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2024年2月10日土曜日

古書をめぐる旅(45)ジョン・ロック全集:The Works of John Locke 〜自由と民主主義の危機に警鐘をならす〜

The Works of John Locke 10 volumes, London, 1801


ジョン・ロック肖像


21世紀の現代に、世界に再び権威主義(専制主義、独裁主義)的な強権政治が我が物顔ではびこり始めている。長い人類の歴史の中で血で贖う戦いの連続で勝ち取ってきた自由と民主主義、人権尊重、法の支配という思想、価値観がどこかへ置き去りにされつつあるのだろうか。パラノイア的な観念に凝り固まった独裁者の登場が結構国民の人気を博すと言う現象。20世紀にもこのような独裁者の跳梁跋扈をどこかでみた記憶がある。ポピュリズムなのか。独裁者の登場と言っても、かつてのような専制君主が登場してきたわけではない。虚構の「民主主義」、フェイクな「法治主義」を身に纏った独裁者である。「選挙」で選ばれたとする独裁者。「議会」で無期限の任期を与えられたとする独裁者。王権神授説に基づく専制君主や、選挙もない一党独裁の国よりは、虚構でも「民主的な手続き」を踏んだだけマシだとでも言うのだろうか。民主主義の名の下に生まれた独裁者の権威主義的な政治手法。覇権主義的な領土拡大の野望。これはかつての専制君主のそれとウリ二つである。独裁統治の「正統性」とやらの根拠が異なるだけだ。かたや「国民の意思」、かたや「神の意思」。いずれも独裁者であることに変わりはないし、どちらの「正統性」もフィクションであることも変わりない。民主主義なんて世界には定着していないし、西欧流の政治思想や価値観とは異なる世界があるのだと、自らの強権支配を合理化する独裁者も出てくる始末だ。とりわけ危機感を抱くのは、「自由と民主主義の守護者」を自他ともに認めるアメリカの現状だ。圧政と迫害を逃れ、自由と民主主義と人権、法による支配を求めて新大陸に移り、独立戦争で理想に燃えた新国家を建国したはずのアメリカが分断の危機に瀕している。ここにも権威主義的指導者が登場し、世界の民主主義を守る戦いに背を向け、同じ価値観を共有する同盟国を見捨てる。自分さえ良ければ良い「America First!」を掲げ。そのリーダーも主権者たる国民の選挙で選ばれるのだ。その皮肉を笑っている場合ではない。その登場を喜んでいるのは我々とは価値観を共有しない、あの独裁者たちなのだから。そうなるとアメリカは独裁国家に敗北することになる。アメリカの信頼感は地に堕ちる。いや、アメリカの国力は、もはや自分のことで精一杯で「自由と民主主義の守護者」の任に耐えれなくなっていると白状しているのかもしれない。「Make America Great Again」は虚しいスローガンに聞こえる。

そんな時節に、ふと思い出すのはジョン・ロックだ。今回紹介するのは17世紀のイギリスの経験主義哲学者であり政治思想家、絶対王政/専制君主制に抵抗し、人間の自由を守るための社会契約、抵抗権を説いたジョン・ロックである。あのアメリカ独立宣言に大きな影響を与えた人物である。アダム・スミスが「自由主義経済の父」なら、ロックは「自由主義・民主主義政治の父」。この二人の「父」は、今のアメリカ、世界の有り様をどう見ているのだろう。保護主義的、自国優先の重商主義的経済政策への逆戻り、専制主義的政治体制への逆戻りという経済と政治の時代逆行。21世紀の今、危機に直面している自由と民主主義、法の支配とは、そもそもどういう時代背景から生まれたのか、その源流を改めて辿ってみよう。そしてその哲学と思想がどのような現代的意義を持っているのか。


ジョン・ロックについて

ジョン・ロック:John Locke(1632ー1704年)は、イングランド・ブリストル近郊のジェントリー層の家に生まれ育った。父は法律家でピューリタン革命にも参加した生粋の議会派ピューリタンであった。幼少期からロックは父親を敬愛しその影響を強く受けたと言われる。父の友人でHouse of Commonの議員であったアレクサンダー・ポッパム:Alexander Popham (1605-1669)の推薦で議会派が優勢なウェストミンスター・カレッジに進み、オックスフォード・クライストチャーチで古典やスコラ哲学を学び、医学や科学にも関心を寄せた。ロックのオックスフォードとの関わりは以降30年に及ぶ。ロックの哲学的背景は、オックスフォード時代に学んだ中世スコラ哲学にあったが、のちにデカルト触れ、理性から出発する合理主義哲学へ転換した。またフランシスコ・ベーコンの経験論哲学の影響を受けた。政治思想は、初めはクロムウェル共和制を支持したが、その独裁的統治に疑問を抱き、王政復古を支持した。しかし即位したチャールズ2世の専制的な暴政、カトリックのジェームス2世の王位継承の動きを批判し、王党派との激しい戦いののちに議会派へと転向した。1666年、ホイッグ党(議会派)の創始者であるシャフツベリ伯爵(初代)に出会い、彼の主治医兼私設秘書となり、政治活動を共にする中で大きな影響を受け、ホイッグ党の理論的支柱としての役割を果たすようになる。また彼の息子のアンソニー(のちの第三代シャフツベリー伯爵。イギリス啓蒙主義を代表する思想家の一人)の教育総監となった。初代シャフツベリー伯爵は、最高位の行政官である大法官:Lord Chancellorに任ぜられる。しかし、カトリックのジェームス2世の王位継承に反対し、反カトリック、反王党派であったため、国王チャールズ2世から解任される。ロンドン塔に投獄され保釈されるが、オランダに亡命する。この時ロックも王党派の弾圧による生命の危険を感じてオランダへ亡命した。そこで多くのユマニスト・啓蒙主義者たちと交流する。1688年、議会派が支持するオランダのオレンジ公ウィリアム3世・メアリー2世夫妻のイングランド国王即位と共同統治を支持。ウィリアム3世即位に伴い、ロンドンに帰国。名誉革命のイデオローグとして圧倒的な名声を博した。ホッブスの社会契約説を批判的に継承し、モンテスキュー、ルソーに影響を与え継承される。またニュートンとの交友関係により、自然哲学への傾倒に大きな影響を受けた。また、一方で、ロックの「貨幣論」が造幣局長であったニュートンに影響を与えた。ロックは経験主義哲学者として、また自由主義思想の基礎を築いた政治思想家として多くの著作を残したことは言うまでもないが、宗教論、信教の自由に関する論考、労働価値説に立った経済学につながる著作も著している。イギリス啓蒙主義の創始者として、その流れを作った。以下に、そのジョン・ロック全集を紹介したい。


「ジョン・ロック全集」:The Works of John Rocke 全10巻 第10版 1801年刊行

本全集は1801年ロンドン刊行の第10版である。この出版人(Publisher)はJ. Johnson他、数人が名を連ねている。フル革装、マーブル模様、モロッコ革タイトルという重厚な装丁の全集である。ロックは生前に多くの重要な著作を発表し、多数の書簡を残した。彼の遺稿集は1706年に、そして書簡集は1707年に出版されている。そしてそれらをまとめた全集の初版は、彼の没後10年の1714年にロンドンで、3巻フォリオ版として刊行された。この時の出版人は,ロックの良き理解者で友人であったチャーチル兄弟の弟:John Churchil at the Black Swanである。1690年の「統治二論」の初版は兄のアウンシャム・チャーチル:Awnsham Churchilである。手元にある1801年の第10版の編者(Editor)は、巻頭で本書の初版本以降の改訂経緯、改訂・追補内容と、ロックの生涯、思想の系譜を詳細に紹介しているが、その編者の名前が記されていない。著者没後の全集編纂の場合、編者は誰なのか、出版の経緯は重要な情報である。前回紹介した、1811年に刊行されたアダム・スミス全集の場合は、その編者はデュガルト・スチュアート:Dugalt Stewartというスミスの学問上の弟子で、エジンバラ大学倫理哲学教授であったし、彼によるアダム・スミスの人物像と業績の紹介にあえて一巻を費やして詳細に掲載されている。また1711年初版の第三代シャフツベリ伯爵の著作集には、出版人、編者の署名はなくイニシアルだけが記されている。ただアウンシャム・チャーチル:Awnsham Churtchilの蔵書票とペン書きのサインが見開きに記されていて、この時代を代表する出版人が関わっていることが示唆されている。1650年の出版であるウォルター・ローリーの著作集の場合は、出版人であるハンフリー・モズリー:Humphrey Moseleyが署名入りで巻頭言と献辞を書いている。彼はミルトンの詩集の出版などを手がけたこの時代を代表する共和派の出版人である。ちなみにロックの初期の著作および全集は、上記のA.チャーチル、J. チャーチル兄弟:Awnsham Churchil and John Churchil at the Black Swanが出版人で、ロックやシャフツベリ伯爵の著作の出版を数多く手がけた人物としても後世に名を残している。A.チャーチル自身ラディカルなホイッグ党員で議会House of Commonの議員であった。この改訂第10版の編集は誰が行ったのか。やはり出版人として記されているJ.Johnsonが編者を兼ねていたのであろうか。何者だろうか(下記注書き参照。2月23日追記)。この頃の出版人は言論人として社会的な影響力を有する文化人であったし、大抵は政治的な立場を明確に持っていた。


本全集の構成:

第1巻〜第4巻:巻頭言(これまでの改訂経緯と内容)、An Essay concerning Human Understanding(人間悟性論)と関連書簡集

第5巻:SOME Considerations of the Consequences of lowering the Interest, and raising the Value of Money(利子と貨幣に関する考察)、Two Treatises of Government(統治二論)

第6巻:A Letter concerning Toleration(寛容に関する書簡)関連書簡第4版まで

第7巻:the Reasonableness of Christianity(キリスト教の合理性について)関連書簡

第8巻:A Paraphrase and Notes on the Epistle of St.Paul to the Galatia(聖パウロのガラティア人への手紙 その意訳と注釈)

第9巻:SOME Thoughts concerning Education(教育に関する考察)、A Discourse of Miracles(奇跡に関する論考)、初代シャフツベリー伯爵の回想記

第10巻:書簡集


本全集に収録されている代表的な二つの著作について

①「人間悟性論」または「人間知性論」1690年

本全集の第1巻から第4巻までの大部の論考集である。認識論哲学、経験論の基礎を築いた重要著作である。何年かにわたって書き溜め、幾度か改訂を重ねたもので、関連する人々との知の交流を示す書簡集を含んでいる。ここではロックはフランシス・ベーコンの経験主義哲学を継承し、認識の根源は経験であるとする、今日の経験論の基礎をなした。さらには、次世代のシャフツベリー(第三代)、ハチソン、ヒューム、そしてアダム・スミスへつながるイギリス啓蒙主義の流れを作った。こうしたロックに始まる経験主義的認識論,フランスのサン・シモン,コントに始まる実証主義,これらの流れの中に現代の社会科学の源流があったと言える。ロックの「人間悟性論」は,人間の悟性的能力、すなわち感覚、知性はすべて経験によって習得されたものであって,なんら生得的な能力によるものではないということを論証しようとした。このことはまた,人間の社会生活における道徳的・実践的原理がなんらかのアプリオリな超越的根拠から出てきたものでなく,人びとが経験的事実認識を通じてお互いの利益になるように合意し、取り決めたものだという。こうしたことからロックの自然法論は、形而上学の視点を含みつつもあくまで経験主義に立ったものであるといえよう。この「人間悟性論」で語られる経験主義、認識論哲学が、ロックのもう一つの主要著作「統治二論」の主題たる近代民主主義のテーゼとつながる。モンテスキューの「法の精神」は,この同じ問題を法思想・法制度の面から根拠づけた。

②「統治二論」1689年

本全集の第5巻の後半部を飾る論考である。「社会契約説」「抵抗権」を説き、後世にロックが「自由主義の父」と称されることとなる重要著作である。法律学、政治学の徒なら、ロックといえば「統治二論」あるいは「市民政府論」と言われるほどの代表作でもある。タイトル通り、二つの論文からなっている。

第一論文:フィルマーの「王権神授説」:divine right of kings批判(絶対王政の理由付けとなっていた)。 家父長(族長的)的王権、聖書に出てくる最初の人間アダムに遡る王権の始祖論の批判。

第二論文:専制主義にたいする自由主義、「市民政府論」:Civil Governmentについての論考である。 統治権威/権力は人々の合意と政府への委託によるものという「社会契約説」:Social Contractを説き、その契約を破り、人民の生命、財産、自由を守らない政府への「抵抗権」:Right of Resistanceを説く。

特に第二論文の「市民政府論」で説く、「社会契約」と「抵抗権」は、近代自由主義、民主主義の基礎をなす考えで、不朽の論文として評価されている。以下に、ロックに影響を与えたホッブス、そしてロックが影響を与えたルソーの思想と、理論的な系譜を振り返ってみよう。


「社会契約説」の理論的系譜(ホッブス→ロック→ルソー、そしてモンテスキュー)

ロックは、本来の人間は自然状態において平和に暮らす自然権を有していたが、時代を経て所有権、貨幣の登場が原因で財産の差分が生じるようになり、富の保存ができるようになって争いが起きるようになったと考えた。起こりうる自然権の侵害に対しそれを抑え、仲裁する確実な安全の保障を持たせるために、人々の合意によってその自然権を一部放棄して国家を生み出した。そしてその安全の保障の役割を契約により委託されているのが政府であるとする(社会契約説)。すなわち、人民の生命と自由と財産を守ることが政府の義務である(国家の由来、政府の起源)。これはトーマス・ホッブス(1588−1679)の社会契約説(下記参考項目)を批判的に継承したものである。ホッブスは生命の安全を重視し、自然権を国家に委ね、自由を制限されることを厭わない社会契約を想定していた。生命が守られるのであれば絶対王権の存在も否定せず、国権絶対主義的立場に立ったのに対し、ロックは国家の任務をあくまで局限的なものとし、国家においても自然状態における個人の自由、自然権が保持されねばならないとする個人主義的自然法思想の立場をとる。すなわち「市民政府論」に展開される自由主義的国家観である。従って国家が個人の生命、人権、自由、財産を侵害することは許されず、政治権力は国民の意思(議会)によって定められる法に従う必要がある(法の支配)。ロックは、議会を中心とした人民主権を訴え、国王/政府/行政が人民との契約に反して、生命、自由、財産を守らない場合は、これに抵抗する自然法上の権利を有する(抵抗権)。さらに国王、政府を替えることができるとした(革命権)。したがって民主主義の政治形態のみが自然法の原則に適った実定法制度であるとした。この抵抗権の思想と、個人主義的自然法の理論はアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与え、権力の限界と自由の保障という近代民主主義の原理を確立した。この考えはジャン・ジャック・ルソー(1712−1778)に継承された。ルソーは、ロックが国家や法があってこそ存在するはずの契約を、国家や法の成立根拠としたことは過ちと批判し、あえて国家の成立起源や由来を問わず、むしろすでにある国家はどうあるべきかを考察した。そして、「国民の合意」による「社会契約」こそが国家存立の基礎であるとした。また権力による拘束は自由と矛盾する概念であるが、他律ではなく自律的な合意による拘束は自由と矛盾しない。一方で、合意なき国家の生命、人権、自由、財産の侵害に抵抗する自然法上の権利を、ロックと同様に認めた。そして法と権力の淵源としての主権は、常に国民に存するという「国民主権主義」を確立した。ルソーは「民約論」1762年で、ロックの思想を止揚したのだが、ロックが近代自由主義、民主主義、法治主義の基礎を築いたことは否定できない。

また、ロックは立法権、行政権、連合(外交)権の三権(ここでは司法権は想定されていない)は絶対君主に属すと言う考え方を否定し、立法権が行政権、連合権に優越するとし、立法権を有する議会が国家の最高権力機関であるとし、「法による支配」「法治主義」を唱えた。イングランドでは、中世より国王の専横、権力の乱用(戦争、徴税、信教の自由侵害、不当逮捕など)を監視し牽制するために王権を制限する伝統がある。1215年のジョン王との大憲章/マグナカルタ:Magna Cartaを嚆矢とし、1628年チャールス1世に対する権利の誓願:Petition of Rght、1689年の名誉革命後の権利章典:Bill of Rightsと、王権との長い闘争の末に議会派が力を持つようになっていった歴史がある。大陸諸国に比べると相対的に国王権力が弱かった。その集大成ともいうべき名誉革命と権利章典でロックはこれを法理論化し、以降、議会優位の立憲君主制、法治主義の基礎を作った。こうした法理論は、シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(1689−1755)が著した「法の精神」1748年、において、国家の権力濫用をを防ぐための「三権分立:立法/行政/司法」論へと進化していった。


ロックの哲学・思想の現代的意義

ここまでは教科書で学んだ通りであるが、その現代的な意義は何かを、この自由と民主主義の混迷の時代にあらためて振り返ってみる必要があるだろう。この「統治二論」とりわけその第二論文「市民政府論」に表されたロックの政治理論は、彼の政治的実践(専制主義との戦い)の基礎の上に成立したものであり、またその実践も理論によって動かされた。その関係は「「相互的」である。これこそ、ロックの「人間悟性論」に展開された経験主義哲学の産物であると言えるだろう。絶対君主の統治権威/権力が神から与えられたものであるとするフィルマーの「王権神授説」を、絶対王権擁護のための意図的に創作されたフィクションであると批判し排除したのと同様、人間の理性は各人の経験によって獲得されたものであって、超越的な存在に由来するものではないとした。そしてその人間の経験から生み出され、お互いの利益になるように約束されたものが人間社会の道徳的、実践的原理である。換言すれば、経験によって獲得された「人間の理性」が自然法の根源であって、その法は「神の意思」によって与えられるものではないとする。現代においては、ロックの時代とは異なり、絶対君主がいるわけでも、スコラ哲学的な「神の意思」が絶対的なものとして理解されているわけでもない。しかし、そのような神や絶対君主でなくても、超越的な存在、カリスマ的権威のような全体主義的な権威・権力が、人間の理性を超えて一方的に物事を決める根拠となるなどという自然法は存在しない、あくまでも人間の経験に根ざす理性に基づく「個人の自由意思」と「自由な合意」が社会の基礎をなす、というロックの思想をここで思い起こさねばならない。これが自由と民主主義の基本原理であり、そのような自由意思が保障されていない状態での「民主主義に基づく独裁権力」などというものが論理矛盾であることは明らかである。そして、その自由と民主主義は、アプリオリなものとして存在し続けるものではなく、国民が不断に実践し、専制主義、全体主義と戦い続けなくては、いずれまた失われてしまうものである。ロックはオックスフォードの学寮にこもって論文を書き続けた思想家ではなく、命をかけて専制主義と戦いつづけた哲学者、政治思想家であったことを忘れてはならない。彼の著作はこうした戦いの中から生まれてきた。このロックの経験主義哲学に裏打ちされた「理性」と、その理論と実践の相互関係、そして彼の生き様そのものが、21世紀初頭の民主主義混迷の世界に生きる我々への強いメッセージであり、それを忘れかけている我々に投げかけられた警鐘である。


参考ブログ:

2023年11月19日古書をめぐる旅(41)シャフツベリー伯爵論考集

2023年9月22日古書をめぐる旅(38)デーヴィッド・ヒューム「文学・道徳・政治論集」

2023年1月5日古書をめぐる旅(29)アダム・スミス全集


参考文献:

「法哲学概論」尾高朝雄 昭和28年 学生社

「国家構造論」尾高朝雄 昭和23年 岩波書店

いずれも法学部生の必読の書であり、ロックの思想の歴史的役割と現代的意義を、簡潔かつ明示的に解説している。学生時代に読んだ本を久しぶりに引っ張り出してきて読んだ。ページの間からハラリと学生時代の私がまとめたサマリーノートが出てきたが、今読むと我ながらよくまとまっており、本ブログを書くにあたって大いに役立った。50年前の私が、「長い間、勉強を怠ってきたのではないのか。今からでも遅くない。もっと勉強せよ」と叱咤激励しているようであった。「少年老い易く学成り難し」である。

「完訳 統治二論」ジョン・ロック 加藤節訳 岩波文庫

訳者の加藤節は成蹊大学名誉教授で日本のジョン・ロック研究の第一人者。故安倍元首相は成蹊時代の教え子だが、その強権的政治手法を厳しく批判している。



1801年版表紙

「人間悟性論」表紙

「人間悟性論」サマリーチャート

「統治二論」表紙

第2論文「市民政府論」






金箔押しのフリル

マーブルボード仕様

「人間悟性論」第4版表紙
Awnsham and John Churchill 版

「統治二論」初版表紙 1690年
Awnsham Churchill版



参考:トマス・ホッブス(1588−1679)の「社会契約」説

ホッブスは、王党派からは無神論者、議会派からは専制主義/絶対王政擁護とみなされるなど。王党派、議会派、どちらを擁護するというスタンスを明確にしていない。ベーコン、ガリレオと交友。 清教徒革命(チャールス1世処刑、クロムウェル共和制)の内乱状態から逃れフランスに亡命。イギリスの戻ったのちにリヴァイアサン執筆(1651年63歳)そもそも人間とは?という問いから出発。自然状態 自然法 自然科学的思考実験を実践した。

人間論:道徳や倫理によるのでなく五感での反応で成り立つ。反作用 快:善、不快:悪 生命の安全、自己保存が人間の本性だとする。その自己保存欲求に従って行動する権利を自然権とした。

自然権:自己保存しようとする本性に従って行為をすること。とりわけ生命を守ることが自然権の最重要事項。しかし、人間は緊急状態において「万人の万人に対する闘争」状態になる。従って自然権により生命、自由を失う事態がありうることになる。

自然法:自然権がある中で理性に基づき発見される共通理解、ルール。自然状態では自然法は実現できない

従って、生命を守るためには何をしても良い権利、自然権を放棄して第三者に譲渡する。すなわち社会契約により国家・政府に自然権を渡すことで生命を守る必要があるとした。モンスター「リヴァイアサン」に例えられる国家・政府が存在する理由は「自己保存」、個人の生命の安全を保持するためにある。ホッブスは国家を国権絶対主義的性格とし、専制君主や絶対王政すら認めるとした。


注書: 2024年2月23日追記

本全集の出版人であるJ. Johnsonについて(英語版Wikipediaより)

18世紀後半に活躍したロンドンの出版人(Publisher, Bookseller)、ジョセフ・ジョンソン:Joseph Johnson (1738-1809)がその人である。

The most important publisher in England from 1770 until 1810. 彼の活躍がイギリスにおいて出版人が尊敬を集める地位と評価を得ることとなったと言われ、ジョンソン・サークル:Johnson Circleという一種の文化サロンを形成したことでも知られる。48年間の出版人生の中で約2700巻の書籍、パンフレットを出版した。多くは宗教・神学(ユニテリアンの立場)、哲学、政治思想、社会改革、教育関連。特にアメリカ独立戦争やフランス革命を支持する出版物、パンフレットを多く手がけるなど、ラディカルな立場であった。そんなことで1798年には逮捕投獄された経験を持つ。当時、書籍は高価で、主に上流階級向けのものが多かったが、彼は中産階級でも手に入る価格帯の書籍を生み出した。1800年代に入ると出版事業を縮小。新規の著者の開拓よりも、過去の著名な作家の再版事業、サミュエル・ジョンソンやミルトン、シェークスピアなどの全集(再版)を手がけた。先述のチャーチル兄弟のロック著作集出版を引き継いだ形の、このロック全集もこの時期の出版である。


Joseph Johnson (1738-1809) Wkipedia

Publisher and Bookseller