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2025年3月29日土曜日

古書を巡る旅(63)「セネカ道徳論集:Seneca's Morals」1685年英訳版 〜古代ローマの哲人の言葉が繰り返し引用される訳〜

表紙 哲人政治家セネカの悲劇的な最期の姿が描かれている

幸福な人生、怒り、寛容について



セネカの出身地スペイン・コルドバに建てられた像

   Sir Roger L'Estrange (1616-1704)


セネカ: Lucius Annaeus Seneca (BC1(?)~AD65)は、ローマ時代の政治家、元老院議員。ストア主義哲学者。第5代皇帝ネロの幼少期の教育係でのちにブレーンになる。最後はネロに自死を命じられ従容として冥界に旅立った。この悲劇的な死は日本人にとっては秀吉と利休の物語を彷彿とさせる。セネカは多くの著作を残している。本書は、そのセネカのラテン語の論文集、書簡集を英訳、要約した "Seneca's Morals by way of Abstract":「セネカ道徳論集要約版」である。翻訳者は17世紀のイギリスの文筆家、言論人、ロジャー・エストランジェ卿:Sir Roger L'Estrange (1616-1704)である。本書は5部構成になっており、今もオックスフォード版や岩波全集版として現代語訳されている名著ばかりである。1685年刊行の稀覯書である。

1)恩恵について 

2)幸福な人生について 

3)怒りについて 

4)寛容について 

5)書簡集

英訳者のエストランジェはノーフォークの貴族の出で、17世紀イギリスの王政復古期の著述家。政治パンフレットやThe Observatorを出版した言論人で、イギリス最初の新聞発行人でもある。根っからの王党派で、反王党派の言論弾圧を行いその功績で王政復古後のジェームス2世に爵位を授けられた。いわば「王室報道官」あるいは「検閲官」のような立場であった。またトーリー党の議員としても活躍したが、名誉革命でジェームス2世が王位から追放されると、新たに即位したウィリアム3世により彼は投獄され政治生命を失なう。それからは古典の翻訳に勤しみ、本書の他にも「イソップ物語」(1692)の英訳も手がけた。後世、17世紀イギリス出版界、言論界における彼の評価は高いとは言えず、長くあまり注目されてこなかったが、最近になって本書のような古典の翻訳本、とりわけイソップの英訳者として注目されるようになった。その文学界への影響力の軽重は別にして、どこか前回紹介した王室桂冠詩人ドライデンの人生に似てないか?(2025年1月18日「古書をめぐる旅(60)ジョン・ドライデン)この時代の王権に対する言論人、詩人、文学作家の葛藤と挫折。やがてその能力の発揮場所を古典作品の翻訳に求めた人物がここにもう一人いた。

古代ギリシャのストア主義哲学はローマ帝国繁栄の時代(パクスロマーナ)にセネカやキケロ、エピクテトスなどによって論じられた。五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニウスも「自省録」でストア主義を説いている。ストア主義は、人間は「理性」:ロゴス(logos)によって「感情」:パトス(pathos)を制することで「不動心」:アパティア(apatheia)に達することができると考える。人間の自然的本性は「理性」であり、故に「理性」に基づき自然体で生きることよって「自己を確立」「心の平穏」を果たすことができると述べている。不安が渦巻く世の中で、個人はどうすれば幸福になれるか?これには、自己のコントロール下にあることだけに集中するべきであるとする。相手が何をどのようにするかではなく、自分が何をするべきかのみに集中する。また未来の苦しみに対する恐怖と、過去の苦しみの記憶から解放されることだとも言う。すなわちストア主義によれば、自分がコントロールできない過ぎ去った「過去の呪縛」や、まだ起きていない「未来の不安」から脱し、「現状への怒り」や「他人への憎しみ」などの受動的な感情がら脱して、理性によって自分を確立することが心の安定と幸福をもたらすと言う。なかなか「言うは易し行うは難し」である。ストア主義、すなわち禁欲主義(「ストイック」の語源となった)は、セネカなどの現行録や書簡集の読むと、哲学と言うよりは道徳論、人生訓のようでもあり、ある意味中国の老荘思想や、孔子・孟子、論語の教えに通じる点を感じる。そのため現代でも難しい哲学書よりも、多くの格言集、名言集にセネカの言葉が引用され、その思想が伝えられている。

昨今、セネカの理性に従ったストイックな生き方を提唱する「ストア主義哲学」が見直されている。経営書などにもたびたび引用されるケースが見られる。現状への怒りと先行きの不安。感情のコントロールがままならないような事態が毎日のように起きているという現実。SNSが広げる根拠不明で何が真実なのかカオスな世界に、精神状態を平静に保つことが出来なくなっている人も多い。まさに他人の言動に一喜一憂する。人に振り回される。そんな時に、感情:パトスではなく理性:ロゴスに基づく行動を中心とするストイックな生き方が不動心:アパティアに導いてくれるという考え方が、時代を乗り切る知恵として取り上げられるのである。

このアメリカ繁栄の時代、パクスアメリカーナ時代の終焉を迎えようとする21世紀、2000年前のパクスロマーナ時代の言葉を噛み締めるのも一興だ。これまで培われてきた価値観、道徳観、倫理観に対する反動が起こり、ありとあらゆるものがひっくり返り、何が正義で、何が真実なのかわからなくなってしまう不安。人間の理性が信じられなくなっている時代だ。怒りと憎しみと対立を煽り、言動は支離滅裂だが我欲だけはブレない現代の「皇帝」。彼は国益と世界の平和を、そして人々の心の平和をも毀損する。そもそもそんな古代の専制君主のような人物を「皇帝」に選んでしまう民主主義とはなんなのか。しかも専制をコントロールするはずの仕組みが全く機能しないのはなぜなのか。信じてきた価値観が揺らぎ始める不安。信頼を寄せていた社会システムに裏切られる失望感。そんな時こそ理性:ロゴスによる不動心/心の平安:アパティアに立ち戻ってリスタートするしかない。怒り、憎しみ、対立、そして専制主義への「へつらい」は人間のロゴスを破壊する。ロゴスが破壊されるとアパティアも失われる。

また、このセネカ道徳論集は、17世紀イギリスの王政復古期に英訳されて人々に読まれた。この時代のイギリスはまだ繁栄の時代(パクスブリタニカ)の前夜であったが、内戦で王政、共和政、王政と目まぐるしく政治体制が変わり、カトリック、国教会、非国教会と宗教対立が起き、外に目を向けるとスペインやオランダとの海外覇権争いという苦悩の時代であった。この時も価値観や道徳観の混乱が起き、専制君主への「へつらい」で生き延びようとする「賢人」も続出した。人々はは自己を見失った。そして古代ローマの哲人セネカが読まれた。時代は繰り返す。そして先人の知恵もまた繰り返し引っ張り出される。「困った時のセネカ様」というわけか。結局人間は同じことを繰り返して永遠に心の平安:アパティアを得られないようである。宗教/信仰も相対化され、また理性も相対化されてしまう。そうした中で自己の確立と不動心は他人の言説によってなすものではなく、自分の理性の絶対化によりなすものだ。セネカの言葉、ストイックな姿勢から学ぶことはそれだろう。自分が育て支えた暴君ネロに、最後は自死を命ぜられ、従容として死に向かった。それは自分自身の理性に対する絶対的な自信があったからだ。それがアパティアというものだろう。セネカとネロ。利休と秀吉。その生き方は歴史が評価する。


セネカの言葉:

“It is not that we have a short time to live, but that we waste a lot of it. Life is long enough, and a sufficiently generous amount has been given to us for the highest achievements if it were all well invested. But when it is wasted in heedless luxury and spent on no good activity, we are forced at last by death’s final constraint to realize that it has passed away before we knew it was passing. So it is: we are not given a short life but we make it short, and we are not ill-supplied but wasteful of it… Life is long if you know how to use it.”

「人生が短いのではない、我々がそれを浪費しているのだ。人生は長い。使い方さえ誤らなければ、どんな偉業をも成し遂げられるだけの時間を我々は与えられている。しかし、それも、ぼんやりと無益なことばかりに時間を浪費していれば、我々は最後に死という最終期限をもって、気づかぬうちに人生が過ぎ去っていたことを突きつけられることになる。人生が短いのではなく、我々がそれを短くしているということ。時間が与えられていないのではなく、我々がそれを浪費しているということ。人生は長い、その使い方さえ知っていれば」

“It is not the man who has too little, but the man who craves more, that is poor.”

「ものを持たぬ者が貧しいのではない、ものを求め続ける者が貧しいのである」

“Every new beginning comes from some other beginning’s end.”

「新しい始まりは常に何かの終わりによってもたらされる」

“All cruelty springs from weakness.”

「全ての残酷な行為は弱さに起因する」

“There is no great genius without some touch of madness.”

「天才は必ず微量の狂気を有す」

“Time heals what reason cannot.”

「時間は理性が癒やせぬ傷を癒やす」

“Time discovers truth.”

「時は真実を見つけ出す」


2025年3月19日水曜日

皇居東御苑のサンシュユが満開に!

春の皇居東御苑は、梅や桜、椿はもとより、マンサク、ハクモクレン、ヒューガミズキなど、色とりどりの花がつく樹木が次々と開花して美しい。サンシュユ(山茱萸)は梅から桜へと移り変わる時期に満開を迎える樹木で、その黄色い花が気分を明るくしてくれる。中之門・大番所前と平川門のサンシュユが特に見事である。サンシュユは元々は江戸時代中期に中国から伝来した木で、漢方薬の原料になった。秋に赤い実がつき、その実を干して煎じて生薬として服用すると、滋養強壮、強精、気鬱の改善、頻尿改善などに効くそうである。中高年の友、八味地黄丸などの主原料である。黄色い色からして元気が出そうだ。

しかしこのサンシュユ、満開で見事な樹相にも関わらず、なぜかそれほど人気がないようでカメラを向ける人が少ない。今日も大勢の外国からの観光客で賑わっている東御苑だが、早咲きの寒緋桜や河津桜の前で記念写真を撮る人は多いが、サンシュユの前で記念写真撮る人はまず見かけない。目立つ色なのに人が群がってはいない。ということで独り占めでゆっくり鑑賞、撮影できる。もっとも写真撮り始めると、なぜか結構人が集まってきてみんなスマホで撮り始めるからおかしい。よく行列のできないヒマな饅頭屋で買っていると、必ずと言って良いほど客が集まってくる。不思議だ。私には招き猫効果があるようだ。

今日(3月18日)は、ちょうどメジャーリーグ開幕戦(MLB TOKYO SERIES)、ドジャーズ対カブス戦が東京ドームで始まる。対巨人と対阪神とのエクシビション・ゲームは昨日までで終わったが、どのゲームもチケットが高騰していて手に入らないようだ。そのせいかドジャーズのキャップを被ったり、カブスのTシャツ着たりした観光客を多く見かけるように感じる。大谷、山本、佐々木、そして鈴木、今永の活躍を楽しみにしている。日本人もどんどん海外へ出て自分の実力を発揮してほしい。「日本一」じゃなくて「世界一」を目指せ!ウチに閉じこもっていてはダメだ。

今年2月、梅の季節の東御苑探訪ブログ:2025年2月22日「皇居東御苑の梅」


平川門のサンシュユ




中之門


中之門、大番所前のサンシュユ









二の丸庭園

諏訪の茶屋

巽櫓(桜田二重櫓)


百人番所

左手は「皇居三の丸尚蔵館」

(撮影機材:NikonZ8 + Nikkor Z 24-120/4)

2025年3月15日土曜日

古書を巡る旅(62)「ピクチャレスク」''Picturesque'とは何か? 〜「インスタ映え」のルーツは18世紀イギリスの William Gilpin?〜

 

William Gilpin (1724-1804) (Wikipedia より引用)

Gilpinの「ピクチャレスク旅行記」三部作


私は趣味として風景写真を撮ること、鑑賞することを大いに好むのだが、どうしたら「良い」写真を撮れるのか。「良い」写真とは何か。この問いに常にぶつかる。これは写真を愛するものの永遠の問いだろう。敬愛する写真家、入江泰吉が古代大和をめぐり、歴史という時間をカメラで写しとる。古代人の心情を写しとる。心象風景を写しとる。この不可能を何とかならないかと一生をかけてやってきたがなかなかうまく行かないと自評している(2016年12月20日「入江泰吉旧邸訪問」)。カメラという文明の利器を使って時空を超えた景色を切り取る。現代のカメラはよく写る。誰でも「綺麗な」写真を撮ることができる。しかしその技術的合理性を超えた「美」を追いかける求道者の道を極めることの難しさ。マエストロの言葉には重みがある。風景写真は、文字通り風景をそのまま切り取ればばそれで良いのだろうか。それには何か特別なテクニックが必要なのか。高解像なレンズが必要なのか。確かに「絵のように美しい」風景写真を目にすることは多いが、そこには何が表現されているのか。表現者の心や訴えかける思いが写っているのか。その美学に感動するか。写す側も、鑑賞する側も悩むところだ。まさに「絵のように美しい」:「ピクチャレスク」とは何なのか?という問いである。

ピクチャレスク:Picturesqueとは?

18世紀末ごろ、イギリスで盛んになった美的概念、あるいはそれを追い求めるムーヴメントである。まさに文字通り「絵のように美しい」と言う意味である。しかし、そこにはどのような「美」が表現されているのか。それはどういう芸術としての感覚を持つのか。それを追いかけたのがウィリアム・ギルピンである。彼は、自然の景観に、17世紀の風景画家クロード・ロランに代表されるような風景画の美をみいだすことを目的とした「ピクチャレスク旅行」を唱導した。そしてイギリス全国を旅して回った。その中で「ピクチャレスク」を新たな美的感覚と認識するようになった。ロランは風景が美学的に真剣に取り組むべき画題とみなされる事がなかった時代に、ローマを中心に風景を主題とした作品を多く生み出した。ギルピンはこれに触発され、イギリス国内の風景にそれを求めた。すなわち荒々しく恐怖さえ覚えさせる山の風景や廃城の佇まいに「崇高」さを感じ、これに「美」的感覚が結合すると考えた。これに影響を受けたユヴデール・プライスが、哲学者、美学者であるエドモンド・バークの提唱した美的範疇としての「崇高」と「美」という対立理念(「崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察」1757)と、これをつなぐもう一つの美的範疇として「ピクチャレスク」を加えた。これには「不規則性」「突然の変化」「想像力を刺激する力」などの特質があることを指摘した。このようにギルピンの旅行記がきっかけとなり1770年ごろからしだいに流行をみせた「ピクチャレスク」は、ターナー、コンスタブルなど多くの画家に自国の風景に対する目を開かせるとともに、ワーズワース、コールリッジなどロマン派詩人にもその詩作の「美」に大きな影響を与えた。そしてリージェントパークや多くの宮殿建築、庭園を設計した建築家ジョン・ナッシュは、プライスにインスパイアーされて「ピクチャレスク」を庭園に実践しようと試みた。すなわちフランスの庭園のような幾何学的人工的な造園よりも、非対称で自然を生かした庭園を好む、いわゆる「イングリッシュ・ガーデン」の基本思想を生んだ。「ピクチャレスク」は多様な哲学的、美学的な要素を内包し、芸術のジャンルを超えて多方面に発展的に生成されていった概念であった。

こうしたムーヴメントは、美学の世界においては18世紀イギリスのプロテスタント全盛時代に起きた、カトリックの懐古的世界へ回帰しようとする動きの一つであると捉えることができる。中世ゴシック世界を舞台としたホレス・ウォルポールの「オトラント城奇談」(1764年)など18世紀怪奇小説もここから生まれた。すなわちプロテスタント的な人間の理性に基づく経験主義的、啓蒙主義的合理主義への反動。換言すれば科学的合理性、理性による認識よりも、カトリック的な超自然的世界、中世的な非合理性世界に美的価値を見出す。例えば美的な世界にゴーストや幽霊、悪魔の存在も否定しないで受け入れる。またバークが言うように「崇高」には人智を越える「恐怖」の感覚すらが含まれる。不完全なもの、意表をつくもの、これらもある種の想像力を掻き立てるものとして評価する。そのようなムーヴメントであった。時あたかも産業革命の進展、科学万能の時代であり、それへのある種の反動が沸き起こった時代でもあった。神秘主義的な詩人ウィリアム・ブレイクが、あの有名な長編叙事詩「ミルトン」の一節「エルサレム」で歌った、「緑の沃野に‘悪魔の工場‘が屹立した」時代であった(2021年9月8日古書を巡る旅(14)「ブレイク詩集」)。ギルピンやプライス、バークが言う「美」と「崇高」といった審美感は、科学的合理性を有した美意識や、人間の理性から来る感覚ばかりではなく、むしろゴシック文化や、さらにはケルト主義といった審美的文化観を共有するものなのである。特に視覚表現はゴシック文化と密接につながるものであり、そこにある種の想像力を刺激する「ピクチャレスク」が「美」と「崇高」に次ぐ第3の審美概念として登場しする余地があった。「ピクチャレスク」は18世紀に新たに出現しつつあったロマン主義的感性の一部をなしていた(下記参考1)。


William Gilpin:ウィリアム・ギルピン(1724−1804) 

カンバーランド地方出身でオックスフォードに学び、聖職者・教育者、文筆家であったウィリアム・ギルピンは、バークやプライスらと共に美学運動を主導した人物として知られ、イングランド、ウェールズの風光美を、自らスケッチし銅版画として掲載した旅行記をシリーズで発表した。これが18世紀後半から19世紀初頭にイギリスにいわば「ピクチャレスク国内旅行」ブームを引き起こした。そしてたちまちターナー、コンスタブル等の風景画家、ワーズワース、コールリッジ等のロマン派詩人にも深い影響を与えた。また、ギルピンの思想は、「ピクチャレスク旅行」ブームをもたらしたというのみならず、その後の美学・美術史学、文芸理論、英国ロマン主義文学研究、さらに近年は 環境学、風景学、景観学、都市論の視点からも高い学術的関心が寄せられている。しかしながら、ギルピンは日本ではほとんど取り上げられることがなく、翻訳本も研究書も少ない。最近になって風景論や環境論などで学術的な関心が高まりつつあり、彼の思想、著作が、いくつかの研究論文や評論集に引用され、取り上げられるつつあるが、ギルピンの主要著作の原典はほぼ国内では入手困難な状況である。今回は彼の著作の中から3冊の原本(下記参照)を入手することができたので紹介したい。さらにエドモンド・バークの著作、「崇高」と「美」に関連したものを一冊紹介したい。バークは18世紀イギリス政治思想史、哲学史のなかで取り上げられ、特にフランス革命を批判した著作は歴史的にも重要著作である。本書も後世の研究家による復刻版である。


ピクチャレスク旅行記

イギリスでは貴族階級を中心に盛んであったヨーロッパ大陸を巡るグランドツアーに対して、先述のようにイギリス国内の大自然、荒涼たる風景を巡るツアーがブームになっていった。背景にはフランス革命による政情不安で大陸のグランドツアーが困難になったことがあると言われている。しかしアルプスの雄大な景観やギリシア、ローマの遺跡を楽しむのでなくても、この機会にイギリス国内のまだ開拓されていない景観を見直そうという動きである。この時期は産業革命の進展で工業化が進み、都市に中産階級と労働者階級が生まれ、産業資本家などの都市富裕層も現れた。また都市と田園地帯の二極化が明確になりつつある時期で、都市住民を中心に田園地帯や丘陵、荒涼な山岳自然や遺跡への憧れも広がっていった。その一方で地方にも工場ができて自然や景観破壊が進みつつある時期でもあった。さらに前出のような科学的合理性全盛の時代への反動、中世的非合理性への懐古、ロマン主義への憧れもあり、そんな時代背景の中、この国内ツアーブームに火をつけたのがこのギルピンである。南ウェールズ、ウェイ川紀行を嚆矢として、ニューハンプシャー・ニューフォレスト地方、スコットランド・ハイランド地方、サセックス、ケント地方などを周り紀行文を出した。、特にギルピンの出身地であったカンバーランド、ウェストモーランド、湖水地方の紀行が人気である。彼独自の湖水地方の「景観保全」の視点からの「ピクチャレスク」論は、現代の環境保全運動にも通じる考えとして学ぶべき点が多い。現在、ワーズワースの詩とともに湖水地方が世界中の人々が訪れる人気の観光地となっている原点はここにあった。しかし、彼の一連の旅行記は単なる旅行ガイドブックではないところに着目すべきであろう。彼の美意識:picturesque-eye、風景観が披瀝されている、いわば「美学論集」と言って良い。

ギルピンは自然の風景に「美」を感じ、そこに「芸術」を見出すのであるが、彼の風景観は独特である。それは森を見るにしても、自然の樹木による造形美を愛で、伐採で荒廃した森の植林などの人工的な規則性による修景を嫌う。たとえ景観の一部に人工的な構造物(古城や修道院廃墟など)があっても、その「人工的規則性」を打ち消すものとして「時間」という要素を重視した。すなわち朽ち果てた樹木、岩にまとわりつく雑草や、岩山に屹立する古城、丘に佇むカトリック修道院の廃墟など、時代の移り変わりの中で経年変化して自然と同化するものの中に「美」を見出す。人工物の介在も「時間の経過(ageing)」による「自然との調和」を「芸術」として鑑賞する。これは、冒頭に紹介した入江泰吉「大和古寺巡礼」に見られる、「時間の経過」を「歴史の心象風景」の重要な要素として表現することに通じるものでありとても興味深い。また当時、こうした旅行では、クロード・グラスという表面に色を付けた楕円形の凸面鏡を持参し、風景鑑賞に用いることが流行した。これは現代における旅行の友、カメラやスマホの元祖と言っても良いかもしれない。風景に背を向けてクロード・グラスを覗くと、風景が楕円形に切り取られ、しかも凸面鏡によって構図がデフォルメされて写し出され、まるでクロード・ロランの風景画のような視覚効果が得られるというものだ。このような視点、作法で自然の風景を鑑賞することによって「ピクチャレスク」な美的感性を得るのである。ギルピンの挿画は、下記に掲示するようにこのクロード・グラスの楕円のフレームに収められている。

当時は写実的な風景絵画や版画といったヴィジュアル芸術が盛んになり始めた時期でもあり、旅行に出かける時も、事前に絵画や版画を見てから後に、現地へ出かけてその風景を体感する。現地ではクロード・グラスを通じて生の風景を鑑賞する。そしてそれをスケッチに写しとるという、風景を新しい「メディア」を通じて鑑賞する一種の「作法」あるいは「プロセス」が生み出された時期でもある。こうした動きは19世紀以降、写真(ダゲレオタイプ)、映画(ルミエール)の発明と、それに続く作品が一般にも普及するに至って、写真や映画で事前に名所や絶景を見てからを現地を訪れる。あるいは写真に収めるという、現代の旅行ブーム、観光地巡りにも見られる体験につながってゆく。クロード・グラスはその先駆けであった。カメラやスマホで写真撮って、家に帰ってから見る。インスタでフォロワーに共有し自己承認欲求を満足させる。それを見てまた観光地に人が押しかける(あの富士山/ローソン、富士山/五重塔など、そうして生まれた観光地である)という。「ピクチャレスク」は現代の誰もが体験している「インスタ映え」に通じる美的感性の始まりであったともいえよう。


ギルピンの「ピクチャレスク」とバークの政治思想

こうしたギルピンの美意識はバークの哲学、政治思想に通じる。先述のように、景観についても自然を壊して、人工的に新たに作り直すことへの抵抗感が強い。いわば自然を征服するが如き幾何学模様の庭園を嫌悪する、といった傾向である。すなわち古典的なシンメトリーな均衡を保った「美」ではなく、あるいは近代合理主義的な理屈っぽい「美」ではなく、むしろ、「千古斧を入れぬ」悠久の時間を誇る荒涼とした山、かつては栄華を誇った古城、宗教改革で失われたカトリック修道院趾、朽ち果てる樹木、自然の風景の中での人々の昔ながらの日常の営みにも、ある人々にはそれ等が完全で合理的な美的鑑賞対象でないとみなされていたにも関わらず、時間の経過の中で生み出される「美」「崇高」そして「ピクチャレスク」に共感する。ギルピンはそういう美意識を愛でた。こうした美意識、思想はをエドモンド・バークは早くも1757年、27歳にして、先述の「崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察」で著したのだが、のちに彼の政治思想、哲学にもそれが色濃く反映されている。バークの有名なフランス革命批判(「フランス革命に関する省察」1790年)である。彼はフランス革命を「歴史」と「未来」を断ち切る思想と行動であるとして批判した。一切を壊して更地にして新しい平等世界を作るより、王権と議会との長い時間をかけた闘争と調和(マグナカルタ:Magnacartaから権利章典:Bill of Rightsへ)の中から生まれた自由や民主主義、慣習法の積み上げであるコモン・ローを尊重する。不完全で矛盾すら含む歴史的な残滓を引きずるものであっても、バークはフランス革命よりイギリス名誉革命を評価する。現にフランスはこののち、異様な形の独裁政権とナポレオンの帝政復活、共和政と帝政の繰り返しによる混乱を味わう。一方のイギリスは、アメリカ植民地を失ったものの大英帝国への道を歩み始める。この「急進主義的」:radicalismよりも「漸進主義的」:gradualismな思想、感覚がある意味でイギリスの伝統であり、イギリスの保守主義、いや古典的自由主義の源流なのである。一般にバークは「保守主義」の代表的政治思想家と見做されるのだが、果たしてそうなのであろうか。ちなみに彼はアメリカ独立戦争を礼賛している。歴史や時間の経過を尊重し、不完全であっても試行錯誤する人々の着実な歩みを尊重する。まさにバークの美学、「ピクチャレスク」な歴史観と言っても良いかもしれない。ゼロ・クリアー、リセットでは解決しない事どもの多さを考えると、これは存外、現代の我々が抱える問題を解く鍵にもなるかもしれない。少なくとも「変容」と「習合」を受け入れてきた歴史を持つ日本人には共感するところがあるように感じる。一方で景観論的視点に立ち戻れば、日本の都市で進行する何の変哲もない経済合理性一本槍の「再開発」という名の「リセット」が、歴史ある都市景観の「時間の経過」を消し去り、「ピクチャレスク」な美的センスが感じられない風景を生み出してゆく。今の日本こそギルピンの「ピクチャレスク」風景論的視点が必要に違いない。


ギルピンの旅行記三部作

(1)『ワイ河と南ウェールズ各地紀行』:Observations on the River Wye, and several parts of South Wales, &c. relative chiefly to Picturesque Beauty; made In the Summer of the Year 1770;London:, the First Edition 1782 ギルピンの「ピクチャレスク紀行」の第一号であり、単なる旅行ガイドというより、風景論、「ピクチャレスク論」を展開する理論書となる書である。特にワイ川流域に佇むティンターン修道院の廃墟(現存する)に強い感動を抱き、自然と人工的な景観の調和の美を説く。初版。



Tintern Abbey

Tintern Abbey

Dinevawr Castle

Wye河流域のNew-Weir



(2)『イングランド各所、特にカンバーラントとウェスト・モーランド地方の山と湖水紀行』:Observations on Several Parts of England, Particularly the Mountains and lakes of Cumberland and Westmoreland, Relative Chiefly to Picturesque Beauty, made in the Year 1772;London, the Third Edition 1808 ワーズワースなどロマン派詩人に影響を与え、現代でも人気の「湖水地方」:Lake District 旅行ブームを湧き起こした紀行文である。湖水地方の景観保護の観点からのさまざまな分析と提言は、現代の環境保護運動の原点を見ることができる。ギルピンの出身地でもある。第3版1、2巻合本版。




Ullefwater

Warwick Castle

Windermere湖

羊飼い



(3)『ハンプシャー・ニューフォレストの森林景観』:Remarks on Forest Scenery, and other Woodland Views (relative chiefly to Picturesque beauty), illustrated by the Scenes of New-Forest in Hampshire, 2 vols London 17791~94 荒々しいハンプシャー、ニューフォレストの森林景観を取り上げ、「崇高」と「美」と「ピクチャレスク」を論じた書である。山容、樹々の樹形、枝ぶり、地元の馬や牛などの固有種についても風景論、美学の立場から紹介、分析している。第二版1、2巻分冊版。





New Forest地方地図



樹形に関する分析

自然の木々が生み出す「美」

おすすめネット「ピクチャレスク紀行」

今はGoogle Mapで検索することで、上記で紹介されたイギリス各地の現在の様子を確認し、掲載された写真で風景を楽しむことができる。驚くのは、こうした「ピクチャレスク」な景観は、今でもよく残っており、川の流れ、森、丘陵、山、そして古城や修道院廃墟もギルピンの挿画の通り保存修景されていることが確認できる。イギリスの自然保護、遺跡保存、街並み景観の保全は見習うべきことだ。日本の自然や田舎も美しいが、いかんせん風景の中に現代的人工物や周囲の景観と不調和な人の手が入り過ぎている。ギルピンの言う「時間の経過が自然との調和をもたらす」景観が失われすぎているのは誠に残念だ。高度経済成長による破壊が終わった日本には、これからの時間が風景の熟成の時間なのだろう。産業革命の只中に自然と風景の美の保全を意識したイギリスに学ぼう。ギルピン始めとする「ピクチャレスク」運動が現代までイギリスでは生きていることを知ろう。

それにしてもなかなか現地へ足を運ぶことが出来なくても、こうして日本の自宅にいながらネット上でギルピンの美意識の一端を(サンプル的であるが)垣間見ることができるようになった。便利なものである。



(参考1)Edmund Burke:エドモンド・バーク (1729−1797)

『崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察』:A Philosophical Enquiry into Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful 1757

『フランス革命に関する省察』:Reflection on the Revolution in France 1790

18世紀イギリスの哲学者、美学者、議会ホイッグ党議員。グラスゴー大学学長。絶対王政を批判、議会政治を擁護した。アメリカ独立戦争を支持。フランス革命を批判。ルソーと対立した。保守主義の元祖とも評されているが、ホイッグであり反王権擁護の立場であり古典的な自由主義者とも言われる。イギリスのように長い時間をかけて王権と議会が闘争し、和解し、再び闘争する歴史の中からマグナカルタに始まり、権利章典で結実する自由、民主主義、コモンロー/法による支配が生まれた。そうした歴史的なプロセスを重んじる。フランス革命のように、全てを壊して更地にして新たな民主主義、自由主義、平等主義を作り直すという思想と行動に反対。ヒューム、ロックにも影響を与えた。彼は哲学者、美学者としても著作を残しており、「崇高」:Sublimeと「美」:Beautifulについて論じた。これがギルピンやプライスなどとともにイギリスロマン主義に大きな影響を与えた。同時代のサミュエル・ジョンソンにも高い評価を得ている。本書は1958年にノッティンガム大学教授ジェームス・ブルトンによる再版である。







(参考2)Sir Uvedale Price :ユヴデール・プライス (1794)

『ピクチャレスク論 崇高と美の比較論』An Essay on the picturesque as compared with the sublime and the beautiful: and on the use of study ictures for the purpose of improving real landscape 1794

イギリスの貴族、造園家 ギルピン、バークとともに「ピクチャレスク」唱導者の一人。バークの「美」(the beautiful)と「崇高」(sublime )に加えて「ピクチャレスク」Picturesqueという美の領域を提唱したと言われている。リージェント・パークを設計したジョン・ナッシュなどのイギリスを代表する建築家に影響を与えた。


(参考3)平凡社「大百科事典」では「ピクチャレスク」を以下のようの説明している。

主として18世紀イギリスで用いられた美学上の概念。イタリア語のピットレスコpittoresco(〈画家に関する〉の意)より借用されたフランス語のピットレスクpittoresqueの派生語で,今日一般的には,絵のように美しい,きれいなという意味である。しかし18世紀後半には,この語が庭園芸術や自然の景観,建築,風景画に関してもつ意味の定義をめぐって,錯綜した論議が繰り返された。まず,ギルピン:William Gilpin(1724-1804)は,彼自身の手になるアクアティント挿絵入りの多くの著作や〈ピクチュアレスク・ツアー〉と呼ばれる〈ピクチュアレスクなるもの〉を求めての旅行の実践によって,ピクチュアレスクを一つの美的範疇として人々に認識させた。ついで造園家プライス:Uvedale Price(1747-1829)は,バーク:Edmund Burkeが1757年に提示した「崇高」the sublime〉と「美」the beautiful〉の二つの美的範疇には含まれない,複雑さ,多様さ,不規則性,荒削りさ,好奇心の喚起などの性質を含む「ピクチュアレスク」の観念を定義した(《ピクチュアレスク試論》1794-98)。プライスの影響下にナッシュ:John Nashが建築において,またレプトン:Humphrey Repton(1752-1818)が風景式庭園においてピクチュアレスクを定義すべく試みた。さらに芸術愛好家ナイト:Richard Payne Knight(1750-1824)は,《風景画》(1794)や《趣味の原理の分析的研究》(1805)で,ピクチュアレスクについて論じている。ことに後者においてナイトはプライスに反論して,ピクチュアレスクが,対象がある客観的条件を備えていることによって生ずる美的価値であることを否定し,それが対象の純粋に視覚的特質から触発される鑑賞者の連想によって生ずる感動であると主張した。いずれにせよこれらの人々のピクチュアレスクの定義に共通するのは,ピクチュアレスクが,理性によって認識されうる合理的な比例や均衡によって生ずる美的快感とは対照的に,想像力を刺激するある種の不完全さ,意外性にもとづく美的価値であるという思想である。...(中略)... ロマン主義の先駆的美意識といえよう。(下線は筆者による)

執筆者:鈴木 杜幾子 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版