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2023年11月19日日曜日

古書を巡る旅(41)シャフツベリー伯爵「Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times」1723 年 〜アダム・スミス道徳哲学の源流を辿る〜

第3代シャフツベリー伯爵「人、作法、意見、時代の諸相」1723年第3版
左にシャフツベリー卿肖像

古書の風格



アダム・スミスの思想の源流を辿る旅は、前回スコットランド啓蒙主義の泰斗、デービッド・ヒュームにたどり着いたが、さらに遡ると、この18世紀初頭のイングランドの名門貴族、第3代シャフツベリー伯爵の道徳感覚主義の哲学に出会うこととなる。日本人には、なかなか馴染みが薄いイギリス思想史上の人物であるかもしれないが、アダム・スミスの「道徳感情論」「国富論」の思想的なバックボーンとなった一人と言われている。ちょっとハードルが高いが、覗いてみよう。

2023年9月22日 デビッド・ヒューム「文学、道徳、政治論集」

2023年1月5日 アダム・スミス全集


 (1)第三代シャフツベリー伯爵 : the Right Honourable Anthony, Earl of Shaftesbury, アンソニー・アシュリー・クーパー:Anthony Ashley Cooper(1671−1713年)

17世紀末から18世紀初頭のイギリスの政治家、著述家にして哲学者。 シャフツベリー伯爵家は、1672年の初代から現代まで十二代続くイングランド貴族である。イングランド南部のドーセット州シャフツベリーに因む。ロンドンの繁華街シャフツベリー・アベニューにその名を残すとともに、ロンドン観光のランドマークである、ピカデリー広場のエロス像はシャフツベリー伯爵の慈善事業を記念して建てられたものである。初代シャフツベリー伯爵は、いわゆる「イギリス革命」時代の反共和派(反クロムウェル)の政治家であり、王政復古、チャールズ2世の即位に尽力し、大法官(Lord Chancellor)に任ぜられらた。しかし徹底した反カトリック、非国教会プロテスタントであったこと、またカトリックのジェームス2世王位継承問題で陰謀に巻き込まれて亡命する。ホイッグ党の創始者とみなされている議会派の重鎮である。自由主義の父、経験論哲学の祖であるジョン・ロック:John Locke (1632−1704)の友人であり、彼の思想に傾倒し、ロックを孫のアンソニー・アシュリー・クーパー(本書の著者)の教育総監とした。そのアンソニーは、ウィンチェスタカレッジ(1683−1686)を経て、ヨーロッパ大陸ツアー(1686−1689)に出、名誉革命後の1689年に帰国。庶民院議員(1695−1698)として活躍。その後オランダに移住したが、イングランドに戻り1699年にシャフツベリー伯爵位を継いだ(第三代)。その間、ロックの人脈を伝って国内外の多くの知識人と交流した。その後、貴族院議員となりウィリアム三世(オレンジ公ウィリアム)崩御まで政治に携わった。再びオランダに移住したが、1704年にイギリスに戻る。しかし体が弱く政治家としては身を引き、1706年からは本格的な著述活動に集中した。そうした中で生まれたのが「熱狂書簡」(1707年)であり、本書「人間、作法、意見、時代の諸相」(1711年)である。1713年ナポリにて没す。

第3代シャフツベリー伯爵(アンソニー・アシュリー・クーパー)は、議会では穏健なホイッグ党の議員として活躍。名誉革命へと続く時代を政治家として生き、カトリックや非国教会系のプロテスタントに批判的であったとされる。かといって必ずしも国教会を信奉してもいなかったと言われている。幼少期の教育総監であったジョン・ロックの経験論的哲学、自由主義の思想はシャフツベリー伯爵にも大きな影響を与えた。また度々訪れたオランダでは、多くのヒューマニスト、啓蒙思想家と交流し、彼らの影響も大きかったと言われている。彼は、道徳哲学(Moral Philosophy)は神学(Theology)とは独立したものである(スコラ哲学の始祖たるトマス・アクィナスは「哲学は神学の僕」「信仰あっての道徳」とした)。道徳(Morality)は神の意思(Will of God)に根ざすものではなく、人間の本性(理性)に根ざすものであるとする。一方で、当時、思想界で影響力を持ち始めた自然科学的な合理主義よりも、古代ギリシア的な、美意識と人間精神の調和、バランスを重視する「哲学的モラリスト」「倫理的自然主義」の立場を取った。こうしたことから道徳感覚主義哲学/道徳感覚理論(Moral Sense Theory)の創始者とされる。啓蒙主義思想家、モラリストとしての彼の理論、倫理体系は、後のスコットランド啓蒙主義のフランシス・ハッチソン、デヴィッド・ヒューム、アダム・スミスへと受け継がれ、スミスの「道徳感情論」に結実したと言われる。

人間の本性は「利己的」なのか「利他的」なのかという論争では、ホッブスやマンデヴィルが、人間本性を「利己的」なものとする性悪説に立ったのに対し、シャフツベリーやハチソンは、これを批判し、人間の本性は「利己心」もありつつ「利他心」「道徳性」を備えたものであるとした。上述のように、スミスはこのシャフツベリー、ハチソンの「道徳感覚学派」の影響を受け継いでいるのだが、スミスにはその両方の影響があるとも言われている。すなわち、人間は他人への「共感力」を持ち、「利他的」に行動するものである(「道徳感情論」)とともに、利益を得るために「利己的な動機」で行動する。その個人の利益追求活動が、社会全体の富の創造と繁栄に繋がる(「国富論」)。また「利他的」な行動にも、他人からの賞賛という「虚栄」を求め、他者への承認欲求があることを指摘している。したがって、人間は社会的な動物であるとも言っている。その双方を有するのが人間であると考える。一方で、人間の胸の内に誰もが持っている「公平な観察者の眼」により、利己心を制御するものであり、これが社会の平和と安定に寄与するとも語っている。ただ、スミスは、そうした人間の本性が「道徳的であるか否か」ではなく、富の創造、利益を生み出す経済活動に影響を与えるものであるとしたところが、シャフツベリーやハチソンの道徳哲学を超えた点であると考えられている。道徳哲学から経済学が生まれ出た瞬間である。


(2)「人間、作法、意見、時代の諸相」:Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times

彼が政界を引退したのちに、自らの過去の手紙や論文を改訂し、編集した「人間、作法、意見、時代の諸特徴」:Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times(1711年)が出版された。シャフツベリー伯爵の著作の集大成であり、後世の哲学、思想界にに影響を与えた重要な著作である。今回紹介する本は、著者没後の1723年の第3版である。本書第3巻に、初版にはなかった彼の未発表の論文、遺稿が追補されている。また、第2版以降は、多くの銅板エッチングの挿画が用いられるようになり、本文の内容を視覚的に象徴するギリシアやローマの古典シーンを再現している。アーティストはアイルランドのHenry Trench、版画家は、自身もユグノー教徒であるSimon Gribelineである。

編集者、出版社の名前は記載されていないが、第三巻の最後に、Printed by John Darby in Bartholomew-Close, London 1723とある。英語版Wikipediaによれば、ジョン・ダービー(John Darby)は、にロンドンで小規模な印刷出版事業を手がけた人物で、風刺や皮肉を表現した出版物を次々と出したことで、当局に睨まれた言論人であったようだ。ちなみに、仲の良い夫婦の代名詞「Darby and Joan」としてイギリスの詩や成句にたびたび登場する有名人でもあるようだ。17世紀は印刷技術の進化、記録、出版が事業として開花した時代である。しかし、出版(Publisher)と印刷(Printer)、編集(Editor)、配本(Bookseller)が未分化であったようで、印刷人が、同時に編集、出版、配本に携わったのであろう。さらにこうした出版事業者は、言論文化人として重要な役割を果たしており、このJohn Darbyもその一翼を担った人物であった。本書は、人気が高く、時を超えて重版を繰り返している。

本書の構成

第一巻

熱狂に関するジョン・ソマース卿(本文中では名前が伏せられている)への手紙(いわゆる「熱狂書簡」)(1707年)

コモンセンスに関する論考 ウィットとユーモアの自由に関する考察(1709年)

独白(soliloquy) 著者へのアドバイス(1710年)

第二巻

美徳(Virtue)または美点(Merit)に関する論考 不完全なコピーから正式に印刷したもの。修正し全体を改訂 (道徳感覚主義の創設者としての名声を確立した論文)(1699年)

道徳主義者(Moralist) 哲学的狂詩曲(Philosophical Rapsody)自然と哲学に関する長談義(Recital)(1709年)

第三巻

その他の内省的考察(随想集)これまでの未発表の作品(1714年)

ヘラクレスの決断を描いた 歴史的下書きまたは下絵(tablature)への覚書(1713年)


(3)「熱狂」と「ユーモアのセンス」、そして「コモンセンス」に関する考察

第一巻の、いわゆる「熱狂書簡」:A Letter concerning Enthusiam、および「コモンセンス」:Sensus Communis : Common Senseに関する論考、「ウィットとユーモアの自由」: Fredom of Wit and Humourの中に、興味を惹かれた考察があるので紹介してみたい。精読ではなく拾い読み、意訳なので誤った解釈かもしれないが、あえて挑戦してみた。

まずは、「熱狂」( Enthusiam)とはどのような現象か。それに人間はどのように関わるべきかという問いについて。熱狂に囚われるものの他に、熱狂を利用しようとするもの、迫害や殉教にこだわるもの、他人の熱狂に影響されるもの、などさまざまな人間がいる。こうした人間の「熱狂」という現象への対処法として、「熱狂する自由」を認めるとともに、熱狂を牽制(Restraint)しようと「吟味(Examine)する自由」、そして熱狂をウィットとユーモアで「笑う」(Ridicule)ことの自由をも保障すべきだと。「皮肉」:(Irony)と「揶揄」(Banter)、こうした「自由」(Freedom)が保障されていることが重要とする。いかなる権威/主張も批判されうること、そして皮肉られるべきであること。一方で、その「笑い」が笑われることもあることから、その笑いと、笑う自由にも質の高さと品格が求められる。こうした牽制と吟味と皮肉る(笑う)自由が、「熱狂」に由来する暴動を予防するとともに、皮肉に耐えうる、より優れた熱狂を産むだろう。この批判精神の根底には、イギリスの伝統であるユーモアのセンス(Sense of Humour)が人間に求められる資質の一つであるとする考えがある。この手紙に書き綴られた考察の時代背景には、フランスのユグノー派への迫害とイギリスへの亡命。イギリスの国教会、カトリック、非国教会プロテスタントの緊張関係、信仰の自由に関する問題があった。そこへ熱狂的反カトリックであるフランス予言派が出現し、教条主義的な信仰論争が、プロテスタント同士の寛容と協同の空気に危機感を生じさせた。これに関して、シャフツベリー伯爵が、ソマーズ卿に宛てた手紙の中で、「熱狂する自由」を抑圧してはならないが、同時に「牽制し批判する自由」と、「笑い/ウィット/ユーモアの自由」による批判が、人間本性が求める真理と救済を可能とする、と書き記したものだ。これを彼が、反カトリック、国教会の支持を表明したものだという論者もいるが、むしろ神の真理ではなく、人間本性に根ざす真理、それに基づく自由と寛容の精神の重要性を謳ったものであり、まさに「道徳哲学」の表明であったのであろう。

また、もう一つ興味深いのは、「Common Sense : コモンセンス」に関する考察である。すなわち、コモン(Common):共通する/一般的に共有される、センス(Sense):判断/理解という、イギリスで今でも人々の間で共有されている、伝統的な価値観、秩序の基底をなす「共通観念」である。しかし、これも人によって、何が共有できる理解か、価値観かが異なると述べている。著者は、コプト教徒のエチオピア人がいきなりロンドンやパリに出てきたとしよう。彼らの振る舞いや考え方を、人々は「受け入れがたい」というだろう。しかし、我々が「コモンセンス」(このばあいは「常識」という意味?)だと言っている「共通理解」は、彼らにとっては受け入れがたい「コモンセンス」であろう。したがって、人間の本性を語るときに、我々の「コモンセンス」を強要したり、それを受け入れないものを排除したりすることはナンセンスであるとする。ただ、批判する自由があるところ、知的なウィットやユーモアで皮肉る自由と牽制が働くところでは、人間として自ずと共有できる理解、価値観が存在しうる。他人への共感や利他的な人間の本性に基づく道徳があるところには、そうした自由に裏打ちされる限り、ある種普遍的な「コモンセンス」が存在しうる。これは決して神が示す絶対真理や信仰によって立つ価値観の共有ではなく、人間の本性/理性に基づく真理や、それに基づく道徳的価値観であるとする。イギリス伝統の道徳感、倫理観に裏打ちされた「共通理解」とも言えるが、その普遍性にも説得力があると感じる。

遡れば、ジョン・ロックの経験論哲学、自由主義にその源流を見るのだが、このユーモアのセンス(Sense of Humour)とコモンセンス(Common Sense)という、伝統的な「共通観念」が、現代の我々が抱える諸課題にも、一定の視座を与えてくれる。まだまだ、シャフツベリーの哲学の深淵には辿り着けないが、その人間本性と道徳哲学の底なし沼をのぞいて見たい気がしてきた。




第一巻表紙

第二巻表紙

第三巻表紙

第3巻末尾に
Printed by JOHN DARBY in Barthlomew-Close, London, M.DCC.XXIII




(4)Awnsham Churchill(1658−1728)の蔵書票について

本書には、2枚の蔵書票(Book plate, Ex Libris)が貼り付けられている。一枚はAwnsham Churchil Esq.とある。英語版Wikipediaなどを調べてみると、アウンシャム・チャーチルは、18世紀の出版人で、ラディカルなホイッグ党員で庶民院議員でもあった人物。ジョン・ロックとロッテルダムで出会い、それ以来の友人であり、ロックの「政府二論」1689など、彼の重要著作を出版した。Awnsham Churchill of the Black Swan, Paternoster Row, London and Henbury, Dorsetとして、ロンドンとドーセット州で多くの出版を手がけた人物であった。シャフツベリー伯爵家はドーセット州シャフツベリーに因む名家であり、初代シャフツベリー伯爵はホイッグの創始者といわれ、第3代もホイッグ党の政治家であったことから、チャーチルは知己を得ていたことも容易に想像できる。チャーチルが何らかの形で出版に関わった可能性があるのではないか。ただ、このシャフツベリーの著作の出版元については、先述のように、ロンドンのジョン・ダービー(John Derby)'John Darby in Bartholomew-Close, London' が、本書の印刷人(Printer)として第3巻末に記されているので、チャーチルは、その著作を蔵書として手に入れただけかもしれない。いずれにしても、ダービーやチャーチルという、18世紀初頭の出版文化人が、本書に、その痕跡を残している点が、非常に興味深い。この蔵書票は、本書が(装丁を含め)オリジナルのものであることを証明していると言えよう。

また、2枚目の蔵書票はスイスのジャーナリスト、George Baumgartner(1952ー)のもの。最近のものである。彼はスイス放送の東京特派員として長年、日本に滞在し、現在もさまざまな日本情報を世界に向けて発信している。彼の蔵書であったものが神保町に流れたようだ。

こうした書籍の所有者の来歴を辿るのも面白い。