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2019年2月16日土曜日

四天王寺夕陽丘 〜上町台地の断崖を探訪する〜


四天王寺夕陽丘からの夕日

大江神社への階段


 四天王寺夕陽丘は不思議な魅了の詰まった街である。地下鉄の四天王寺前夕陽丘駅から谷町九丁目、上本町辺りは昔から船場の商家や小説家などの文化人が住まう上町台地上の閑静な住宅街である。またその名の通り四天王寺を始め愛染堂など寺が多く、また生國魂神社、大江神社、高津の宮、安居神社、さらに南へゆくと住吉社など神社も鎮座ましましている。この辺りは大阪の一大寺社町を形成している。上町台地の西側には大きな断崖がある。と言われても気付きにくいが、谷町筋から松屋町筋まで急な坂(天王寺七坂など)がいく筋も通っていて、大きな高低差があることが実感できる。戦時中の大阪空襲で市街地が焼け野原になった時は四天王寺から西側、谷町筋から大阪湾が見渡せたという。今やビルが立ち並びどこからも海は見えなくなったが。古代、上町台地は四天王寺や難波宮などの歴史上の重要な施設が営まれた高台である。現在では大阪の重要なランドマーク、大阪城が台地の北端、四天王寺が台地の中間点、住吉さんが南端という配置だ。豊臣秀吉の時代、大坂城の南の上町台地上に平野郷から寺と住民を移し平野町を形成した。さらに徳川時代になると、台地の西側の傾斜地に先述のように大きな寺社町を作ったのが現在の夕陽丘。もともと上町台地は古河内湾と外海(難波津、大阪湾、瀬戸内海)を分ける半島であった。今は西側は大阪の市街地となっている。東側の河内湾はのちに汽水湖、河内湖になり、やがて干上がって現在は河内平野となっている。下記の写真のように「あべのハルカス」屋上から見渡しても、今やびっしりとビルや家が立ち並びどこからが台地なのか、その痕跡すら確認しにくくなってしまっている。

 そもそも大阪(大坂)という地名は四天王寺西門鳥居前の西側に下る大きな坂、大坂(逢坂)が由来だと言われる。このように上町台地という高台と西の難波津の海との高低差が大坂(逢坂)を生み出し、天王寺七坂を生み出した。そこに寺社が集められ独特の都市景観が生まれたという訳だ。すなわちここ上町台地こそが「水の都」ならぬ「坂の都」大阪発祥の地だと言えよう。商都大阪の中心地、掘割に囲まれた船場、島ノ内、天満、西船場は、のちに太閤秀吉によって開発され、形成された新開地なのである。 

 夕陽丘という地名は、まるで現代っぽい響きであるが、実は仏教の西方浄土思想と密接な関連がある。鎌倉時代初期の公卿で歌人の藤原家隆が浄土教の日相観思想に傾倒し、出家してこの地に終の住処「夕陽庵(せきようあん」を設けたのが地名の始まりと伝えられている。かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であり、大江神社、新清水寺、四天王寺西門辺りが有名だった。現在の夕陽丘町と六万体町には「天王寺寺町」、生玉町と生玉寺町には東側に「生玉中寺町」、西側に「生玉寺町」という寺町が形成されている。台地を下った松屋町筋の東側には下寺町があり天王寺七坂のうち六坂は下寺町内にある。難波、日本橋(にっぽんばし)に遊びに行った帰りにタクシーで桃谷に抜ける学園坂(夕陽丘学園の横手の坂道)もここだ。あの「夫婦善哉」の作家、無頼派と呼ばれた織田作之助は上本町と生國魂神社に近い現在の上汐町4丁目に生まれ、旧制高津中学から、京都の第三高等学校へ進んだ。短編「木の都」には、夕陽丘、口縄坂を舞台に、戦時中の厳しい時代を懸命に生きる庶民の姿が叙情豊かに描かれている。また司馬遼太郎も旧制上宮中学、大阪外語大学(現在は大阪国際交流センター)と、このあたりで青春時代を過ごしている。

 上町台地の地名に関してはウンチクを語り始めるといろいろ出てくるのでこの辺にしておきたいが、私が今でも不思議に思うことを最後にあげておきたい。太閤割でできた大坂の南北の「筋」のことである。台地の最頂部、大坂城のすぐ西の筋が「上町筋」であることは分かるのだが、その一本西側の筋は「谷町筋」という。確かに上町筋よりは下ったところにあり台地の斜面ではあるが、どう見ても「谷」ではない。むしろ台地上だ。この谷町筋から先ほど紹介した四天王寺西門の大坂(逢坂)、天王寺七坂、生魂西坂、千日前通りなどの急坂を西へ下ると松屋町(まっちゃまち)筋、堺筋、御堂筋...と並ぶ。今や大阪市内の南北の幹線道路となっている谷町筋。この台地上の筋をなぜ「谷町筋」と名付けたのか?これを考えると夜も眠れなくなる...  誰か教えてくれる「タニマチ」はいないものか。



大江神社

愛染さん


愛染かつら


ここからは天気が良いと、昼間は爽快な青空、夕方になると夕焼け空が美しい。いまや西側を見渡してもビル街となってしまい、地上の景観には惹かれないものの、やはり夕陽丘は昔から景色の良い景勝地であり、西方浄土を彷彿とさせる聖地として難波の人々のあこがれであったのであろう。







「天王寺七坂界隈」写真集:

口縄坂


大江神社参道坂

猫の似合う街

愛染坂




四天王寺西門

四天王寺西門前
逢阪
大坂/大阪の地名の元となったと言われる

生國魂(いくたま)さん東参道

大阪総鎮守生國魂神社

飛鳥時代の上町台地
あべのハルカスから見渡す上町台地全貌
中央の広い道は谷町筋
左の緑地は天王寺公園(茶臼山)。その上の細長い緑地帯が天王寺七坂あたり(すなわち上町台地の西の崖)
右の敷地は四天王寺境内。その上にわずかに大阪城が見える。