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2024年1月21日日曜日

古書をめぐる旅(43)「ヒュースケン日本日記」:Henry Heusken Japan Journal 1855-1861

ヘンリー・ヒュースケンは、初代駐日アメリカ公使となったタウンゼント・ハリスの通訳、アシスタントとして雇用され、幕末、ペリー来航直後の日本、下田にハリスとともに赴任した。彼はアメリカ・ニューヨークに移住したオランダ人で、当時、日本で通じる唯一の西欧語であるオランダ語と、英語を解する通訳としてはうってつけであった。彼はフランス語とドイツ語も話せるマルチリンガルであった。日本に行ってからは日本語も驚くような速さで習得し、その語学能力の高さを示した。しかし、不幸にも江戸で攘夷派の浪士に襲撃され斬殺される。そう、その「ヒュースケン事件」の主役として知られている。その彼は、ニューヨーク出港から日本に到着して、アメリカ代表部の外交官として、日米修好通商条約締結など数々の重要の交渉に関わり、また下田や江戸での日常生活を経験した日々の記録を日記として残した。今回紹介するのはその「ヒュースケン日本日記」である。長らく原本の存在が不明で、ようやく戦後になって発見され、1964年に英語訳で出版された。ヒュースケンの没後、すでに100年が経過している。


「ヒュースケン日本日記」1964年英語版初版表紙
下田奉行所での会談模様図(ヒュースケンの直筆)


下田玉泉寺のアメリカ領事館とヒュースケンの自室
いずれもヒュースケンのペン画

岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗訳


1)「 Japan Journal 1855-1861 」by Henry Heusken 英語版

translated and edited by Jeannette C. van der Corput and Robert A. Willson, Rutgers University Press 1964

本書を和訳した書籍が岩波文庫から刊行されている。「ヒュースケン日本日記1855−1861」 青木枝朗訳 岩波文庫 1989年。原著に忠実に訳されており、英語版のロバート・ウィルソン教授の解説も和訳されている。原著の英文も現代語なので読みやすいが、この日本語訳と合わせ読むとより理解が深まる(末尾のの和訳引用文はこの岩波版から引用したもの)。

日米交渉史の立役者となったタウンゼント・ハリスについては、その日記、「The Complete Journal of Townsent Harris」1930年のほかに、いくつかの伝記、研究書が刊行されている。この「ハリス日記完全版」を編纂し刊行したニューヨーク市立大学のマリオ・コセンザ教授は、ハリスの日記は1858年6月9日で途切れており、この直後の日米修好通商条約の締結や、開港問題、攘夷派のテロ、江戸に移ってからの幕府や各国との交渉という、幕末日本の重要なイベントの記録が逸失している。そうしたことから、ヒュースケンの日記が新たに発見されれば日米交渉史の重要な資料となるだろう、と書いている(1930年当時)。ヒュースケンの日記はその存在は確認されていたものの、近年までオリジナルの草稿が発見されていなかったからである。フランス語の草稿の一部がドイツ語訳でドイツ東アジア協会紀要(1886年)に掲載されているが、断片的な引用の研究論文であり、日記の全容がわかるものではなかった。

その後、長く彼の日記の存在が忘れられていたが、1951年になってヒュースケン自筆のフランス語草稿(ヒュースケンはフランス語でも日記を書いていた)がオランダで発見され、アメリカUCLA図書館が買取り、同大学日本史教授Robert A. Wilsonにより英訳刊行が進められた。一方、同時期にオランダで、検事で小説家のJeannette C. van der Corput女史によってオランダ語の草稿が発見され、アメリカのWilson教授と連携し、両者が共同翻訳/編纂するという研究活動の一本化が実現した。こうして1964年に英訳版としてほぼ完全なヒュースケン日記が復元され刊行されるに至った。それがここで紹介する本書である。実にヒュースケンの没後100年余が経過している。

コセンザ教授が収集、編纂したハリス日記は、1930年に初版が出版されている。ハリスはほぼ完全な日記をつけていたことと、アメリカを代表する公人の立場を意識した記録であるので、その日記は公文書ではないが、歴史研究の一級資料としての価値が高いとされ、たびたび幕末史、日米交流史の研究者に引用されてきた。一方、ヒュースケン日記の方は、個人的な感情や観察模様を書き記すという体裁で、時々、詩の形で表現されるなど、私的な記録の性格が強い。もちろん公務に関する臨場感あふれる貴重な記録、考察が顕著にみられ、ハリス日記を補完する資料として評価されている。また、熱心な聖公会クリスチャンで、厳格な性格のハリスに対し、年も28歳若く、自由で闊達で好奇心旺盛な20代の若者であったヒュースケンは、その人柄が愛され多くの友人を持っていた。仕事でも、通訳としてだけでなく、他国に先駆けて日本に赴任した外交官としての経験、人脈を有していたことから、他国外交団からも高い評価を得ていた。ハリスと異なる視点からの記録としても興味深い。個人的には「西欧の若者が見聞した幕末ニッポン」という風に読むと面白いと感じた。日本へ向かう途中の南回り航路上で寄港した街で、かつての栄光のオランダ海洋帝国の遺構を見て涙するところ、江戸へ向かう途中で見た富士山の孤高の山容に感動したり、下田での役人の外国人に対する扱い、それを強制される住民の姿など、大いなる皮肉とユーモアで記述している所など、その卓越した表現に思わず笑ってしまった(下記に引用)。また、これまで平和に暮らしてきた日本の未来が、これを機に大きく変わり、そのことが引き起こすであろう課題を指摘し、行く末を心配しているところなど(これも下記に引用)、少々センチメンタルな表現ではあるが、後の歴史を知る者としては、その指摘の先見性、人間への愛情と感性の豊かさを感じる。

先述の通り、ハリスの日記は1858年6月9日以降が見えないが、その空白を埋めるであろうと期待されたヒュースケンの日記も、ほぼ軌を一にして1858年6月8日で中断。2年半後の1861年1月1日再開、同月8日で終了している。この一週間後に攘夷派浪士に斬殺されている。

日記が途絶えたこの時期は、ハリスにとってもヒュースケンにとっても、最も重要な出来事が目白押しであった時期であったはずである、特にハリスは、アメリカ側全権代表として、幕府との度重なる条約締結交渉、開港場の選定交渉、領事裁判権、関税決定権、自国人の行動の自由と安全確保など、重要なアジェンダが山積し、最も緊張感漂う時間であった。その苦心の末の日米修好通商条約締結(1858年6月19日)。その批准(1860年)、アメリカ公使館の江戸移転(1859年)の時期の記述がない。もちろんこの間にやりとりがあった公式文書や書簡などは残っているが、彼自身の心情を綴った手記が見つかっていないのだ。ハリスにとって、世界に先駆けて日本との外交関係に主導的役割を果すという、「歴史の画期」とも言える事績を記録として残しておく格好の機会であるのに、それに無頓着であったとは思えない。コセンザ教授は、ハリスは、完全な日記をつけていたが、彼の没後に、その原本が散逸してしまったのではないかと推測している。ハリスは、この条約締結交渉中に体調を崩し、極めて重篤になり、一時は生死を彷徨うこととなった(このため1858年2月27日を最後に、日記が中断する)。幸い一命を取り留めて江戸に復帰。最後には帰国することができたが、このことも影響しているのかもしれない。一方のヒュースケンの方は、英訳者のウィルソン教授の見解によると、そもそもこの時期、記録をやめていた可能性があるとする。その理由は不明である。条約締結交渉に忙殺される時期であったことは確かだ。いずれにせよ、残念ながらハリスの記録の空白を埋めるようなヒュースケンの記述は見つからなかった。日米交流史を文献史学的視点からは、散逸したと思われるハリスの残りの日記が発見されることを期待するしかないのだろう。

それにしても、ハリスにしてもヒュースケンにしても、職業外交官でも、名高い家柄や名門大学出身という背景もない、武功を立てた将軍でもない。どちらかというと庶民の出で、畑違いの民間人であることが面白い。その彼らが乗ってきた母国の軍艦は、彼らを異国の港に降ろすと、後も振り返りもせず「任務完了!」と出港してゆく。見知らぬ異国、異教徒の世界に単身放り込まれ、「ヘンなガイジン」の到来に表向きは慇懃に歓迎されるが、その実は厄介者扱いされる。それでも国益に関わる重要ミッションを完遂しなければならない。あとは孤軍奮闘、着任から一年以上もワシントンからの音信もなく、言葉が通じない(言語という意味以上に)未知の人々の訳のわからない理屈、システム、習俗に対抗して、自国の利益を主張し、必ず成果を勝ち取る。その私人の精神力、知力、胆力と突破力、そしてミッションの対する責任感には、ただただ敬意を表するしかない。この頃のアメリカという新興国の猛烈なエネルギーを感じる。しかしハリスが最後は体調を壊して帰国せざるを得なかった事情もよくわかる。誠にご苦労様と心から労いたい。また多くの人に愛され、日本での貴重な経験をバネに、前途洋々たる将来を期待された若者、ヒュースケンが無惨にも攘夷浪人に殺され、異国の地にその短い生涯を終え。異教の寺院の一角に眠っていることも誠に心が痛い。同年に起きた東禅寺事件で、重傷を負い帰国を余儀なくされたイギリス公使館の一等書記官、ローレンス・オリファントと同様、将来、日米、日英関係に重要な役割を果たしたであろう知日派の若者を、こうした攘夷浪人の狼藉で失ったことは痛恨事である。「人間至る所青山あり」。「彷徨えるオランダ人:Flying Dutchman」よ、願わくばその魂の安らかならんことを。

さらに関心ある方は、過去ログをご参照あれ。

2020年10月7日 伊豆下田の玉泉寺 最初の米国領事館

2021年4月14日 古書をめぐる旅(10)タウンゼント・ハリス日本日記 下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ


ヒュースケン乗馬図と考えられている(高麗環雑記より)
高麗環(こまたまき)は外国奉行と幕閣との間を取り次ぐ役人であった



2)ヘンリー・ヒュースケン:Henry Heusken(1832〜1861)略歴および関連年表

1832年オランダ・アムステルダム生まれ。

父が早逝したため学校を中退して父親の商売を継ぐ。

1853年 21歳の時のアメリカ・ニューヨークに移住 さまざまな職業を転々とする

1855年10月25日 初代駐日アメリカ総領事に任じられたタウンゼント・ハリスの英語/オランダ語通訳、アシスタントとして採用され、ニューヨークを米軍艦セント・ジャシント号で出発。

1856年8月21日(安政3年)下田入港 柿崎の玉泉寺にアメリカ領事館開設 ペリー来航「日米和親条約締結)から2年後。

1857年12月7日(安政4年) 江戸参府 将軍家定に謁見 大統領親書を渡す

1858年6月19日(安政5年) 日米修好通商条約締結(神奈川沖の米艦ポーハタン号船上で)

続いて各国も条約調印(安政5カ国条約)各国の通訳として活躍

1859年(安政6年)4月27日 ハリスは病気治療と休養のため、長崎から上海へ ヒュースケンが同行していたかは不明 下田にいた可能性

1859年(安政6年)5月27日 江戸・麻布善福寺にアメリカ総領事館開設(1875年(明治8年)12月18日まで米国公使館として使用)

1859年7月4日 ハリス/ヒュースケン不和の手紙?

1859年(安政6年)7月8日 ヒュースケン江戸に復帰 ハリス、ヒュースケンの功績に対し、報酬を引き上げるよう本国国務省に交渉。1860年1月1日報酬引上げ

1860年(安政7年)3月24日 大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)

1860年(安政7年)にはポーハタン号、咸臨丸(勝海舟)が批准書を持って米国ワシントンへ

1861年(万延元年)1月1日、プロシアの駐日代表オイレンブルグ伯爵に協力して日本と条約交渉開始

1861年(万延元年)1月15日 江戸・芝赤羽古川端で攘夷派浪士に斬殺される(享年28歳)


3)「ヒュースケン事件」とは

1861年1月15日夜、ヒュースケンはプロシア公使館(幕府の赤羽接遇所にあった)訪問の帰りに芝赤羽、古川橋付近で、攘夷派浪士と思われる数名に襲撃され瀕死の重傷を負う。直ちに善福寺のアメリカ領事館に運び込まれ治療を受けるが、翌未明に絶命。当時は護衛の騎馬侍3名、従卒、馬丁など7人がヒュースケンに付き添っていた。

襲った浪人は、その場から逃亡し、犯人の素性、襲撃の背景も不明である。したがって裁判も行われていない。薩摩攘夷派の浪士組の仕業であるとか、幕臣の遺恨だとか、後世に色々言われているが、どれも明確な根拠がなく断定はできない。横浜開港の当時頻発していた攘夷派浪士による一連の外国人(外国人に付き従う日本人も含む)襲撃事件の一つであり(外国人としては彼は7人目の犠牲者)、特にヒュースケン個人を狙ったり、怨恨や暗殺の意図があったものではないだろうと考えられている(本書のウィルソン教授もこの立場をとる)。

ヒュースケンの葬儀は、18日に執り行われ、幕府からも新見豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守など外国奉行5名が参列し、各国公使、外交団の参列もあり壮大なものであった。軍楽隊の演奏に先導されて、星条旗に包まれた遺体をオランダ水兵が護衛するというもの。遺体は麻布光林寺に埋葬(土葬)され、現在もそこに墓がある(ちなみにアメリカ公使館のあった善福寺は土葬を許さないということであったようだ)。この事件で、幕府はオランダ在住の母親に弔慰金一万ドルを贈っている。

さらに同年5月28日には、イギリス公使館の駐日公使オルコックを狙った襲撃事件が起こり(第一次東禅寺事件)、オルコックは難を逃れたものの、一等書記官のローレンス・オリファントと長崎領事モリソンが重傷を負う事件が発生(2020年10月1日「江戸高輪東禅寺 イギリス公使館跡探訪)。これらの一連の攘夷派による外国人襲撃事件の衝撃は大きく、各国外交団は、幕府に厳重に抗議するとともに、江戸の公使館を撤収し、横浜居留地に移転する。また外交団と居留民保護のために各国軍艦の横浜駐留、各国警備部隊の増強を幕府に認めさせることとなり、幕府にとっては清国における情勢と同様の緊張関係が高まった。ただ、ハリスは幕府との軋轢を避けるために公使館移転には反対。移転派のイギリス公使オルコックと対立し江戸に留まった。

この時期のハリスの幕府と各国との間を調整する役割は重要である。各国に先駆けて、日本を開国させ、通商条約を締結をしたアメリカの全権代表として自信とプライドと共に、それなりの日本への責任があると考えていた。特にイギリスの、清国における武力を持って不当な条約を結ばせ、植民地化への第一歩である租借地を認めさせ、アヘン貿易で国を麻痺させるやり方を、歴史に汚点を残す非文明的行為と非難している。日本との条約交渉では、不平等条約を結ばせたという事実は否定できないが、ハリスが示した条約条件は、清国においてアヘン戦争やアロー号事件後にイギリスが示した条件とは大きく異なる。このハリスが締結した日米修好通商条約が、イギリスを含む各国との条約(安政五カ国条約ほか)の雛形になったことは記憶すべきである。このことを幕府外交官僚たちも理解していた。また、外国人を狙った攘夷派のテロの多発に対しても、ハリスは断じて容認はしないが、その一因に、江戸、横浜に一気に増えた外国人の数、特に中国から渡ってきた欧米人の、上海、香港租界さながらの傍若無人な振る舞いがあったことも認めている。さらに、「違勅問題」が幕府の統治権威を大いに棄損し、かつ横浜開港以来、矢継ぎ早の開市、開港圧力が、社会にも大きな不安を与えていること。これが攘夷派テロに口実を与えていること。故に幕府も苦慮していることを理解し、強引かつ拙速な開市、開港交渉を控える動きを示した。ハリスは幕府にとって、ある意味で良き外交アドバイザーであり、守護者でもあった。もちろんこれは幕府への好意だけではなく、ヨーロッパ列強諸国に対抗する独立後80年しか経っていないアメリカの権益擁護の観点からの対応であったが、ヒュースケンが殺害されたこと、ハリスが体調を壊して帰国してしまったことの、幕府と、その後の日本に与えた影響は小さくない。


ヒュースケン襲撃の図

ヒュースケンの遺体の写真と言われている(出典は不明)
彼の生前の写真は見つかっていないので、これが彼の唯一の写真ということになる


ヒュースケン葬列の図(「プロシア日本遠征記」より)

麻布・光林寺のヒュースケンの墓(現存)


ヒュースケンは日本滞在中、下田と江戸に何人かの日本人女性がいたと言われている。その一人が江戸・麻布の芸妓「つる」さん。ヒュースケンの死に水をとったと言われる。抱いているのはヒュースケンの子供か。だとすれば、この二人の消息は、子孫はどうなったのか。(この写真の出典はオランダ海事博物館所蔵のアルバムだと言われる。「Mrs. Heusken」とあるそうだ)。しかし、幕府、公使館の記録には出てこないし、幕府から弔慰金がオランダの母親に支払われたが、妻と子の存在に言及する記述はないようだ。ヒュースケンの日記にも彼の個人生活に関する記述はなく、妻子についての言及もない。

つると息子

ヒュースケンのデスマスクから描き起こした肖像と言われている。

(注)これらの写真や解説には、出典や根拠の確かでないものもあり、さらなる検証が必要。ネット上の検索で引っかかったものを、参考として紹介するにとどめる。


参考:ヒュースケン日記の中から興味深い記述を引用(岩波文庫版 青木枝朗訳より)

① 下田の街を自由に歩けないことについて 1857年2月25日

「役人の付き添いなしに一歩も領事館の外へ出かけることができなかった。(中略)奉行所に抗議すると、それはあなた方を民衆から守る為だという。可哀想なのは日本の民衆である。我々がそれほど恐ろしい存在だと仕向けられている。(中略)下田の住民は我々と話をしないよう厳重に命令されており、我々が街に出かけるときには、住民は戸も窓も締め切ってしまう。特に婦人は我々が近づくと、まるで人類の敵に出会ったように大急ぎで走り去る。(中略)たまたま大胆に近づいてくる女性があるとすれば、それはシワだらけの八十婆さんで、目が悪いので「異国の鬼」と「自国の人間」との見分けがつかないのである。日本では普通大人しい牛馬までが、我々に出会うと目が覚めたように元気になり、後ろ脚で立ったり、跳ねたり、重い荷物を積んでいるのに全速力で駆け出したりする始末である。犬などは、月に向かって吠えるだけの動物のはずなのに、何をどう間違えたか、我々を見るとひどく騒ぎ立て、町中が犬の大合唱になり、我々の後を追いかけて街外れまで来ると、そこで郊外の犬に吠える権利を譲渡するのである。猫だけは外国人に過酷な日本の法律には従わず、無頓着に我々を見つめている。この冷淡な動物だけが、我々の最上の接待役であるというに至っては、我々も随分落ちぶれたものである」


② 江戸城に将軍に謁見した時の感想 1857年12月7日

「日本の宮廷は、確かに人目を引くほどの豪奢さはない。廷臣は大勢いたが、ダイアモンドが光って見えるようなことはなかった。(中略)シャムの宮廷の貴族は、その未開さを泥臭い贅沢で隠そうとして金や宝石で飾り立てていた。しかし、江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳を備えた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光を添える洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイアモンドよりもはるかに眩い光を放っていた」


③ 大統領の親書が将軍に手渡された瞬間の感想 1857年12月7日

「これが、この帝国から一切の異国的なもの、すなわちキリスト教的なものを放逐した君主(家康)の子孫(家定)の面前で行われたのである。(中略)しかし、新参の宗教に加えられた過去の残虐行為を理由として日本人を責めることはやめよう。(中略)我々の歴史を振り返ってみても、異端審問の火は容易に消えなかったし、(中略)優れた文明を誇り、「キリストのしもべ」と自称する我々ヨーロッパ人も、信仰を異にするからといってお互いに殺し合うことをやめず、そうしたすべての残虐行為や火炙りや絞首刑が、愛と恵みの主(愛と慈しみだけを教えたにも関わらず)に仕える為に必要だと公言するほど狂信的であったのだから」


④ 鎖国を終わらせて日本が世界の国々の仲間入りをした瞬間に立ち合った時の感想

「しかしながら、今や私が愛しさを覚え始めて居る国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にお前のための文明なのか?この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は称賛する。この国土の豊かさを見、至る所に満ちている子供の愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、「おお、神よ!」この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をこの国に持ち込もうとして居るように思われてならないのである」