって来ただけで、特に日本に留まるつもりもなかったが、横浜で競売人や、新聞の共同発行人になったことで、家族を呼び寄せ定住し始め、結局20年近く滞在することになった。当時、ブラックも多くの欧米人の友人から、開国したばかりの日本でのビジネス・チャンスの話や、一攫千金の夢を聞いていたが、特にそういう関心はなかったとも回想している。しかし、まるで呼び寄せられたように横浜居留地16番に個人の小さな印刷所(いわゆるプライベート・プリンター)を開設し、情報誌、書籍(このYoung Japanも)の印刷を始めた。ブラックはその美声とともに文章はわかりやすく人気があったようだ。また育ちの良さからセンスと教養に満ちており、ジャーナリストとしての取材、分析、そして編集に関わる能力をいかんなく発揮し始めた。彼の社説やYoung Japanの記述を読むと、現在にも通じるジャーナリズムの矜持とも言うべき姿勢が貫かれている。すなわちジャーナリスティックなフィクションやセンセーショナルな論調を避け、事実に基づいた報道、論評に徹することを心がけていた。新聞先進国イギリスのジャーナリズムの伝統であろうか。とても流浪の末にたどり着いた「山師」とは言えない能力を発揮する。ある意味、若い頃の教育が基盤となって、たどり着いた日本で、天職を見つけ、其の能力を開花させたたというべきかもしれない。


John Reddie Black (1826-1880)
横浜で撮影されたもの
隣りに住んでいたベアトの写真館で撮影したのだろうか

The Daily Japan Herald
(横浜開港資料館HPより引用)


「ヤング・ジャパン」の執筆

ブラックは、幕末の混乱の中で、条約の履行の停滞、兵庫開港、大坂開市の遅れに関して、幕府の政策の一貫性のなさ、ミカドを説得できない不甲斐なさに、批判的な記事、論評を載せていたが、同時にこうなった遠因はアメリカやイギリスの強引な外交にあると分析している。しかし、混乱しているとはいえ幕府こそが条約締結した正統な政権であり、薩摩や長州は反乱勢力だと見做している点が興味深い。のちにパークスやサトウが薩長寄りになってゆく視点とは異なる。一方で、絶対君主ではない徳川Tycoonは、容易に他の有力な封建領主たちにとって代わられる脆弱性があるとも見ており、絶対君主制から立憲君主制へ移行していったイギリスでは、すでに遠い過去のものとなっていた封建領主(君主)制度が、これからの日本で生き延びるとも思っていない。この辺りはパークス、サトウなどと歴史観を共有している。維新後も、ミカドの政府(明治新政府)の矢継ぎ早の政策について、其の拙速さや、未熟さが混乱を生み、大君の政府が残した「条約改正」問題が重い負の遺産としてのしかかっていることについても、事実に即した分析と論評により、大君政府から引き継いだ「産みの苦しみ」だとしている。初めての日本語新聞「日新真事誌」発刊にあたってはハリー・パークスの力を借りて新政府から発刊許可を取りつけたが、民撰議員設立の動きに板垣退助らの自由民権運動の活動を取り上げ、政府の方針に批判的な記事を書いたこともあり、ブラックは、新政府により、新聞発行人から太政官政府左院顧問という「お雇い外国人」に体よく召し上げられた上で解雇されるという、陰謀とも言える策略により新聞の廃刊を余儀なくされる(当時制定された「新聞紙条例」の規定により外国人オーナーの新聞が禁止されたため、とする説もある)。かれは憤然として拠点を上海に移し、新聞を発行し続けるが、1880年に再び東京に戻り「ヤング・ジャパン」全2巻の執筆に取り掛かる。

そういう時代背景の中生み出された「ヤング・ジャパン」は、1858年(安政5年)から1879年(明治12年)までの21年間の記録で、彼が新聞の発行人として書いた数々の記事や論説を振り返り、かつ、ハリスやオリファント、オルコックなどの先人が残した記録や著作を参照、引用し、パークスやサトウの助言も得ながら編纂したものだ。巻頭言でこうした先達への謝辞を述べている。しかしブラックはこの著作にジャーナリストとしての精力を注ぎ込んだ。とくに、先述のように政府から言論統制を受け、日本での新聞が廃刊に追い込まれた直後であったから、彼の言論人としての批判精神が凝縮されている。そういう意味においてもこの「ヤング・ジャパン」は、外交官でも、新政府のお雇い外国人でもない、民間のジャーナリストが見た貴重な幕末維新史の史料として価値がある。本書は、各章の冒頭に、其の章の内容の見出しが列挙されており、出来事を検索することもができる。また、前半(ブラックが取材せずに資料等から引用した事件など)はわかりやすい読み物風に書かれているが、後半になるに従って年月日にそった時系列的な記述の歴史書の体裁となっている。

第一巻は、開国、条約締結後の日本、すなわち幕末の日本(大君の時代)が描かれている。特に印象的なのは、攘夷の嵐が凄まじく、次々と発生した外国人の殺傷事件が連綿と記述されている点である。ヒュースケン暗殺、東禅寺事件、生麦事件など、教科書にも出てくる事件だけでなく、我々が知らない殺傷事件も次々に明らかにされており、フランス人、ロシア人のほか中国人、日本人の被害者も多かったことに驚かされる。外国人とその追随勢力は殺す、というテロリズムが跳梁跋扈する国であったように描かれていて、読んでいて気が滅入る。当然、横浜居留地に住む外国人としては無関心ではいられない事件の数々であり、関心が高くて当然であろう。しかし、ブラックは、先述のようにセンセーショナルな筆致を極力抑え、一連の事件の背景を分析している。幕府側が攘夷浪士の取締に苦慮した様子もよく理解しているが、幕府の「賠償金を払えば良いのだろう」との解決姿勢には批判的である。当事者のハラキリで一件落着にも納得しない。いっぽうで薩英戦争や下関戦争においては、欧米側の賠償金にこだわる戦後処理姿勢にも苦言を呈している。いずれの場合も「金」よりもお互いの「尊厳:dignity」を重視した解決を図るべきであると主張している。ジャーナリズムとしてはこうした血なまぐさい事件を多く取り上げねばならない一方で、ブラックは「一部の階級(サムライ)を除き、日本人は愉快で好感が持てる人々である」と書いているのが救いだ。サムライも、全てが刀を振り回してテロに走る人々ばかりではないが、暴力で否やを言わせない空気が横溢していた時代であったことは間違いないだろう。やがてこうした「攘夷派」と言われた若いサムライたちが、薩英戦争、下関戦争を通じて、攘夷一辺倒の行動では事態は変わらないことを学び、方針を転換してゆくのだが、ブラックは薩長の勢力を最後まで信用していなかったようだ。ミカドの政府が大君の政府に代わって安定した統治を行うには、武力倒幕で問題が解決するわけではない。その先にはさらに険しい道程が待っている、と。

ブラックの「攘夷事件」の論説を読んで感じるのは、残念ながら日本人の意識の中に、最後は暴力で黙らせる、という深層心理が潜んでいることの恐ろしさである。その後の日本の歴史においても、この幕末のサムライの「攘夷」、「一撃必殺」思想は消えていない。これは中世の武家政権成立以来の「サムライ・メンタリティー」の延長だろうと考える。日本は鎌倉幕府以来、戦国時代を経て650余年の武家政権(軍事政権)の時代が続いたことを思い起こす必要がある。軟弱な平安貴族や京都の公家よりも、質実剛健な鎌倉武士や戦国武将に好感を持つ。そんな歴史観、価値観が今も続いている。その封建的な武家による政権を終わらせること(王政復古という形で)がいかに歴史的な大事業であったかは想像に難くない。しかし、そんなミカドの政府も、やがてサムライでもない一般庶民、ブラックが言う「愉快で好感が持てる庶民」にまで武士道精神を叩き込み、国家のために死ぬことが美風だとする価値観を教育し始める。武家文化を日本文化の華として礼賛する。しかしフェノロサや岡倉天心が世界に訴えた日本文化は、武士道ではなかった。ブラックはサムライでない日本人にこそ共感を持っていた。本来の日本人は平和で愉快で、他人への思いやりを持った人たちで、攘夷テロに走るサムライを、日本人に一般化してはならないと強調している。また、彼は日本人を中国人との比較において、西欧文化であれどこであれ、新しい外来文化を積極的に取り入れようとする人達であると書いている。中国人は、外の文化を野蛮なもの、外国人は中国にひれ伏し従属すべきものと考えている(中華思想、華夷思想のことと思われる)。これが「攘夷」:排外主義の原点だと。この彼の中国観が的を得ているかどうかは別にして、日本人の古来からの外来文化の「受容」と「変容」という伝統が、新しいパラダイムを生み出す基である。そしてそれは「攘夷」という排外主義からは生まれない。江戸時代の「鎖国」のさなかにも長崎のオランダ商館を通じて西欧の文明、文化を取り入れてきた。現代的な意味における「多様性」や「開かれた社会」のコンセプトとは異なるであろうが、日本の進むべき方向を示したと思う。

第二巻では、将軍の大政奉還、戊辰戦争、箱館戦争、新政府の樹立、条約改正、不平士族の反乱や西南戦争など、新生日本が抱えた大事件について時系列的に詳しく書かれている。維新のなった1868年3月23日に、イギリス公使ハリー・パークスが京都の明治天皇に拝謁した際に、パークス使節団が攘夷派の刺客に襲撃された事件についても、この第二巻に詳細に記述されている。「最後の攘夷」と言われた事件である。この時公使一行を守った後藤象二郎、中井弘の二人に、ヴィクトリア女王から感謝のサーベルが贈られたことが書かれている、最近発見され話題になったサーベルである(現在、丸の内の静嘉堂文庫美術館で公開展示中)。また新政府の体制の不安定さや、征韓論などの対外政策の混乱など、産みの苦しみとはいえ、日本のような税制、財政政策も通貨管理も未成熟な新興国における内乱や対外戦争が、その国家財政に与える影響がいかに大きいか指摘している。迫りくるロシアの領土的な野心や,清国の統治能力の衰退に伴う東ジアの不安定化という日本を取り巻く情勢を理解しつつも、国力にふさわしくない周辺国への外交圧力(朝鮮問題)や、台湾出兵などの軍事力の膨張にも警鐘を鳴らしている。この辺は大英帝国的大国史観が現れているが、やがて日英同盟という形でイギリスが日本を支援するアライアンスに繋がってゆく。そして、国会開設、自由民権運動の高まりの中で、国権主義と民権主義の対立を見て、民権論の立場から政府批判を展開したことで、先述のように新聞発刊を潰され、言論抹殺されてしまう。それでも、ブラックは一時避難していた上海から横浜に戻り、新聞で言えないならとこの著作を執筆した。こうした出来事は、当時の政府にとってブラックの言論人としての影響力が無視できないものであったことを物語っていると考える。幕末・維新の記録、といえばハリス、パークスやサトウのような米英の外交官や、チェンバレン、フェノロサのような政府の御雇外国人が見聞し記録したものが多い(和訳もされている)のだが、在野のジャーナリストの立場から見聞した幕末/維新の記録が、もう一つの視点から歴史を見直してみるという、貴重な経験をさせてくれる。どこかラフカディオ・ハーンの日本を見つめる眼差しに近いものを感じる。そういえばハーンもジャーナリスト出身であった。

もう一つ、彼が残した重要なエピソードが一つ。17世紀初頭に日本に来た最初のイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針):William Adamsの住居跡、夫婦の墓を発見である。日本に来たペリーも、ハリスも、エルギン卿・オリファント、オルコック、パークス、サトウも、アダムスの日英関係史における「最初の第一歩・First encounter」に果たした役割に言及しているが、アダムスが日本で生きた痕跡を、1872年に彼の没後260年たった日本で、地元の伝承や古文書などを頼りに探索し、発見したウォルターなる英人があり、それを新聞で取り上げて世界に紹介したのがブラックである。かれの写真誌であるFar East紙で紹介している。このおかげで、いまは日本橋按針町に石碑が建立され、横須賀の按針塚に夫妻の墓が維持されている。またアダムスの出身地、イギリス・ケント州ギリンガムに記念碑も建った。これは、彼の母国の偉大な先達に対するレスペクトの表明であり、アダムスのレガシーを歴史の闇に埋もれさせてはいけないという、ジャーナリストとしての役割を果たしたものとして記憶さるべきであろう。

この膨大な二巻の大著には、まだまだ興味深いエピソードがふんだんに含まれている。読み物としても面白い。これからゆっくりと時間をかけて読み進めてみたい。もちろんハリスやオリファントやオルコック、パークス、サトウなどの英米の外交官の残した記録や著作、チェンバレンやハーンなどの著作とも読み比べてみると、より歴史の真相に迫る事ができるだろう。興味が尽きない。

この「ヤング・ジャパン:Young Japan」全2巻は、ブラックが残した唯一の著作である。そして西南戦争についての章を執筆途中、1880年に心筋梗塞で世を去った。歌手としての公演でたまたま寄った横浜で、ブラックは思いもよらない人生を歩むことなった。そして母国に帰ることなく、いまも横浜外人墓地に眠る。かのウィリアム・アダムス(三浦按針)と同様に、まちがいなく歴史にその名を残したブラックは、まさに「人生至る所に靑山在り」の人生を送った「さまよえるスコットランド人:Flying Scotsman」である。


イエローのハードカバー



表紙



横浜居留地図
下がBundとよばれたイギリス桟橋の一番館から、フランス桟橋の二十番館まで

真ん中の二階建ての建物がブラックが住んだ居留地16番。その左隣はベアトの写真館

台風の被害をうけた16番館


参考(世界的なネット古書販売サイトAbe Booksでの紹介記事):

An important primary source, written by the former editor of the "Japan Herald," the "Japan Gazette," "Far East," "Nisshin Shinjishi" among several other publications, the author was especially qualified in reporting the news. This current work is his most exhaustive account of both foreign and Japanese activities in Yokohama from its early opening in 1858 back to 1879.  During this 21 year Period, history was made, for Japan was now open to the West, and the flow of ship and goods made Japan aware of her backwardness. Printed in Yokohama at the author's private printing office, this work covers the author's personal observations of the arrival of Lord Elgin, Mr. Alcock, Japanese experiences with foreigners, murdered Russians, assassinations of foreigners, the murder of Mr. Henry Heusken, Mr. Oliphant and rebel Satsuma forces, Ohara Mission, account of Choshu forts cannon attacks upon foreign vessels, Sir Harry Parks, life in Yokohama, trade, start of "Japan Times," Chamber of Commerce, &c. * This work also covers "The King of Liu-kiu's own Story. * Perhaps the most comprehensive early resource on Yokohama & foreigners there done during this period. All editions were identical in this aspect, and the contents are identical. A contemporary insight to Yokohama life. On the verso of the title page it states: Vol.1: "Printed at the Private Printing Office of the Author, No.16, Yokohama, Japan." . Vol. 2: "Printed at the "Japan Gazette" Office, no.70, Main Street, Yokohama, Japan." . While the title page states at the bottom, "London, Trubner & Co., Yokohama, Kelly & Co 1880, 1881" this book was only published in Yokohama, but distributed by Trubner in London. The publisher "Kelly" is referring to a later change in that publisher's name to "Kelly & Walsh." . Regardless of the above irregularities, the book was clearly privately printed in Yokohama at John R. Black's office. A very rare and early Yokohama printing in English.