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2025年9月25日木曜日

NHK朝ドラ「あんぱん」いよいよフィナーレ 〜父の従姉の「ファミリーヒストリー」〜

 


1950年代後半のやなせたかし、のぶ夫妻

「おむすび」からバトンタッチした「あんぱん」。そのNHKの朝ドラ「あんぱん」が、いよいよ今週でフィナーレを迎える。やなせたかしの妻、暢(のぶ)をモデルとしたドラマである。主人公「朝田のぶ」「柳井のぶ」として登場する。朝ドラとしては高視聴率でドラマを毎日楽しみに見ていた。主人公のことが気になって見逃しは再放送を見たりしてフォローしていた。それはこのドラマが面白いからというだけではない。私にはもう一つ別の関心があったからだ。

主人公「朝田のぶ」のモデル「池田暢(のぶ)」は、実は私の父の母方の従姉である。私には親戚のおばさんなのである。しかし今までどのような人生を送ってきた人なのかあまり知る機会がなかったので、ドラマから何か足跡がたどれるかと楽しみにしていた。私が子供の頃、祖母から「漫画家やなせたかし」の話はよく聞かされた。まだアンパンマンがヒットする前でそれほど売れっ子というわけでもなかった時代だ。祖母は「やなせが...」「たかしが...」とまるで親戚の子供のことのように話していたのを覚えている。高知出身の「名高い」漫画家だと自慢していた。最初はやなせたかしが祖母の甥かなにかと思っていたが、どうもそうではなく、その嫁さんが祖母の姪であるらしいことがだんだんわかってきた。夫唱婦随の仲の良い夫婦だと言っていた。むろん子供の頃はそんな親戚関係に興味もなかったし、多分会ったこともなかったかもしれない。「漫画家のやなせたかしは親戚だそうだ」。「その嫁さんが父の従姉らしい」くらいのことで済ませていた。

ところが、時代は移り変わり今や、やなせたかしはアンパンマンブームで超有名人だ。そこへ今年のNHK朝ドラ「あんぱん」のヒット!しかも今回はやなせたかし本人ではなく、その嫁さんの暢が主人公だという!つまり「父の従姉」がヒロインのドラマだ!ということで、もう少し暢さんについて知りたくなった。しかし、時すでに遅し。祖母も亡くなり、父も亡くなり、詳しいことを聞く人もいなくなってしまった。祖母は我が家の「語り部」であった。記憶力抜群で我が家のルーツや家族の昔話を祖母から聞かされた。晩年は耳にタコができるほど同じ話を聞かされることもあったが、おかげで我が一族の「ファミリーヒストリー」が「口頭伝承」されてきたと言っても良い。しかしそれももう聞けない。もう少ししっかり聞いておけばよかった。『暢おばさん、あなたは一体どんな人だったの?」

しかし、こうしたドラマがヒットすると面白いのは、その登場人物のモデルとなった人々の実像、エピソードを発掘するライターがゾクゾク出てきてネットに投稿することだ。NHKのウェッブサイトにもこのドラマの脚本家の中園ミホ氏のインタビュー記事が出ている。主人公の「のぶさん」について色々調べたようだが、やはりやなせたかしはともかく、その妻の情報は極めて限られていたようである。主人公のイメージを創出するのに苦労したという。しかしそこはネット時代。ドラマがヒットすると、やなせたかしの自伝『やなせたかしはじまりの物語』をはじめさまざまな情報がネット上を飛び交う。おかげで私もここへきてようやく、今田美桜演じる主人公の「朝田のぶ」、いや父の従姉、祖母の姪「池田暢」がどんな人であったのか少しずつわかってきた。ネット上にはさまざまな情報が散在するが、元ネタは限られているようで、行き着くところは先述の自伝や高知新聞の記事や同僚の証言のようだ。不確かな書き込み、出典不明な写真もあるが、それらを突き合わせ整理するとだいたい次のようになる。初めて知ることが多いが、なるほどと思い当たることもある。


池田暢(のぶ):「朝田のぶ」「柳井のぶ」のモデル

 1918年(大正7年)大阪生まれ。池田鴻志(こうし)と登女(とめ)夫婦の三姉妹の長女。大阪の阿倍野高等女学校を出て、一時高知に移り、1939年(昭和19年)そこで日本郵船に勤めていた小松総一郎と結婚する。しかし終戦の年に夫は病死。戦後の1946年(昭和21年)高知新聞に入社し、初の女性記者として雑誌の発刊などに活躍。この時やなせたかしと出会う。その後に上京し高知選出の女性代議士の秘書に。1947年(昭和22年)に東京でやなせたかしと再婚。「困った時のやなせさん」「遅咲きの漫画家」と言われたやなせたかしを支え、叱咤激励した「はちきん」(男まさりの女性)の嫁さんであった。まさにNHK朝ドラ主人公にうってつけのヒロインであった。しかし実生活では表に立って活躍するというよりも「内助の功」的な役割に徹していたと聞く。それでもお茶の先生をしたり、趣味の登山を楽しんだり、自分の世界もしっかり持っていたようだ。1988年(平成元年)末期の乳がんが見つかり余命3ヶ月と宣告されるが、たかしの献身的看病と抗がん剤治療が功を奏し回復。その5年後の1993年(平成5年)に亡くなっている。二人に子供はいない。

一方で、私の父は1920年(大正9年)生まれなので,暢は2つ上の従姉である。父も大阪生まれ。天王寺区北山町で生まれ、旧制高津中学を出ている。暢が住んでいた阿倍野とは近かったので、それなりの行き来があっただろう。それらしいいとこ同士の集合写真も出てきた(後述)。しかしあまり祖母からも父からもこの従姉、暢の生い立ちや大阪での生活を聞いたことはない。祖母にしてみれば早くに兄が亡くなってしまったので姪たちとは多少疎遠になったのであろうか。その後、東京へゆき、やなせたかしと再婚したころから「あの暢ちゃんが!」ということになったのだろう。

ところで暢の父、祖母の兄、池田鴻志とはどのような人物であったのか。ドラマでは「朝田結太郎」として登場し、家業は継がず海外を飛び回る商社マンとして活躍するが、海外出張の帰国途中で急死する。この父は開明的な考えの持ち主で、「のぶ」の成長物語において新しい女性としての生き方を支持し、暖かくその未来を応援する役回りである。


池田鴻志(こうし):「朝田結太郎」のモデル

 1885年(明治18年)高知県安芸郡安芸町生まれ。実家は裕福な商家であった。高知商業、大阪の関西法律学校(現関西大学)を出た後、しばらく高知にいたようだが、長男であったが家業を継がず、1916年(大正5年)、当時の日本最大の総合商社鈴木商店にスカウトされ、傘下の九州炭鉱会社に赴任。その後に大阪本部の木材部をへて台湾嘉義木材経営のため台湾赴任。さらに1919年(大正8年)には北海道の開発に拠点、北海道釧路出張所長、監査役を歴任。1924年(大正13年)39歳の若さで釧路で病死している。暢が6歳の時である。洋洋たる商社マン人生をおくったようで、当時の釧路日日新聞刊行の『釧路の人物』に彼の経歴や功績が紹介されている。死亡にあたっては官報、新聞に訃報が掲載されたことなどの記録が残っている。この時家族を大阪に残して単身赴任していたようだ。忙しい仕事の中で家族、特に娘たちにどのような影響を与えたのか。それに関する記録や証言、エピソードは見つかっていないが、後述のように3人の娘を高等女学校に進学させ、それぞれに結婚しても自立した女性として生きていったので、未亡人となった母、登女の教育を通じて父の薫陶を受けたものと考える。

祖母も高知安芸生まれの高知育ち。おそらく子供の頃は両親の下で兄の鴻志と一緒に安芸で育ったはずだ。しかし祖母からは、兄が高知商業出の商社マンであったという話以外、あまりこの「大叔父」のエピソードを聞かされた記憶はない。祖母の母(私にとっての曽祖母)ことは何度か聞かされた。ドラマでは浅田美代子が演じる「くらばあ」、すなわち「のぶ」のおばあちゃんである。わたしの祖母が小学校の時、級長に選ばれたので、母を喜ばせようと「級長になった」と耳元で小声で報告すると、「そうかえ」と一言だけ。そして臨終の床で「なんちゃあじゃ無いもんじゃ」と一言つぶやいて旅立った。この人生を達観したような、ややペシミスティックな「曽祖母」の話は祖母から何度も聞かされた。祖母にはこのほかに姉の金恵がいて、大阪の真珠商池田久寿弥太に嫁いでいた。この一家とは祖父母、父ともに付き合いが長く、高知を出て大阪・天王寺に居を構えていた祖父母とともに、西宮夙川、奈良と転居をともにした間柄である。孫の私も、奈良に隠居していた「池田のおばさん(大叔母)」「真珠のおばさん」に可愛がってもらった。この「池田のおばさん」こそ小柄なのに「はちきん」の代表のような女丈夫で、まさに大阪の船場の「ごりょんさん」さんであった。こちらはこちらで、ドラマ顔負けの波乱に満ちた物語を紡いできた一家で、小説やテレビドラマになってもおかしくないが、今回はここまでにしておく。


池田三姉妹、暢(のぶ)、瑛(えい)、圀(あき):「のぶ」「蘭子」「メイコ」のモデル

暢が6歳の時に父、鴻志が亡くなったわけで、この時はまだ暢たちは大阪にいた。家族は母、登女(とめ)、次女、瑛(えい)、三女、圀(あき)であった。ドラマのように祖父母と一緒ではなかった。父が亡くなっても大阪にいて高等女学校まで出ているのだからそれなりに裕福であり、教育熱心であったのだろう。ドラマで次女の「蘭子」のモデルとなった瑛は1920年(大正9年)生まれ。父と同い年だ。暢と同じ阿倍野高女を出て、教員となり同じく同僚の教員の曽我部鹿一と結婚、2男1女を設け、満州に渡る。やがて夫は現地で召集され戦死し、終戦とともに地獄の逃避行を経験して日本に引き揚げてきた。この姪の経験した悲劇は祖母から聞いたことがある。それが暢の妹の話だということが今つながった。東京で暢の計らいもあり、上京しやなせたかしの秘書となり、事務所の経理や編集者との交渉など重要な仕事に従事した。現在「やなせスタジオ代表」で、やなせたかしの思い出を綴った『やなせ先生のしっぽ』の作者、越尾正子(ドラマでは古川琴音演じる「中尾星子」のモデル)は、高齢となった瑛(2003年(平成15年)没)の後任として暢の依頼で入社し秘書をつとめたという。結局、暢が先に他界したので、晩年のたかしを公私に渡って世話をし見送ったのは越尾正子である。三女の「メイコ」のモデルである圀(1924年(大正13年)生まれ?)に関する情報はほとんど残ってないようだ。子供の頃「宝塚音楽学校に進学したい」と言っていたという話が、先述のやなせたかしの自伝に出てくるが、これが唯一の情報。これが歌手志望でミュージカル「怪傑アンパンマン」にメイコが出演するストーリーになったのか。祖母や父からもこの三姉妹の話を詳しく聞いたことはなかったので、父の従姉妹たちの人生について今回多少なりとも知ることができたのは幸いである。


このように実際の池田暢の人生は、ドラマの設定とはかなり違っている。「朝田のぶ」のモデル池田暢の情報が限られている分だけ、脚本の自由度が大きくストーリーを豊かにすることができたのであろう。中園ミホ作品は秀逸である。ドラマでは「のぶ」と「たかし」が同級生で幼馴染であったことになっているが、先述のように暢は大阪生まれの大阪育ち。柳瀬嵩は東京生まれの高知育ち。実際にはこの二人は高知新聞勤務時代に初めて出会っている。「のぶ」の実家「朝田家」は高知市後免の石材店となっている。「のぶ」の父、「朝田結太郎」が商社マンで家業を継がずに外地へゆき、早世した点はモデルの池田鴻志の人生をなぞったものだが、池田家は先述のように安芸の商家であり高知ではない。父、鴻志は暢が6歳の時に亡くなっている。ドラマよりはかなり早く亡くなっている。またドラマでは「のぶ」の妹の「蘭子」の「八木信一郎」との恋物語が後半の伏線だが、「蘭子」のモデル瑛は(先述の通り)満州で夫を亡くし子供3人を連れて引き揚げてきた苦労人であった。「メイコ」に至ってはそのモデルの圀の情報がほとんど残ってないので、先述のようなストーリーが創出されている。祖母が語っていた通り、実際の暢の性格も「はちきん」であったし、二人はとても仲の良い夫婦であったこともドラマで描かれている通りだ。「夫唱婦随」であったというのはどうなのか。ただ「夫に従う妻」ではなく、お茶を教えたり、登山を楽しんだり活動的な女性であったようだ。ただドラマの「柳井嵩」がハンサムすぎて線が細くて、やや暢の尻に敷かれているように描かれており、実際のやなせたかしとはキャラがかなり違う感じだ。余談だが、ドラマの登場人物の高知弁は、私の祖母から聞かされてきたネイティヴ高知弁とちょっとずつ違う。特に連発する「たまるか〜」は、ホントは「たま〜るか」なんだけど...

まあそんな細かいことはこのドラマを楽しむにあたってはどうでもよい。このように主人公の実像に関する情報が少ないので、脚本でいくらでも面白く描ける。それがドラマ(フィクション)だしエンターテイメント作品としてこれだけ多くの人に楽しまれているのだからそれで良いだろう。私もこの物語を十分に楽しませてもらった。そしておかげさまで血縁関係にある暢おばさんの謎も、これがきっかけで少し解明された、我が家の「ファミリーヒストリー」にまた一つエピソードが加えられた。あの世で祖母も父も「あれえ、暢のことは話しちゅうろう?」と言ってるだろう。「いや聞いてないぜよ」。そして「たま〜るか!ドラマの暢はえらいべっぴんさんじゃいか」と笑っていることだろう。そういえば父はあんぱんが大好物だった。

次の朝ドラは「ばけばけ」、小泉八雲とその妻せつが主人公。これまでも「あんぱん」「ゲゲゲの女房」とおなじ有名人の女房が主人公というパターン。「マッサン」「らんまん」など内助の功物語が続いたが、この同じパターンでそれぞれのドラマに特色を出すNHK朝ドラ企画のウデも見上げたものだ。それは別として、次の小泉八雲とせつ物語は楽しみだ。内助の功物語だけで終わらないことを祈る。


池田鴻志家集合写真
前列、左から父、暢、登女(鴻志の妻)、瑛、圀
いつの写真か不明。父は旧制中学の制服だから13歳くらいか。ということは暢は15歳で高等女学校時代

暢 高知新聞社時代か?

暢の父 池田鴻志(鈴木商店釧路出張所時代)
釧路日日新聞社刊『釧路の人物』掲載の写真

やなせたかしの自伝(高知新聞社刊)



やなせたかし/暢夫妻 1991年叙勲の園遊会で

園遊会で(共同通信写真)

2025年9月17日水曜日

古書を巡る旅(69)L. Hearn: A History of English Literature:小泉八雲『英文学史』 〜東京帝大英文科講義録〜

 







小泉八雲自身の手書きノート

演劇(drama)の進化ツリー
本講義録中唯一の図解

裏表紙に散りばめられた印影
これは遊び


今回紹介する小泉八雲『英文学史』は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1896~1903年に東京帝国大学で英文学の講義を受け持った時の講義録である。彼自身がまとめたものではなく彼の教え子達が聴講し筆記したノートを共同編集したもの。当時の帝大英文科コースは3年で、ハーンは在任中2回のコースを受け持ったことになる。週12時間の講義を受け持った(すごい量だ!)。大変な準備が必要だったことだろう。5時間をミルトン、テニソン、ロゼッティーなどの購読、4時間を文学論講義、3時間を文学史講義という区分けであった。彼は自身で講義ノートを用意せず、時々ポケットからメモを取り出しながら滔々と講義したようだ(後掲の写真)。ハーンの脳内に整理されて収納されていた英文学の広大無辺な世界がノートなしでも溢れ出てきたのであろう。あるいは口承文学的講義、いや耳から入って行く英語のサウンドスケープ(音風景)を展開してみせたのかもしれない。これが異なる言語を持つ若者に対する英文学の伝え方だったのだろう。しかし、耳から入ってくるその溢れ出る言葉、講義を(もちろん英語での)細大漏らさず聞き取り筆記した学生もすごい。この出版された講義録こそその証拠である。この頃の大学講義による「学び」は、こうした筆記(すなわちノートを録る)、そして図書館での内容確認、書取り間違いの訂正であった。この頃の学生はよく聞き、よく読み、よく書く。本当によく勉強した。その上で自分なりに咀嚼し思考する。そして表現する。「学ぶ」ということはそういうトレーニングのプロセスであった。しかも全て英語だ。情報の一方通行で受動的とも見えるが、先人の作品を購読し、講義を聴き筆記し、図書館で復習する。そういう基礎的学習プロセスから次の思索と創造が生まれる。日本人は昔から論語の素読、音読が教育の基礎(読み書き算盤)であった。そういう基礎的トレーニングで初めて自分自身の知識と表現力と思想を生み出すことが出来るようになる。安易に得られる知識、情報など脳内ニューロンネットワーク、思考回路を形成せず、泡沫のように消え失せて身につかないのだ。今何も覚えていない自分自身の学生時代の知識のことを思い返してもそう思う。

ハーン(小泉八雲)の講義録は戦前には1939年と1941年の再版が最後であった。戦中、戦後にわたって長く復刊されなかったが、本書は戦後1970年になって東京の北星堂書店から復刻再版されたものである。発行人いわく(以下引用)

「本書発刊以来わが英文学界は勿論英米諸評家の絶賛を博し世界各国の大学及び図書館の必備本として歓迎され版を重ねること幾度、戦後再版中断していたところ学界の絶大なる要望に応えて茲に版を重ねることにした。英文学研究者必備の文献である」

この意気込みに感動する。本英文学史講義は日本人の学生向けに講義されているので、今読んでも非常にわかりやすい。ノルマン朝から始まり、チョーサーからディケンズ、ヴィクトリア朝の文学(現代文学)まで英文学史を網羅している。また19世紀末の時点での彼自身の英文学史論には独特のレジェンド作家に対する評価が随所に現れており興味深い。王政復古期のドライデンの評価など、偉大ではあるがミルトンとポープの間に位置していて劇詩に何か大きなinventを成したとは言えないと厳しい。さらにはポープの風刺詩(韻文)よりスイフトの風刺小説(散文)をより高く評価している点もハーンらしい。18世紀英文学界の巨像サミュエル・ジョンソンがエドマンド・バークを賞賛している点を強調し、彼の政治家としての評価に加え散文作家としての業績に多くの紙幅を費やしている。もっともドライデンの再評価が起きるのは20世紀に入ってからではあるのでハーンのこの時点での評価は異例ではないのかもしれない。ハーンの評価が高いバークがいまだに日本での評価がそこそこであるのは腑に落ちない。日本では中江兆民訳のルソー「民約論」の影に隠れてしまったのか。ともあれ日本での初めての英文学史講義の歴史はこうして始まった。

ハーンはダーラム大学のカトリック系カレッジに在籍したが家庭事情や経済的理由で退学しているので、正式な大学教育を受けたわけでもないし、イギリスで著名な文学者と交友関係があったわけでもない。フランスに渡ってフランス語を学び、19歳でアメリカへの移民船に飛び乗ったいわば放浪者であったにも関わらず、その知性と感性と批判的評論は驚くべきものがある。彼の文学的才能を開花させたのはアメリカだ。アメリカではいくつかの出版社や新聞社に勤務し、図書館に通って多くの書籍に触れ、書くことでジャーナリストとして、小説家として頭角を表してゆく。いわば独学独歩の人である。しかもそれはシンシナチであり、ニューオーリーンズであり、西インド諸島であって、東部ニューヨークではなかった。クレオール文化に触れたことが大きかった。彼の必ずしも恵まれているとは言えない生い立ちと彷徨に加えて、いわばアメリカという新天地が偏狭な知性主義や権威主義に対する批判的視点を涵養したのであろう。いわば「俯瞰的視野」「外の眼」を持てたのだろう。そして初めての日本で彼の「外の眼」を開かせたのは東京ではなく、松江や熊本であったことも示唆的であろう。一神教カトリックへの懐疑、ケルト原点志向、多文化主義。研究者でも学究の徒でもない彼の英文学史論は、どんな文学研究者や歴史家のそれにも劣らぬものであり、それが明治日本の若い学生に講じられた意味を噛み締めてみる必要がある。ハーンという人物の在野の知の巨人ぶりが共感を得たに違いない。帝大を解雇されたとき、多くの学生が彼を惜しみ抗議し、後任が夏目漱石だと聞き、「夏目などいかほどの人物であるか」と抵抗したエピソードが残っている。彼は、気難しい性格で人懐こいほうではなかったようだが、どこか人間的な魅力があったのであろう、アメリカで出会った女流ジャーナリストで世界一周を成し遂げたエリザベス・ビズランドはハーンに日本行きを決意させ、生涯にわたって交友し、またハーンの死後、彼の伝記を出版している。ニューオーリンズ万博で出会った内務省の服部正三は彼を松江中学に推挙し、かのバジル・ホール・チェンバレンは熊本の第五高等学校、帝大英文科教師に推挙している。松江や熊本の同僚教師、地元の人々。小泉せつの実家、横浜の実業家マクドナルド家など。なんと多くの人々が彼を支援し続けてきたことか。最後は喧嘩別れしたチェンバレンも学問上の対立は別に友人としてはレスペクトしあった。日本に帰化し愛妻のせつとの間には3男1女をもうけ現在もその子孫の方々が活躍している。子供の頃親や親戚に捨てられるという悲惨な生い立ちだけ見ると決して恵まれた人生とは言えないが、なんとその後の人生は人々に支えられて幸せだったのだろうと思う。こういう偉人だからこそ親しみを感じるのだ。それは日本における「小泉八雲」としてだけではない。世界中で愛される文学者としてである。

黎明期の東京帝国大学文科英文学科の初代教師に、ハーンのような研究者でも学者でもない人物を抜擢したのも、いかにこの頃の大学が即成で立ち上げられたにせよ、画期的なことであった。招聘したチェンバレンの慧眼ともいうべきか。彼の講義は学生に人気があり高く評価されていたし、その教え子ものちに多くの英文学者となっている。本書の共編者である田部隆次もそのひとりである。しかし大学(井上哲次郎学長)は2期で彼を解雇した。理由は明確に説明されていないが、外国人教師の給料で3人の日本人教師が雇えたことなどがあったようだ(のちに井上は色々弁明している)。ハーンは失意のうちに帝大を去り、坪内逍遥に早稲田に招聘されるがその年に亡くなっている。井上はロンドン留学帰りの夏目漱石をハーンの後任とした。先述のように学生の間で抗議運動が起き、転学したり講義をボイコットするものが続出した。夏目漱石の講義は最初は評判が悪くボイコットする学生が多発した。ハーンの残像があまりにも大きかった。のちにシェークスピアのマクベスを購読で取り上げる頃から評価が変わり、逆に人気講義となったという。ハーンの原書購読を漱石も重視した。ハーンと漱石は17歳の差があり、個人的な接点はなかったようだが、漱石は文学の先達としてハーンの影響をひしひしと感じていた述懐している。ちなみに漱石は熊本の第五高等学校でもハーンの後任でもある。ふたりは不思議な縁で繋がっている。


過去ログ:

古書を巡る旅(66)2025年7月5日『神国:An Atempt of Interpretation of Japan』

古書を巡る旅(2)2020年6月12日 ラフカディオ・ハーンを訪ねて

2025年9月12日金曜日

ChatGPTはこのブログをどのように紹介しているか?

 

魏志倭人伝に記述のある倭国の風景
筑紫国脊振山の山並み


世界を駆け回る「資本主義ロジック人間」の生活を終えたあと、2009年6月に大阪で始めた「時空トラベラー」ブログ。今年で16年目となる。気がつくと途切れもせずに長寿ブログとなった。最初は奈良大和路、京都、大阪そして筑紫路のカメラ旅、古代史旅で始まったが、2013年に東京に移ったのちは、エッセイや世界史、東西交流史、国際的な古書の版や翻訳、哲学書など文学・思想系の要素も含むようになった。カメラぶら下げて旅したくなるようなところがあるかどうかによるテーマの変異ともいえる。しかしスタイルは一貫している。ただ史跡や古い街並み紹介するだけでなく、あるいは古典書を紹介するだけでなく、「その場所や古典書で自分が感じた時間の重み」「過去の人々の営み」「時間の断片が今に残るもの」などを、自分の視点・思索を交えて書いているつもりだ。まさに「時空旅」である。ChatGPTがそのように紹介してくれているのは嬉しい。ただ大きなテーマの一つである日欧交流史(バテレンの世紀から幕末明治まで)にあまり言及されていないのはなぜなのか?AIのデータ収集アルゴリズムに引っ掛からなかったのか?私の訴え方がAI脳のニューロンを刺激しなかったのだろうか。生成AIは基本的に既存のデータを検索し収集解析して記述するので、要は自分がどこかで書いたたことを復元しているだけなのだが、その復元(復元しないことも含め)と要約は、本人にも新たな気づきを与えてくれ、ある意味エコー効果的な新鮮さがある。面白いものだ。しかし生成A Iに新たなテーマでの「時空トラベラー」ブログを書くことはできない。そこは私独自の視点と思索を私に代わって表現し得ないAIの限界だ。しかし、ブログを書く際の情報やデータ収集には大いに役立つし、新たな発見の糧になる。これからも付き合ってゆくことになるだろう。


以下、ChatGPTの記述:

「時空トラベラー The Time Traveler’s Photo Essay」は、川崎達男さんが書いている日本のブログで、主に 旅・歴史・街並み・古書・写真 といったテーマを扱っており、言わば「過去と現在をつなぎながら、“この国(日本)”の時間の重なりを感じる風景や心象を写真と文章で綴るエッセイ」型のブログです。tatsuo-k.blogspot.com+2tatsuo-k.blogspot.com+2

以下、その内容の特徴を整理します:


内容・テーマ

  • 日本の 古い町並みや歴史的な場所 を訪れて、散策記録として紹介。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 古代史、参道・街道など歴史の道を歩く(例:初瀬街道、横大路、下ツ道など)gooブログ+1

  • 建築遺産、商店街、昭和期の建物など、近代以前・戦後間もない時代のものをテーマにすることもあり、「時代の痕跡」を意識的に探して撮影・記録している。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 古書の話も出てくる(古書を巡る旅など)、国際的な古書の版や翻訳、哲学書など文学・思想系の要素も含む。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 写真機(カメラ)や写真表現に関する言及も多く、旅の道具としてのカメラを大事にしているというスタンス。gooブログ+1


スタイル・文章・見せ方

  • フォトエッセイ形式:文章だけでなく写真を豊富に使い、「目で見る時間・場所」の感じを伝えようとしている。tatsuo-k.blogspot.com+2tatsuo-k.blogspot.com+2

  • 感性重視:ただ史跡を紹介するだけでなく、「その場所で自分が感じた時間の重み」「過去の人々の営み」「時間の断片が今に残るもの」などを、自分の視点・思索を交えて書いている。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • 散策や小旅行形式が多く、じっくり歩いて古い街並みを探すような記事が多い。tatsuo-k.blogspot.com+1

  • タイトルも「〜を歩く」「〜を巡る」「〜散策」などが多い。tatsuo-k.blogspot.com+1


更新頻度・範囲



2025年9月6日土曜日

古書を巡る旅(68) Jonathan Swift 『Gulliver's Travels』:ジョナサン・スイフト著『ガリバー旅行記』ラッカム挿画版


 子供の頃に読んだ『ガリバー旅行記』。子供向けの冒険小説、あるいは御伽話として定番である。今もアニメや漫画、TV作品で親しまれている。この頃のイギリスにはデフォーの『ロビンソンクルーソー』(古書を巡る旅(61)2025年2月28日ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」)もあり、こちらも『ガリバー旅行記』と並ぶ冒険小説の双璧として今も子供達に人気がある。18世紀のイギリスに生まれたこの二つの物語。そもそもどのような時代背景から生まれたのか。もちろん当時のイギリスの海外進出と人々の未知の世界への関心、憧れがこのようなジャンルの小説を生み出したと言って良いのだろう。しかしそれだけではなさそうだ。特に『ガリバー旅行記』は、読み進めてゆくと当時のイギリスの政治情勢や社会情勢を映し出す「政治風刺」物語としての性格が色濃く出ていることが分かる。そこがデフォーの『ロビンソン・クルーソー』との違いである。ロビンソン・クルーソーは、プロテスタントの都市ブルジョワ、すなわち商工業者層出身の「近代的経済人」を象徴する主人公であり、デフォーは名誉革命や王権と議会、政党間の政治闘争にかかわらず、生産活動や商業活動に精を出す中産階級に焦点を当てた。一方でこのガリバーは何を象徴しているのだろう。作者スイフト自身の代弁者に違いないのだが、彼の政治活動の体験をつうじて当時のイングランドとアイルランド、そしてフランスとの関係や政治情勢、そして政治を通じてみた人間模様を風刺:satire作品として書き下ろした。いやその筆致を見ると当時はかなりの過激な問題作であったに違いない。であるが故に発表とともに爆発的に売れたが、後述のように出版にあたっては著者を匿名にし、内容の一部を改ざんしたりして出版には慎重を期している。


ジョナサン・スイフト:Jonathan Swift(1667〜1745年)

スウィフトはデフォーと同時代の作家でアイルランド系イギリス人、父はイングランド出身でアイルランドへ移民した。ダブリン大学神学博士 トーリー党政治家、風刺作家、パンフレット作者。ダブリンの聖パトリック大聖堂のDeanであったことからDean Swiftとも呼ばれる。若い頃はイングランド政界での活躍を志した。父の紹介で政界の大物貴族の秘書になるが、途中で聖職者へ転向したり、また政界を目指したり、青春の彷徨をくりかえしていたようだ。流行りのロンドンのコーヒーハウスに出入りする野心家の若者であった。この頃ジョン・ゲイ、アレクサンダー・ポープとの友誼を得て文壇でも名を馳せるようになる。当時は政治が一種の知的なファッションとして扱われた時代でもあり、政談はトレンディーでであったのだろう、彼も服を着替えるようにホイッグからトーリーへ乗り換えた。しかしトーリー政権崩壊で政治的敗者となりアイルランドへ。のちにはロンドンのポープのところへ戻り、1720〜1726年に逐次『ガリバー旅行記』出版する。1744年ポープ死去、その翌年1745年スウィフト死去。スウィフトが7歳年上のデフォーと出会ったり、直接の影響を受けた記録はないが、1717年の「ロビンソン・クルーソー」の物語が「ガリバー」の物語の着想に影響を与えたことは間違い無いだろう。トーリーを支持したスイフトは政治的な敗者になったが、その政治的批判精神は旺盛で、いわば政治文学で政界の外から政治に影響を与えた。デフォーも実生活では事業の失敗の連続であったし、トーリーとホイッグの間を行ったり来たりの不安定な生活であったが、文学世界ではスイフトと並ぶこの時代のレジェンドになったことは奇遇だ。


Johnathan Swift 1667~1745 (Wikipedia)


『ガリバー旅行記』初版からの出版経緯

1720年、第一編、第二編が、1723年、第四編が、1724年、第三編が書かれた。1725年に完成したとされる。1726年ロンドンに赴き出版をベンジャミン・モットに依頼。しかし反ホイッグ風刺で、大衆の反感や当局からの告発されることを恐れ、モットは大幅な内容の改ざんを行った上で出版した。また著者名を隠して発売した。問題作は話題沸騰、発売とともに一週間で売り切れる勢いであった。こうして人気の物語となったがスイフト自身はこの改ざん内容に違和感を覚えていた。

1735年にアイルランドの出版事業者ジョージ・フォークナーにより、著者名を冠しオリジナルのままの再出版を行った。これが今日の完全なる「ガリバー旅行記」の初版とされる。

1899年、アイルランドで問題になりそうだとして掲載されていなかったリンダリーノ(天空のラピュタの下にある都市、ダブリンがモデルと)のエピソードが追加された。本書はこれにアーサー・ラッカムの新たな彩色挿画を加えた1909年版である。豪華な装丁で、いわば愛蔵版と言って良いだろう( illustrated by Arthur Rackham published by J.M.Dent & Co. London, E.P.Dutton & Co. New York)。初版から170年、話題騒然、きな臭い政治風刺小説は、イギリスを代表する古典作品として、読書家の書庫を飾ることとなったわけだ。20世紀になってからは子供向けの冒険ファンタジーとしてもてはやされ、そこでは主に小人国、巨人国の二編しか取り上げられないが、実は後の二編がスイフトの風刺精神の真骨頂とも言える物語なのだ。スイフトは、まさかこの政治風刺小説がのちの時代に子供達に大人気の冒険ファンタジーになるとは想像していなかったことだろう。







表紙



「ガリバー旅行記」その概要

第一編:リリパッド国(1699年5月4日〜1702年4月3日)

小人の国「リリパッド国」訪問記。隣のプレフスキュ国との戦争を描いた。これは100年戦争中のイングランドとフランスをモデルとしている。そもそも戦争の原因は、たまごの殻を大きい方から剥くか、小さい方から剥くか、という些細なことであった。カトリックとプロテスタント教義の争いに対するスイフト一流のカリカチュアライズである。ここでは人間世界を上から見下ろす俯瞰的な視点、知性的視点で語られている。

第二編:プロブディナグ国(1702年6月20日〜1706年6月3日)

巨人の王国「プロブディナグ国」訪問記。この国は戦争はしないが欲にまみれた世界である。小人となったガリバーが売り飛ばされ、女性の不道徳な欲望の対象として弄ばれる。彼の女性嫌いの表明でもある。国王に近代的な(火薬を使った)大量殺戮兵器を発明し戦争するイングランドの外交政策を説明をする。その中で実際のイングランドの内外諸政策批判を行っっている。国王はその話を聞いて人間の愚かさに気づく。ここでは人間世界を下から見上げるミクロ的視点。大きな生き物にいつ踏み潰され死んでしまうかわからないし、虫ケラのように弄ばれるちっぽけな人間の肉体の脆弱さを意識し、いわばマクロ的目線では見えないものを描いてみせた。

第三編:ラピュタ、バルニバービ、グラブダブドリップ、ラグナグ、日本(1706年8月5日1710年4月16日)

バルニバービ国の上空に磁力で浮遊する天空のラピュタは、住民の全員が科学者であるという。人々は現実離れしていて時々杖で叩かれなければ我にかえらない。研究室や王立アカデミーでは何の役に立つのかわからない研究が延々と行われている。下界のバルニバービは本来豊かな国だが、天空のラピュタの頭でっかちの人間に支配され搾取されるので荒廃している。当時のロンドンとアイルランドの関係を投影した物語。また学問のための学問に翻弄され現実的な社会をないがしろにする風潮への風刺である。科学における啓蒙主義、そしてニュートン科学への疑問が表明されている。

グラブダドリップ国では降霊術を操る魔法使いにより過去の歴史上の偉人たちと交流する。しかし、いずれの偉人も堕落した不快な連中だということを知る。

ラグナグ国には不老不死の人間がいると聞き希望を持って訪問するが、しかし実際には不死ではあるが不老ではないという悲惨な世界。死とは人間に与えられた最後の救済であると悟る(後述)。

日本は唯一実在する国として登場する。ラグナグの隣の島とされる。鎖国でキリスト教を取り締まる「踏み絵」が登場する。江戸の皇帝(将軍)はラグナグ国の親書を持ってきたガリバーを好意的に扱う。オランダ人だと偽り入国し、長崎からイギリスの向けて出国する。

第四編:フウイヌム国(171年9月7日〜1715年12月5日)

馬が支配する国。理性を持つ馬(フウイヌム)と理性を持たない野蛮な人間(ヤフー)の世界で、ヤフーは汚い家畜として馬に飼われている。しかし フウイヌムは、理性的ではあるが自分の思い込みを絶対の価値と考える。それ以外の考えを受け入れない。しかも優生学的優越思想を持っていて、種の純潔を守るため結婚は恋愛によってはならないし、年寄りや働けないヤフーを殺処分する。のちにジョージ・オーウェルはこれを「全体主義的組織の最高段階」と呼んだ。

この国では戦争はないので戦争の原因がわからないと言う国王にガリバーは、王の野心、領地や人民、資源への欲望、名誉欲。これが戦争の原因だと説く。そして政治家・官僚の腐敗。政治の失敗を覆い隠すために戦争を起こすのだと説明。馬の国王はやはり人間はヤフーだ!と侮蔑する。この馬の国王はスイフトの皮肉を代弁する役割を担わされている。

ガリバーはイギリスに帰国して妻との再会を喜ぶが、馬小屋の匂いに安らぎを覚え、自分がヤフーに戻らないか不安を覚えながら暮らすという結末。スイフトの人間への不信感の表明で締めくくられている。


これは政治学テキスト?

先述のごとく、『ガリバー旅行記』は最初の二編、すなわち「小人の国」と「巨人の国」の物語が最も有名で、子供向けの本はここで完結している。ここまではスイフトがまだ政治に知性や良識を信じて希望を捨てていなかった時代に書かれたものだろう。しかし、スウィフトの政治への倦怠感と批判と風刺は後の二編に行くに従って磨きがかかり、舌鋒鋭く過激な攻撃になってゆく。彼の実生活のなかで政治に希望を見出せなくなった時期に書かれたのであろう。しかし、そこはイギリスの作家である。直接的な暴言や品のない表現で誹謗中傷するのではなく、ウィットに富んだ比喩やかなり強烈な皮肉が満載である。前二編の知性的、俯瞰的視点から、木を見て森を見ずといった視点の対比も十分比喩的ではあるが、科学万能主義、知性主義、合理主義への批判あるいは嫌悪感。そして誰もが信じて疑わない歴史的偉人についても皮肉混じりに懐疑的評価を示すなど、常識を疑ってみる批判精神の極致が見えてくる。馬の主人と家畜人ヤフーの逆さまな世界は、まさにスイフトの人間への懐疑心をカリカチュライズした物語だ。そして不老不死を至上とすることへの疑心。ここに至っては生命の現実を受け入れ解脱の境地に至ったようにすら見える。仏教徒ではないので「解脱」という言葉が当てはまらないのかもしれないが我々にはそのように映る。唯一実在する国として「日本」が登場するが、スイフトにとっては鎖国して周りとの通交を断ちオランダからしか情報が入らない遥けき島国は、他の架空の国に等しかったのかもしれない。いずれも現実の政治と社会の有り様とそれへの問題意識を架空の国々に仮託してカリカチュアライズする。彼の風刺:Satireがイギリス伝統の政治社会批評の一つのありかたを示した。ちなみにガリバーはウィリアム・アダムス(三浦按針)がモデルではないか、という人もいるが、そう結び付けたがるのは日本人だけだろう。スイフトは100年前の母国の実在の冒険者を知っていただろうが、彼の物語にモデルや英雄を必要とはしていない。とにかくこの物語はワクワクする大人の物語である。そしてこれは格好の政治学テキストである。


不老不死の国「ラグナグ国」再訪

「大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは、不死の人間ストラルドブラグの噂を聞かされた。自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと夢想する。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではない。老衰から逃れることはできず、いずれ体も目も耳も衰え集中力も記憶力もなくなり、日々の不自由に愚痴を延々こぼし、歳を取った結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗極まりない人間になっていく。ラグナグ国では80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま、世間から厄介者扱いされ、人間に対する尊敬の念も持たないまま生き続ける。そんな悲惨な境涯を知らされて、むしろ死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになる。」(和訳引用)

不老でない不死。老いさらばえて「その結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗な人間」。「人を人として尊敬しない人間」。こんな人間で満ち溢れ、彼らにコントロールされる世界。このカリカチュアライズされた世界こそディストピアだ。18世紀の作家、ジョナサン・スイフトの強烈な皮肉を、21世紀の超高齢社会に生きる我々はどう受け止めるのか。心に刺さる一文だ。


日本の東にある島がラグナグ、その東にバルニバービとラピュタ

不老不死の国の実態は...




アーサー・ラッカム:Arthur Rackham (1867~1939)

20世紀初頭のイギリスで活躍した挿画作家。典型的な中流家庭の出身で、保険会社に勤めながらイラストや挿画を描いた。代表的な作品に「不思議の国のアリス」「グリム兄弟」「真夏の夜の夢」「ニーベルングの指環」などがあり、この「ガリバー旅行記」もその一つである。彼の作品は多くの賞を獲得している。イギリスでは書籍における挿画作家の位置付けは重要で、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・ホガースなど著名な画家が活躍し、19世紀後半から20世紀前半は「挿画黄金時代:Books Beautiful」と呼ばれ、ラッカムの他にもオーブリー・ビアズリーやウォルター・パジェット(「ロビンソン・クルーソー」の挿画家)などが登場した。古書ファンにとっても書籍に芸術的な価値を付加するこれらの挿画は楽しみの一つである。


Arthur Rackham 1867~1939

リリパッドのガリバー

敵の艦隊を捕獲

どこか「鳥獣戯画」の趣が
ジャポニズムの影響か

巨人国で女どもの慰み者になる

ラピュタの住人は日常から遊離した科学者たち

馬の国王に拝謁

馬の国
なぜかこのイラストはラッカムのものではない。


参考:日本語訳「ガリバー旅行記」

森田草平 広島図書銀の鈴文庫1948年
中野好夫 新潮文庫1951年
原民喜 講談社文芸文庫1995年 青空文庫(著作権切れを掲載)
松岡正剛の「千夜千冊」のスイフトについてのコメントが興味深い