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2022年11月10日木曜日

古書を巡る旅(26)「エルギン卿遣日使節録」" Elgin's Mission to China and Japan "1859年初版本/「ローレンス・オリファントの生涯」"Memoir of The Life of Laurence Oliphant"1891年



本書に関しては以前、下記のブログで紹介したが、今回はそのオリジナルの初版本を見つけたので紹介したい。三年ぶりの神保町で開催された神田古書祭で入手した。またその著者であるローレンス・オリファントの伝記を以前に入手していたが、今回これに合わせて紹介したい。エルギン卿の私設秘書として中国/日本ミッションに参加し、歴史的な事件に関わったオリファント。しかしその後、神秘主義に傾倒してゆくなど数奇な人生を送った彼の生涯とその実像を読み解いてみたい。

以前のブログの冒頭部分の引用:

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(6)〜「エルギン卿遣日使節録」" Elgin's Mission to China a...: 前々回のブログ「古書を巡る旅(5)」で、アメリカのペリー提督の「 ペリー艦隊日本遠征記:Narrative of The Expedition to China Seas and Japan 」を紹介したが、今回はイギリスの「エルギン卿遣日使節録:Narrative of The Elgin's Mission to China and Japan」を紹介したい。ペリー艦隊の来航/...



1)「エルギン卿遣日使節録」:Narrative of The Earl of Elgin's Mission to Chine and Japan 1859年初版本

日本語訳は「エルギン卿遣日使節録」として1968年に新修異国叢書(雄松堂)岡田章雄訳で出版されている。今回入手したのは、前回のブログで紹介した1970年Oxford University Press刊の元となった初版本で、1859年にエジンバラとロンドンで刊行された。二巻からなる大部の書籍で、160年前の革装の風格ある古書である。多分この装丁はのちに改装したものであろうと考えられるが、それでも経年変化による風合いが美しい。内容は(当然ながら)リプリント版とほとんど変わるところはないが、初版本にはリプリント版に無い折りたたみの中国地図がついている。なぜリプリント版には無いのか不思議だが、大判の詳細な中国全土地図である。これによると、香港と澳門はそれぞれイギリスとポルトガルに割譲され、広東、上海、寧浦、福州、厦門が開港されたとある。しかし、清朝の支配地域は、19世紀初頭(1820年頃)の最大版図である北方のタタール、モンゴル、マンチュリア(満州)、西方のチベット、ウィグルの同君連合を含む地域ではなく、北京以南の両大河流域である中原地域(旧明朝漢民族の版図)だけになっている。また朝鮮や、安南(ベトナム)、琉球などの冊封国家も対象外となっている。これはどういうことを意味しているのだろう。冊封国家はともかく、同君連合地域を清朝の支配地域と見做していないということか。当時のイギリスの中国観の現れなのか興味深い地図だ。

「エルギン卿遣日使節録」は言うまでもなく幕末外交史の重要な資料である。しかし、前回も述べたように、この本の日本語訳タイトルは「遣日使節録」となっているものの、日本のみを報告したものではない。むしろアロー号戦争と天津条約締結交渉を中心とした中国における戦争と外交交渉の記録である。しかもその一方でインドのセポイの乱が発生し、大英帝国の海外進出、植民地経営に重大な事件が続発していた時期である。史料解読にあたって、ともすれば自国中心の歴史観で分析、解釈しがちであるが、この報告書の原文タイトルを見ても当時のイギリスの関心事が日本だけではなかったことが理解できるだろう。この「遣日使節録」の「日本部分」の内容を一言で言えば、「中国問題(アロー号事件をきっかけとした清朝との戦争、広州、天津占領)のバタバタのさなか、一時、清朝政府との交渉と戦線を離れて、アメリカのペリーに先を越された日本にも寄ってみた。しかし日本は思いのほか魅力的で良い国で、通商条約もすんなり結べたし、歓待してもらったのですっかり好きになってしまった。ストレスの多い中国よりは扱いやすい国である」と。こう書いてしまうと身も蓋も無いが、著者オリファントの本音を言えばこうだろう。エルギン卿のミッションは中国での戦争勝利と権益確保を保障する条約締結(天津条約)であり、加えて日本との「平和的な」通商条約締結(いわゆる安政五カ国条約の一つ「日英通商航海条約」)であった。ただ前者の方がはるかにストレスフルなミッションであったことは間違いない。緊張感に満ち満ちた中国を一時的に離れて立ち寄った日本での時間は、ある意味ではしばしの安息であったに違いない。少なくともオリファントはそう感じたようだ。

この本は第一巻は中国、第二巻の前半は日本。そして後半は再び中国についての詳細報告である。費やされた紙幅から見ても、エルギン卿使節団がいかに中国での戦争と条約締結にエネルギーを注いだかが読み取れる。したがって「日本」の部分だけを取り出して読んでもこのミッション全体の目的や活動の理解は得られない。この記録の主題は、繰り返すが「日本」ではなくて「中国」である。日本との関係樹立は、開国で先を越されたアメリカ、クリミア半島や東アジアで南下政策を進めるロシア、そしてインドシナを狙うフランスを強く意識した東アジア戦略の一環としてである。この時点での対日交渉は、中国で採ったような武力を用いた砲艦外交ではなく、通商条約締結主体の平和的外交交渉による関係樹立をめざしたものであった。インドでの反乱鎮圧、中国での戦争で兵站を日本まで伸ばす余力などなかった。もちろん「この時点では」ということであり、今後の政策については事態を注視しながら臨機応変に対応するという、大英帝国特有の強かな情報戦、外交戦の思考回路が見え隠れする。必要とあらばいつでも武力行使を含む措置へと移行できるように備えておく。オルコック、パークスなど第二次アヘン戦争ともいうべきアロー号戦争で辣腕を振るった外交官を中国から日本に移し公使とする。その一方で本国外務省は、帝国全域を見渡しながら戦略的な視点からリソース配分する。現場が勝手に武力暴走しないように統制する(後に、本国の許可を得ずに馬関戦争や薩英戦争で武力行使した責任を問うて駐日公使オルコックを解任している)。こうした極めたシステマティックな統制手法が行使されている。結果的に、大英帝国の対日外交戦略は、戦争を手段とするのではなく、戊辰戦争においては局外中立をとり、大勢が判明するとタイクーン政府(徳川幕府)ではなく、革命勢力であるミカドの新政府をいち早く承認し、以降は明治新政府とのアライアンス路線を主軸に置いた。中国でとったような強硬な武力制圧という路線を日本では採らなかった。本書は、その前哨戦たる初期対日外交戦略の実態を、その対局にあると言っても良い対中国外交戦略との比較において知ることができる。そういう意味において一級の幕末外交資料である。

これまで初版本の蔵書としては、アメリカのマシュー・ペリーの日本遠征記、タウンゼント・ハリスの日本滞在記、イギリスのハリー・パークスの評伝、アーネスト・サトウの外交官日記を入手。これで、幕末に日本にやってきた英米の外交団の記録/著作がまた一つ揃った。あとはラザフォード・オルコックの「大君の都」初版を探している。なかなか探している時には見つからないものだ。


2)「回想 オリファント夫妻の生涯」:Memoir of The Life of Laurence Oliphant and Allice Oliphant, His Wife  1890年初版

この歴史的なミッションに同行して中国と日本を見聞し、歴史資料としても貴重な記録を残したローレンス・オリファントの伝記を見つけた。これは彼の従妹である大衆小説家マーガレット・オリファントによって書かれた。彼の残した手紙や記録、そして生前交流のあった人物へのヒアリングによってまとめられている。日本人の視点で見ると、これまで紹介してきた通り、彼は幕末の日本に2度来訪した英国の外交官で、東禅寺事件で負傷して無念の離日を余儀なくされた親日家。のちのアーネストサトウに影響を与えたジャパノロジストの元祖のような存在と捉えらている。それはもちろん間違いではないが、しかし、彼の人生をこの伝記で振り返ってみると、決してそのような一時点の出来事だけで捉えることのできない波乱に満ちた人生が見えてくる。逆にいうと、そのような波乱をものともしない野心と冒険心を有した若者が日本を目指したとも言える。いや別に日本でなくてもよかったのだが、たまたま来てみた日本に自分の心に響く未体験の世界を発見したと言った方が正しいかもしれない。かつてのウィリアム・アダムス、ケンペル、のちのシーボルト、サトウなども、そうしたオリファントと同じ「流転」を求める遺伝子を共有するヨーロッパ人であった。彼自身は別の自伝的な著作の中で、自分自身を「転がる石に苔は生えない:A rolling stone gathers no moss」という諺に自分の人生を重ねている。この諺は、イギリスでは「流転の人生では得られるものはない」という戒めであるのだが、そういう人生で自分は「苔」を獲得したのだと言っている。すなわち転がり続ける人生だからこそ、他の人が獲得できない「苔」という経験知を重ねて来たのだという自負を語っている。

この流転の人生は彼の生い立ち、若い頃の体験を振り返ることによっても知れる。ケープタウン生まれ。スコットランド系の中流階級の家庭に生まれ、父はケープタウンの法務長官。その後母に連れられて英国へ一時帰国。父はセイロンの最高裁長官に栄転。彼自身もセイロンやネパールなどを渡り歩いた。ある意味生まれながらにして大英帝国法務官僚の転勤族の子。オックスブリッジなどの正式な教育を受けるというよりも、若い頃から大陸旅行や植民地で見聞を広めた。わざわざ紛争地や革命の現場に飛び込んでゆくという「体験による教育」を親子で実践した。その後もロシアに潜入して探検するなど世界を股にかけ止まるところを知らない。冒険家、旅行家、紀行作家、ジャーナリスト、スパイ、外交官 etc.と、彼を評する経歴も多様だ。

青年期において大きな転機となったのは、当時、南下政策で領土的野心をあらわにしていた(今もそうだが)ロシアに占拠されたクリミア・セバストポリに潜入したことであろう。クリミア半島の地理やロシアの動向に精通していたことから、英国諜報部の民間諜報員(要するにスパイ)として活躍した。このとき対ロシア破壊工作を企画したが、結果的にはクリミア戦争でイギリス軍がロシア軍を撃破して終戦となったので、彼の工作は功を奏さなかった。しかし、この経験と英国政府とのつながりが彼に新しい道を歩ませることとなる。

こうした英国政府との関係を築く中で、人脈を辿ってカナダ総督であったエルギン卿の秘書となり、アメリカとの条約交渉に参加する。さらにエルギン卿のアロー号事件の収束、天津条約、と英国権益拡大を目指した中国遠征ミッションに参加する。そして日本という「未知の世界」に遭遇することとなる。中でも日本は、彼が育った南アフリカやインド、本国イギリスとも全く異なる世界。さらに中国とも異なる世界であった。使節団が長崎に上陸した時の第一印象として、これまで何処の世界でもみたことのない清潔で整った街の佇まいと、エキゾチックな人々の有様に新鮮な驚きと感動が描かれている。また鹿児島の英邁な貴族(島津斉彬公)名声を聞き、近代的な工場を持つ鹿児島に行ってみたいと思い、なんとか船を錦江湾に寄港させようとしたエピソードも描かれている。結果的には実現しなかったが、この時の彼が抱いた鹿児島のイメージが、彼が帰国後に薩摩藩英国留学生とイギリスで出会った時に、彼らの支援を申し出た背景となっているのかもしれない。こののち下田でアメリカ領事ハリスに会い、彼の日本観に触れ、殷賑で文化の香り漂う都、ロンドンにも引けを取らない「江戸」に驚愕し... でこうした「神秘的な国日本」の体験が彼の冒険心、未知の文明への探究心を掻き立てた。「転がる石に生える苔」はこうして新たな知見の蓄積により一層厚みを増していった。帰国後は日本赴任を切望。念願かなって、ラザフォード・オルコックによって在江戸英国公使館の書記官に採用されて江戸に赴任した、しかし、着任早々の東禅寺事件で攘夷派の浪士に襲撃されて、果敢に応戦するも重傷を負い本国へ送還される。親日家が遭遇した幕末日本の厳しい現実と無念の帰国である。生涯この時の傷の後遺症に苦しんだと言われる。哀れオリファント!その志を継いだのが、学生時代にロンドン大学の図書館で彼の「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れたアーネスト・サトウである。

伝記の前半は、彼の世界を股にかけた冒険者、ローリングストーンとして人生の巻である。しかし、1860年の日本からの失意の帰国後は、一転して神秘主義者オリファントの人生を歩み始める。彼の伝記の第二巻はこれまでのオリファントとは異なる姿が描かれている。いわば精神世界における冒険者、ローリングストーンと言って良い変身ぶりである。日本で負った古傷による苦痛が彼の心境変化に影響したのであろうか。伝記ではこの日本で遭遇した事件(東禅寺事件)の詳細が記されており、彼の人生とってやはり特別の体験であったことが強調されている。帰国後、アメリカ人の性的神霊主義者トマス・レイク・ハリスに出会い、彼の教義に啓発され、神秘主義的な思想にのめり込んでゆく。やがて、アメリカに渡りカルトコミューン、新生兄弟社(Brotherhood of New Life)に参加する。「神への愛」を至高のものとし、「人間の愛」は欲望によるものという独特の「愛」を語り、さらに独自の性愛観を展開して結婚や生殖に関する仕儀を説いた。この時期にアリスという女性と結婚するが、夫婦愛からというよりも教宣活動のための結婚であり、結婚のあり方の見本を夫婦で布教活動に使ったと言って良いかもしれない。また、そうかと思えばシナイ半島に移り住み、新たなコミューンを作りシオニズム運動にも没頭した時期がある。いずれにせよカルト集団としての大きな影響力を与えるほどにはならなかったが、オリファントはカルトの世界でも名を残す人物となっている。こうした彼を親族は疎ましく思い、鼻つまみものとして一族の中でも評判が良くなかったようだ。しかし従妹の小説家マーガレットは、生前から彼の生き方に興味を持って取材を続けていた。小説家としては魅力的な「素材」であったことだろう。伝記の中でも好意的な評価をして、一族の不評を打ち消す努力をしている。その評価の妥当性についてはなんともコメントしようがないが、日本に憧れた幕末の英国外交官としてのオリファント像を求めてこの本を読むと大きなギャップを感じる。「親日家オリファント」像は間違いではないが、それだけではない彼の多様な経歴、人生観、思想の遍歴に触れることとなった。この間の彼の心の軌跡がどのようなものであったのか。残念ながらこの伝記からは読み取ることはできなかったが。


参考:

オリファントが薩摩藩英国留学生の支援をおこなった中で、のちにワイン王と呼ばれた長澤鼎がいる。オリファントは幕末の混乱で一旦帰国を余儀なくされていた長澤を、米国ニューヨーク州のトマス・レイク・ハリスのコミューン、新生兄弟社に招き、彼はそこで入信し信仰生活を送る。この時同時に渡米した薩摩藩士二人は、この集団の教義に違和感を感じ帰国している。長澤は教祖ハリスの死、異端批判でコミューン解散後もアメリカに永住し、やがてカリフォルニアでワイン醸造を学び、コミューンのワイナリーを買い取りその経営に成功。カリフォルニアのワイン王として名声を博した。しかし、日系移民排除の動きや、戦争で土地や財産を没収されて全てを失い、子孫も日系人収容所に抑留される。こうして長澤鼎の名は人々に忘れ去られてしまった。戦後、戦時中の日系人収容への連邦政府からの公式謝罪と補償と名誉回復の中で、レーガン大統領により「ワイン王:バロン・ナガサワ」として、彼の米国への貢献が紹介され復権する。ちなみに鹿児島駅前の「若き薩摩の群像」には長澤鼎の勇姿が見える。共に波乱の人生送ったオリファントと長澤は彼岸で再会し、この日本の現状をどのように見て語り合っているのだろう。




「エルギン卿遣日使節団録」:Narrative of The Earl Elgin's Mission to China and Japan
by Laurence Oliphant in 1859 初版本



天津条約調印式の図

幕府側代表との会談の図



中国全土地図





「回想ーローレンス・オリファント夫妻の生涯」: Memoir of The Life of LAURENCE OLIPHANT and of ALICE OLIPHANT, HIS WIFE
by Margaret Oliphant W. Oliphant in 1891

従姉妹の小説家、マーガレット/オリファントによる伝記。一族で評判の悪かった彼の名誉回復の伝記。