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2019年3月16日土曜日

「琳派」とジャポニスム 〜ニッポンが西洋美術の潮流を変えた時代〜

畠山記念館に残る島津家屋敷時代からの黒松
樹齢250年の古木だ


 畠山記念館の冬季展「光悦と光琳 ー琳派の美ー」を観に行ってきた。以前にも茶道具の展覧会に行ったところである。ここは茶の湯に関わるコレクションが充実しており、敷地内に複数の茶室もある東京都心には稀有な空間であるが、琳派のコレクションにも貴重な逸品が多いようだ。茶道の侘び寂びとは別の装飾的でデザイン性に富む琳派の作品もまた日本文化のもう一つの側面である。

 展観内容は
パンフレット引用:「琳派の祖とされる本阿弥光悦(1558〜1637)と、光悦誕生の100年後に生まれた尾形光琳(1658〜1716)。マルチな才能を発揮した二人はアートディレクターの一面も持ち合わせています。さらに光悦と刺激的な共同制作を行った俵屋宗達(生没年不詳)と、光琳の弟、尾形乾山(1663〜1743)の絵画や工芸品も厳選してご紹介いたします。時を超えて人々を魅了する琳派の美のかたちをご堪能ください。」

 琳派とは?代表的なアーティストは、

本阿弥光悦、俵屋宗達(安土桃山時代、江戸時代初期)
尾形光琳、乾山兄弟(光悦誕生の100年後、死後21年後の誕生)
酒井抱一(1761〜1829 光琳死後の45年後に誕生。江戸琳派)

 このようにそれぞれが生きている間に師弟関係にあったり、時代を共有したりしていない。生きた時代がずれている。重要なのは、琳派は徳川将軍家お抱えの狩野派のような連綿とした家系による芸風の承継ではなく、時代を超えて「私淑」による承継であるという点。光琳が光悦/宗達を後世に伝え、その画風を承継し、抱一が光琳に私淑してこれをさらに承継するという。これが琳派である。明治以降もこの流れは引き継がれていく。さらにそのインパクトは日本だけでなく、西洋の芸術家にも私淑されて承継されていった点がなお重要である。19世紀のヨーロッパにおけるジャポニスムブームの始まりである。最近はやりの表現方法だと、芸術におけるクローズドイノベーションとオープンイノベーションの違いに近いのかもしれない。

 琳派は芸術作品としてだけでなく、その作品の持つデザイン性、装飾性が特色である。それは写実的表現ではなく、より抽象化された表現、デフォルメされた造形により表現されている。しかも襖絵や扇絵などの絵だけではなく、書、工芸、茶器などの総合芸術である。宗達の下絵に光悦の書が配される作品や、光琳の絵と乾山の工芸作品に代表されるコラボレーション。アートディレクターと言われる所以である。

 19世紀オーストリアのウイーン分離派のグスタフ・クリムト(1862〜1918)は、長い鎖国の時代に終止符を打ち世界に門戸を開いた日本の文化の流入に驚き、感動する。特に琳派や浮世絵に大きな影響を受け、1900年には分離派主催のジャポニズム展がウイーンで開催された。これには江戸琳派の酒井抱一がまとめた「光琳百図」がヨーロッパに伝わって当時の画家たちに大きな感動を持って迎えられたことが大きいと言われている。このように琳派は西欧美術に大きな影響を与え、北斎、歌麿、広重の浮世絵とともに西洋絵画の写実主義から印象主義、さらにはモダニズムへの転換を促した。

 概略的にいうと、西洋美術のモチーフが主として人間であるのに対し、東洋美術のモチーフは木や花、動物などの自然であると言われる。ルネッサンス以降、西洋では人間の力と精神の芸術表現に傾倒していくのに対し、東洋では古来より自然とともに生き、自然を崇拝するというアニミズム的な宗教観の反映なのだろうか、枯淡な梅の枝であったり、川の流れであったり、いわば「花鳥風月」が重んじられた。西洋美術のムーブメントに一石を投じ、大きな転換の契機となったのがジャポニスム運動であった。こうして印象派の絵画だけではなく工芸やデザインや装飾にも自然をモチーフとした新しいデザインが盛んに取り入れられるようになっていく。さらにモダニズム、アールヌーボー、アール・デコの時代へとつながってゆく。

 この展覧会は特段、琳派とジャポニスムにハイライトを当てた展示企画ではないし、この展示会場のどこにも琳派が西洋美術へ多大の影響を与えたといった企画者のメッセージは感じられない。しかしそうした押し付けがましさがない分だけ、遠く西洋の芸術家たちがこうした東洋の琳派の芸風に「私淑」した、その原点がこの静謐な日本文化の空間に充満している様を見て取ることが求められているような気がした。

 展示会場を出ると、そこには樹齢250年の堂々たる黒松の巨木が枝を広げている。ここが、江戸時代には薩摩島津家の屋敷であったその名残の古木である。まさに光琳や抱一が盛んにアートディレクターとして活躍していた時代からここにあって辺りを睥睨していた。幕末には蘭癖大名で島津斉彬の祖父である島津重豪の江戸屋敷であった。明治維新後は同じ薩摩出身の外務卿寺島宗則の邸宅となり、さらに荏原製作所創業者である畠山一清(即翁)の屋敷となった。のちに敷地の半分が政財界の迎賓館たる般若園となるが、やがて廃業、売却され、今は西洋風の「白亜の殿堂」が建っている。あのSバンクの創業者S正義の迎賓館であると言われている。それぞれの時代の権勢を誇るVIP達の夢の跡に今も孤高を姿を保つ黒松の巨樹は、確かに人間の刹那的な栄枯盛衰を超えた存在の確かさを物語っている。その青空に枝を張る雄々しい巨樹の姿の美しさは神々しさすら覚える。琳派が伝え、ジャポニスムの唱導者たちが心を奪われた美を象徴するモニュメントなのだと訴えているかのように。


俵屋宗達「風神雷神図屏風」
京都建仁寺(京都国立博物館蔵)
のちに尾形光琳が模写し、さらにそれを酒井抱一が模写している

尾形光琳「紅白梅図屏風」


グスタフ・クリムト「生命の木」

グスタフ・クリムト「フラクタルな風」