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2009年9月25日金曜日

土佐の高知 我がルーツ


平四つ目紋

歴代川崎源右衛門の墓


仕事で高知へ行った。
まず松山に用事があったので伊丹からボンバルディアで飛ぶ。松山からは高速バスで高知まで2時間半。時間距離は意外と近い。しかし心理的な距離は遠い。四国山脈をくぐって太平洋まであと00キロの表示を見ながら、延々と続くトンネルを抜け、連続する峻険な峡谷を渡りたどり着いた高知はすっかり日が落ちていた。
こんなに小さな島に2000m級の山々がそそり立って行く手を阻んでいるんだ。それにしても日本の土木技術はすごい。瀬戸大橋もすごいがこの四国縦断高速道路もすごい。

高知は我が父祖の地。父方だけでなく、母方も、連れ合いの父方も、皆一族の故郷は高知。
といっても自分自身が生まれた訳でも、育った訳でもなくて、祖父母から高知なまりで聞かされた「故郷」の思い出が、父母から聞かされた「帰省先」としての高知の話があるだけだ。

しかし、「土佐の高知」と聞くだけで何か懐かしい想いにとらわれるのは、やはり私にも土佐の血が流れているからだろうか。ワクワクしながらの高知到着だ。

街を歩くと、父母、祖父母、親戚の叔父叔母、から聞かされた懐かしい地名が次々に現れる。
枡形、乗出、八百屋町、唐人町は父方の本家、分家一族の居所。桜馬場、永国寺町は母方の一族。上町、水通町は連れ合いの父方一族の地。鏡川を隔てて向うにそびえる山が潮江山。最近は筆山と呼ばれてるようだ。ここには我が一族の墓所がある。高知支店の人たちの尽力で墓も見つけることが出来た。何しろ古い墓所だけに所在が不明な墓や荒れ放題の墓が多い。幸い市役所が管理している墓地なので登録情報があったのと、墓守の方が我が一族の墓を管理してくれていたのとで見つけることが出来た。高知支店の方々に改めて感謝感謝。ヤブ蚊にいっぱい刺されたが。

高知は背後を壁のような四国山脈、前を広大な太平洋に挟まれた狭隘な町だ。かつてはここに住む人たちは容易に京都や大阪や東京へ出て行けた訳ではない。土讃線が開通したのは長い歴史の中ではつい最近のこと。大阪へは浦戸湾から船で天保山へ行くしかない。山内一豊公も船で浦戸から入国している。太陽に恵まれた明るくて恵まれた土地だが、かといって高知にとどまっても何か出来る訳でもない。食い扶持も限られている。そんな土地に育った若者はやはりハングリーになる。瀬戸内海を見て育ったわけではない。太平洋を見て育ったのだ。「言うたちいかんちあ、おらんくの池にゃ、潮吹くビンビが泳いじょる」んだから。この海の向うはもうアメリカだ。そしてここを出てゆく。青雲の志を持って故郷を後にする。たまりにたまったエネルギーをやがて新天地で爆発させることになる。坂本龍馬をモデルとする土佐人像だ。

鹿児島もそうだ。そうした若者のエネルギーが日本を動かす。世界を動かす。高知も鹿児島も人口の少ない、県民所得も最下位に近い地域だが、出身者で世界をまたにかけて活躍している人たちが多いのには驚かされる。県人会が強力な人的ネットワークを形成している点も同じだ。鹿児島に行ったときに、地元のヒトから鹿児島県の人口よりも鹿児島県人会の会員数の方が多い、と言っていた。表現に多少の誇張はあるが県外にいる鹿児島県出身者が多いのは事実だろう。ちょうどアイルランド本国は人口800万人なのに、アイルランド系アメリカ人は3000万人いるのと同じ理屈だ。

我が一族の本家筋の人たちは地元高知で実業家一族として活躍しているが、わたしの祖父のような分家の次男坊は高知を出て行かざるを得ない。当時日本でもっとも繁栄した大大阪へ出て行って一家を成した。銀行員から転じて今はやりのベンチャー事業を起業し、西宮に屋敷を構えた。母方の祖父も同じだ。三男坊で、継ぐべき財産がなければ学問で身を立てるしかない。東京へ出てゆき帝大出を中央政府官僚として活躍した。つれあいの一族も次男坊以下は皆東京や大阪や上海へ出て行って立身出世していった。みんなハングリーで、豊かな未来を信じていた。そしてみな故郷高知を懐かしんでいる。集まると高知弁で話が尽きない。

ルーツの旅が出来る幸せをかみしめている。父祖の地を出て我々一族の新天地での基礎を築いてくれた祖父母、父母、叔父叔母に感謝の念を抱くとともに、私の世代の後に続く子々孫々の益々の繁栄を祈念するを禁じ得ない。

高知龍馬空港から、再びあの双発プロペラ機ボンバルディアに乗って高知を後にした。この峻険な四国山脈をエンジンを唸らせながらかろうじて飛び越て、わずか40分で大阪に着いた。次は土讃線に乗ってみよう。


川崎寺跡

川崎幾三郎家墓

墓園からの展望


高知城






桜馬場界隈
母の友人のお宅

県立城東高校
旧高知高女




山内家別邸

鏡川と筆山(潮江山)





川崎源右衛門家ゆかりの地
八百屋町、唐人町、要法寺町


川崎農林工本社

はりまや橋


四国山地上空を飛ぶ


2009年9月9日水曜日

天領日田 豆田町を歩く






福岡での少年期、毎夏、都会の暑さを避けて一家でくじゅうへ避暑に出かけるのが我が家の年中行事であった。
父の運転する赤いコンテッサ1300で風を切って走る。父は車の運転が好きであったのであちこち連れて行ってもらった。

当時は高速道路もなくて、福岡から国道3号線を南下し、西鉄朝倉街道駅から別れて甘木方面、日田街道へ折れ、夜明けダムまで一気に走る。ここまで来るとやっと山間の涼しげな空気を感じることが出来た。夜明けダムの駐車場で一休みしたら、もう日田はすぐ。三隈川沿いに日田の町に入る。九州の小京都とか天領日田とか称される静かで美しい町である。

しかし、当時は早く久住高原にたどり着くことばかり考えていたので日田は単なる通過地点でしかなかった。何となく雰囲気のいい町だなあとは感じていたものの降り立つことはなかった。そのまま日本三大美林の一つ、日田杉の林の中を抜けて、杖立温泉、小国経由で長者原へでるか、豊後中村から十三曲りをくねくねとよじ上ってやまなみハイウエーに合流するコースか、どちらかで天上界へ向かうのだ。当時のクーラーもない車でたどり着くくじゅうの涼しさ、さわやかさは筆舌に尽くしがたいものがあった。

そういう訳で、実は今回生まれて初めて日田の町を歩いた。広瀬淡窓の咸宜園も初めて訪ねた。
豆田町は昔はあまり話題になっていた記憶がない。最近、特に町並み保存や景観の修復が盛んになり、伝統的建造物保存地区に指定されたりしてから急に有名になったのだろう。

日田は江戸時代には徳川幕府の天領として栄えた町だ。西国筋郡代が置かれ(郡代が置かれたのは江戸と飛騨高山の三カ所だそうだ)、九州の外様大名達の動きを見張る、という戦略的にも、幕藩体制維持的にも重要な役割を果たしていた。
権力あるところにヒト/モノ/カネ集まる。もとより日田は林業が盛んな土地柄であったところに、日田金と呼ばれた金融、川や街道を利用した諸国からの物資の集散拠点、交通の要衝としても栄えた。豆田町はこうしたにぎわいを見せる天領日田の商業地として殷賑を極めた町であった。

栄枯盛衰、おごれるものは久しからず。幕府が倒れ、時代は明治へ。日田の最大のパトロン、徳川幕府という権力構造が崩壊した後の日田は、山間の町の静けさを取り戻し、美しく老いた婦人のように、豊かではないが気品を忘れない大人の熟成した町とした今に残っている。

首都圏や関西圏の「小京都」と違って、これだけの「観光資源」がありながら観光客で賑わっている訳でもなく、商業的にはもっとプロモーション出来そうな余地があって、もったいない気もするが、そもそもこれで金儲けしようと言うのはもう止めた方が良い。奈良の今井町なども。あれだけの中世、近世以降の町家がタイムカプセルのように密度濃く集積しているにもかかわらず、住民の方々のポリシーとしてお土産ややレストランなどの商業施設への転換を極力抑えている例もある。であるが故に町に気品と歴史を感じる。経済合理性で文化財や史跡の価値を計るのは止めようよ。

しかしそれにしても、かの有名な広瀬淡窓の咸宜園も広大な敷地がほとんど手つかずの空き地状況でわずかに母屋といくつかの離れや井戸が現存しているだけである。訪れる観光客もなくやや哀れをもようす。無料で公開されている建物は受付にボランティアとおぼしきおじさんが一人座ってるだけだ。隣の敷地で建物の復元移築の作業が進められているようだが、こうした地道な自治体や地域の人たちの活動には頭が下がる。

一方、豆田町は伝統的重要建造物保存地区に指定されたこともあり、町家の修復、復元、電柱の地中化、通りの舗装など、良く町が整備されお金がかかっている様子が分かる。町は八百屋さんや理髪店、電気屋さん、歯医者さん、薬屋さんから銀行、と日常の生活の場としての豆田町の顔と、文化財としての保存建築やお土産や、飲食店、駐車場、と観光地としての豆田町が混在している。住んでいるヒトにとって以前より住みやすくなったのだろうか?

どこへ行っても思うのだが、古い伝統的な町並みの保存は難しい。そこの生活を破壊してしまったら、その町並みを形成してきた歴史は終わる。テーマパークのような生活臭のない、非日常的なスケルトン都市になってしまう。地元の人々の日々の暮らしが保存された町並みと一体化されるのが望ましいが、生活の糧を旧来の伝統的な仕事から得られなくなってしまった時、なおかつその場にとどまって生きてゆく為には「観光」で食っていくしかなのも現実だろう。あるいは都会の子供夫婦を頼って街を捨てるか。空き家も目立つ。地元の人々の戸惑いと自分たちの街なのに自分たちの居場所を探している姿が気になる。

イギリスの田舎町を訪ねたときにも同じことを感じた。コッツウオルドが美しいのはそこにヒトが生活しているからだ。自分が住んでいる家を自慢し、愛し、自分の手で修復し、芝を手入れし、花を植え、歩道を掃除する。街並みの保存に常に関与し、地元自治体にも働きかける。そこに暮らしている人たちは必ずしも伝統的な産業に今でも従事している人たちではない。ロンドンから移り住んだヒトや、キャッスルクームのようにホテルにして観光客に提供しているケースもあるが、共通しているのは、そこで稼いだり、一時期を楽しんだらまたどこかへ移動するのではなく、そこでの生活を自分たちのquality of lifeとして楽しみ、自分たちをlocalizeすることに絶え間なく努力している姿だ。よそ者として過ごすのではなく、permanent residentsとして暮らす覚悟をしていることに感銘を受けた。
自分の人生の価値やライフスタイルをどう考えるかによるのだが。

けっしてNational Trust活動を否定するものではないが、博物館化した町や建物は寂しい。そうはいっても最後は破却されて、後世に歴史的な文化遺産が残らないのでは元も子もないのでlast resortとしてのNational Trustの役割は大きいが。