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2024年3月7日木曜日

古書をめぐる旅(46)ガーター勲章捧呈使節団訪日録:The Garter Mission to Japan 〜40年ぶりに日本を訪れたリーズデール卿の記録〜

The Garter Mission to Japan, 1906

ブルークロス表紙に金で日本女性像が型押しされている



若き日のリーズデール卿(日本赴任直前)
アルジャーノン B.ミットフォード(28歳)

リーズデール卿(1836-1916)


以前のブログ(2022年12月16日「古書をめぐる旅(28)」SatowとMitford〜二人の英国外交官の幕末・維新風雲録〜)で、幕末から維新の激動期に英国公使館書記官であったアルジャーノン B. ミットフォードの二つの著作、即ち、リーズデール卿となってから著した「回想録」と「エッセイ・講演集」を紹介した。その際に、40年ぶりに日本を訪問した時の「ガーター勲章捧呈使節団訪日録」について言及したが、その1906年ロンドン刊の初版本が手に入ったので、今回はそれを紹介したい。

ヴィクトリア女王崩御の後、王位を継承したエドワード7世は1902年の日英同盟締結を機会に日本との王室同士の友好関係を築くために、コンノート公爵アーサー(英国王の甥)を国王特使として、明治天皇へのガーター勲章捧呈訪日使節団を派遣した。その首席随行員として,国王の皇太子時代からの友人であるリーズデール卿が選ばれ、40年ぶりに再来日した。リーズデール卿は、爵位継承前の若き日に、駐日英国公使館書記官として幕末の日本に赴任(1867−1870年)したアルジャーノン B. ミットフォードである。これは1906年2月19日横浜入港から、3月17日横浜出港までの26日間の日本滞在記録である。ただ、これは公式な外交記録ではなく、彼が本国の家族に宛てた私的な日記手紙の形式となっている。

リーズデール卿にとっては40年ぶりとなる日本の第一印象は、攘夷の嵐吹き荒ぶ幕末/維新の「古い日本」と、日英同盟締結(1902年)と、日露戦争(1904年)に勝利した「新しい日本」の大きなギャップ。本書ではその変貌ぶりに感慨ひとしおというトーンが貫かれている。日清、日露の戦争勝利で日本が世界から注目を浴びていた時期、日英関係がもっとも親密であった時期の再訪日である。この時の感想を下記の「Memories by Lord Redesdale:リーズデール卿回想録」と講演集「A Tale of Old and New Japan」でも語っている。

Memories by Lord Redesdale I, II:リーズデール卿回想録全2巻 in 1915
彼の最晩年に、第一次世界大戦後に書かれた回想録である。この18章から26章に日本での幕末から維新の時の出来事が詳しく記述されている、この中でもガーターミッションで再訪したときのことが簡潔に記録されているが、詳細は本書で。。

A Tragedy in Stone and Other Papers By Lord Redesdale :リーズデール卿講演集 in 1912
この講演集の中に、A Tale of Old and New Japan, Three Hundred years ago, Feudalism in Japan, Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago I, II、という5篇の日本の思い出集が収録されている。特にロンドンのジャパン・ソサエティーでの講演、A Tale of old and New Japanの中でこのガーターミッションのことが回想されている。

本書、1906年刊行のThe Garter Mission to Japan:「ガーター勲章捧呈使節訪日録」によると、コンノート公爵使節団の日本での日程は次のようなものであった。

2月19日    横浜入港 荒天 鉄道で新橋へ 新橋駅での明治天皇の出迎え
2月20日    皇居でガーター勲章捧呈式 宮中晩餐会
2月22日    歓迎式典 横須賀軍港訪問 ウィリアム・アダムス回想
2月23日    浜離宮 鴨猟
2月24日    地震 伏見宮殿下午餐会 打毬観戦 歌舞伎 
                                    コンサート/合唱 (ヘンデル、モーツアルト、ワグナーなど) 
                                    コンノート殿下主催の答礼晩餐会
2月25日    泉岳寺参詣 日比谷公園で大名行列参観
2月26〜27日 明治天皇コンノート殿下を見送り 公式日程を離れ静岡訪問
2月28日    静岡から琵琶湖を眺めながら京都へ
                                    明治天皇拝謁時に攘夷派浪士襲撃された事件、後藤象二郎と中井弘回想      
3月1日     維新英傑、木戸候、中井弘墓参 知恩院 東福寺へ
3月2日     軍艦で下関 九州 佐世保軍港へ
3月3〜4日   佐世保から軍艦で鹿児島到着 島津公表敬 仙巌園訪問 
                                    薩英戦争、生麦事件の回想 西郷隆盛墓参 東郷元帥の案内
3月5日           軍艦で鹿児島から広島へ 宮島参詣
3月6日     呉、江田島海軍兵学校視察
3月7日     宇品から広島 陸軍大演習
3月8日     広島から神戸へ 鉄道で大阪、京都へ
3月9〜11日  京都御所 二条城 金閣寺 銀閣寺 茶の湯 美術商巡り 
         「みやこをどり」観劇 
3月11日    奈良 大仏、春日山
3月12日    名古屋訪問 舞踊、観劇
3月13日    東京で西園寺公晩餐会
3月14〜16日 東京 岩倉公墓参 日光訪問
3月17日    横浜出港 富士山の姿を見ながら帰国の途に

極めてタイトなスケジュールで、連日、歓迎行事や視察が目白押しであったが、精力的に国内を巡っていたことに驚く。宮中での公式な行事から、要人への表敬訪問、名所旧跡視察、歌舞伎観劇や打毬観戦、鴨猟などの行事への参加、各地での歓迎行事など、大変忙しい滞在日程の中で、大きな変貌を遂げた新生日本の姿が生き生きと描かれている。「祝日英同盟締結」、「祝日露戦争勝利」に湧くそのような時節であったため、行く先々で一行は大歓迎を受け、東京が、日本が一種のフィーバー状態であった様子は、当時の日本側の新聞記事からも窺い知ることができる。攘夷派の刺客に狙われた40年前がまさに昔日の感ありというわけだ。

これだけ見ると日々の視察、歓迎イベントの記録のように見えるかもしれない。確かにきちんと記録を残すリーズデール卿の几帳面な人柄も感じるが、私的な手紙日記なので、むしろ日本という国への眼差し、彼自身の40年前の思い出や、過去と現在の比較、なぜ日本がこのように短期間で驚異的な発展を遂げたのか、その歴史的背景など、東西文明の比較視点での分析など、リーズデール卿の豊かな教養と知識に裏打ちされた独特の筆致で、情感も豊かに綴られている。これは旅行日記・手紙というよりは、その形をとったいわば随想集と言っても良いかもしれない。

特に印象的な記述は、皇居での明治天皇拝謁である。京都御所での若き明治天皇拝謁(明治元年:1868年)以来である。そしてもう一つの感動的な場面は、最後の将軍徳川慶喜との大坂城拝謁(慶応3年:1867年)以来の再会についての記述である。

1868年、明治新政府発足に伴い、若き「ミカド」に謁見するために京都御所に向かうハリー・パークス英国外交使節一行は、まさにその途上で攘夷派の武士に襲撃された。このため拝謁延期を余儀なくされた。条約が締結され、さらに幕府が倒れ、維新成就という時代が変わったはずの京都での攘夷派襲撃事件。幸いこの時は護衛に当たっていた新政府側の随行の後藤象二郎と中井弘が奮戦し刺客を撃退し、パークス一行はことなきを得た。このことで、後にヴィクトリア女王から二人に感謝のサーベルが贈られた(2023年6月28日静嘉堂文庫ミュージアムのヴィクトリア女王から贈られたサーベル)。その事件からちょうど38年後の今日。英国王エドワード7世名代のコンノート公爵使節が、東京の皇居に明治天皇拝謁、ガーター勲章を奉呈することになるとは。それに先立つ数時間前には、横浜から鉄道で移動してきたコンノート公爵を明治天皇が新橋駅に出迎えるという出来事に立ち会った。かつて「ミカド」は禁裏(forbiden palace)にいて「神」として、外国人はおろか一般の日本人が会うことも「もってのほか」の神聖な存在だった。その「ミカド」が、帝国の統治者の威厳を備えた近代君主として今、新橋駅頭に英国使節団を迎えるために立っている。日本の劇的な変貌を見た瞬間であると、感慨深く記述している。

一方で1867年、大政奉還した最後の将軍徳川慶喜に、ハリー・パークス、アーネスト・サトウと共に大坂城で謁見。三十代のハンサムで若き慶喜の威厳ある佇まいが昨日のことのように思い出されると回想している。その後、新政府軍との戦いで、慶喜は幕府軍を置き去りにして江戸に逃げ帰るという不可解な行動をとる。この英邁な君主の評判高い「タイクン」の受け入れ難い「敗走劇」から39年。今は華族として天皇の藩屏の一翼を担う徳川慶喜公と再会する機会がやってきた。英国王名代コンノート公爵拝謁の日本側高官の一人として参列していた。後日、コンノート公爵と昼食を共にした折には、最初、徳川慶喜公はリーズデール卿を、大坂城のハリー・パークスに随行した英国公使館員ミットフォードとは気づかなかった。しかし、リーズデール卿が自己紹介し、名前が変わったがあの時のミットフォードであると名乗ると、すぐに思い出し、しばし懐かしく語り合ったという。何を語り合ったのかは書かれていないが、その時の慶喜公はどんな気持ちだったのだろう。昼食後、慶喜公を玄関に見送った。かつては大勢の随行の側近と護衛に取り囲まれていた彼も、今や誰一人アテンドするものもなく一人馬車で帰って行った。老いたとはいえその佇まいには若き日の将軍の面影があった。そして、かつての栄光の頂点にあった激動の時代よりも、穏やかで幸せそうな老人として余生を送っているようだと、そう記述している。

また使節団一行をアテンドした高官の中に東郷平八郎元帥、黒木為楨(ためもと)大将がいた。二人とも薩摩出身で、日露戦争の英雄である。リーズデール卿よりは10年ほど若く、彼が英国公使館にいた時には面識もなかった。東郷元帥は物静かで、伏目がち。幾分憂いすら帯びた人物。黒木大将は快活でオリンピックアスリートのような体躯でジョークもうまいと、二人の印象をこのように語っている。しかし、一見対象的なこの二人に共通するのは、大きな名誉を得た軍人にもかかわらず決して傲慢ではなく、謙虚さと自制心をもっている点であると評している。このような武人がロシアを打ち負かしたのだと改めて認識した。英国留学生にして日本海海戦の英雄、東郷平八郎元帥によるアテンドはとりわけ感慨深かったようだ。この後、この二人の随行で薩英戦争の地、維新胎動の地、鹿児島を訪れ、島津公爵を表敬。また維新の英雄である西郷隆盛の墓に参っている。この時にはすでに、岩倉、西郷、大久保、木戸などの多くの維新英傑が他界しており、深い悲しみと心からの敬意をもって墓参している。いわば激動の時代を共有した同志であり、彼らの近代日本建設への貢献、威徳を偲ぶとともに、時の流れに東洋的な無常感を抱いたと書いている。

リーズデール卿は、若きミットフォード時代に、忠臣蔵や曽我兄弟の物語などを紹介したTales of Old Japan「日本の昔話」1871年 を刊行している。その中で武士道的な道徳観や忠誠心を取り上げている。今回はさらに新渡戸稲造の「武士道」や、バジル・ホール・チェンバレンの「日本事物誌:Things Japanese」での武士道精神の考察を引用して、薄れゆく西洋における騎士道精神(chivalry)との対比を念頭に、その日本人の根底にある精神を高く評価している。かつて攘夷派の武士に理不尽に襲撃された経験を有するにもかかわらず、また封建的な武士の支配を覆したのが王政復古、明治維新であったはずなのに、武士道精神が日本人(全てがサムライでもないのに)の精神的支柱であり、それが劇的な国家の発展と、日露戦争勝利という目覚ましい躍進の原動力になっていると分析している。もっともこのような評価は、当時の日本を観察する外国人に共通する視点であったように感じる。成功の秘密を何か伝統的な精神や習慣に見出そうとする。ちょうど戦後の高度経済成長時代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で取り上げた日本人の勤勉性や家族主義経営などに象徴されるような評価だろう。ただ同じ時代を生きたフェノロサや岡倉天心、またラフカディオ・ハーンなどによって富国強兵に突っ走る日本が批判的に受け止められたことも記憶しておくべきだろう。岡倉天心は、日本は「武士道精神」ではなく、「茶の湯精神」が評価される国になるべきである(「茶の本」)と訴えている。

横浜に入る前には、一行は南回りで大英帝国支配各地に寄港しながら香港までやってきた。それぞれの地で歓迎を受けたとある。またその歓迎の程度が、国王への忠誠心の評価尺度になるとも書いている。また横浜出港後は太平洋を横断し、カナダ経由で帰国している。カナダが美しく豊かな自治領であることを誇らしく書いている。まさに大英帝国全盛時代最後の外遊であったのかもしれない。

この訪日録には、日本での若き日々の経験への懐古と、古い日本文化への憧憬、新生日本への驚嘆が溢れており、それに加えて各地で受けた大歓迎で感極まった思いが満ちている。しかし、そこは英国貴族。その感情を大袈裟に披瀝したり、感嘆詞を多用して表現するのではなく、知性と教養に裏打ちされ、よく抑制された流麗な文章にその感情表現を委ねている。日英関係にとって大きな外交成果の結実を迎えた時期であり、若き日に攘夷派武士の白刃を潜って、日本の幕末維新史に、ハリー・パークス、アーネスト・サトウと共にその名を刻んだという自負が行間に綴られているように感じる。かなり日本贔屓の文章となっているが、その分だけやがてやって来る日英関係の破綻、戦争。大日本帝国の解体という歴史を知るものとしては複雑な思いがする。そして皮肉にも戦勝国となった大英帝国の栄光の行く末も。リーズデール卿は、こうした近未来の両国の姿を見ることなく第一次世界大戦後の1916年に他界した。古き良き時代に活躍した知日派英国貴族であった。


「英国特使コンノート殿下ガーター勲章捧呈式御挙行之光景」(Wikipedia)

使節団との集合写真
中央がコンノート公爵、左隣が東郷平八郎元帥、右隣が黒木為楨大将
、その右隣がリーズデール卿(出典不明)


(参考)
ガーター勲章は、イングランドの最高勲章。元々はガーター騎士団の団員章という位置付けだ。昭和天皇にも奉呈されたが、戦争に入ると裕仁天皇のガーター勲章は剥奪された(ドイツ皇帝、オーストリア皇帝、イタリア皇帝も同様)。しかし、戦後、再び復活されることとなった。この復活は異例である。現在の明仁上皇も保持者である。ちなみにヨーロッパのキリスト教徒以外の君主は日本の天皇だけである。また共和政国家の元首に保持者はいない。天皇がイギリスの勲章をもらって嬉しいかどうかという問題ではなく、このような勲章の交換は、君主をいただく国家間の外交儀礼上の栄誉と位置付けられており、2国間の友好と平和、世界の友好と平和の外交的シンボルとして見るべきである。天皇からは大勲位菊花章頸飾が英国王に贈られている。