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2009年11月9日月曜日

新・大大阪の夢 (堂島・中之島編)



 前回,中之島のダイビル建て替えの話を書いたが、取り壊される前に是非一度見ておきたいと秋晴れの休日に訪ねた。
残念ながら建物は既に閉鎖されていて中をみることは出来なかったが、外観をカメラでなめ回してきたので下のアルバムでご覧あれ。ちなみにカメラはゲットしたばかりのライカM9。こうしたクラシックな建物をとるのにはちょうどいいカメラだ。が、一眼レフからスイッチすると、やはりレンジファインダーでのフレーミングがなかなかうまく行かなくて慣れるまで苦労した。だがエルマリート28mmの歪曲の少ない写りは、M9ボディーとのマッチングが最高であること示している。どうだ!

 中之島は再開発が進み、京阪の中之島線も去年10月に地下に開通してロイヤルホテルまで通じた。かつて山崎豊子の小説「白い巨塔」の舞台となった旧大阪大学医学部跡は堂島リバーフォーラムや朝日放送本社、タワーマンションなどに生まれ変わった。その向かいの旧大阪中央電信局、電話局は堂島テレパークとして建替えられ、今でもNTTグループの西日本の重要拠点として存在感を誇示している。堂島電電ビルとNTT西日本堂島ビルに挟まれた鉄塔が低く見えてしまう。この鉄塔はかつてここが全国の電話中継網の西のハブであったことを示すしていたのだが..... このようにここダイビルだけが周囲の新しい高層ビル群の中で圧倒的な存在感を持ってワイドスパンの敷地にドッカと座っている。周囲は関西電力本店ビルや,新ダイビル、三井ビルなどの高層オフィスビルやタワーマンションに囲まれてしまっているが。

 ダイビルは遠くからみると重厚な外見で,一見装飾性を排したシンプルなオフィスビルに見える。しかし,近寄ってみると外壁一面を覆うのはスクラッチタイル。壁からエントランスにかけて豪華な装飾の連続である。連続する柱は蛇や人面や動物のモチーフのテラコッタ装飾で飾られ,メインエントランスはことのほか豪華なレリーフで飾りまくられている。これらの一階の柱や外壁に用いられている石材は龍山石というものらしい。住友銀行本店ビルの外装全面にも用いられている石材だそうだ。

 残念ながら既に内部をみることは出来なくなってしまったが、一階のアーケードは吹き抜けの大天井、華やかな照明器具、漆黒のエレベータ、渋い金色に輝くメールボックスなど、徹底的に豪華さを誇るインテリアであるそうだ。残念。キット東京日比谷の三信ビル内のアーケードの様だったんだろうなあ。こちらは跡形もなく解体されてしまったが.....

 隣に新しい中之島ダイビルが建てられているが,こちらは低層部にクラシックな装飾が施されて,その上に高層のタワーが屹立している。ダイビルも立て替え後のイメージはこんなものなのだろうか。内部は確かに明るく合理的な空間と機能美のコラボレーションがさすがであるが、外見は最近流行の「壊してごめんね、だけど一応残しました」風の高層ビルだ。日本は古い建物の保存や修復に補助金や税金面での優遇措置などないのでビルオーナーだけに保存を押し付けるのは無理かもしれない。もう少し市民の側もこうしたビルのオリジナリティーや景観の価値を認識すべきだろう。

 土佐堀川沿いに東へ進むと、朝日新聞大阪本社、旧住友銀行本店があたりを圧倒する威容で立っている。高層ビルに囲まれて高さ的には睥睨することは出来ないが、その存在感は圧倒的である。この朝日ビル旧館はダイビルの4年後に竣工した古いビルだが、外見は古さを感じさせないモダンなものだ。御堂筋のガスビルにも通じる当時としては未来を予感させる景観をあたりにつくりだしていたに違いない。こちらも新・旧両方のビルが建替え計画中だ。

 西から見ると阪神高速の高架に視界を遮られた旧・住友銀行本店ビルはまさに大大阪を象徴するビルだ。土佐堀川沿いに建つフルブロックの建物の威厳と自信に満ちた有様は周りを黙らせるオーラを持っている。当時としては珍しく銀行内に建築部門を設け設計にあたらせたという力の入れ様だったと聞く。メンバーは辰野金吾の弟子達でその後の日本の建築史に名を刻む建築家がここで育った。第一期大正15年(1926年)、第二期昭和5年(1930年)の2期に渡って完成させた。その設計に携わった建築家の長谷部鋭吉、竹越健造がその後独立して開いたのが日本最大の設計事務所、日建設計である。

 さらに東へ向かうと、錦橋、淀屋橋、日本銀行大阪支店、大阪市役所、中之島図書館、中之島公会堂、と大阪のプロムナードをつなぎ、北浜の旧・大林組本店、大阪証券取引所,と続く。堂島川(旧・淀川)土佐堀川沿いの大大阪の東西軸のハイライトだ。どうだ,大阪はすごいだろう、とばかりに。




















































2009年11月8日日曜日

Leica M9 我が戦列に加わる!

とうとうM9がやってきた。
悩んだが選んだのはスチールグレーではなく,ブラックペイントボディーだ。

外見の違いはあまりなくて拍子ヌケするくらいだ。強いてあげれば、軍艦部の撮影枚数/バッテリー表示用の丸い液晶表示窓がなくなって、アナログMライカで継承されてきた巻き戻しクランク部の段差が復活した。別に機能的な意味はないがライカMシリーズを愛用してきたファンへのサービスみたいなものだ。その他はライカロゴマークがM8.2では黒であったのが赤に変わったことくらいで基本的にはM8とおなじ。あっ、あとアクセサリーシューがシルバーになってる。

中身だが、一番の変更点は,もちろん撮像素子が1800万画素フルサイズCCD(Kodak製は変わらずだが)となったことだ。つまり、M8がAPS-HサイズCCD(レンズ焦点距離が表示の1.3倍になる)であったのに対し、35mm判フィルムサイズ、すなわち「ライカ判」になった。これはライカ愛国主義者にとっては、他国に奪われし故国を取り戻したようなエポックメイキングな出来事なのだ。これで銀塩35mmフィルム用のM3、4、5、6、7などで使っていた従来からのライカレンズ資産(Mであれ,マウントアダプターを介してLであれ)がほぼ全てオリジナルの焦点距離で使えるようになったという事だ。50mmは50mmで、35mmは35mmで.....

実用的には50mm標準レンズが1.3倍の65mmの焦点距離となっても、それはそれで使いこなせるのだが,ライカ愛国主義同盟にとってそんな妥協は許されない。ライカのデジタルカメラが「ライカ判」を取り戻したことが画期的なのだ。いわば家元の権威を守ったことになるのだ。

これまでのM型ライカのボディー形状をほとんど変えることなく(デジタルになってちょっとメタボボディーにはなったが)フルサイズCCDを搭載したのだ。短いフランジバック(レンズ後端からフィルム面(撮像素子面)までの長さ)を大きく変えることなくデジタル化し、さらにフルサイズ化する。これはやはりドイツ人職人魂の勝利だろう。あくまでもレンズ資産を大事にするライカ愛国主義者の熱い支持を裏切らないボディー造りには技術的な格闘があったにちがいない。明らかにゼロからデジタルカメラを作り変える方が設計の自由度があって楽だっただろうと思う。

デジタル一眼レフですらライブビューを導入しているのに、あくまでも光学式のレンジファインダーにこだわり、ご丁寧に電池とメモリーカードの装填に、フィルム時代の底蓋を開けてフィルムの装填をするあのめんどくさい方式をユーザに強いたり。ライカならではのお作法を守る本家ライカ流家元の伝統をしっかりと受け継いでいる。

ライカ社はM9を「世界最小のフルサイズデジタルカメラ」とうたってる。ライカ愛国主義者同盟にとっては「世界最小」かどうかはどうでも良いことだ。むしろそんなことを日本製の高機能デジカメとの差異化要因としてキャッチコピーに使っていることには「怒っている」というよりは「笑ってしまう」。

このようにライカはニコンやキャノンとは異なる道具なのだ。決して比較などしてはならない。機能が劣っているとか、使いにくいとか、不合理だとか。そんなことが気になる人は使うなよ,という態度の人だけがライカ愛国主義者になれる。「こだわり」には時として合理性を超えた価値が含まれていることがあるんです。

さて、M9で,その他の改良点や気付いたところを箇条書きにしてみる。

1)レンズの6ビットコードの光学的自動読み取りはそのままだが、各種のレンズ情報がプリインストールされてマニュアルで選択、設定出来るようになった。これはいい。アナログ時代のレンズ資産を大事に使っているライカ主義者へ敬意を払うのであれば,ある意味当然の機能であろう。もっとも、いまだにこのレンズ情報を設定することによって何が変わるのかイマイチよく分からないが。

2)相変わらずローパスフィルターは省かれており、それがライカデジタルらしいクリアーでヌケの良い画像造りに寄与している。M8で問題になっていたマゼンダかぶり防止用のフィルターはボディー内の撮像素子前面に取り付けられ,レンズの前にいちいち変な色のフィルターを装着する必要がなくなった。これもM8からの改良だ(が、そもそもマゼンダかぶり起こすこと自体は欠陥なんじゃないのかな?)。

3)ISO感度設定ボタンがつきやりやすくなった。またISO80から2500まで選択出来る。実用的な感度もM8では320までで、それ以上だとノイズが目立って使う気になれなかった。M9では1000までなら使える。

4)露出補正がファインダーのぞきながらダイアルで設定出来るようになり、液晶画面上での設定と選択出来るようになった(M8でもファームウェアーバージジョンアップでダイアルでも可能となったはずだが,シャッターボタン半押しのタイミングが合わないととても設定が難しかった。何故なんだろう?)。これは使い勝手が向上した。

5)シャッター(音)の種類が4種から選択可能となった。しかし「静音」モードもそんなに明らかに静かかどうか.....ライカM3の横走り布幕フォーカルプレーンシャッターの、あの感触ではない。ディレーモードも日本のカメラメーカーの発想ではないなあ。

6)M8.2で「売り」であったスナップショットモードがなくなった(正確に言うとソフト的に選択する方式となった為、シャッターダイアルから「S」がなくなった)。そもそもこんなまやかしのスナップショットモードが保守的なこだわりライカ主義者にウケるとでも思ったのだろうか? 意図がわからん。まあとにかく視界から消えてよかった。

7)オートブラッケティングが設けられた。これは改良だ。今までなかったのが不思議だが。

8)バッテリー残量、撮影枚数(SDカード残量)はINFOボタンで液晶画面で確認するようになった。撮影枚数は時々ボタンを押して確認しないと,突然SDカードフルになり撮影がストップしてしまう。バッテリーの減り方が早くなったようだ。ちなみにこの画面だけがカラー表示なのは何故? 

全体としてより完成度が高まりつつある(「高まった」とまでは言えない)感じだ。くらべちゃいけない,と言いながらついつい日本製のデジ一とくらべてしまうが、ソフトウェアーに手を入れることで追加出来る機能はいろいろあるはずなのに何故やらないのかな。例えばニコンのアクティブDライティングのようなダイナミックレンジを拡張する機能を追加するのは難しいのだろうか?せっかくレンズ情報を読ませる仕掛けを持ってるんだから、これを使った新機能をファームウェアーアップデートで追加してくれるとうれしいのだが。

同梱の画像処理ソフトがAdobe Photoshop Lightroom となったことは歓迎だ。Capture One(この日本語表示は意味不明が多い)よりは遥かに使い勝手がよいことは言うまでもない。また本体の画像エンジンに手が加えられたのであろう、画像の彩度が上がってよりビビッドな色調になったようだ。私好みだ。しかし,相変わらずホワイトバランスが不安定で、特にオートにすると暴れがち。条件によってはとんでもない色調に飛んだりする。これって何とかならないのか。ソフトウェアーで改良出来るんじゃないのかなあ? パソコンでLightroomで修正しろってことですか?あと、画像の読み込み速度が(特にRaw+JPEG Fineや連写で)遅いが、まあ、これ以上ニコンやキャノンと比べるのは止めとこう。

とにかく,今風の性能スペックや操作性よりも道具としての物理的な感触(とりわけ真鍮削り出しの堅牢な軍艦部)や、所有欲を満たすステータスで存在感を主張するカメラだ、ということだろう。もちろん「うまく撮れたときの」ライカ写真の息をのむ素晴らしさが一番の魅力だが。ライカ社はアサカメのインタビューなどで、性能的にも他社のデジ一と遜色ないレベルになった,と言っているが、ううん.....そうかなあ.....

ライカMレンズ群の「味」はなかなか他社の追随を許さない。それを遺憾なく発揮させるボディーはやはりライカMシリーズしかない。特にフルサイズ化した意味は大きい。であるが故にその伝統のシステムとそれを支えるプラットフォームにこだわると操作感に一歩譲る点がどうしても出てくる,という事なのだろう。しかし,それは欠点ではなく違う種類の楽しみを与えてくれる道具であるということに行き着く。レンジファインダーはプリズムや液晶を通して観るのではない,もう一つの「眼」を提供してくれるのだし、使いにくさは「道具を操る喜び」を与えてくれる。そして「ライカ流写真術のお作法」の楽しみを与えてくれる。それを愛する人こそライカ愛国主義者といえる。またそういって自分の選択を正当化するのがライカユーザでもある。

2009年11月2日月曜日

昭和の情景 〜宮本常一との時空旅〜

平成も21年が経ち、間もなく22年になろうとしている。「昭和は遠くなりにけり」。昭和は歴史になりつつある。書店を廻ると「昭和もの」の本が平積みになっている。これも懐古的昭和ブームの現れなんだろう。「今」を生きている20代から80代の人々の大部分が昭和生まれなのだから。ポテンシャルな購買層はまことに広い。なにしろ「昭和の町」なるものまで地域おこしで出現しているくらいだから

昭和は長い。戦前,戦中,戦後、高度成長期、とまさに日本の歴史の中の激動の時代だ。
私は戦後生まれのベビーブーマー、団塊世代の最後尾の世代だが、戦争の余塵を知っている世代でもある。父母、祖父母から聞いた戦争の悲惨さ、日本人が味わった歴史的屈辱、戦前と戦後の価値観激変ギャップへのとまどいの話からだけではない。 当時、福岡で育った小学生,中学生の私にとって戦争の残した土煙は日常の光景でもあった。特攻隊生き残りの小学校の先生(やさくれていた。すぐに生徒にもビンタが飛んだ。体罰なんて普通だった。)、小学校の同級生は満州、朝鮮半島からの引揚者(博多港は引揚げ港だった)の子供達が多かった。反対に大陸の故郷へ帰れない在日の子も友達にたくさんいた。皆名前は日本名だったが... 学校給食で出た米国支援物資の脱脂粉乳ミルク(まずい。しかしこれで育った)、南公園の高台に設置されていた米軍(進駐軍といっていた)の高射砲陣地(朝鮮半島を向いていた)、雁ノ巣の米軍飛行場(大きな格納庫と小さなかまぼこ兵舎が....)、春日原、白木原の米軍キャンプ(そこはアメリカだった)、博多の町を走り回るジープ(Give me chocolate.か?)、ラジオから聞こえるFEN「This is the Far East Network from Itazuke.」。南公園の動物園は米軍家族デーには我ら少国民は入れなかった。迷彩塗装の残る修猷館の校舎(なんで消さなかったの?)、新天町、西鉄街のバラック商店街の賑わい、土埃の電車道、街頭の傷痍軍人のアコーディオンとバイオリンの音.....全ては私自身の生活体感から来るあの頃の昭和の光景だ。後で知ったが、なんと私は連合国軍占領下の日本で生まれたのだ。1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約調印のわずか以前。Made in Occupied Japanじゃなくて、Born in Occupied Japanだ!

昭和の写真集もいろいろあるが、そういった中でふと眼にとまった写真集があった。「宮本常一が撮った昭和の情景」(毎日新聞)上下二巻である。いや、正確に言えばこれは写真集ではなく、宮本常一氏自身も写真家ではない。著名な民俗学者である。宮本氏が日本全国を旅して撮りためた10万枚に及ぶ写真は昭和の日本人の輝きと忘れられていた昭和を克明に記録した,いわば民俗学フィールドノートである。

しかし,そこに記録された昭和の人々の生活やそれを取り巻く情景は、どんな写真家の写真集にも残されていない貴重な作品だ。本の帯に記載された宮本氏自身の言葉「旅の中でいわゆる民俗的なことよりも,そこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。.....民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えてきた。」と。

上巻は昭和30年〜39年,下巻は昭和40年〜55年の記録である。従ってそこに記録されているのは終戦直後の焼け跡の姿ではなく、高度経済成長前夜の人々の貧しくものたくましい日常の生活だ。そしてそこに写し出されているモノクロ写真の人々の姿、情景は古写真のそれではなく、私の記憶の中に鮮やかに蘇る私自身の情景だ。坊主頭にランニングシャツの男の子は靴下なしでズック靴。女の子はおかっぱ頭にゴムの入ったスカートかちょうちんブルマ。足には下駄。なんと粗末な姿だ。しかしなんと笑顔が輝いていることか。

ただただ懐かしいという気持ちと、「あの時」と「今」とのギャップへの驚きと、そして、豊かになったはずの「今」の我々が失ってしまったものがそこに鮮やかに写し出されていることへの感動と。自分自身が、「あの時」とはすっかり変わってしまっていたことを確認させられたような気分になる。しかし、一方忘れかけていた幼い日のナイーブな自分をフラッシュバックさせてくれる。写真家とは異なる民俗学者としての視点と、事実を事実として記録する科学者の眼。そして宮本氏が述べているように旅の中で知った民衆の生活自体への愛情がこの2冊にあふれている。ArtとしてではなくScienceとして記録し続けたものの中にArtを垣間みることが出来る。なんと楽しいことよ。

ちなみに、これらの写真はオリンパス・ペンSで撮られたものだそうだ。そのことが益々私にとっては愛着を感じさせる本になっている。高価なニコンやライカではなく、文字通り手軽にいつも持ち歩けるペンで綴られた写真ノートだ。フィルムが高価だった時代にハーフサイズで36枚撮りフィルムなら72枚も撮れる。メモ代わりに撮って歩くには最適な選択肢であっただろう。私的にも「写真家」ならぬ「写真家」ならではの愛着を感じざるを得ない。私が中学生の時、修学旅行用にと父が初めて買ってくれたカメラがこのオリンパス・ペンだった。これが「写真機家」の始まりだったわけだから。

”「眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和35年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした。......だが3万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何かを見、何かを感じようとしたかはわかるだろう。それはそれで記録としてものこるものだと思う。」”(宮本常一『私の日本地図1 天竜川に沿って』(あとがき)




2009年11月1日日曜日

突然ですがライカM9が入荷しました

いつも新品ライカ購入のときにお世話になっている日本橋のF越写真機店のS藤さんから電話だ。
M9発表のときに、一応、入荷は何時頃になりそうかメールで問い合わせていたのだ。
「入りましたけどどうしますか?」と。
「どうしますか」はないでしょう。欲しいに決まってるよ.....
心の底はすっかり見透かされている。
年内はとても無理かと思っていたが,思いがけずお早いお着きで。
さて困った。こんなに早くちゃあ手元資金がないのでどうにもならない。
金の工面はできるか.....
やっぱりM8や、キャノンや、溜まったデジタル機材をかき集めて売るしかない。
どうせデジカメは消費財だ。愛着を振り捨てれば出来なくはない。
どうにかキャッシュアウト最小限でゲットできそうだ。
愛機を売ってでもなんとか買おうという執念。
ゲニ恐ろしきは物欲煩悩。