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2019年3月1日金曜日

お江戸の最高峰「愛宕山」登頂記 〜美しい都市景観とは?〜


愛宕神社の急階段
愛宕山登頂の難関はココ!
これだけは間垣平九郎の昔から変わっていない


 愛宕山(あたごやま)という名称の山は全国あちこちにある。本家は京都の愛宕山で山頂には「火伏せ(防火)の神様」として崇敬を集める愛宕神社の総本宮がある。こちらは標高294mの山で京都市の西、嵐山の奥に位置している。愛宕山は東京にもある。こちらは江戸/東京のランドマークとも言える山で、標高26m。これでも自然の山としては23区内の最高峰だ。山頂にはやはり「火伏せの神様」愛宕神社がある。ここの表参道の急階段は、江戸時代の講談「出世の階段」の英雄、曲垣平九郎の馬による登頂でも有名な階段だ。現在でもこの階段は下から見上げると壁のようにそそり立っている。上から見下ろすとまるで垂直の断崖絶壁のようで思わず転がり落ちそうになる。愛宕山を低山と侮るなかれ。都心の低山攻略の最初で最後の難関だ。

 江戸時代から明治初期には山頂の愛宕神社境内から江戸市中が一望できた。江戸っ子の行楽地としても人気があったところである。幕末から明治初期に横浜に滞在したフェリーチェ・ベアトが、ここから撮影した江戸市中のパノラマ写真を見ると、当時の江戸がいかに美しく整然とした街並みであったことがよくわかる。高さが統一された重厚な黒瓦屋根が連なる武家屋敷。しかも邸宅ごとに十分なスペースが確保できたゆとりある街並み。武家屋敷街ならではのある種荘厳な景観だ。庶民の暮らす下町の長屋街はこうはいかなかっただろうが、日本橋の商家街も別の意味で統一感のある街並みを形成していた。度重なる火事に見舞われた江戸の町は、耐火構造の瓦葺き、しっくい壁の屋敷に建て替えられていった。これが江戸を独特の景観を持つ街にした。これだけの武家屋敷があったからこそ、御一新後に新たな帝都東京を建設するにあたって、中央官庁や、学校、軍隊、事業会社用のまとまった敷地が確保できた訳だ。江戸は東京となり、近代化の名の下に大きく変貌していくことになる訳だが。このころの愛宕山からは武家屋敷街だけでなく所々にみどりの杜が見える。正面奥には浜御殿(現在の浜離宮庭園)の杜が、右手には芝増上寺(芝公園)の緑が見える。そして品川の海を見通すことができる。

 こうしてみると今の東京にかつての江戸の面影を求めることはほとんどできない。今、愛宕山山頂に立って見渡してみるといい。そこにはベアトが見た江戸の町はない。そもそも愛宕神社の展望台に立ってもほとんど視界は効かない。この江戸の標高26mの最高峰「愛宕山」は、今や高層ビルの谷間になってしまっている。江戸と今の東京は全く別の街になった。もしベアトが生きていてカメラ担いで東京の愛宕山を再訪したら「ここはホントに愛宕山なのか?」「江戸は何処へ行ってしまったのか?」と言うに違いない。こんなに街の風貌が一変してしまった都市も世界中見渡しても少ないのではないか。

 ある建築家が、東京は刻々とその都市の風貌を変えてきた。長い歴史の記憶が今に生きるローマやパリやロンドン、ウィーン、北京とは違う町なのだ。したがって古い景観や建築物を守るよりも、どんどん新しい建物にして全く違う街にした方が東京らしい、と言っていたのを思い出した。ずいぶん大胆で乱暴な言い方で、まるで建築屋さんが食って行くためのロジック丸出しに聞こえる。しかし事実、愛宕山山頂から展望できたかつての江戸の都市景観は、明治の「近代化」、大正の関東大震災、昭和の東京大空襲、戦後の東京オリンピック、バブル地上げで、すでに跡形も無くなってしまった。そして今もなお変貌中である。まるで自己増殖するアメーバのように、人間の意志とは無関係に終わりのない遷移のプロセスを今も歩み続けている。これが同じ都市だろうか?というほど変貌を繰り返してきた。もともと木と紙でできた日本の建物は、石とレンガでできた建物と違い何十年、何百年も持たない。基本的には火事や、地震や、水害、戦乱でほぼその痕跡を残さず消滅する構造だ。建物は「不動産」ではなく「動産」、いや「消費財」なのだ。平和な時代の江戸の町も度々大火に見舞われたが、それに備えて木場には大量の木材が備蓄されていたし、鎮火後はすぐに大工が建物を建て始めた。庶民の家はもともと火事を前提とした作りになっていて、江戸火消しの消火活動も破壊消火、すなわち取り壊して延焼を防ぐものであった。建物は消費財。そうした消費行動によって、材木問屋と大工は成り立っていた。さらに大火の度に都市再開発が行われ、住民の移転による新しい街が生まれた。そうして復興の度に江戸は人口が増え都市として大きくなっていった。リサイクルシティー江戸はそういう風に金が回る世界でも有数の経済都市であった。現在でも、相続税対策で売却された一軒の邸宅跡地には、たちまち三階建の狭小プレハブ建築が4〜5軒ギッシリと建つ。それが火事で焼けても地震で倒壊しても、土地所有者が変わって建物が取り壊されてもすぐに跡地には新しい建物が建つ。家はプレハブメーカーが製造する工業製品、すなわち耐久消費財だ。。高層ビルですら赤坂プリンスホテルのように、芸術的な解体工法で消滅し、跡地にはたちまち新たな高層ビルが出現する。そうして日本の経済は回り、GDP成長にも貢献できるんだというわけだ。それならそれで、いっそどんどん変えてやれッて訳だ。歴史的な建築物の保存・活用や街並みの修景・保存に力入れるよりもそのほうが東京らしいと。彼の建築家のご高説にも一理ありそうに聞こえる。災害や人災や破壊に抗しきれない無力さに対する居直り、一種ヤケクソ論理であるのだが。

 しかし、仮にそうだとしても、東京というダイナミックに変貌する都市景観はセンスの良いものなのだろうか?美しい、住み心地よい街に進化して行っているのか。とてもそうは思えない。乱立するタワーマンション群と三階建狭小住宅群。土地の所有権が細分化され狭い間口のビルが繁華街に乱立し、道路は幹線道路を除くと昔のままの狭くて規則性のないシステムが基本的には踏襲されている。利便性を追求するあまり、理解を超える複雑系システムになってしまった公共交通機関網。そこへ一極集中で人口過密。そんな生活空間での暮らしが「あこがれのアーバンライフ」なのだ。

 いっぽうで、アーティストを自認する建築家は自分が設計しデザインする一個一個の建物には念を入れた意匠を凝らすが、それがあたりの景観と調和がとれているか、都市全体の住環境の価値増大に貢献しているかはあまり関心を払わない。むしろ奇抜なデザインの建築物を自分の表現、作品として誇示しているのとしか思えないものもある。(消費財なので)どんどん建ててどんどん壊せば良い。未来永劫残る作品にはならないのだから実験してやれというわけか。都市景観というスコープで考える建築家がどれほどいるのか?建築学には都市開発、都市計画、都市デザインという研究領域もあるのだが。なぜソレが生きた都市を日本に見つけることができないのだろう。都市における狭小住宅も、一見それぞれの建物は狭い土地を効率的に使い、小洒落たデザインであるが、結果、地域が防災上懸念される木造密集住宅地化していることには考慮が払われていない。そしてこの「小洒落た」建物群が100年続く美しい都市景観に成熟してゆくのか、江戸の長屋文化のような地域コミュニティーを形成してゆくのか、そんな視点で見ている人はまるで誰もいないかのようである。木を見て森を見ない、部分最適、全体不最適な街になっているのではないか。もはや一建築家、都市設計者の手をこえて自己増殖する街になってしまったのか。都市計画を担当する行政も、不調和の調和に身を任せ、レッセフェールによる資本のロジックの前に膝を屈してしまったのか。東京は見えざる神の手による予定調和が創造する街なのであろうか。


壁のようにそびえる参道階段


幕末の愛宕神社参道



明治の愛宕山地図


ベアトが愛宕山から江戸市中をパノラマで撮影した写真。


Edo Panorama old Tokyo color photochrom.jpg
By フェリーチェ・ベアト - Colored Photochrom print (Wikipediaから借用)

5枚の写真を繋ぎ合わせてパノラマにしている。
北方向
東方向(着色されているものを掲載)
南方向
明治期の愛宕山展望台の絵葉書


こちらは現在の東京(浜松町の貿易センタービルからの展望)。ちなみに愛宕山からはほとんど展望は期待できない。

愛宕山(この正面やや右)は高層ビルの谷間に埋もれてしまった。
浜松町世界貿易センタービルからの展望
このビルも建て替えられることになっている。
この景観の中に江戸の面影を見出すのは難しい