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2023年2月27日月曜日

古事記の神話は「文字の起源」をどのように語っているか? 〜「漢文」「変体漢文」「万葉仮名」から「平仮名・片仮名」へ〜


古事記 寛永版板本(江戸時代)




「文字」を使う、ということはどういうことを意味するのか?

音声による「言語」は、誰かが作ったり、使わせたりしたものではなく、人々が感情や情報や意思を「伝える」ために「発声」し、それを聞くという「聴覚」によるコミュニケーションツールとして自然発生的に生まれたものである。「言語」を持つ、すなわち、言葉を話すという行為はホモサピエンスが他の生物と一線を画すものの一つである。しかし、一方で「文字」は、その「言語」の発展過程で誰かが作り、決めて、ある目的のために使わせた記号である。書き記し、読むという「視覚」によるコミュニケーションツールである。「話し言葉」と同じように「伝える」ために創造されたのだが、自然発生的に生まれたものではない。発生起源的に言えば、優越的地位にある者が、一族や地域や国家の統治、支配のために作り出した記号の体系、あるいは支配のための社会インフラである。「文字」により成文法を制定し、税制を定め、歴史を記録する。「文字」が「国家」を生み出した。すなわち「文字による国家」の出現である。例えば、ヒログリフはエジプト王朝が、またローマ字、ラテン語はローマ帝国が、漢字、漢文は中国王朝が、統治のインフラとして作り出した。「読む」「書く」は、しばらくの間、一部の人々にだけ与えられた能力/権能であった。「文字を使える者」と「使えない者」という格差があった。それはすなわち「支配する側」と「支配される側」という階層の存在を表わしていた。庶民が日常のコミュニケーションの道具として読み書きを「学び」「用いる」のは、ずっと後の時代のことである。そして、「文字」は人間の脳の外部記録装置として、「記録として残す」「後世に伝達する」ためにも使われてきた。これも「支配する側」にのみ可能な行為であった。然り而してその記録は主に為政者によって残されたものであった。現在にあって過去を知る手掛かりが得られるのも「文字」による記録があればこそである。しかし、ホモサピエンスはその10万年以上の長い進化の歴史の中で、93%の時間は文字がない時代を過ごしたと言われている。文字を用いるようになったのはわずが直近の5〜6000年のことだ。例えば、漢字は3000年ほど前の、中国中原に現れた甲骨文字に由来する象形文字が起源だと言われている。その漢字が中国王朝の歴史を延々と語り繋いで来た。では、日本では「文字」はいつ頃から用いられたのか?古事記が日本初の「文字」による歴史記録であると言われているが、それ以前に」文字」は存在せず、用いられなかったのか?


第一ステージ:漢文

列島における文字の最初の出現はどのようなものであったのか。それは、中国の史書である後漢書に記述のある奴国、あるいは三国志魏志の邪馬台国など、1世紀〜3世紀の中国王朝の朝貢冊封体制における通交のなかで、中国皇帝から倭の王に与えられた、冊封の証である金印(漢委奴國王)や、威信財として下賜された鏡(銅鏡百枚)などに刻まれた文字として現れた。すなわち、すでに1世紀には倭国で文字が使われていたのである。と言ってもそれは中国から与えられた文字、漢字であり、中国王朝への朝貢、冊封関係の中でのみ使われた。すなわち、印綬を用いて漢文で国書を書く必要に迫られて漢字を使用するという、倭国の対外関係(いわば外交で)で使われていたに過ぎない。奴国や伊都国、邪馬台国など倭国内部の統治や、王権内部における通信といったものに文字が使用された形跡はない。まして人々の日常生活におけるコミュニケーションに文字・漢字を使用することはなかった。少なくとも漢文・漢字を操れる人は、後漢王朝や魏王朝との通交、交渉に携わるほんの一部の人であった。おそらくは大陸からの渡来人であったのだろう。そういう意味で、倭国にはその当時の国内事情を窺い知ることができる文字史料はない。少なくとも現時点では見つかっていない。ただ、硯の破片ではないか、という遺物が、北部九州の3世紀前半の遺跡から見つかっており、今後、何らかの「文字」にまつわる考古学資料が出てくる可能性はある。


金印
福岡市博物館


第二ステージ:和様への変化の兆し

次に列島に文字が表れ、それが列島内部で意味を持つようになるのは、5世紀になってからである。奴国の金印から400年後、邪馬台国卑弥呼の「景初4年」の銅鏡から約200年後のことである。それは和歌山県の隅田八幡宮鏡銘、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣、熊本県の江田船山古墳鉄剣などに刻まれた文字(金石文)である。これはヤマト王権の大王が倭国の統治の権威を示すものとして、地方の豪族に下賜した権威の証、ないしは「威信財」と考えられている。すなわち「ワカタケル大王」(すなわち雄略天皇のことを指すと考えられている)が、地方豪族に王権の役職である「杖刀人」や「典曹人」などの職位を与えたものと考えられている。列島全域を支配下に置きつつあったヤマト王権が、地方豪族を支配・統治する道具として文字・漢字を使った初出である。これは中国王朝の朝貢冊封体制を、倭国/列島内部に転用したものである。文字による国内統治の始まりである。用いられたのは漢字であるが、中国の漢字とは少し異なる字体に変化している。また漢字という表意文字を倭語の表音文字として一音に一字をあてて用いたものである。この頃から、徐々に漢字が楷書などの中国伝来の形態から、少し描きやすく崩した、「倭人の感性にあった」形態に変化していると考えられている。後の仮名へと繋がる変化の萌芽と言えよう。

そして6世紀の仏教伝来(538年ないし552年)の時期、文字は仏典の写経に用いられた。またこの解釈、布教のためにヤマト王権の中枢や寺院で用いられた。用いられたのは漢語、漢文で、きちんとした楷書で記述されている。この延長線上に7世紀初めの聖徳太子の十七条憲法などの文字で表された「法制度」があると考えられている。しかし、原本、写本は現存しておらず、後の日本書紀に、全文引用した、とされるものが唯一今に伝わる十七条憲法である。従って、その存在を疑う偽書説や、日本書紀において初めて文字化されて記述された、とする説などがある。


稲荷山鉄剣
埼玉古墳博物館



第三ステージ:変体漢文

7〜8世紀初期の律令制国家の整備とともに、文字(すなわち漢字)が国内政治の重要な統治ツールとして用いられるようになる。稲荷山鉄剣や江田船山鉄剣の時代から200年ほど後の時代だ。言い換えれば、律令国家は文字によって成り立つ「文字の国家」である。成文法を持ち、文字によって国家機構を定め、税制を定め、記録し、国を運営する。この律令国家「ヤマト王権」の支配が全国に及ぶにつれ、文字が一気に広まって列島全域をカバーするようになる。このことは藤原京、難波京、平城京跡のみならず地方官衙跡から大量に発掘される木簡の文字からもわかる。そうした事情を背景として、ヤマト王権の統治権威の源泉と正当性を記述する「正史」である「日本書紀」、あるいは統治者たる天皇の「物語」である「古事記」が生まれた。この前にも、おそらく文字を用いた帝紀、旧辞などの記録があったとされる(古事記の序文に記述)が現存しておらず、645年の乙巳の変で蘇我宗家が滅んだときに焼失してしまったのではないかと言われている。また。古事記の序文によれば、古事記は稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が文字化したものである、とある。しかし、単純に口承を文字化したということではないだろう。稗田阿礼が誦み習った元の記録(帝紀、旧辞など?)は確かにあったであろう。しかしそれは阿礼の誦習を伴わなければ日本語として用をなさないものであったし、それをさらに文字に書き記すということは、表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにする。そのような創造的な作業が伴うプロジェクトであったはずだ。すなわち古事記は「漢文のようで漢文ではない」ものである。「変体漢文」などと言われているが、それは漢文の変種ということではなく、漢文を離れて日本語として漢字を用いたものである。その「日本語化」の営みこそ、律令体制の中での「文字の国家」日本を表現することであり、古事記はその象徴的な作品であったと言える。したがって、古事記は古来からの伝承の延長にあるのではなく、律令国家の世界観を漢字を用いた「日本語」で創造し作品化したものである。この点が、中国、朝鮮半島の王朝を意識して漢文で書かれた「日本書紀」と異なる点だ。

ちなみに、現在目にすることが出来る古事記も、編纂から660年後の室町時代に書き写されたいわゆる「真福寺本」が、現存する最古の写本とされていいる。それ以前の写本は残っていない。書写は、書き写しの間違いや、脱落、解釈違い、故意の改変(構成の取捨選択)などが介在するので、正確にオリジナルの内容が後世に伝わっているかは疑問である。後世になればなるほど、書写した人の意思や解釈が介在して変容している可能性が高い。古事記を読んでいて、筋が通らない箇所や、矛盾するエピソード、話題が飛ぶ箇所などが多いのは、こうした後世の繰り返された書写のせいだと考えられる。


古事記 真福寺本 書写本(室町時代)


第四ステージ:万葉仮名

奈良時代になると日本初の詩歌集である万葉集が編まれる。750年ころの編纂と考えられている。編纂の意図を記述した序文も、編纂者の記録もない不思議な詩歌集であるが、約7000首が撰録されている。漢詩も多く掲載されているが、七五調を基本とする長歌、短歌を集めた和歌集である。詠み人は天皇から、中央の高級官人、地方官人、専門的な宮廷歌人、そして名も知れぬ防人や庶民まで含まれている、という稀有な和歌集である。しかし、これは、この時期には庶民まで「文字」を使って歌を詠んだということではない。歌の撰録は、大伴家持のような高級官人が行い、口承を文字にして書き記した。万葉集も漢字が用いられたので一見漢文のように見えるがそうではない。また、先述の古事記や木簡に見えるような「変体漢文」とも異なる。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれた文字、いわば「日本語」で記述された。これは漢字の音だけを借用して一音一字で(表音文字として)日本語を記述するもので、後の平安時代に生み出された平仮名や片仮名のルーツともいうべきものである。正倉院文書にも万葉仮名が見え、公式な文書にも用いられた。また、難波宮跡から出土した、659年と思われる木簡には、後世の古今和歌集にまで歌い継がれる著名な「和歌」が認められており、万葉集編纂以前から漢字の音を用いて一音一字で綴った和歌が詠まれていたことを示す貴重な発見である。漢文、漢詩は宮廷の高官、官人の必須教養であったが、徐々に日本語の和歌が新たな文書行政手段、表現手段として認知された時代でもある。歌の世界が漢詩から和歌へ、漢字の日本化、篆書、楷書、行書から草書、さらに崩した唐様から和様への変遷が起こった時代である。


万葉集 元暦校本版


第五ステージ:平仮名、片仮名

その後、9世紀の平安時代に至り、漢字から変化した、日本独自の表音文字、「平仮名」(漢字を崩したもの)、「片仮名」(漢字の一部を取り出したもの)が生み出されて、漢字仮名混じり文という独特の「日本語」表記が生まれた。しかし、これまで見て来た通り、いきなり平安時代になって仮名が考案されたわけではなく、漢字伝来から800年、「変体漢文」、さらに「万葉仮名」などの日本語化のプロセスを経て徐々に形成されていったと考えられている。ひらがな/カタカナは、最初は女性が使うものとされ、紫式部の源氏物語や、清少納言の枕草子のような平仮名文学が生まれた。また紀貫之の土佐日記のように男性が平仮名を用いて書く作品も現れた。やがて、勅撰和歌集である古今和歌集、新古今和歌集が編纂され、11世紀初め頃には流麗な平仮名文字が全盛を迎え、平仮名文学という日本固有の洗練された世界が広がってゆくことになる。いわゆる国風文化の時代を迎える。ただ、依然として男性の貴族や官人は、漢文、漢詩が必須の言語スキル、教養の基本であり続けた。一方で、この頃には万葉集で用いられた万葉仮名を解読できる人がいなくなり、万葉集が読まれなくなっていた。藤原定家を始めとする「古典解読チーム」が編成され、万葉集研究が進められたたほどである。また、漢文で書かれた日本書紀は、平安時代にも貴族の間で定期的な講義が行われたが、変体漢文で書かれた古事記は徐々に読まれなくなっていったと考えられている。


万葉仮名から平仮名へ


最後に、古事記は「文字の起源」をどのように語っているか?

古事記は、我が国最初の「文字」で書かれた「歴史書」であるとされている。日本という国の成り立ち、古代史を知る上で、この7世紀末から8世紀前半に成立した古事記、そして日本書紀が、中国の正史である一連の史書を除けば、国内に現存する唯一の文献資料ということになる。それ以前の列島の有様や、倭国、日本の歴史を知るには中国の史書、文献資料に頼るか、考古学的資料(金石文を含む)しかないのである。

その我が国初の「文字」による歴史書ないしは物語である古事記は、「文字」が葦原中国にもたらされた経緯について、どのように語っているのだろうか。「文字」も、稲作のようにアマテラスやスサノヲ、あるいはニニギによって高天原から葦原中国にもたらされたものであって、決して大陸から伝来したものではない、などと語っているのであろうか。ニニギが漢字を携えて筑紫の日向の高千穂に降臨して来た、とでも書いてあれば話は別であるが、そんな記述はない。古事記神話は、そのストーリーの中で、この物語を書いた「文字」すなわち「漢字」の由来については何も語ってはいない。そもそも漢字を使って古事記が記述されていることで、漢字という外来の文字の存在が議論の余地のないものとして取り扱われている。しかしこの件に関しても、1世紀に中国皇帝から倭の奴国王が下賜された金印や、3世紀に邪馬台国女王が貰った銅鏡に記されていた漢字、漢文の存在については一切触れていない。漢字を用いて記述していながら、中華世界的秩序からの脱却、日本のオリジナリティー、アイデンティティーを主張していることは奇妙なパラドックスであるようにも思える。

あらためて整理すると、古事記という物語の成り立ち、特に神話部分は、新しく生まれた律令国家「日本(ひのもと)」が初めて「文字」を用いて創出した作品であるということである。表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにした、「変体漢文」などと言われる「未完成日本語」で書かれた国家のアイデンティティーの物語である。それは「漢文のようでいて漢文ではない」。その中国由来の文字、漢字の「日本語化」の営みこそ、「日本」が、文字を持たない「倭国」から、「文字の国家」となったことを表現することであり、古事記はその象徴的な作品なのである。繰り返すが、古事記は律令国家の世界観を「日本語」で物語ったものである。すなわち、この古事記という物語の誕生そのものが、列島における「文字・漢字」の受容と変容を象徴している。その所以は、まさに「序文」に記述されていると言って良い。その序文は誰がいつ書いたものなのか不明で、議論の余地があるとされているが、図らずも、漢文で書かれていたらしい古文書を阿礼が日本語(倭語)で「誦み習い」、それを安萬侶が漢字を用いて日本語で「書き記す」、という漢文の日本語化のプロセスが語られている。古事記は、本文には「文字の起源」の由来話はないが、序文でそれを語っている。


参考文献:日本古典文学全集「古事記」山口佳紀、神野志隆光 校註・訳