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2022年12月26日月曜日

年の瀬に山上憶良を憶う 〜「万葉集」 記紀が描かなかったもう一つの歴史〜



大宰府の山上憶良「子等を思ふ歌」歌碑

大宰府坂本八幡宮
大宰帥大伴旅人居館跡


この頃は、夜寝るときにNHK ラジオの聴き逃し番組を聴きながら寝る。これが結構ためになる。色々興味深いテーマで番組が構成されているのでどれを聴こうか迷うほどだ。聴き始めると、面白くなってなかなか眠りに入れないのが難点か。皮肉なことにオールドメディアと化したと言われて久しいラジオが、ネット時代だからこそ新たなメディアとして再登場していることが新鮮である。特に、最近の長編シリーズである「古典購読」鉄野昌弘氏の「歌と歴史でたどる万葉集」が大変が面白くて毎週楽しみに聴いている。以前から、万葉集は文学作品なのか、歴史書なのか、という問いを持っていたが、鉄野氏は、その両方の視点から解説してくれていて、万葉集を歴史書として読む楽しみを教えてくれる。詠人は、それぞれの心情や視点を持った生身の人間でありその歌の中にその時代の世相や個人的な思いが反映されている。古事記や日本書紀のような為政者の視点で編まれ、登場人物の個人の視点や心情が表現されない「正史」とは異なる点だ。詠人は、初期の頃は天皇や皇子達、それを取り巻く専門職であった宮廷歌人であるが、時代を下るに従って、天皇行幸などのイベントで歌を作るプロの歌人ではなく、普通の生活の中の官人や庶民になってゆく。これは大伴旅人やその子の家持が万葉集の中心になる頃からそういう傾向が強くなってゆく。特に巻の五の大宰府における旅人を中心とした大宰府官人たちの「筑紫歌壇」の歌は、これまでの「大和は国のまほろば」とか「やすみしし我が大王」といった王朝讃歌のようなキラキラトーンではなく、カッコつけない官人達の本音が歌われているし、歴史書からは見えてこない地方の実情が鮮明に描かれていて面白い。中でも山上憶良の歌は、官人、貴族には珍しく庶民の生活心情に目を向けた社会派の歌が多く異色である。歴史書には、その時代に生きる個人の生活や心情が反映されていないものだが、万葉集は、そういう意味では歴史の担い手であった貴族や官人による文学書であり、庶民を含む私人が登場する異色の歴史書であると言って良いだろう。

山上憶良は筑前守(ちくぜんのかみ)であり、官位は従五位下である。中納言大宰帥(だざいのそち)大伴旅人(正三位)の部下である。叙爵されているとはいえランクの高い貴族とはいえない。旅人が大納言(従二位)として出世して都に帰任したのに比べ、憶良は筑紫国守の任を終えて奈良の都に帰任した時には、官位が上がることなくリタイアーして、やがて世を去っている。まるで現代のサラリーマン人生を彷彿とさせ、そこに共感を得る人も多いのではないか。私もその一人である。いわば、福岡市店長を最後に地方単身赴任から解放され、本社に戻るとともに定年を迎えてリタイアーした、という現代のサラリーマンのキャリアパスに似る。彼の出自ははっきりしていないが、大和添上郡山辺あたりの出身ではないかと考えられている。決して身分の高い名門一族の出ではなく、生活も豊かではなかったが、それでも遣唐大使使節の一人に選抜され、官位のない身分のまま唐に渡った。いわばエリート出身ではないが海外留学経験を持つ。そこで律令や漢詩、仏教や儒教を学び、帰国後は宮廷に出仕し、伯耆守として地方赴任した。都に帰ると首皇子(のちの聖武天皇)の家庭教師の一人として漢詩を教えた。続いて筑前守として再び地方へ下向する。中央の高級官僚としてではなく、いわば地方官僚としてキャリアを積んだことになる。そうした知性と教養を具備した地方官僚としての憶良が万葉集の主役の一人として登場してくるところが面白い。ちなみに憶良は正史である続日本紀には冠位や伯耆国守任官など僅かな記録しかなく、筑前国守任官については記録されていないし、そのプロフィールに関する記述はない。万葉集のみにその名が残る官僚であった。

憶良は大宰府で大伴旅人(大宰帥大伴卿)と共に歌人としても活躍し、多くの漢詩や和歌を読んでいる。万葉集には憶良の歌は78首撰録されており、柿本人麻呂、旅人、家持などと共に主要な万葉歌人の一人してその名が記憶されている。筑紫においても旅人と双璧をなす、いわば「筑紫歌壇」の中心人物と言って良いだろう。元号「令和」の起源となった巻五の「梅花の宴」も実際には憶良が旅人に代わって読んだという説を唱える研究者もいる。その歌風は、天皇を寿いだり、官人として天下国家を歌ったり、というよりは、筑前国守として地方行政に携わる中で見聞きした庶民の生活や心情、地元の説話を読んだものが多い。また、大宰府官人達が共通に持っていた「早く都に帰りたい」や、出世への執着、都への憧憬についても包み隠さず歌っている。そもそも「歌」というものが朝廷や官僚達にとって重要な文書行政手段であったわけだから、都からやってきた使者や、都に戻る同僚などに託したメッセージとして読まれたとしても不思議ではない。

一方で、彼は儒教や仏教の影響を強く受けていたので、生と死、社会問題についての歌が多い。しかし、仏道に精進して現世の煩悩を解脱することを希求するといった歌よりも、むしろ煩悩に苛まれるリアルな人間を姿を歌っている。これは太宰府で読んだ有名な「子等を思ふ歌」に見事に表現されている。子どもへの愛情や執着は、仏教的には現世へのこだわり、煩悩であるのだが、それを恥じるのではなく、ストレートに「子供を大切に思う」心情を歌っている。また任地の筑前各地で歌った歌(嘉麻、松浦など)が多く収録されており、神功皇后の朝鮮出兵伝承にまつわる地元の祭りや、習俗を、煩悩を交えた庶民目線で歌っている。そして、奈良の都に帰って後に読んだのが「貧窮問答歌」である。里長(さとおさ)の呵責のない税の取り立てで虐げられる地方の庶民の生活や、貧困や災害、疫病にさいなまれる人々の苦悩を謳っている。これも我と我が身をモデルに、知性あふれる才能がありながら社会的には認められない貧者の目線を共有する憶良の人間性がよく現れている。こうした社会派の歌、個人の心情を赤裸々に表明した歌が採録されている万葉集という歌集の性格を見ると、初期の頃の官選和歌集、天皇讃歌の書としての万葉集が変化していった様子が見えて興味深い。一方で、旅人や憶良が大宰府に赴任していた頃は、都では「長屋王の変」が起き、朝廷における藤原氏一族の台頭が顕著になっていった時期である。憶良はともかく、名門一族大伴氏の長である旅人にとっては、その事件に関わることなく遠く太宰府に時を過ごし、一族の復権のために何もできないかったことの無念さを感じていた。そうした心情を滲ませた都思いの歌を読んでいる。そういう意味では、この時代の万葉集は、社会問題を地方の現場目線で描いている他、都を離れた地点から中央政界を遠望する視点を取り上げるなど、歴史を別の視座から描いた「歴史書」としての性格を持っている。初期の頃にはこのような個人の心情や社会情勢を歌ったものが少なかったのだが、いつの頃からか官選和歌集という性格から離れてゆく。万葉集には序文がなく、そもそも誰が撰者であり、編集者であったのかは今でも謎であるのだが、憶良の歌の登場がその謎の鍵を握っているようにも思える。大伴旅人の息子、大伴家持がのちに万葉集全体を編集し、新たな歌を撰録したとも言われている。そうかもしれないと思う。おそらく父旅人に伴われて下向した太宰府の大宰帥居館で家持は幼少の頃、憶良とも交流したはずである。家持の歌への想いと庶民への目線は、この時の憶良によってインスパイアーされたと考えてみるのは如何だろう。

私は山上憶良こそ万葉集最高の歌人ではないかと考え始めている。疫病や戦争、貧困や社会的不正義などに満ち満ちた一年が終わろうとしている。


参考:2019年4月13日のブログ「万葉集とは?〜文学書なのか歴史書なのか〜」



山上憶良の詠みし歌2首

「子等を思ふ歌」

瓜食めば 子供念おもほゆ 栗食めば まして偲しのはゆ 何処いづくより 来たりしものぞ 眼交まなかいに もとな懸りて 安眠やすいし寝なさぬ(『万葉集』巻5-802)

反歌

しろがねも 金くがねも玉も 何せむに まされる宝 子に如しかめやも(『万葉集』巻5-803)


「貧窮問答歌」

風まじり 雨降る夜よの 雨まじり 雪降る夜は 術すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾あれを除おきて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被かがふり 布肩衣ぬのかたぎぬ 有りのことごと 著襲きそへども 寒き夜すらを 吾われよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子めこどもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝なが世は渡る

天地は 広しといへど 吾あが為は 狭さくやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾われのみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾あれも作なれるを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 曲いほの内に 直ひた土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲みゐて 憂へ吟さまよひ かまどには火気けぶりふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊いひかしく 事も忘れて 奴延鳥ぬえどりの のどよひをるに いとのきて 短き物を 端きると いへるがごとく 楚しもと取る 里長が声は 寝屋処ねやどまで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間よのなかの道(『万葉集』巻5-892)

反歌

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)