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2026年2月7日土曜日

古書を巡る旅(75)イザーク・コメリン「東インド会社の起源と発展』〜ウィリアム・アダムスの日本への航海は記録されているか?〜



表紙
初版本を正確に復元したファクシミリ版

オランダ連合東インド会社社章



アジアの女神の足元で、ポルトガル人と争う姿(左)と魅力的な財物に群がるオランダ人(右)が描かれている

イザーク・コメリン:Isaac Commeline (1598〜1696年)

「東インド会社の起源と発展」:Begin Ende Voortgangh van de Oost Indische Compagnie 全4巻1644初版〜1646年三版

編者のコメリンはアムステルダムの著述家であり出版事業者である。本書は、オランダ人の数々の航海を年代順に編纂したアジア航海記録集とオランダ東インド会社の内部資料に基づく活動記録集である。前者はすでに刊行されていたものを含むが、後者は、非公開であったはずのオランダ東インド会社の内部文書が含まれている。いわば「オランダ東インド会社40周年記念誌」的な記録集となっている。しかし、本書の巻頭にこの本の成立に関する事情を説明した記述はない。また東インド会社が正式に出版したものではないし、本書刊行にあたってそのような承認や協賛をした記述もない。いわばコメリンという出版を生業とする人物の企画出版物と見做されている。印刷は地図制作でも著名なヤン・ヤンソニウス。注目すべきは日本に関する記録が豊富であること。特にヘンドリック・ナーゲルの「東インド紀行」で引用されている東インド会社内部資料や、初代平戸商館長スペックスの駿府参府記録や、リーフデ号乗組員の日本での活動記録、平戸商館長カロンの「日本大王国誌」始め、内部文書引用に基づく詳細でかつ質の高い日本関連記事が収録されている。

第1巻は北回り航路(北極航路)探検記録。ヘンリー・ハドソンによる探検航海記(ハドソン湾発見など)。後半は東周りで初めてアジアに至った(バンタムに到達)コルネーリス・デ・ハウトマン艦隊(1595年)の旅行記ほか。1598年のヤコブ・ファン・ネック艦隊のアジア遠征(莫大な利益で成功)記録が掲載されている。オランダでは1595〜1602年の間で65隻がアジアへ向かい、このわずか5〜6年でアジア香辛料貿易で大きなシェアーを占めるようになった。

第2巻には、西回りマゼラン海峡経由で東洋へ向かう各艦隊の航海記録。中国、日本が新たなターゲットとなり、リーフデ号が参加したマフー艦隊の航海、ファン・ノールト船隊の世界一周航海記録「世界一周紀行」(1598)などが掲載されている。ノールト艦隊の日本船との遭遇記録がある。

第3巻はハーゲン艦隊、フェルフーフ艦隊の日本航海記録、1602年に連合東インド会社が設立され、日本とも1609年に正式国交が成立。初代平戸商館長ヤン・スペックスの駿府参府日記1611年、リーフデ号乗組員クワッケルナック、サントフォールトの日本での活動に関する記録が収録されている(日本人に馴染みのウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンの名が見当たらないのは何故なのか?時折出てくるマスターAdamがアダムスのことか?))。

第4巻には日本向けの荷物の記録や、詳細な取引記録が掲載されている。出典は東インド会社の社内記録である。部外秘のはずの社内記録がどのようにして公開されることになったのかは不明であるが興味深い資料である。最後にはヘンドリック・ハーゲナールの「東インド紀行」が掲載されている。ハーゲナールは1634年から3回日本に渡り平戸に一年以上滞在し、江戸参府にも同行している。その付属資料として、5点が収納されている。その一つが平戸オランダ商館長フランソワーズ・カロンの「日本大王国誌」の元となったバタビア商務総監向け日本報告書(1645年)。ガイスベルトゾーンの「日本殉教史」、クラーメルの後水尾天皇行幸見聞記などが掲載されている。このように、第4巻は東インド会社の記録をもとに日本に関する重要で質の高い情報が記載されている。


イギリス人航海士ウィリアム・アダムスとオランダ・マフー艦隊の悲惨な航海

このようにウィリアム・アダムス個人に関する活動記録は見つけることができないのだが、彼が航海士を務めたリーフデ号、所属艦隊マフー艦隊の航海については上述のように記述されている。ここでイギリス人航海士ウィリアム・アダムス所属のオランダ、ハーゲン船団のマフー:Mahu艦隊の航海を振り返っておきたい。やはり、日本とイギリスとの出会いは、このオランダ船に乗船していたイギリス人の初めての日本上陸に始まる。このマフー艦隊は、イギリスのキャベンディッシュ:Cavendish艦隊の世界就航、その私掠船活動から上がる莫大な利益という「海賊モデル」に刺激され、オランダの投資家の資金で編成された船団の一つである。1598年、ロッテルダムを出港して、西回りでマゼラン海峡経由で東洋を目指すという、当時のオランダとしては画期的な航海であった。しかし、その結果は悲惨な航海であった。マフー艦隊は次の5隻から構成されていた(これらの艦隊航海の記録は本書「東インド会社起源と発展」イザーク・コメリン編著に詳説されている)。

ホープ:Hope号(希望)500トン、130人、船長ジャックス・マフー:Jaques Mahu(艦隊司令官)旗艦。

リーフデ号:Liefde(愛)350トン、110人、船長シモン・デ・コルデス:Simon de Cordes(艦隊副司令官) (旧船名:エラスムス号)

へローフ号:Gheloove(信仰)350トン、109人、船長ヘリット・ファン・ブーニンゲン:Gerrit van Beuninghen

トラウ号:Trauwe(忠実)250トン、86人、船長ユーリアン・ファン・ボックホルト:Ieauriaen van Bockhout

ブライデ・ボートスハップ号:Blijde Boodschap(福音)150トン、56人、船長セバルト・デ・ヴェールト:Sebalde de Weert

途中、指揮官マフーは出港後3ヶ月でアフリカ西岸のベルデ岬付近で熱病に感染し病死。副官のコルデスが指揮官となり、艦隊の指揮系統の再編が行われる。航海士のウィリアム・アダムスはホープ号からリーフデ号に乗り換えた。リーフデ号に乗船していたディルク・ヘリツゾーンはブライデ・ボートスハップ号の船長になり、セバルト・デ・ヴェールトはへローフ号船長となる。こうして再出発したものの、航海中に多くの乗員が熱病や壊血病で死亡したり、敵対的な先住民、ポルトガル人との戦闘で乗員の命が失われた。マゼラン海峡通過は、猛烈な嵐に見舞われ困難の連続で、艦隊はバラバラになってしまう。出港後10ヶ月、5隻のうちマゼラン海峡を通過して太平洋に出て再会を果たしたのはホープ号とリーフデ号だけであった。難破状態であったへローフ号はオランダのファン・ノールト艦隊とマゼラン海峡で遭遇し、救助と支援を要請したが、ノールト艦隊にも余裕がなく拒否される。へローフ号は乗員の反乱がピークに達したため船長のヴェールトはロッテルダムへの帰投を決断した。この時点の生存者は36名と、出港時の三分の一に減っていた。このヴェールトの航海記がコメリンの「東インド会社起源と発展...」第2巻に掲載されている。この他、トラウト号は単独でマゼラン海峡を越えモルッカ諸島に到達したが、現地のポルトガル人に捕らえられて多くが処刑されたが、捕虜として生き残りオランダに帰れたもの数人いる。ディルク・へリツゾーンのブライデ・ボートスハップ号は航行不能となりスペイン支配下のバルパライソ(ペルー)に入港し全員が捕虜となった。そのうち11名はその後オランダに帰還した。ちなみにこのディルクはアジアに24年滞在し、ポルトガル人に雇われて長崎にも2年滞在していたことがあった(この時の体験をリンスホーテンに語り、それに基づくと思われる日本の記述が「東方案内記」に掲載されている)。今回の航海で、初めて母国の船で日本を再訪する事を夢見ていたが叶わなかった。ホープ号は太平洋ハワイ諸島付近で嵐に巻き込まれ行方不明になり、結局リーフデ号だけが1600年3月、日本に到達する。そのリーフデ号の豊後到達も「漂着」といった方がふさわしい有様で、出港時110人いた乗員はこの時点で24人になっていた。3人が到着翌日に死亡。その後病死した3人があり、結局18人(14人という説も)が生存していたが、到着時に立ち上がることができたものは7人だけだった。船長のクァッケルナックは到着時には衰弱激しく、代わってアダムスが日本の役人に対応し、大阪へ連行された。

このようにマフー艦隊の航海は悲惨なものとなり、利益を上げるどころではなかった。出港時に491人いた乗員のうち、再び祖国の土を踏めたのは50人ほど。そのうち36人は途中で引き返したへローフ号の乗員で、捕虜となって帰還できたのは14名ほどしかなかった。また皮肉なことに、日本に到達し、誰一人捕虜にならなかったリーフデ号の乗員14人は、誰も帰国していない。こうした航海事業への投資は、多くの人命と船舶を失う究極のハイリスク投資で、「ハイリターンか、無一文か」という過酷なものであった。それでも欲望に駆られて、一攫千金型ハイリターンの僥倖を狙う執念というか、人間の業の凄まじさを感じる。冒険者とはそういうものである。コメリンの「東インド会社起源と発展」には、途中でオランダに引き返したヴェールトの航海記録が掲載されているためリーフデ号の日本到達の記録は出てこない。前回のブログで紹介した通り、オランダ船隊として初めて世界一周に成功し、故国に帰還できたたファン・ノールト艦隊が、航海途中ボルネオ沖で日本船と遭遇し、そこでリーフデ号の日本到達と乗員の生存を知り、帰国と共にオランダへ伝わった。



第二巻冒頭にマフー艦隊の5隻が紹介されている
途中でオランダに帰還したへローフ号船長セバルト・デ・ウェールトの航海記録が元になっているので、リーフデ号の日本到着は記述されていない。

大西洋 アフリカ西海岸・ベルデ岬に集結し、ポルトガルのプライア砦を攻撃する艦隊

大西洋 ギニア湾 ポルトガルのアンノボン砦を攻撃する艦隊1609年

太平洋 南米チリ、サンタマリア島(スペイン領)沖を通過
5隻の艦隊はバラバラとなり、ホープ号とリーフデ号だけになっている
ここから5ヶ月かけて太平洋を横断してリーフデ号だけが日本に漂着する

 ノールト艦隊が遭遇し襲撃しようとした日本船

ボルネオで出会った日本のサムライ(傭兵か?)


リーフデ号の人々

リーフデ号とその乗員の名前やその後について知るには、航海記録などが失われているので、アダムスが日本から同僚や家族に宛てた手紙の中で語られているものや、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などに出てくる記述を拾い集める必要がある。。アダムスの手紙によると、先述のように出港時110人であったリーフデ号乗員は、18人(14人説も)が生存して日本で生活始めたことになる。

我々の歴史の教科書で知っているリーフデ号生存者で後世に名前が残っているのはアダムス(三浦按針)のほか、ヤン・ヨーステン(耶揚子)くらいだが、他にも漂着時にリーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナック、書記であったメルヒオール・サントフォールトがいる。この二人はコメリンの本書にも登場する。その活動は次のようなものであった(本書に記録されているもの以外のソースから)。家康の許可を得て、バタニのオランダ東インド会社に向かい、貿易許可書を渡し、日本への来航を促そうとしたが、バタニ商館はポルトガルとの争いで忙しく、十分な商業活動がまだ開始されておらず、日本に向かう余裕がなかった。二人は虚しくバタニを離れ、クッケルナックはその後、現地でオランダ艦隊に加わり戦死する。サントフォールトは日本に戻り、長崎で商人として活躍。幕府やオランダ商館とは一定の距離を置きつつも、日蘭の交流史の中では重要な役割を果たした。アダムスよりもはるかに長い40年を日本で暮らした。リーフデ号生き残りの中では一番長い。その後バテレン追放令に伴い台湾へ、そしてバンタムへ移り住みそこで亡くなった。こうした活動は、オランダ商館やイギリス商館の記録、手紙などで窺い知ることができる。この他にも日本に定住した元乗員がいる。多くが平戸や長崎、堺などを拠点に貿易、航海に携わり、東アジアや東インドを舞台に活躍していた様子が伝わる。彼らの帰国を願い出る手紙や、故国に残してきた家族への想いなど、本国への帰国を願う気持ちも読み取れるが、それでも「神によって与えられた新天地」で、新たな活躍の場を得た「海の男たち」の挑戦者としての意気込みが感じられるのが感動的である。「人生至る所青山あり」。

リーフデ号乗員については、「リーフデ号の人々」ー忘れられた船員たちー 森良和著 学文社 に紹介されている。上記のウィリアム・アダムス、ヤンヨーステン、メルヒオール・ファン・サントフォールト、ヤコブ・ヤンツゾーン・クワッケルナックの消息、日本での活動状況について詳しく紹介されているほか、他の10名の知りうる限りの消息が記載されている。またクレインス桂子氏の記事にはこの本に紹介されていないもう一人のリーフデ号船員の消息が紹介されている。拙ブログ「2020年9月15日「ヤン・ヨーステンとは何者か? リーフデ号の生き残りとその後」を参照いただきたい。


ウィリアム・アダムスの生い立ち

1564年、イギリス南部のケント州ギリンガム生まれ。この頃のイギリスはプロテスタントの女王エリザベス一世が王位についたが、強大なカトリック国スペインの脅威に慄く辺境の島国であった。国内ではカトリック勢力による王権簒奪の危機にさらされていた。一方、イギリスはこの頃から徐々にローリーによる北米大陸への進出、植民地化が始まり、ホーキンスやドレイクといった私掠船船長(海賊)が海上でスペイン船を襲い財物を略奪するという荒っぽい活動を起こしている時期で、大国スペインとの戦争の危機が迫っていた。アダムスはこんな時代に幼少期から青春時代を過ごした。かれは上流階級出身ではなく庶民階級の出である。しかし子供の頃に学校には通わせられて読み書き計算は教わっている。当時の庶民の識字率は極めて低く、学校に行くケースは稀であったので、それなりの教育を受けさせることのできる家庭であったのであろう。12歳でロンドンの東、テムズ河畔のライムハウスで船大工のディンキンス親方の工房に弟子入りし修行を積む。この頃のイギリスはスペインとの戦争や海外進出の時代で、大型の外洋船建造ニーズが非常に高まっていたので船大工は人気の職業となっていた。

やがて彼は24歳でイギリス海軍に入り、1588年のドレイク艦隊のアルマダ海戦(スペイン無敵艦隊を撃破した海戦)に補給船ウィリアム・ダフィールド号の船長として参戦。イギリスの、いや世界の歴史を変えた海戦の当事者として戦場を経験した。戦後、海軍を退役すると、西アフリカとの貿易を執り行うバーバリー商会に入るが、おそらくもっと大きな夢を求めていたのであろう、オランダの世界就航プロジェクトに応募。ビーテル・ファン・デル・ハーゲン船団のマフー艦隊の航海士として参加することになる。造船技術と航海術、海戦経験を有する貴重な人材であった。若きアダムスの人物形成過程はこのようなものであった。これが彼の苦難の航海と、その末の日本での数奇な人生の始まりであった。