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2009年10月1日木曜日

ヤマトの農耕環濠集落 唐古-鍵遺跡



桜井から奈良へ向かうJR桜井線沿線には、各駅毎に時空トラベラー御用達の史跡や遺跡があり、一駅一駅、毎週末に廻ってもなかなか制覇出来ない。ぼちぼち踏破するつもりだが....

今回は近鉄田原本駅に降り立ち、弥生時代の代表的な環濠集落跡である唐古・鍵遺跡を訪ねた。ここはこれまでの山辺の道、三輪山麓などの微高地とは異なり、ヤマト盆地中心の平地に広がる農耕集落の跡である。ここからだと三輪山や青垣は遥か遠くに見える。

まずは唐古・鍵考古学ミュージアムを訪ねる。ここは田原本駅から東に歩いて20分ほど。田んぼの中にこつ然と現れる超近代的なビルのなかにある。この建物は田原本青垣生涯学習センター、という地元の交流センターのような施設で、その一部が博物館として公開されている。ちょっと周辺の景観とマッチしないが.....

中はなかなか充実した展示内容となっており、楼閣が描かれた弥生土器の破片や、褐鉄鉱容器に収納されているヒスイ勾玉、遺骨から復元された弥生倭人の顔などの有名な出土品のほかに、当時の農耕の様子がうかがえる道具や生活食器などが数多く展示されている。

ちょうど行ったときには中高年の団体さんが展示室をほぼ占拠した状態だった。このごろはリュックにウエストポーチに帽子、というハイキングスタイルのおじさん、おばさんが大挙して遺跡や展示施設に押し掛ける光景がいたるところで見られる。古代史ブームだ。博物館が主催するセミナーや説明会でも参加者の大半が中高年。

一方、奈良や京都の神社仏閣は、このごろの歴史ブーム、仏像ブームで若い女性、「歴女」「仏女」が押し掛けている。昔は中高年のランデブー(この言葉が出てくることじたい中高年)、合コン(「合ハイ」:合同ハイキングって言ってたなあ)は寺や神社だったんじゃないのかなあ。だんだん居辛くなって古代遺跡に鞍替えかな?

早く若い女性の間で古代史ブームが来てくれないかなあ、などとぼんやり考えながら展示室が空くのを待っていた。やがて潮が引くようにおじさんおばさんの一団がいなくなると、今度は見事に誰もいなくなった。私だけが広い展示室にポツンと立っていると、ボランティアとおぼしきガイドの男性と女性が近づいてきて、先ほどの団体さんの喧噪を詫びてから(ガイドの方々のせいじゃないけど)、丁寧に唐古.鍵遺跡の説明をしてくれた。

話を聞いているととても熱心な古代史ファンであることがすぐ分かる。つい、私も九州の吉野ヶ里遺跡や筑紫の造磐井の墓の話などすると、先方も「この間九州を廻ってきました」と話が盛り上がってしまい、一時間以上も立ち話してしまった。何だ、オレも結局団体さんではないが古代史ファンのオジさんじゃないか。

遺跡そのものはこのミュージアムから歩いて30分くらいのところにあるそうで、行き方をガイドの方に教えてもらっていざ出発。とにかく全てが歩きなので足腰を鍛えておくことが史跡巡りのボトムラインだ。

この辺りは奈良盆地のほぼ中央にある平地なので住居としても経済活動の場としても開発が進んでおり、近鉄沿線の新興住宅団地や国道沿いにパチンコ屋やカーディーラー、コンビニなどが並んでおり、古代の空気を感じながらの散策という訳にはいかない。結局、車がビュンビュン走る国道沿いをひたすら歩く。一歩国道を離れて内側の小道を歩くとずっと感じが変わるが、道が繋がってないので結局また国道へ出なければならない。国道沿いに唐古.鍵遺跡の道路標識が見えるところまで来て、ようやくのどかな田んぼのあぜ道を歩くことが出来るようになった。

遺跡は、現在の唐古池、鍵池という灌漑用ため池周辺に広がっている。唐古池畔にはあの土器に描かれていた楼閣が復元されているが、樹木に囲まれている為に遠くから見ることはできず、近くまで来て初めてそれと分かる。訪れる人も少なく荒れ果てた感じが、どこかフェイクな遺跡然としている。その他には遺跡を意識させるものはなく、「国指定唐古・鍵遺跡」の石塔がそびえているのみである。

唐古池畔に立って周囲を見回すと、三輪山や青垣は展望出来るが遥か彼方にしか見えない。ここがそうした山麓、微高地の神の霊力宿る神聖な場所、あるいはヤマト王権の王家の丘とは異なり、比較的広い盆地中央部の農業生産活動の場、人々の生活の場であったことが理解出来る。どこか佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に共通した景観の中にある。年代もほぼ同じ紀元前3世紀頃から形成された弥生の集落である。現在は周辺の開発が進み乱雑な景観に変容しつつあるものの、基本はヤマトの田園地帯の中心に位置していて瑞穂の国の豊かさを感じることが出来る。

この辺りでよく見られる唐古池のような灌漑用のため池は江戸時代になって築造されたものだが、こうした水利施設の存在が、ここが時を超えて弥生時代から江戸時代を経て現在にいたるまで重要な農耕地帯であることを示している。唐古・鍵遺跡は面積42万平方メートルもある大型の環濠集落であったことが1936年からの数次の発掘で分かっている。紀元前3世紀頃から形成された環濠集落そのものは古墳時代には消滅してしまった。その後は、跡地に古墳が築造されたり、中世にかけて地元武士団の砦が築かれたり、農村集落が形成されたりして現在に至っている。しかし、ここが古代ヤマト王権の発祥の地であった形跡はないそうだ。純粋に農耕集落としての歴史を歩んできた。

帰りは古代の官道、「下津道」を南に下り、田原本までぶらぶら歩いて戻る。田原本も、前に訪れた隣町、柳本のように古い町並みが残る美しい町だ。ここは関ヶ原以降、賤ヶ岳七本槍で名を挙げた平野氏が所領とした地域で、平野陣屋跡や、鉤の手に曲がる道などの城下町の名残がある。街中にある寺院には「明治天皇行在所」との石柱が立っている。明治維新、王政復古の大号令のもとに天皇中心の国造りが進められる中、大和一帯に神武天皇陵を始めとした多くの天皇陵が比定された。明治天皇が皇祖の陵墓巡幸に際しここに宿泊したのであろう。

しかし、残念なことに、町並が良く保存されているとは言いがたい状況だ。新しい住宅に立て替えられてしまったものも多いが、古い屋敷が荒れるにまかせて、瓦が落下しないようにネットをかけられていたり、古い土塀が品のない落書きで埋め尽くされていたりで哀れを催す。伝建地区に指定でもされない限り景観を守ることが難しいことを示す光景だ。これからの日本は経済合理性一辺倒の成長を追い求めるだけでは楽しくない。文化的資産を生かす道を考える時期に来た。成熟した大人の国にならなくてはならない。「文化財守れる人が文化人」か。









































2009年9月29日火曜日

飛鳥稲淵 棚田を巡る








今年から出来た秋の大型連休シルバーウイーク。敬老の日が入ってるのと春の大型連休ゴールデンウイークに対抗して命名されたのだろう。日本も本当に休みが増えた。national holidayが先進国の中でももっとも多い国の一つになってしまった。日米貿易摩擦の時にアメリカに「日本人は働き過ぎ」とバッシングされたのはもう20年も前のバブル真っ盛りの頃。いまの日本はかつての日本ではない。働き過ぎどころか「働くところがない」。ゆとり教育世代は「働く気がない」で、「休んでばかりでなくてもっとしっかり働かんかい」のはずが、国民の祝日は増えるばかり。

で、そんな秋晴れの一日を飛鳥の稲淵で過ごし彼岸花に彩られた棚田散策を楽しんだ。飛鳥から飛鳥川に沿って芋峠を越えて吉野へ向かう上市古道。山と谷に挟まれた稲淵はその途中にある美しく豊かな山里である。この地形と人々の営みのコラボレーションが美しい棚田の景観を生んだ。

この道は、かつて持統天皇が足繁く吉野へ通った道だ。その後も多くのみやこ人達が吉野詣でに通った道だ。そして大海人皇子が皇位継承争いに巻き込まれて芋峠を越えて吉野へ身を隠した道。その後決起して大和へ向かい、戦いに勝利して皇位につく。壬申の乱の舞台の一つになったところでもある。こうして即位したのが天武天皇、すなわち持統天皇の夫である。この歴史に名を残した夫婦の天皇は飛鳥の天武/持統合葬陵墓に仲良く葬られている。

シルバーウイークの稲淵はこうした古代の出来事をゆっくりと思い起こさせるような静かな佇まいとは無縁の連休狂想曲なまっただ中であった。棚田は美しく秋の実りを誇示し、地元の農家の人々は刈入れ前の最後の稲田の手入れに余念がない。しかし、普段は静かな山里もこのときばかりは押し寄せる車の波とヒトの波。高速道路一律1000円で安近短トラベラーの車はこんなところにも殺到。山道は路上駐車の県外ナンバーの車で埋め尽くされ、片側しか通れなくなった道をワレ先に通ろうとする車で大混乱。クラクションの応酬。河内弁の罵声! 田んぼのあぜ道はヒトの列でおすなおすな。そう言ってる我々もその人の波の中にいた訳だが、元来人ごみが嫌いな私は、都会の喧噪を避けてきたのに「よりによってなんでこんなところにいるんだろう」とため息。

稲淵ではちょうど地元の人々の企画で「案山子祭り」が催されていた。100体近くの手作りの案山子が棚田沿いのあぜ道に並びアイデアとユーモアを競っている。ハイキングしながら見て回って好きな作品に投票するという趣向だ。なかなかユニークなものや微笑ましい案山子があって楽しませてくれる。地元の元気な小学校生たちが案山子の説明をしてくれたり、飲み物の世話をしてくれたりで、けなげでかわいらしかった。商業主義的な店や看板や幟旗が乱立するでもなく、村のお祭り的な雰囲気で安らぐではないか。

そう思ってみればあながち行楽地の喧噪を恨めしく語るのではなく、のどかな秋の日の一日を楽しむ場を地元の人たちが提供してくれたことに感謝する気持ちがわいてくる。あくまでも青い空、黄金色の棚田、畦を彩る真っ赤な彼岸花、ユーモラスな案山子に象徴される人々の暖かさ。やはり大和は國のまほろば。

ありがとう稲淵のみなさん。
































Leica M9登場

ライカM9がついに登場。

いわく「世界最小のフルサイズデジタルカメラ登場」。つまり36×24mmのフルサイズCCD搭載のデジタルレンジファインダーカメラというわけだ。M8では27×18mmのAPS-HサイズCCDを採用、そのため普通の35mm判(すなわちライカ判)用レンズ装着時には焦点距離が1.33倍となる。従って50mm標準レンズは65mm中望遠レンズとなる。M9ではこれが50mmは50mmとして使えるようになった,という事だ。

それにしても「世界最小」を言うか。ニコンやキャノンのフルサイズデジタル一眼レフと比べて,という事ではね。ま、そのとおりだ。

ボディーサイズはこれまでのM8, 8.2と同じ。外見上は軍艦部のバッテリー表示と撮影枚数表示用の丸い液晶窓がなくなり、旧来のM型デザインを踏襲した段付きになった。外装はブラックペイント、しぼ皮、赤ロゴ(復活)、とスチールグレーペイントという新色の2種。写真、カタログ見ても確かに変化はない。

ライカ社の発表によると、有効画素数1800万画素CCD(M8は1030万画素)を採用、レンズ性能を活かすことを主眼にローパスフィルターは今回もなし。しかしCCD前には新たにフィルターガラスが採用されて、従来のようなマゼンダかぶり防止のフィルターをレンズに取り付ける必要がなくなった。また、レンズ情報伝達用の6ビットコードは引き続き採用されるものの、ボディー側でレンズ情報を手入力出来るようになったので、古いレンズでも周辺光量などの最適化が可能となった。これはいいね。また現像ソフトとして従来のCapture Oneにかわり、Adobe Photoshop Lightroomが同梱される。

心配なのはホワイトバランス。あの不安定さは改良されたのだろうか?また撮影後にPCで現像ソフトで修正しろ、ってことだとちょっとなあ。何しろ価格が価格だけに、やっぱりカラーマネジメントソフトの開発に精力を注いだ日本製のデジタルカメラに比べてあまりにも見劣りがする。また最近の中級以上のデジタル一眼レフはダイナミックレンジを調整する機能が標準装備されているが、これもないんだろうな。

しかし、フルサイズデジタルMが出て伝統的な「ライカ判」が本家ライカのデジタルプラットフォーム上でついに復活、というファンの期待に応えた形だ。つい去年の11月にM8.2を出したときに「フルサイズは出さないのか」という問いに、ライカ社技術陣は「従来のMボディーサイズを出来るだけ踏襲し、Mレンズ資産を使えるボディーとする為にはフルサイズは無理」と断言していた。しかし一年後にYesの答えを出したのは技術陣の根性と賞賛すべきなのだろうが、その時M8.2を買ったファンはなにか割り切れない思いでM9に(M8を下取りに出して)買い換えるのだろう。

さて、9月下旬には製品出荷、とアナウンスされていたM9だが、例によって今日現在で実機を手にしたユーザは限られているようだ。時たま「ついにゲット」などとリポートするブログを目にするが、まだまだ出荷台数が限られているようだ。ライカジャパンのHPhttp://www.leica-camera.co.jp/home/では、出荷遅れのお詫びと納期が約束出来ない旨のアナウンスが出ている。ビックカメラでも予約客への配送は10月下旬以降、と。これも伝説のライカを神格化するマーケティング戦略だろうが手の内が分かってるだけにあまりインパクトもない。慌てて買う必要はない。欲しけりゃ待てば良いだけだ。でもできるだけ早く欲しい.....いや、やっぱり待てん。oon hitono ashimoto miyagatte.

「M9_catalog_jp.pdf」をダウンロード