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2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜「種子島に鉄砲を伝えた」と自称するポルトガル人メンデス・ピントの『遍歴記』英訳版〜

1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。
 London, T.Fisher Unwin刊行である。

フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia)

これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げた。この二つの作品は、ノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったりする文学作品である。今回紹介する17世紀のポルトガル人の「冒険物語」は、16世紀後半の大航海時代に実際の冒険者が体験した、未知の国々での出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションである。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり伝え聞いた珍しい話を語る(見聞録)。と言いながらも事実の中にロマンを盛り込み、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリー。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」という自己主張のナラティヴである。間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人作家が「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。


ピント『遍歴記』とそのインパクト

その「冒険物語」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、インドから東洋を股にかけ、20年余にわたって旅した冒険商人であった。これはその自伝であり東洋見聞録である。ピントは旅から帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。この時ピントはほとんど無一文の貧困状態であったと言われている。その写本が出回り人気博したようだが、なぜかピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後『遍歴記』はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの架空の冒険小説とは異なる。ただ、かなり粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだとの評価がある一方で、東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、必ずしもホラ話や想像による記述とも言えない説得力を持っているという評価もある。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、スぺインやポルトガルによる航海、海外での植民地獲得や商業活動や、キリスト教布教活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。もちろん国家や教団としての公式記録は門外不出で、少なくとも当時は情報規制があったが、商人や冒険者個人の記録は比較的出回ったようだ。東洋への関心が高いものの情報量が限られており、ポルトガルの商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの『東方諸国記』(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの『東方案内記』が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。ピントもこの『東方諸国記』を読んだのであろう。そしてこのピントの『遍歴記』もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の情報源となった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本に東インド会社のサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳『ザビエル伝』は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の著作や手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録


日本渡航関係記事

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、そして中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、綿、茶、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が種子島であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。ピントは合計で4回日本に渡航したとしている。


第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ。「日本発見」の瞬間だと興奮気味に記述している。種子島の王Nautaquim(種子島時堯(直時)のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで鉄砲も火薬も製造することができるようになり、5ヶ月半の滞在中に600丁の鉄砲を製造したとある。やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話を広め、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し豊後府内に向かう。しかし豊後の王一族の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。豊後での商売は失敗する。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人「Anjiro:あんじろう」を改宗させ、ザヴィエルに引き合わせたとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ここではピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。その後、ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え日本を離れ中国Sanchao(三州)へ渡航。ピントは別れてSanchao経由でマラッカに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡し、布教のための神父派遣を要請したとする。  
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に詳細に記述されており、このピントの記録のどこまでが伝聞でどこからが実体験なのか不明な点が多い。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この頃ピントはイエズス会に多額の寄進をしており、そのことはイエズス会の記録にもある。この記述は実体験によるものと考えられている。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような(彼が切り開いたとする)日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、貧困のまま1583年に没している。


『遍歴記』の史料としての評価

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」。さらには1549年に「アンジロウをザビエルに引き合わせ日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれる「証言」はヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録(後述のロドリゲス『日本教会史』など)や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、後述するがポルトガル側の記録や書簡があまり残っていないので、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。ドライデン英訳『ザヴィエル伝』には「あんじろう」との出会いの記述があるが、日本から何らかの罪を問われて逃亡してきた人物とされている点は一致するが、誰が引き合わせたかという記述はない。

『遍歴記』はピントの帰国後の1569〜1578年頃に執筆されたものと考えられており、この時には既にイエズス会記録や書簡などの先行資料は入手可能で、執筆にあたって参照、引用(借用)できた事だろう。1614年の出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。1620〜1634年頃まとめられたイエズス会通辞ジョアン・ロドリゲス(ルイス・フロイスの後任として日本で20年以上にわたり布教活動に携わり『日本文典』などの著作もある)の『日本教会史』ではポルトガル商人ピントと彼の『遍歴記』に言及している。そのなかで彼が日本に来ていたことは認めているが、彼の話(種子島鉄砲伝来当事者である、豊後でのザヴィエル布教活動に関する一連の行事に関する記述)は作り話で娯楽のために後に創作したと思われると書いている。ロドリゲスは20年以上の日本(長崎)滞在経験から、ピントの記述を仔細にみると、実際の現地の地形や街の様子、人々の風習などを知らない者が書いたものとしか思えない、と実証的に「史料批判」を行っている。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』にはその内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。


「鉄砲伝来」その時ピントは種子島にいた?

本書で最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」をもう少し詳しく見てみよう。ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。種子島家に伝わる『種子島家譜』には時堯が鉄砲を買ったことが記録されておりこれが唯一のリアルタイム記録である。『鉄砲記』は江戸時代初期に刊行されたもので、これによると100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者王直(明国の倭寇の頭目のことか)と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると王直に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲、火薬の入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、全国に瞬く間に広がって行った経緯についても書かれている。これが現在では鉄砲伝来に関するもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?しかし少なくともピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいた目撃者であったかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。無論ピントが(彼の死後に刊行された)日本の『鉄砲記』を参照したことは考えられない。

先述のジョアン・ロドリゲスも、この話はピントの娯楽を目的とした作り話だとしているが、彼が日本にいたことは認めている。『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、その途中で種子島に上陸し、さらに日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、事実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。歴史研究にあっては、常に史料批判の対象となるわけだが、事実はともあれ話としては「その時ピントは種子島にいた!」の方がワクワクする。それがまさにピントの狙いであったに違いない。


1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙
ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


以下に掲載するのは、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙


参考過去ログ: