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2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜メンデス・ピント『遍歴記』〜



これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの「ロビンソン・クルーソー」やスウィフトの「ガリバー旅行記」などの冒険小説を取り上げてきた。この二つの作品は、ノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な国々に仮託した風刺小説:Satierであったりする「架空の物語」であった。今回紹介する17世紀の「冒険小説」はそのようなフィクションではなく、16世紀後半の大航海時代に起きた多くの実際の出来事、実在の偉人の「事績」を語るノンフィクションの性格を備えている。作者は自分の数奇な体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり人から伝え聞いた話も語る(見聞録)。しかし時に事実の中にロマンを語り、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。未知の世界に船出したこの時代の冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリーである。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」と自己主張する。

ポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、16世紀、実際にインドから東洋を股にかけて旅した冒険商人であった。その自伝であり東洋見聞録である。ピントは帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。しかしピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後「遍歴記」はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する「メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto」である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトのフィクションとは異なる。しかしこれはかなりの粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだという人もいる。一方で、実際に東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、その内容も必ずしもホラ話や伝聞による記述ばかりとも言えない説得力を持っているという人もいる。常に論争がつきまとう位置付けが厄介な文献である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、ザビエル伝などキリスト教布教活動や、スペイン/ポルトガルの航海、海外での植民地獲得や商業活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。東洋への関心が高く、ポルトガル人の商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの「東方諸国記」(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの「東方案内記」が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。東洋を目指すイギリス人、オランダ人にとってバイブルであった。このほかにもマッフェイの「インド記」、ホアン・ロドリゲスの「日本教会史」なども重要な文献が珍重され翻訳された。このピントの「遍歴記」もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の著作であった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時期であり、大航海時代の隣国の記録の研究翻訳が進められた時代である。ちなみにドライデン:John Drydenの英訳「ザビエル伝」は1688年の刊行。その元ネタとなったDominique Bouhoursのフランス語訳は1682年の刊行である。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされた。

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、中国であった。それはヨーロッパにはない豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がった開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられて存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が「種子島」であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」を記述したのがピントの「遍歴記」なのである。下記にその要点をまとめてみた。

手元にある本書は、19世紀末に「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもので、1897年ブダペスト大学Arminus Vamberyによる解説版 London, T.Fisher Unwin刊行である。原著のポルトガル語版は解読不能なので英訳版は助かる。


フェルナン・メンデス・ピント(Wikipedia)

当時ポルトガル人が用いた最新鋭の高速船

1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


ちなみに、以下に掲載する書影は、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙



日本渡航関係記事の要点:

今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。合計で4回日本に渡航したとしている。

第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。種子島の王Nautaquim(種子島時堯のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに献上 王は夢中になり瞬く間に自分たちで製造することができるようになり、やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って鉄砲事故に巻き込まれる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録には年代の記述はない。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話で、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し。豊後府内にゆく。しかし豊後の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」もことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人を改宗させ、その「Anjiro:あんじろう」をザヴィエルに引き合わせたのは自分だとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(将軍:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果が現れなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え中国Sanchaoへ渡航。ピントは分かれてSanchao経由Malacaに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡したとする。その中で布教のための神父派遣を要請。
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に記述されており、ピントの記述と同じである。どこまでが伝聞でどこからがピントの実体験なのか不明な点が多い。このころザヴィエルに臣従しイエズス会に帰依し、多額の寄進をしたのは事実と考えられている。また同時期に日本にいたことも確かであろう。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この記述は実体験によるものと考えられている。イエズス会記録にもある。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴えて国王に恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、1583年に没している。



「遍歴記」の評価:

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」「1549年のザビエルの日本布教を助け、アンジロウを引き合わせたのは自分」と「遍歴記」で主張している。日本史の画期となる歴史的出来事に悉く立ち会っているというわけだ。そして、マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ここが「あのジパングか!」と。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれるレポートはヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。ただ自身の貢献を売り込むためにそれを狙ったフシもある。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録や書簡にも彼の名前が登場する。ザビエルと共に大友宗麟に謁見したこと。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく記述と思われるし、鉄砲伝来譚など、ポルトガル側の記録や書簡が残っていない出来事には誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。出版後はヨーロッパで「冒険物語」として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。こうしたことから、常にこのピントの「遍歴記」には」その内容についての真偽に論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が多く含まれている点で、東西交流史の側面史として無視し得ないものと考えられている。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観が描かれている点でも貴重な著作だと考えられている。

本書に関して最も話題となる「鉄砲伝来譚」であるが、ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」とされる)と鉄砲の日本への伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の「鉄砲記」1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバンの「世界新旧発見史」、エスカランテ・アルバラード報告書などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。ただ「鉄砲記」には当時のやり取りの詳細な記述(ポルトガル人の名前は出てこないが)があり、これが現在では信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。一方でピントが主張するような「私が初めて日本を発見したポルトガル人だ」とか「鉄砲伝来に立ち会っていたポルトガル人だ!」という根拠は見つかっておらず、事実も確認できていない。現在でも少なくともポルトガル側の正確な記録は残っていない。しかしピントの記述は、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、ピント自身が「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、彼が種子島に渡航したことが全く根拠のない作り話とも言い切れない。東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、種子島に漂着し、やがては日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ポルトガル人との交易も最初はピントのような冒険商人と中国人と、日本人などとの私的な交易、海賊行為から始まった。やがて1567年に平戸、長崎に来航し、正式に中継貿易を始めることに繋がっていった。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、史実だけではなく編纂者や記録者の意思が表明されているものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。