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2009年11月8日日曜日

Leica M9 我が戦列に加わる!

とうとうM9がやってきた。
悩んだが選んだのはスチールグレーではなく,ブラックペイントボディーだ。

外見の違いはあまりなくて拍子ヌケするくらいだ。強いてあげれば、軍艦部の撮影枚数/バッテリー表示用の丸い液晶表示窓がなくなって、アナログMライカで継承されてきた巻き戻しクランク部の段差が復活した。別に機能的な意味はないがライカMシリーズを愛用してきたファンへのサービスみたいなものだ。その他はライカロゴマークがM8.2では黒であったのが赤に変わったことくらいで基本的にはM8とおなじ。あっ、あとアクセサリーシューがシルバーになってる。

中身だが、一番の変更点は,もちろん撮像素子が1800万画素フルサイズCCD(Kodak製は変わらずだが)となったことだ。つまり、M8がAPS-HサイズCCD(レンズ焦点距離が表示の1.3倍になる)であったのに対し、35mm判フィルムサイズ、すなわち「ライカ判」になった。これはライカ愛国主義者にとっては、他国に奪われし故国を取り戻したようなエポックメイキングな出来事なのだ。これで銀塩35mmフィルム用のM3、4、5、6、7などで使っていた従来からのライカレンズ資産(Mであれ,マウントアダプターを介してLであれ)がほぼ全てオリジナルの焦点距離で使えるようになったという事だ。50mmは50mmで、35mmは35mmで.....

実用的には50mm標準レンズが1.3倍の65mmの焦点距離となっても、それはそれで使いこなせるのだが,ライカ愛国主義同盟にとってそんな妥協は許されない。ライカのデジタルカメラが「ライカ判」を取り戻したことが画期的なのだ。いわば家元の権威を守ったことになるのだ。

これまでのM型ライカのボディー形状をほとんど変えることなく(デジタルになってちょっとメタボボディーにはなったが)フルサイズCCDを搭載したのだ。短いフランジバック(レンズ後端からフィルム面(撮像素子面)までの長さ)を大きく変えることなくデジタル化し、さらにフルサイズ化する。これはやはりドイツ人職人魂の勝利だろう。あくまでもレンズ資産を大事にするライカ愛国主義者の熱い支持を裏切らないボディー造りには技術的な格闘があったにちがいない。明らかにゼロからデジタルカメラを作り変える方が設計の自由度があって楽だっただろうと思う。

デジタル一眼レフですらライブビューを導入しているのに、あくまでも光学式のレンジファインダーにこだわり、ご丁寧に電池とメモリーカードの装填に、フィルム時代の底蓋を開けてフィルムの装填をするあのめんどくさい方式をユーザに強いたり。ライカならではのお作法を守る本家ライカ流家元の伝統をしっかりと受け継いでいる。

ライカ社はM9を「世界最小のフルサイズデジタルカメラ」とうたってる。ライカ愛国主義者同盟にとっては「世界最小」かどうかはどうでも良いことだ。むしろそんなことを日本製の高機能デジカメとの差異化要因としてキャッチコピーに使っていることには「怒っている」というよりは「笑ってしまう」。

このようにライカはニコンやキャノンとは異なる道具なのだ。決して比較などしてはならない。機能が劣っているとか、使いにくいとか、不合理だとか。そんなことが気になる人は使うなよ,という態度の人だけがライカ愛国主義者になれる。「こだわり」には時として合理性を超えた価値が含まれていることがあるんです。

さて、M9で,その他の改良点や気付いたところを箇条書きにしてみる。

1)レンズの6ビットコードの光学的自動読み取りはそのままだが、各種のレンズ情報がプリインストールされてマニュアルで選択、設定出来るようになった。これはいい。アナログ時代のレンズ資産を大事に使っているライカ主義者へ敬意を払うのであれば,ある意味当然の機能であろう。もっとも、いまだにこのレンズ情報を設定することによって何が変わるのかイマイチよく分からないが。

2)相変わらずローパスフィルターは省かれており、それがライカデジタルらしいクリアーでヌケの良い画像造りに寄与している。M8で問題になっていたマゼンダかぶり防止用のフィルターはボディー内の撮像素子前面に取り付けられ,レンズの前にいちいち変な色のフィルターを装着する必要がなくなった。これもM8からの改良だ(が、そもそもマゼンダかぶり起こすこと自体は欠陥なんじゃないのかな?)。

3)ISO感度設定ボタンがつきやりやすくなった。またISO80から2500まで選択出来る。実用的な感度もM8では320までで、それ以上だとノイズが目立って使う気になれなかった。M9では1000までなら使える。

4)露出補正がファインダーのぞきながらダイアルで設定出来るようになり、液晶画面上での設定と選択出来るようになった(M8でもファームウェアーバージジョンアップでダイアルでも可能となったはずだが,シャッターボタン半押しのタイミングが合わないととても設定が難しかった。何故なんだろう?)。これは使い勝手が向上した。

5)シャッター(音)の種類が4種から選択可能となった。しかし「静音」モードもそんなに明らかに静かかどうか.....ライカM3の横走り布幕フォーカルプレーンシャッターの、あの感触ではない。ディレーモードも日本のカメラメーカーの発想ではないなあ。

6)M8.2で「売り」であったスナップショットモードがなくなった(正確に言うとソフト的に選択する方式となった為、シャッターダイアルから「S」がなくなった)。そもそもこんなまやかしのスナップショットモードが保守的なこだわりライカ主義者にウケるとでも思ったのだろうか? 意図がわからん。まあとにかく視界から消えてよかった。

7)オートブラッケティングが設けられた。これは改良だ。今までなかったのが不思議だが。

8)バッテリー残量、撮影枚数(SDカード残量)はINFOボタンで液晶画面で確認するようになった。撮影枚数は時々ボタンを押して確認しないと,突然SDカードフルになり撮影がストップしてしまう。バッテリーの減り方が早くなったようだ。ちなみにこの画面だけがカラー表示なのは何故? 

全体としてより完成度が高まりつつある(「高まった」とまでは言えない)感じだ。くらべちゃいけない,と言いながらついつい日本製のデジ一とくらべてしまうが、ソフトウェアーに手を入れることで追加出来る機能はいろいろあるはずなのに何故やらないのかな。例えばニコンのアクティブDライティングのようなダイナミックレンジを拡張する機能を追加するのは難しいのだろうか?せっかくレンズ情報を読ませる仕掛けを持ってるんだから、これを使った新機能をファームウェアーアップデートで追加してくれるとうれしいのだが。

同梱の画像処理ソフトがAdobe Photoshop Lightroom となったことは歓迎だ。Capture One(この日本語表示は意味不明が多い)よりは遥かに使い勝手がよいことは言うまでもない。また本体の画像エンジンに手が加えられたのであろう、画像の彩度が上がってよりビビッドな色調になったようだ。私好みだ。しかし,相変わらずホワイトバランスが不安定で、特にオートにすると暴れがち。条件によってはとんでもない色調に飛んだりする。これって何とかならないのか。ソフトウェアーで改良出来るんじゃないのかなあ? パソコンでLightroomで修正しろってことですか?あと、画像の読み込み速度が(特にRaw+JPEG Fineや連写で)遅いが、まあ、これ以上ニコンやキャノンと比べるのは止めとこう。

とにかく,今風の性能スペックや操作性よりも道具としての物理的な感触(とりわけ真鍮削り出しの堅牢な軍艦部)や、所有欲を満たすステータスで存在感を主張するカメラだ、ということだろう。もちろん「うまく撮れたときの」ライカ写真の息をのむ素晴らしさが一番の魅力だが。ライカ社はアサカメのインタビューなどで、性能的にも他社のデジ一と遜色ないレベルになった,と言っているが、ううん.....そうかなあ.....

ライカMレンズ群の「味」はなかなか他社の追随を許さない。それを遺憾なく発揮させるボディーはやはりライカMシリーズしかない。特にフルサイズ化した意味は大きい。であるが故にその伝統のシステムとそれを支えるプラットフォームにこだわると操作感に一歩譲る点がどうしても出てくる,という事なのだろう。しかし,それは欠点ではなく違う種類の楽しみを与えてくれる道具であるということに行き着く。レンジファインダーはプリズムや液晶を通して観るのではない,もう一つの「眼」を提供してくれるのだし、使いにくさは「道具を操る喜び」を与えてくれる。そして「ライカ流写真術のお作法」の楽しみを与えてくれる。それを愛する人こそライカ愛国主義者といえる。またそういって自分の選択を正当化するのがライカユーザでもある。

2009年11月2日月曜日

昭和の情景 〜宮本常一との時空旅〜

平成も21年が経ち、間もなく22年になろうとしている。「昭和は遠くなりにけり」。昭和は歴史になりつつある。書店を廻ると「昭和もの」の本が平積みになっている。これも懐古的昭和ブームの現れなんだろう。「今」を生きている20代から80代の人々の大部分が昭和生まれなのだから。ポテンシャルな購買層はまことに広い。なにしろ「昭和の町」なるものまで地域おこしで出現しているくらいだから

昭和は長い。戦前,戦中,戦後、高度成長期、とまさに日本の歴史の中の激動の時代だ。
私は戦後生まれのベビーブーマー、団塊世代の最後尾の世代だが、戦争の余塵を知っている世代でもある。父母、祖父母から聞いた戦争の悲惨さ、日本人が味わった歴史的屈辱、戦前と戦後の価値観激変ギャップへのとまどいの話からだけではない。 当時、福岡で育った小学生,中学生の私にとって戦争の残した土煙は日常の光景でもあった。特攻隊生き残りの小学校の先生(やさくれていた。すぐに生徒にもビンタが飛んだ。体罰なんて普通だった。)、小学校の同級生は満州、朝鮮半島からの引揚者(博多港は引揚げ港だった)の子供達が多かった。反対に大陸の故郷へ帰れない在日の子も友達にたくさんいた。皆名前は日本名だったが... 学校給食で出た米国支援物資の脱脂粉乳ミルク(まずい。しかしこれで育った)、南公園の高台に設置されていた米軍(進駐軍といっていた)の高射砲陣地(朝鮮半島を向いていた)、雁ノ巣の米軍飛行場(大きな格納庫と小さなかまぼこ兵舎が....)、春日原、白木原の米軍キャンプ(そこはアメリカだった)、博多の町を走り回るジープ(Give me chocolate.か?)、ラジオから聞こえるFEN「This is the Far East Network from Itazuke.」。南公園の動物園は米軍家族デーには我ら少国民は入れなかった。迷彩塗装の残る修猷館の校舎(なんで消さなかったの?)、新天町、西鉄街のバラック商店街の賑わい、土埃の電車道、街頭の傷痍軍人のアコーディオンとバイオリンの音.....全ては私自身の生活体感から来るあの頃の昭和の光景だ。後で知ったが、なんと私は連合国軍占領下の日本で生まれたのだ。1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約調印のわずか以前。Made in Occupied Japanじゃなくて、Born in Occupied Japanだ!

昭和の写真集もいろいろあるが、そういった中でふと眼にとまった写真集があった。「宮本常一が撮った昭和の情景」(毎日新聞)上下二巻である。いや、正確に言えばこれは写真集ではなく、宮本常一氏自身も写真家ではない。著名な民俗学者である。宮本氏が日本全国を旅して撮りためた10万枚に及ぶ写真は昭和の日本人の輝きと忘れられていた昭和を克明に記録した,いわば民俗学フィールドノートである。

しかし,そこに記録された昭和の人々の生活やそれを取り巻く情景は、どんな写真家の写真集にも残されていない貴重な作品だ。本の帯に記載された宮本氏自身の言葉「旅の中でいわゆる民俗的なことよりも,そこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。.....民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えてきた。」と。

上巻は昭和30年〜39年,下巻は昭和40年〜55年の記録である。従ってそこに記録されているのは終戦直後の焼け跡の姿ではなく、高度経済成長前夜の人々の貧しくものたくましい日常の生活だ。そしてそこに写し出されているモノクロ写真の人々の姿、情景は古写真のそれではなく、私の記憶の中に鮮やかに蘇る私自身の情景だ。坊主頭にランニングシャツの男の子は靴下なしでズック靴。女の子はおかっぱ頭にゴムの入ったスカートかちょうちんブルマ。足には下駄。なんと粗末な姿だ。しかしなんと笑顔が輝いていることか。

ただただ懐かしいという気持ちと、「あの時」と「今」とのギャップへの驚きと、そして、豊かになったはずの「今」の我々が失ってしまったものがそこに鮮やかに写し出されていることへの感動と。自分自身が、「あの時」とはすっかり変わってしまっていたことを確認させられたような気分になる。しかし、一方忘れかけていた幼い日のナイーブな自分をフラッシュバックさせてくれる。写真家とは異なる民俗学者としての視点と、事実を事実として記録する科学者の眼。そして宮本氏が述べているように旅の中で知った民衆の生活自体への愛情がこの2冊にあふれている。ArtとしてではなくScienceとして記録し続けたものの中にArtを垣間みることが出来る。なんと楽しいことよ。

ちなみに、これらの写真はオリンパス・ペンSで撮られたものだそうだ。そのことが益々私にとっては愛着を感じさせる本になっている。高価なニコンやライカではなく、文字通り手軽にいつも持ち歩けるペンで綴られた写真ノートだ。フィルムが高価だった時代にハーフサイズで36枚撮りフィルムなら72枚も撮れる。メモ代わりに撮って歩くには最適な選択肢であっただろう。私的にも「写真家」ならぬ「写真家」ならではの愛着を感じざるを得ない。私が中学生の時、修学旅行用にと父が初めて買ってくれたカメラがこのオリンパス・ペンだった。これが「写真機家」の始まりだったわけだから。

”「眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和35年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした。......だが3万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何かを見、何かを感じようとしたかはわかるだろう。それはそれで記録としてものこるものだと思う。」”(宮本常一『私の日本地図1 天竜川に沿って』(あとがき)




2009年11月1日日曜日

突然ですがライカM9が入荷しました

いつも新品ライカ購入のときにお世話になっている日本橋のF越写真機店のS藤さんから電話だ。
M9発表のときに、一応、入荷は何時頃になりそうかメールで問い合わせていたのだ。
「入りましたけどどうしますか?」と。
「どうしますか」はないでしょう。欲しいに決まってるよ.....
心の底はすっかり見透かされている。
年内はとても無理かと思っていたが,思いがけずお早いお着きで。
さて困った。こんなに早くちゃあ手元資金がないのでどうにもならない。
金の工面はできるか.....
やっぱりM8や、キャノンや、溜まったデジタル機材をかき集めて売るしかない。
どうせデジカメは消費財だ。愛着を振り捨てれば出来なくはない。
どうにかキャッシュアウト最小限でゲットできそうだ。
愛機を売ってでもなんとか買おうという執念。
ゲニ恐ろしきは物欲煩悩。

2009年10月27日火曜日

久しぶりの大阪 ー 新・大大阪の夢 ー

すっかり秋も深まった大阪へ戻ってきた。薄暗くて寒い昨日に比べ,今日は久しぶりの晴天。しかし,大阪は何とも季節感のない町だ。緑地面積が少ないせいか?東京の方が季節の移ろいを感じることが出来る。大阪城公園では紅葉が始まっていることがオフィスの窓から分かるが。

今日の日経新聞に中之島のダイビル建て替えの話が出ている。大正14年(1925年)竣工の大大阪を象徴する8階建ての堂々たる洋風建築のビルだ。設計は当時の関西を代表する建築家渡辺節。他にも神戸の商船三井ビルなどを手がけている。外装はスクラッチスタイルの茶褐色のレンガ造り。内部はにはアーケードを設けるなど、発展する大阪を象徴する代表的なビルである。結局はこのビルの取り壊しを惜しむ声に応えて、2013年完成を目指す新ダイビルは低層部に現在の外観を復元し,上に高層棟を継ぎ足した地上22階建てのビルとすることで決着した。外装のレンガや石材を保存して復元し、内装も床タイルを再利用する。

東京でもこのような「保存」措置がとられた新ビルが数多くみられる。第一生命ビル、農林中金ビル、明治生命ビル、銀行協会、丸ビル、新丸ビル、みな眼の高さは近代建築としての景観を残したが,見上げると高層のグラスアンドスチールビルだ。しかも高さがどれも異なるので町並みが不揃いになってしまった。私が記憶するお堀端から丸の内辺りの景観は昭和の首都東京にふさわしいものであった。皇居前の高さが統一された整然とした町並みは美しかった。

ロンドンやパリの中心街のような歴史的景観はもはや東京や大阪には残されていない。地震や戦災にあって破壊を受けたことを考慮しても、せめて破壊を免れた歴史的な建造物を保存して欲しいものだ。「景観」の持つ価値そのものがあまり重視された形跡がないのが残念だ。日比谷の三信ビルなどのように無惨にも跡形もなく取り壊されてしまったのではどうにもならない。

そうは言っても、最近は経済合理性優先の町づくりへの反省と、日本人がようやく少し成熟した大人の市民に近づいてきたのとで、こうした景観保存、修復への動きが出てきているのは歓迎すべきことだ。丸の内に三菱一号館が復元されたことも朗報だ。ここに展示されている昔の「一丁倫敦」の写真を見ると、当時の東京はこんなに美しい町並みだったのか、と驚いてしまう。そしてこれらの赤煉瓦の建築群が時代の流れの中で消滅してしまったことを改めて知らされた。三菱一号館に続いて東京駅の赤煉瓦駅舎のオリジナル復元工事も始まった。少しずつ伝統的な建造物が復活することが楽しみだ。

そう思って大阪の町を歩いてみると、街中には大大阪時代の素敵な建築物や土木構造物が数多く残っていることに気付く。先ほどのダイビルのある堂島、中之島あたりは無論のこと、堺筋を歩くと、ここがかつての船場の中心街で、東洋のマンチェスター、東洋一の商工都市,と呼ばれていた大大阪のメインストリートへ発展していったことが分かる。今でこそ大阪のメインストリートは御堂筋になっているが、戦前の道幅6mの淀屋橋筋の拡幅工事や地下鉄工事などの大胆な大阪都市改造計画の成果が花開いたのは戦後のことだ。

ライオンの難波橋、北浜の大阪証券取引所、道修町の薬屋街、高麗橋、備後町、安土町の証券、銀行街.....多くの全国的な企業が本社を構えた。そしてかつての堺筋には大阪の主だったデパートも軒を連ねていた。三越大阪店が北浜に8階建ての高層ビルを建てたのもこの頃だ(いまや日本橋の高島屋別館(かつての松坂屋)を除いてデパートは一軒もない)。その大大阪の香りが随所に今も残されている堺筋周辺には今も往時を思い起こさせる近代建築が破壊を免れて現存している。東京のようにこれらの景観を惜しげもなく壊してしまって欲しくはない。いや皮肉なことに今の大阪は東京みたいに元気がないので、町が破壊されるスピードも緩やかだろう。

戦前の大阪は大正14年には人口200万を超えて,東京をしのぐ世界第6位の大都会であった。その繁栄の痕跡が町のいたるところに残されている訳だ。しかし、大阪はその戦前の活気と栄光を取り戻すことが出来るのか?堺筋は「歴史の道」になってしまうのか?産業革命の面影を残す現代の「マンチェスター」になってしまうのか。町は時代とともに変貌を遂げる。もはや御堂筋ですら、心斎橋辺りのデパートはそごうが再生の努力も虚しく閉店し、残るは大丸のみとなってしまった。南北軸の両端である梅田や難波が賑わいの中心となり、今日の大阪府議会で決着がつくはずだが、橋下大阪府知事が躍起になっている大阪府庁のWTC移転が決まれば,今度は東西軸の町の発展が見込まれるのだろうか。

江戸時代から続く天下の台所大坂、日本の資本主義の発展とともに歩んできた大阪。歴史的な建造物の残し、歴史と伝統の重みを感じる景観を保護しつつ、新たなエネルギーを放ち発展する「新・大大阪」を時空を超えて旅してみたいものだ。

2009年10月19日月曜日

出張で忙しい「時空トラベラー」のつぶやき

ここんところ、妙に仕事のスケジュールがたて込んでいて出張ばかり。四国の松山と高知へ行ったり、東京と大阪を何往復もしたり。なかなか歴史のトリビアを訪ねる旅に出る機会がなくなった。邪馬台国が遥か彼方へ..... かと言ってカメラをもてあそぶ時間もない。であるがゆえにこのブログも書くネタに事欠く。一番フラストレーションが溜まる事態だ。

ライカM9は発表したとたんに、メーカー在庫切れで入荷時期未定。すっかりネットショップ上からも姿が見えなくなってしまった。そんなにもったいつけられるとすっかり鼻白んでしまう。この不況のご時世に、こんな高価なカメラが飛ぶように売れるなんてホント!?  需要予測間違いならお粗末だし、意図的な少量生産なら白々しいし.....

おまけにここんところの円高。日本でのM9のプライシングは1ドル110円のまま設定してるんじゃないかと思ってしまう。NYのB&Hの値札が魅力的だ。1ドル90円ならこれは買いでしょう。在庫があればの話だが.....

そうこうしてる間にニコンからD3sが発表に。プロから絶賛されているフラグシップD3の改良機がお約束通りデビューという訳だ。こちらはライカM9の価格を見てしまうとずっとお値ごろ品に見える。11月28日発売だそうで予約すれば発売日に配送される。ライカはあてにならん。やはりニコンにするか。金もないくせに夢だけは膨らむ。

日本とドイツのモノ造りとマーケティングの違い、といえば違いだが。やっぱりニコンやキャノンが売れる訳だよ。製品性能、パフォーマンスの安定性、市場へのデリバリーの迅速性、コストパフォーマンス。やはりあらゆる点で信頼感がある。

ライカもデジタル化した以上、ドイツ流のクラフトマンシップが発揮出来るのはボディー筐体や、光学ファインダー、レンズの部分で、写真の画造りを決定するCCDやチップセット、特に画像エンジン部分を他社供給に頼っている以上は、私のようなライカブランドにノスタルジアを抱き、過去のレガシーレンズ資産をデジタルでも活用したい、と思っている趣味人を除いて、プロや一般のアマチュアの欲求を満たす製品造りは難しいかも。

商業的に成功させることと、本当によいモノ、楽しいモノを作ることとは必ずしも一致しないことを分かった上でもなお.....である。ライカはどこへ向かう? いつまでもブランド資産に依存したニッチプレーヤーでは事業として継続出来ないだろう。ここでもビジネスモデルイノベーションに取り組む経営決断が迫られている。

まあとにかく、早く良い道具を片手に時空トラベルを再開したい。しかし私のスケジュール帳には「時空トラベル」のは入り込む隙間がない。秋晴れの青空がうらめしい。

(とは言っても東京の秋も素敵。「復元なった三菱一号館」「NYで人気のアバクロ銀座進出」「皇居三の丸庭園の空」の3枚をご覧あれ)





2009年10月2日金曜日

鞆の浦埋め立て架橋事業差止判決 ー時代は変わるー

10月1日の新聞、NHKニュースをにぎわした話題に、広島県福山市の鞆の浦埋め立て架橋事業の差し止め判決がある。歴史的に価値のある鞆の浦の景観を残す為に、広島地方裁判所が住民の訴えを認めて県の湾の埋め立て事業を差し止めたものだ。景観の保護への配慮、あるいは、もっと進んで「景観利益」を保護することが、今後は公共事業の推進、デベロッパーによるマンションやショッピングセンター開発などの事業にも考慮されなければならなくなる時代が到来した。歴史的景観を求めて旅する時空トラベラーにとっては画期的な判決だと思う。

「景観利益」は必ずしも確立した法的権利ではない、というのが学会の有力説であるが、司法の場で景観が保護される判決が出たことには重要な意味がある。広島地裁は「鞆の浦の景観は住民だけではなく国民の財産というべき公益で、事業で重大な損害の恐れがある」として「公益」を守る為に事業の差し止めを命じた。

鞆の浦は江戸時代からの港町の景観と瀬戸内海の島々の景観両方ををよく残した美しい景勝地である。古くは朝鮮通信使が江戸へ向かう途中、必ずこの鞆の浦で宿を取り「日東第一の景勝地」と賛美した土地でもある。写真を見ても海辺の穏やかな町の佇まいに心癒される。私もいつか訪れたいと思いつつまだ果たしていない。しかし、利便性を求める現代の生活をもはやこの町が受けとめる余地はなく、車のすれ違いにも不自由な狭い道や、老朽化した水利施設などの社会インフラを整備する必要に迫られていたのも事実。ご多分にもれず過疎化と人口の老齢化が急速に進み、「若者が戻ってこない」ことが町の活性化を阻害しているとして、早急なインフラ整備を求める声が一方の住民のなかから上がったのもうなずける。

「景観か、利便性か」という二者択一の議論がなされがちだが、そのような二元論はなんの解決も生み出さない。利便性はどのような価値を実現する為の利便性なのか。景観はまたどのような価値を生み出すのか。ただのノスタルジアやロマンだけでは価値を認める人とそうでない人に分かれるだろう。こうした「価値論争」は充分な議論が尽くされてはいないし、地元住民や国民のコンセンサスも得られていない。また若者が戻ってきてどのように町を「活性化」するのか描けているとも思えない。まさかここに工場誘致したり、ショッピングモール造ったり、ディスコやゲーセン開いたりする為に道路を造る訳ではないだろう。通り過ぎる為だけのバイパスなら地元にカネは落ちない。景観が破壊されるだけだ。埋め立てなので取り返しのつかない破壊となる。「景観」が価値を有すというコンセンサスがどう形成されるか。こうした判決や議論が積み重ねられて一歩一歩進んでいくのだろう。

戦後日本が高度経済成長まっしぐらの時代には、「景観」なんて価値概念すらなかった。とにかく経済優先、成長優先。新しければよい。古いものは捨てる。結果、日本のランドマーク、東京日本橋をぶざまな高速道路の高架橋でフタしたり、江戸城の外堀を埋めて銀座の数寄屋橋を消滅させたり、伝統的町家を壊して無機質なマンション建てたり、緑の丘陵を剥ぎ取って博覧会したりゴルフ場造ったり..... ちょうど胡同四合院の生活を破壊してビル建てたり、紫禁城の外壁を撤去して高速環状道路造ったりの今の北京や上海と同じだった。しかし、今やアメリカやイギリスなどの成熟資本主義国家では高速道路の高架を撤去して景観を取り戻す動きが出ている。お隣韓国でもソウル市内の川を覆う高速道路の高架を撤去して清流を都市に蘇らせた。成熟した国では「景観」に価値を見いだし始めた。

どのみちこれから日本はグローバルエコノミーの戦いの中で経済大国にはならない。東京はますます世界の地方都市化しており、世界の富は少なくとも東京一極集中はしない。一方、首都への富の一極集中、という現象は、発展途上の国の都市と田舎の貧富格差を象徴するものであり、もういい加減終わりを迎えるだろう。そのような大都市への集中のおこぼれという富の分配を求めるのではなく、地方独自の価値を富に変える知恵出しと行動が必要だ。もともと日本は江戸時代までは地方分権国家だった。徳川幕藩体制は富を蓄積した地方の国々(藩)を統治する為の体制だ。中央集権が進んだのは西欧列強に対抗する為の「富国強兵」「殖産興業」を進める明治維新以降だ。

よく見ると今まで気付かなかった資源が、幸い都市部の経済発展による破壊に遭わなかった分だけ地方によく残っている。経済発展に取り残された地域ほどよく残っている。それを価値に換え、富に生まれ変わらせる。「景観」もその貴重な資源の一つだ。それがまず「価値」を持つことを共通認識とすることから始める必要がある。さらにそれが「富」を生む可能性を追いかける。ここからはさらにハードルが高くなる。何でも金に換えることを旨としてきたエコノミックアニマルマインドが薄れないと本当の「富」の創出は難しいかもしれない。

こういう話をしていると、私がかつて在籍したLSE(London School of Economics and Political Science)で指導教授Peter SelfとのTutorialで議論した、「経営(Business administration)と行政(Public administration)における合理的意思決定(Rational decision making)とは?」。「tangible valueとintangible valueのいずれを実現するかで企業経営か、行政サービスか分かれる、という議論はmake senseか?」。「科学的な分析手法(Cost Benefit Analysisのような)は合理的な意思決定を助けると言えるか?」といった古典的な問いをまた思い出した。もちろん答えはIt does not make sense.なのだが、ではどのような価値を実現するのが経営であり行政なのか?なにが合理的(rational)なのか、まだ答えは揺れている。

話がトンでもないところへ飛躍してしまったが、これからゆっくりした経済成長と少子高齢化が進む日本、経済合理性だけではなく、今までとは異なる価値を認め、もう少し成熟した落ち着いた大人の社会にしていくほうがいい。これは価値観の問題だ。価値観は多様であるべきだ。価値観は変わる。価値観が変わればそれによって生み出される富も変わる。合理性の判断基準も変わるだろう。

高度経済成長時代、バブル時代に話題になった交通標語「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」。今こそもう一度ほこりを払って看板出したらどうだろう。

2009年10月1日木曜日

ヤマトの農耕環濠集落 唐古-鍵遺跡



桜井から奈良へ向かうJR桜井線沿線には、各駅毎に時空トラベラー御用達の史跡や遺跡があり、一駅一駅、毎週末に廻ってもなかなか制覇出来ない。ぼちぼち踏破するつもりだが....

今回は近鉄田原本駅に降り立ち、弥生時代の代表的な環濠集落跡である唐古・鍵遺跡を訪ねた。ここはこれまでの山辺の道、三輪山麓などの微高地とは異なり、ヤマト盆地中心の平地に広がる農耕集落の跡である。ここからだと三輪山や青垣は遥か遠くに見える。

まずは唐古・鍵考古学ミュージアムを訪ねる。ここは田原本駅から東に歩いて20分ほど。田んぼの中にこつ然と現れる超近代的なビルのなかにある。この建物は田原本青垣生涯学習センター、という地元の交流センターのような施設で、その一部が博物館として公開されている。ちょっと周辺の景観とマッチしないが.....

中はなかなか充実した展示内容となっており、楼閣が描かれた弥生土器の破片や、褐鉄鉱容器に収納されているヒスイ勾玉、遺骨から復元された弥生倭人の顔などの有名な出土品のほかに、当時の農耕の様子がうかがえる道具や生活食器などが数多く展示されている。

ちょうど行ったときには中高年の団体さんが展示室をほぼ占拠した状態だった。このごろはリュックにウエストポーチに帽子、というハイキングスタイルのおじさん、おばさんが大挙して遺跡や展示施設に押し掛ける光景がいたるところで見られる。古代史ブームだ。博物館が主催するセミナーや説明会でも参加者の大半が中高年。

一方、奈良や京都の神社仏閣は、このごろの歴史ブーム、仏像ブームで若い女性、「歴女」「仏女」が押し掛けている。昔は中高年のランデブー(この言葉が出てくることじたい中高年)、合コン(「合ハイ」:合同ハイキングって言ってたなあ)は寺や神社だったんじゃないのかなあ。だんだん居辛くなって古代遺跡に鞍替えかな?

早く若い女性の間で古代史ブームが来てくれないかなあ、などとぼんやり考えながら展示室が空くのを待っていた。やがて潮が引くようにおじさんおばさんの一団がいなくなると、今度は見事に誰もいなくなった。私だけが広い展示室にポツンと立っていると、ボランティアとおぼしきガイドの男性と女性が近づいてきて、先ほどの団体さんの喧噪を詫びてから(ガイドの方々のせいじゃないけど)、丁寧に唐古.鍵遺跡の説明をしてくれた。

話を聞いているととても熱心な古代史ファンであることがすぐ分かる。つい、私も九州の吉野ヶ里遺跡や筑紫の造磐井の墓の話などすると、先方も「この間九州を廻ってきました」と話が盛り上がってしまい、一時間以上も立ち話してしまった。何だ、オレも結局団体さんではないが古代史ファンのオジさんじゃないか。

遺跡そのものはこのミュージアムから歩いて30分くらいのところにあるそうで、行き方をガイドの方に教えてもらっていざ出発。とにかく全てが歩きなので足腰を鍛えておくことが史跡巡りのボトムラインだ。

この辺りは奈良盆地のほぼ中央にある平地なので住居としても経済活動の場としても開発が進んでおり、近鉄沿線の新興住宅団地や国道沿いにパチンコ屋やカーディーラー、コンビニなどが並んでおり、古代の空気を感じながらの散策という訳にはいかない。結局、車がビュンビュン走る国道沿いをひたすら歩く。一歩国道を離れて内側の小道を歩くとずっと感じが変わるが、道が繋がってないので結局また国道へ出なければならない。国道沿いに唐古.鍵遺跡の道路標識が見えるところまで来て、ようやくのどかな田んぼのあぜ道を歩くことが出来るようになった。

遺跡は、現在の唐古池、鍵池という灌漑用ため池周辺に広がっている。唐古池畔にはあの土器に描かれていた楼閣が復元されているが、樹木に囲まれている為に遠くから見ることはできず、近くまで来て初めてそれと分かる。訪れる人も少なく荒れ果てた感じが、どこかフェイクな遺跡然としている。その他には遺跡を意識させるものはなく、「国指定唐古・鍵遺跡」の石塔がそびえているのみである。

唐古池畔に立って周囲を見回すと、三輪山や青垣は展望出来るが遥か彼方にしか見えない。ここがそうした山麓、微高地の神の霊力宿る神聖な場所、あるいはヤマト王権の王家の丘とは異なり、比較的広い盆地中央部の農業生産活動の場、人々の生活の場であったことが理解出来る。どこか佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に共通した景観の中にある。年代もほぼ同じ紀元前3世紀頃から形成された弥生の集落である。現在は周辺の開発が進み乱雑な景観に変容しつつあるものの、基本はヤマトの田園地帯の中心に位置していて瑞穂の国の豊かさを感じることが出来る。

この辺りでよく見られる唐古池のような灌漑用のため池は江戸時代になって築造されたものだが、こうした水利施設の存在が、ここが時を超えて弥生時代から江戸時代を経て現在にいたるまで重要な農耕地帯であることを示している。唐古・鍵遺跡は面積42万平方メートルもある大型の環濠集落であったことが1936年からの数次の発掘で分かっている。紀元前3世紀頃から形成された環濠集落そのものは古墳時代には消滅してしまった。その後は、跡地に古墳が築造されたり、中世にかけて地元武士団の砦が築かれたり、農村集落が形成されたりして現在に至っている。しかし、ここが古代ヤマト王権の発祥の地であった形跡はないそうだ。純粋に農耕集落としての歴史を歩んできた。

帰りは古代の官道、「下津道」を南に下り、田原本までぶらぶら歩いて戻る。田原本も、前に訪れた隣町、柳本のように古い町並みが残る美しい町だ。ここは関ヶ原以降、賤ヶ岳七本槍で名を挙げた平野氏が所領とした地域で、平野陣屋跡や、鉤の手に曲がる道などの城下町の名残がある。街中にある寺院には「明治天皇行在所」との石柱が立っている。明治維新、王政復古の大号令のもとに天皇中心の国造りが進められる中、大和一帯に神武天皇陵を始めとした多くの天皇陵が比定された。明治天皇が皇祖の陵墓巡幸に際しここに宿泊したのであろう。

しかし、残念なことに、町並が良く保存されているとは言いがたい状況だ。新しい住宅に立て替えられてしまったものも多いが、古い屋敷が荒れるにまかせて、瓦が落下しないようにネットをかけられていたり、古い土塀が品のない落書きで埋め尽くされていたりで哀れを催す。伝建地区に指定でもされない限り景観を守ることが難しいことを示す光景だ。これからの日本は経済合理性一辺倒の成長を追い求めるだけでは楽しくない。文化的資産を生かす道を考える時期に来た。成熟した大人の国にならなくてはならない。「文化財守れる人が文化人」か。