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2026年7月21日火曜日

里帰りの旅(2)水郷柳川 〜「よみがえり」の街で川下りとうなぎ蒸篭蒸しを堪能するの巻〜

柳川は城下町である。秀吉の九州平定に功績のあった立花宗茂が、南筑後13万石の領主となり柳河城(かつては柳ではなくこのように表記した)に入城した。宗茂は、島津勢の猛攻に耐えて、最後は四王寺山で討ち死にした猛将、高橋紹運の実子で、やはり実力者、立花道雪の養子(誾千代の婿)となった筑紫の名門の出である。しかし1600年の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に着き、家康に所領を没収された。代わって関ヶ原で東軍に功績(三成を捕縛した)のあった田中吉政が三河岡崎から筑後32万石領主として柳河に入城。一国一城の主となった。柳川では堀割り整備、天守構築、矢部川の治水、有明湾の干拓、堤防整備などの柳川の城下町としての基礎を整えた。「堀割り」「どんこ舟」「水郷柳川」のイメージは吉政によって形成されたと言って良い。しかし田中氏は後継なく断絶。家康は浪人となっていた旧領主の立花宗茂の人格識見を高く評価し取り立てる。立花宗茂は柳河10万石の大名として旧領に返り咲く。以降明治の廃藩置県まで立花氏がこの地を治めた。立花氏別邸「松濤館」は「御花」として当主子孫により経営されて現在に至っている。こんな立花宗茂のエピソードから、柳川は「よみがえり」の街として縁起担ぎにも人気がある。

田中吉政は豊臣秀次の家老として近江八幡の街づくりに活躍した。のちに三河岡崎5万石(のちに10万石に加増)の城主となり、岡崎のまちづくりにも貢献した。いずれの地においても低湿地の埋め立て、堀割り構築、街道の付け方などを行い、水運、陸運を縦横に整備し城下町としての機能を高めるインフラ整備を行なった。これらの都市設計思想がのちの柳川の街づくりに大きな影響を与えた。

柳川は干満差の大きい有明海の干潟であったところで、吉政は干拓により農地や居住地を確保。街中に張り巡らされた堀割り、クリークは、矢部川や筑後川に繋げて海水が混じらない生活用水確保と水運として必須のインフラであった。その全長は930キロに及ぶという。水郷柳川の基礎を築いた田中吉正の功績は大きい。彼は近江八幡でも琵琶湖からの水を引き堀割りを巡らした街作りをしており、その経験が柳川に生かされた。また周辺の街道の整備を行い陸路での通行にもにも力を入れた。


「うなぎの蒸籠蒸し」の思い出。 

父が大好きだった柳川独特の味。ご飯にタレをまぶして蒸す。そしてうなぎの蒲焼と錦糸卵を乗せてふたたび蒸す。タレがしっかり染み込んだご飯と最後まで熱々で食べられる絶品!朱塗りの器の中に蒸しあがったばかりの蒸篭が収められている。市内に何店かあるが、若松屋によく行った。本吉屋も老舗。うなぎと柳川。いつ頃から有名になったのか実はあまりはっきりしていないようだが、記録によると江戸時代末期から柳川のうなぎの取引が上方でも行われていたようで、地元でも郷土の料理として振る舞われた。今が地元で取れる天然物は希少となり、多くが養殖ものになっているという。

ちなみに柳川は、詩人、北原白秋を産んだ街でもある。今回は時間がなく「白秋記念館」には寄れなかった。


「御花」横の川下り乗り場

船頭さんの名調子

孫も竿を持たせてもらう

低い橋をくぐる準備



夏雲

殿の蔵

堀割りから見るうなぎ蒸篭蒸の老舗「若松屋」行列ができている。



立花家別邸「松濤館」別名「御花」

白亜の洋館と漆黒の和館



松濤園




さげもん



うなぎ蒸籠蒸し


(撮影機材:Leica SL3 Reporter + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG)