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2020年11月3日火曜日

丸の内仲通散策 〜大名小路はいまブランドアベニューへ〜

 

行幸通りからみた仲通り

私はいわゆるファッションブランド品には興味がない。そういう柄でもない。したがってブランドショップ巡りなどという楽しみを持ち合わせていないしそれにお金をかけることもない。もっともブランドに拘らないわけではなくカメラはニコンとライカに決めているが、別にブランド品だとは思っていない。「お道具」としての仕上げの良さと信頼感から昔から愛用し手放せないだけだ。まさにサステーナブルな事業モデルが生み出す伝統の価値を愛でている。それを「ブランド価値」だというなら、そういうブランドは好きだ。なぜファッションブランドに興味がないのか? 多分ファッションにそもそも関心が薄いのだろう。したがって、有名デザイナーや高級ブランドの価値がわかっていない。縁がないといっても良いかもしれない。しかし、例外はある。唯一と言っていい贔屓ブランドはブルックスブラザーズ。ニューヨーク時代からのお気に入りでアメリカントラッド(アメトラ)の代表ブランドだ。本当はロンドン時代からブリティッシュトラッド(ブリトラ)ファンで、バーバリーやアクアスキュータム、オースチンリードなどのかっちりしたスーツやコート、シェトランドウールのプリングルやハリスツイード、ローラアシュレイなどだ。そうそうジャーミンストリートのピンクのシャツもいい。が、生憎英国ブランド製品は日本の提携先企業が次々倒産、撤退してしまい、なかなか入手できなくなりつつある。三越の英国フェアーで直輸入品をゲットするしかない。つい昨日はアクアスキュータムのレナウンがとうとう破産手続きに。でトラッドの代表格で日本に残っているのがアメトラのブルックスというわけだ。そのブルックスも本家がこのコロナパンデミック騒ぎの中倒産し存続が危うくなったが、ブランドと日本の店舗は残ることとなった。ビジネスウェアー中心でシャツはあのボタンダウンが定番になっている。

そんなブルックスブラザーズの東京店が銀座から丸の内仲通りに移ったのはもう何年も前だ。なぜ日本の旗艦店が「世界の銀座」ではないのか?店長にその理由を聞くと、銀座はもう高級でファッショナブルなイメージではなくなったという。いまやこの丸の内仲通りこそが東京のブランドアベニューだと評価しているとのこと。ブランドショップにとって出店ロケーションは非常に重要だ。この評価にはいろいろな意見や反論もあろうが、なんとなくわからなくもない。世界的に有名なメインストリートであるニューヨークの五番街、ロンドンのオックスフォードストリート、リーゼントストリートなどあまりにも観光客が多くなりすぎて、量販店やお土産屋が立ち並ぶ街と化し、高級ブランド街のイメージが薄れてしまった。そういう受け止めは昨日今日のことではない。それに代わってニューヨークだとマディソン街やヴィレッジ、ソーホー、トライベッカなどが、ロンドンではジャーミンストリートやボンドストリートが高級ブランド街になっていった。その動きは、ニューヨークやロンドンに遅れるものの東京でも起きている。特にインバウンド爆買いブームで観光客に占拠された感のある銀座よりも、ここ丸の内仲通の方がより高級感のある通りになりつつある。このコロナパンデミックでぱったりとインバウンドが途絶えた今、銀座はどうなるのか大いに関心があるところであるが、いまやここ仲通りが新しい東京の顔となり、世界の名品の店が軒を連ねていることに変わりはない。日本初進出という店もここにはある。銀座のような繁華街としての規模と華やかさと賑わいはないが、量販店やチェーン店、免税店が軒を連ね、観光バスが押しかけるインバウンドの買い物観光客でごった返すワイ雑さはない。日本橋のような江戸の老舗街ともまた一味違った街の趣が出てきた。まあ江戸時代は大名名家のお屋敷街「大名小路」だったので、昔からある意味ハイソなブランド街だったわけだが。

いまや丸の内仲通りの町並みはまるでヨーロッッパのそれだ。いや、日本を代表する大企業の堂々たるビル群。オフィス街の中を一本貫いて走る石畳の並木道。大企業のオフィスとブランドショップが隣組という東京ならではの町並みが独特だ。街角にオブジェが置かれていてアート鑑賞散策も楽しめる。歩道が広くとってあり、休日は車の進入が禁止されるので屋外のカフェが開放的でよい。「三密」避けるウィズコロナ時代にはうってつけだ。とにかくブラパチフォトグラファーにとってはフォトジェニックな街である。バブル崩壊して久しい。コロナであらたな危機に直面しているが、日本の奇跡の復興と高度経済成長をシンボライズする町並みだ。ずっと後世に、かつて日本が、東京が、未曾有の繁栄を謳歌した時代の「古き良き時代の街並み」歴史地区として記憶されるだろう。

しかし、一方で東京の中心、皇居のお堀端の丸の内、大手町、日比谷はグラスアンドスチールの工業製品を組み立てたプレハブビルばかりになってしまい、どこか都市景観に風格がなくなってしまった。かつての日比谷通り沿いの堂々たるネオゴシック建築群の立ち並ぶ壮観な景観はどこかへ消えてしまった。それが気になる。ヨーロッパの都市のように何十年、何百年も歴史の厚みを感じるような景観を保つことはできないようだ。あっという間に歴史のある建物は取り壊されて全く新しい別のものに建て替わってゆく。お堀端にあった銀行協会の近代建築遺産指定されていた建物もいつの間にか取り壊されて無くなっている。跡地にはなんの変哲もない合理性一点張りのオフィスビルが建った。いろんな理屈があるのだろうが一連の意思決定プロセスには「文化リテラシー」を感じない。大企業や金融機関という文化の担い手、パトロンであるべきはずが... こうして建築遺産は保存されず街の様相、景色が代わってしまう街が東京である。ここでは建物は消耗品だ。都市景観も資本主義的合理性の前では消耗品と化す。東京は歴史の痕跡が可視化されにくい街だ。つい150年ほど前には江戸を代表する景観であった黒瓦と白壁の堂々たる大名屋敷群はいまやすっかりなくなり、ベアトの古写真にその面影を偲ぶのみだ。明治以降の大理石作りの堂々たるネオゴシック建築も少なくなった。赤レンガ建築は、イギリスでもアメリカでも、「レッドブリックス」と呼ばれて一段格下に見られがちであるがこれも少なくなった。一丁ロンドンの面影は三菱一号館に残すのみとなった。東京駅舎が復元保存されたのは朗報だが。

丸の内仲通は、江戸時代は江戸城のお堀端に大名屋敷が連なる「大名小路」、明治初期には陸軍練兵場。そして岩崎弥太郎の三菱会社に払い下げられて三菱ヶ原に。やがて赤煉瓦の洋館が立ち並ぶ「一丁ロンドン」。関東大震災後は丸ビルなど鉄筋コンクリートのビルが立ち並ぶ。戦争で丸焼け。戦後は連合軍GHQの統治機関用に接収されたビルが連なる地区。やがて丸ビル、新丸ビルなど三菱系企業ののオフィス街へ。三菱重工本社ビル爆破事件なんて過激派のテロもあった。仲通りはかつては土日休日は閑散としていたものだ。よく休日は、ここに路上駐車してお堀端の散策や自転車乗りをしたものだ。それが今や世界的なブランドアベニューに。こうした有為転変が日本の都会の常態なのだ。伝統のブランドとは長い歴史のなかで生まれてくるものだと思っていたが、どうもそうじゃないらしい。変容に次ぐ変容。輪廻転生がブランドってわけか。

そんな現代の「束の間の」ブランド街を、「ブランド」カメラ「ライカ」で撮りまわってきた。

丸ビル前



Brooks Brothers






「一丁ロンドン」
(Wikipediaより)

1894年創建時の三菱一号館
(Wikipediaから)


復元された三菱一号館
ブリックスクエアーの中庭から

ガス灯

この佇まいはニューヨークのヴレッジあたりのそれだ

ブリックスクエアーの庭園




復元修景された東京駅丸の内駅舎

お堀端
クラシックな銀行協会ビルが姿を消してしまった

旧銀行協会ビル
1993年に建て替えられ、低層部ファサードのみが保存されたが、
2016年にはとうとう全部解体され姿を消した。

跡に建ったのはこんなビル!

旧ビルの痕跡はこれだけ!
泣けてくる

イチョウが色づき始めた

皇居前の噴水広場


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60, SIGMA DG DN 85/1.4 Art)