ページビューの合計

2021年2月20日土曜日

西欧文明とのファースト・コンタクトは何をもたらしたのか? 〜「破壊的イノベーション」は起きたのか?〜


ファースト・コンタクト
ポルトガル船の長崎来航


セカンド・コンタクト
アメリカペリー艦隊(黒船)の江戸湾来航


今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一。明治維新の主人公といえば坂本龍馬や西郷隆盛のような維新の英傑、あるいは新撰組のような敗者のヒーローがこれまでも大河の主役になったが、今年は「日本の資本主義の父」である。渋沢の著作「論語と算盤」が脚光を浴びるなど、資本主義が見直しの時期に来ている点では渋沢が注目されるのは合点がいく。ともかく19世紀の黒船来航に端を発する、強烈な西欧文明との遭遇に伴う驚きと恐怖。それに比べ日本の「前近代性」への焦り。これを原動力とした幕末から明治日本の「殖産興業」「富国強兵」「文明開花」という近代化の歴史。この記憶が21世紀になっても「大河ドラマ」の主人公に当時の英雄を選ぶという行動につながっている。この一点をとっても、いかにこの時の西欧文明との遭遇(コンタクト)が日本人に強烈なインパクトを与えたかを物語る。長い低迷の時代から脱する術を知らぬまま、茹でガエル状態になっている21世紀の日本。コロナパンデミックもあいまって先行き不透明で、新たな「維新」を期待する空気が横溢する中に、またしても「明治維新型の英傑」の登場に何かを求めようとする。「欧米先進国」という追いかけるモデル、ゴールが明確であった時代の英傑像。それは目指すモデル、ゴールが不透明で、答えが無いこれからの時代の英傑像と同じなのだろうか。いつまで「明治維新型の英傑」なのか。そこから脱し得ないところに今の日本の課題が凝縮されている。イノベーションにおける「外圧」、西欧列強モデルに学ぶ、という強迫観念から逃れることができないのだ。

「破壊的なイノベーションは外からやってくる」。日本の歴史はそう教えているように見える。外来のイノベーションを「受容」し、それを咀嚼して日本的に「変容」する。そうして歴史のパラダイムシフトを繰り返してきた。稲作の伝来、仏教の伝来、白村江の戦い敗北。キリスト教伝来、黒船来航、そして敗戦。その度に「外からきたイノベーション」で日本は大きく変わっていった。なかでも我々の記憶に鮮明に残っているのが「敗戦」とそれに至るまでの19世紀の西欧文明との遭遇であったことは今述べた通りだ。しかし西欧諸国との遭遇はこの時が初めてではなかった。煙を吐く蒸気船、黒船を見て腰を抜かした当時の人々は、この時すっかり忘れていたようが、ペリーの来航から300年ほど以前、戦国時代真っ只中の1543年(天文12年)種子島にポルトガル人がやってきた(漂着した)。これが初めてのヨーロッパ人との遭遇である。これに続いて1549年(天文18年)カトリックのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。そして次々と宣教師がやってきて、時の権力者だけでなく庶民ともキリスト教を通じて接触を持った。今度は正式にポルトガル人も交易のために平戸、長崎にやってきた。南蛮人の来航だ。1600年にはオランダ船リーフデ号が豊後沖に漂着し、イギリス人ウィリアム・アダムスがやってきた。、そしてプロテスタントのオランダ人やイギリス人がやってきた。これが紅毛人の来航だ。これが西欧諸国とのファースト・コンタクトである。しかし、程なくキリスト教は禁止されて宣教師や西欧人は国外追放され、日本人の海外渡航や帰国も禁じられた。キリスト教や西欧人との濃密なコンタクトは100年足らずで終わった。そして徳川幕府は徹底して「遭遇の記憶」の抹殺に力を注いだ。唯一滞在を許されたオランダ人は長崎の出島に押し込まれて、庶民との接触を禁じられた。200年にわたる「鎖国」でファースト・コンタクトの記憶はすっかりかき消されていて、19世紀になって列島沿岸に出没した欧米諸国の蒸気船に驚愕した。まるで初めて見る異人であるかのように畏怖した。これがセカンド・コンタクトである。

しかし、このファースト・コンタクトとセカンド・コンタクトは、その時代背景や、日欧両サイドに与えたインパクトはまるで違う。どう違うのか?ファースト・コンタクトはどのような「破壊的イノベーション」を日本にもたらしたのだろうか。


1)「ファースト・コンタクト」の時代 16世紀の世界は?

まず結論から述べると、1543年(天文12年)ポルトガル人が種子島に漂着したことに始まる日本と西欧諸国とのファースト・コンタクトは、日本人がセカンド・コンタクトの時に味わったような、西欧列強諸国の経済力と軍事力、科学技術への驚愕と恐怖、羨望の出会いではなかった。16世紀〜17世紀の世界は、アジアは経済的文化的先進地域、ヨーロッパは世界の辺境地域であった。その差は圧倒的であった。イスラム教国に圧迫されていたヨーロッパは、イスラム世界を通らなければならない陸路を迂回して海路を取り、豊かなアジア(初期においてはアジア全体をインドと理解していた)を目指してその繁栄のおこぼれに与ろうと遥々海を渡ってきた。その頃繁栄していたインド洋交易圏、さらにアジア交易圏は外来者に開かれた市場であった。地元の頭目にテラ銭さえ払えば誰でも交易に参加できた。まずそこへ進出してきたヨーロッパ人はレコンキスタでイスラム世界から失地回復を果たしたばかりのポルトガルだった。人口150万の小国であった。彼らはアフリカ西海岸を南下し、希望峰を周回してインド洋に出て、インドのカリカットに到達した。一方、同じイベリア半島のスペインは東航路をポルトガルに先を越されたので、西回りでアジアを目指した、そして新大陸(アメリカ)を発見した。当時のアジア世界は、強大なオスマントルコ帝国、サファヴィ朝ペルシャ帝国、インドムガール帝国、そして中国の大明帝国といった超大国がひしめいていた。こうしたアジアの大帝国にとって臨海部に上陸して交易拠点を設けようとするポルトガルなど、巨大なパイに群がる蟻のような存在であったことだろう。海路でやってきたポルトガルの冒険商人が内陸深く進出し商圏を広げることはなかったし、そもそも彼らは豊かなアジアに売れるような産物を持ち合わせていなかった。キリスト教布教にしてもそうだ。イスラム教やヒンズー教、仏教、儒教を駆逐する勢いはなかった。現にほとんど帝国の内陸にまで布教が広まり信徒を獲得することはできなかった。オスマントルコもペルシャ帝国、ムガール帝国も大明帝国も、版図内の土地と人民を支配することに最大の関心を寄せる大陸国家であり、海を目指した海洋国家ではなかった。ポルトガルの船団がカリカットやゴア、マラッカ、マカオを拠点に海で交易活動に参入しようと、宣教師がやってきて海岸べりでキリスト教を布教しようと、そうしたヨーロッパ人の動きは帝国の核心的利害とは無関係であったと言っても過言ではない。そもそもユーラシア大陸の西端のヨーロッパは、イスラム教徒に圧迫されて呻吟するキリスト教徒の地域で、ようやくイスラム教徒から奪還したイベリア半島にスペインやポルトガルが起きたわけだ。その一方、当時のヨーロッパ人が忘れかけていた西欧文明のルーツであるギリシャやエジプトの文明は、イスラム教徒から伝承された。そうした先進的異文化の桎梏から脱出すべく、イスラム世界の向こう側のアジアへ生き残りの旅に出た。これが後世「大航海時代」とか「大発見:Great Discovery」とか称される西欧中心歴史観の実相であった。

ちなみに、アジアを目指して西へ向かったスペインは「幸か不幸か」アジアの強大な帝国に遭遇することはなかった。当初夢見たアジア/インド/ジパングとの交易利権を手にすることはできなかったが、その代わりに思いも寄らない「手付かずの」新大陸に到達し、そこのインカ、アステカ、マヤなどの現地文明をコルテスやピサロなどのわずかな手勢で滅ぼして植民地化した。アフリカから送り込んだ奴隷を使い現地から金やそのほかの資源を、奪えるだけ奪って本国へ持ち帰るという、双方向の交易を伴わない「略奪帝国主義」の実行者となった。そして現地住民の素朴な太陽信仰、祖霊信仰を破壊し、強制的にキリスト教に改宗させた。世俗の欲望と、キリスト教世界の拡大、という動機に突き動かされて東へ向かったポルトガルと、西へ向かったスペインは、ある意味明暗を分けることななったわけだ。歴史の皮肉だ。


2)「ファースト・コンタクト」その時日本は?

ファーストコンタクトは日本にセカンド・コンタクトと同様に「破壊的イノベーション」をもたらしたのであろうか? 16世紀にポルトガル人「南蛮人」がやってきた頃の日本は14世紀の南北朝時代から続く戦乱がいまだに終わっておらず、天皇や将軍の権威が失われて、各地に割拠する武力集団(戦国大名)の中から頭角を表し始めた信長、秀吉、家康が天下統一を果たしてゆく過程の時代であった。先ほど豊かな「経済文化先進地域アジア」と言ったが、日本はインドや中国に比べるとさしたる資源もなく、魅力的な産物もない(マルコ・ポーロの描いた伝説の「黄金の国ジパング」とは程遠い)のが実体であった。人々の生活は戦乱で疲弊しており貧しかった。石見に銀が産出するまでは、ポルトガル人もスペイン人のマゼランも、近海まで来ておりながらもスルーしていた国であった。それが、偶然にもマカオから中国のジャンク船に乗って航海中のポルトガル人が種子島に漂着して、初めて「ここがあの噂のジパングか!」と忘れられていた「ジパング伝説」を思い出した。。この時「鉄砲」がもたらされたわけである。資源もなく貧しいと考えられていた日本は、実は(貧しいのだが)200年に亘る戦乱で練度の高い軍事組織(武士/さむらい)を有する強大な軍事国家であった。そこにポルトガル人のもたらした鉄砲が戦国時代の勢力地図を塗り替え「天下統一」を加速した。戦略兵器「鉄砲」を制したものが覇者となった。鉄砲伝来以降、わずかな期間に日本はたちまちその保有数において世界でも屈指の国になっていた。当時の日本の人口は3000万ほどといわれ、人口が高々150万人のポルトガルや、遅れてルソンからやってきたスペインなどの南蛮人は日本の敵ではなかった。当時の為政者(信長、秀吉、家康)ははるばる世界の果てからやってきたヨーロッパ人を見て、風変わりな風俗に心を奪われ、エキゾチックな文物に魅了された。もちろん鉄砲にはすぐに食らいついた。また彼らが乗ってきた外洋航海を可能にする大型船にも興味を示して建造させた。しかし19世紀幕末の時のような軍事的脅威や、経済的な豊かさへの怨嗟や、植民地化される恐怖などは感じなかった。もちろん後から来たプロテスタント国のオランダ人やイギリス人の「侵略の先兵カトリック宣教師」という反カトリックプロパガンダはあったものの、ポルトガルやスペインが艦隊を派遣して日本を占領するなどという危機感に現実味はなかった。むしろキリシタン禁教の直接的な原因は、西国キリシタン大名の「天下統一」からの離反の恐れと、オランダの交易利権独占を保障することによる幕府の管理統制貿易政策であった。

また日本人もこの時期、積極的に海外へ進出して交易や傭兵として参加していた。後世の鎖国のイメージが強く、日本人の海外進出などイメージされにくい嫌いがあるが、倭寇の例を待つまでもなく、もともと海洋国家である日本は、その周辺の中国や朝鮮などとの交易(海賊行為も含めて)、琉球王国を介した南方貿易に関わってきた。権力者も海外交易利権に目をつけ朱印状を発行して莫大な利益を得ようとした。当時はルソンや中国沿岸部、マラッカ、シャムには大きな日本人の居留地ができていた。アジアに進出してきたポルトガル人、スペイン人やオランダ人、イギリス人との海外拠点での邂逅も多く、交易に従事したり、商船を襲ったり、彼らの私掠船に乗り組んだり(イギリス船に乗組み、ロンドンまで行って帰ってきた日本人の記録がある)、日本人が傭兵として英蘭の戦闘に参加した記録が残っている。この時代、日本人はグローバルに活動していた。もっとも、博多や堺などの大商人が出資して船団を組み海外に出かける(英蘭の東インド会社のような)ことや、政治権力者が朱印状(貿易許可)を冒険的商人に与えて大船団のパトロンになると言った試みは家康まではあったが、国家単位で組織的に取り組まれるまでには至らぬまま「鎖国」してしまった。「破壊的イノベーション」を忌避する時代へ突入した。

ところでポルトガル人は鉄砲を伝え、これが戦国の世の戦闘形態に「破壊的イノベーション」をもたらしたのは確かである。しかし、それ以外に大きな利益を生むような魅力的なヨーロッパからの産物をもたらしはしなかった。鉄砲とてすぐに日本人は自国生産を始めたので交易品としての利益を生むことはなかった。したがって本国との交易よりは、むしろ日本の銀を手に入れて、それで中国の絹や陶磁器、茶など高価な財物を買いつけ、それを日本に運んで売ると言う「三角貿易」で莫大な富を生み出した(当時、明は倭寇対策で日本との通交を禁止していた)。しかし、このファースト・コンタクトにおける重要なインパクト・ファクターは交易ではなかった。それはポルトガル海洋帝国の拠点つたいにローマ・カトリックのイエズス会の宣教師がもたらした外来宗教、キリスト教であった。彼らは珍しい西欧文物をもたらすとともに、戦乱の世の中で一気に30万もの信徒を獲得した。しかし、やがて徳川幕府はキリスト教を禁じ、宣教師、司祭を国外追放して「鎖国」が始まる。すなわち「外からやってきた破壊的イノベーション」の受容は拒否され、徹底的にキリスト教は抹殺され、人々の記憶から消し去られてしまう。この「受容」と「変容」の問題は後で触れるが、200年後の幕末において、「黒船来航」に驚いた時には、この300年前のファースト・コンタクトの記憶が呼び起こされることはなかった。


3)「セカンド・コンタクト」への道

このファースト・コンタクトがあった16世紀後半から17世紀前半から、セカンド/コンタクトのあった19世紀に間にヨーロッパは大きく変わった。徐々にスペイン、ポルトガルといったカトリック国の凋落が始まり、新興のプロテスタント国であるオランダやイギリスがヨーロッパにおける覇権争いに勝利する(英国艦隊のアルマダの戦い、ホランド、フランドルのスペインからの独立)。そして「南蛮人」に変わり「紅毛人」が海外進出により強力な海洋帝国を築き始める。アメリカ植民地開拓やアフリカ、インドへの進出を皮切りにアジアへも進出する。オランダ/イギリス東インド会社の創設である。さらに18世紀後半からイギリスでは、産業革命と言う「破壊的なイノベーション」が起き、蒸気機関の発明により農業や工業製品の生産力が飛躍的に増大し、鉄道や蒸気船の発明により移動流通が革命的に発展していった。海外植民地から綿花などの安い原材料を仕入れて、本国で綿製品などに加工して、さらに人口の多い植民地へ売りつける。加工貿易で巨大な富を蓄積し始める。政治的にはアメリカ独立戦争、フランス革命による王政の打倒という市民革命、共和制移行が起きた。この頃「資本主義と父」と言われるアダム・スミスが現れ、重商主義的な経済政策から大きな転換を果たして行った。ヨーロッパ諸国がこうした経済的、技術的、政治的なイノベーションにより、大きく発展する時代ヘと進んだ。そしてイギリスはアメリカ植民地を失ったものの18世紀に入ると、バタビア、シンガポールを領有し、19世紀にはムガール帝国滅亡とインド併合(1858)、アヘン戦争により香港割譲(1842)などアジア、植民地化を進めた。そして七つの海を支配する大英帝国としてパクス・ブリタニカの時代を迎える。一方、イギリスからの独立を果たしたアメリカは、いわばヨーロッパの出店として、新たな世界進出プレーヤーとして登場してくる。またヨーロッパの後進国、北方のロシアも領土的野心を剥き出しにして、黒海やアジアにおける不凍港を求めて南下してくる。こうした時期に鎖国日本の近海に現れたのがイギリス船であり、ロシア船でありアメリカ船であった。これが西欧とのセカンド・コンタクトなのだ。この時期のヨーロッパ、アメリカは、軍事的にも経済的にもはるかにアジアの旧勢力を凌ぐパワーに成長していた。あのムガール帝国はイギリスの植民地となり、大明帝国のあとの清朝中国はイギリスとの争いに敗れて香港を奪われ植民地化の道を辿る。こうしたアジア情勢の激変を知った日本にとっては、目の前に現れたアメリカの黒船来航は「太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜煎)、たった4杯で夜も眠れず」であった。ファーストコンタクトから300年。200年欧米諸国との国交を閉ざしている間にアジアを取り巻く情勢は大きく変容し、日本の周辺の景色はすっかり変わってしまっていた。これがセカンド・コンタクトであった。そしてこれに驚き恐怖を抱いたことに端を発する「破壊的イノベーション」、パラダイムシフトが明治維新であった。


4)キリスト教の受容と変容はなぜ起きなかったのか?

先述のように、ファーストコンタクトのもっとも重要なインパクトはキリスト教の受容の問題であった。結局キリスト教は日本に根付かなかったと評価する見解も多い。遠藤周作の「沈黙」においても、日本は結局キリスト教が根を下ろすことができない「沼地」である、と登場人物の棄教した宣教師フェレイラに言わせている。また芥川龍之介の「神神の微笑」においても、かつてこの国に来た「仏陀」もこの国の霊力により何か別のものにつくりかえられてしまった。デウスもこの国の土人に変わるだろう、と、宣教師オルガンチーの前に現れた幻に言わせている。すなわち多神教世界に乗り込んできた一神教は根付かない、と。キリスト教布教は無理なのだと。そうなのであろうか?外来の宗教が在来の宗教との間で受容と変容を遂げる姿は、別に日本における神仏との習合に限らない。世界に広くある数々の自然神信仰、祖霊神信仰など地元の古来からある多神教的信仰、宗教との間でもあった。非キリスト教世界においての布教では必ず直面する課題であるはずである。日本におけるキリスト教布教固有の課題ではない。ヒンドゥー教のような多神教世界においても同様であろうし、ましてイスラム教のような一神教世界においておやである。

ポルトガル人もイエズス会宣教師もオランダ人も、当時は日本が未開の国であると言う認識は持っていなかった。文化的に違いがあるものの、日本人は「道理」を重視する極めて合理的思考の人々であるとフランシスコ・ザビエルもルイス・フロイスも記録している。アフリカ大陸や新大陸においての未開の習俗のままの原住民を教化するする手法は日本では通じなかった。仏教や神道など既存宗教との合理的な宗教論争が必要であった。多神教世界の信仰が「道理」となっている人々に「世界を創造した唯一絶対神」概念を理解させなくてはいけなかった。ヨーロッパにおいてプロテスタンティズムからの挑戦を受けたカトリシズムにとって、新たに組織したイエズス会という戦闘的「合理的」布教集団は、他宗教との論争にも十分耐え得る理論武装をしていた。しかし、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に初めて布教を開始してからからわずか100年足らずという時間は、多神教が当たり前の人々に一神教に対する「道理」を理解させるにはあまりにも短すぎた。この点が同じ外来宗教である仏教の受容と変容のプロセスと大きく異なる点だ。6世紀に伝来した仏教の受容にも、当初。倭国古来の「八百万の神々」との「習合」の問題に直面した。その後の歴史の中で鑑真のような高僧の渡来や、空海や最澄、栄西などの日本人留学僧の活躍で、その難解な教義を学び日本に伝え、咀嚼して日本に根付かせる。まさに「受容」と「変容」の長い歴史があったことを思い起こす必要がある。そうして支配者階層からやがては庶民にまで、日本人の日常に定着してゆく歴史を辿った。この間「廃仏毀釈」の嵐にも見舞われている。そしてここまで何百年もかかっている。日本におけるキリスト教は、その根底にあるスコラ哲学=神学の「理論的普遍性」を理解し、これを説く日本人の高僧や司祭が育たなかった。育つ間も無く根絶やしにされてしまった。布教活動初期においてイエズス会宣教師は、日本人の司祭を育成することの難しさを記録している。これはラテン語をまず習得する必要があるというだけでなく、こうした西欧キリスト教世界で共有されていた普遍的世界観を理解する日本人が生まれなかったことによる。仏教受容と変容のようにその時間も与えられなかった。しかしそれは日本や日本人が特殊なわけではなく、どこの世界にも異なる世界観、異なる神を持つ人々がいて、それぞれに「普遍性」を主張している。彼らのいう世界観の「普遍性」、神学の「理論的普遍性」「神学的合理性」とは何か?それぞれの異なる世界観や神の習合が進むことこそ「多様性を受容する普遍性」ではないのか。日本におけるキリスト教の「受容」と「変容」がこれからどのように進んでいくのか。そしてその成否は後世の人々が評価するだろう。

しかし、禁教令とキリシタン弾圧で宣教師も司祭もいなくなり、信徒が弾圧されて多くが殉教しても、生き残って地下に潜り、隠れキリシタンとなって、島々に潜んで信仰を守り繋いだ人々がいることを忘れてはならない。禁教から200年後の明治になって、新たに創建された長崎の大浦天主堂に現れた日本人の信徒が、日本では「根絶やしにされた」はずの、「根付かなかった」はずのキリスト教の信仰が迫害の中にあっても民衆の間で生き延びていたことを示した。この「信徒発見」?は、明治になってやってきた宣教師ドロ神父や、その報告を受けたローマ教皇にとって感動的な事件であった。もちろん200年にわたってローマ・カトリック教会の司祭による礼典も告解もなかったわけであるから、宗教指導者のいない土着の信仰形態「おらしょ信仰」と化していたのではあるが、キリスト教が、まさに日本に受容され変容されて根付いていたことを明確に示している。信仰とはまさにこうしたことである。


参考過去ログ:

2019年1月31日「仏教伝来とキリスト教伝来〜グローバル化の受容と拒絶〜



参考文献:「バテレンの世紀」渡辺京二著 新潮社