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2010年1月7日木曜日

アンティークブックショップ巡り ニューヨーク、ロンドン

 
Strand Bookshop in Soho


 ニューヨークにいた時、35丁目とMadison Avenueとの角に、その名もThe Complete  Travellersという古書店を発見。 ウエッブサイト(http://www.ctrarebooks.com/)で見る限り、旅行に関する結構な稀書コレクションを持っており、Japanのセクションだけでも19世紀後半から20世紀初頭のものを並べている。Lafcadio HearnやIsabella Birdも並んでいる。なんと私向きな本屋だ、と早速仕事の帰りに寄ってみた。

 オフィスからはPark Avenueを南へ5ブロック。このあたりはMidtownでもMurray Hill地区。ちょっとロンドンのCharing Cross Roadのあたりに雰囲気が似ている。 店は交差点に位置しており、古書店にありがちな入りにくい雰囲気ではなく気さくに歓迎してくれた。

 早速Japanのコー ナーを物色する。するとやはりあるじゃないか。Kwaidan(怪談)のNY初版本だ。さらに、店員の青年にIsabella BirdのUnbeaten Tracks in Japan(日本奥地紀行)が店のウエッブサイトにはあったことを伝えると、すぐに探しだしてくれたので、それも購入することにした。なんと全部で$500! この間出張で訪れた松江で旧小泉八雲邸に立ち寄ったら,同じ本が展示されていた。またUnbeaten Tracks in Japanはヨーロッパ人やアメリカ人の間でアジアの探検旅行がブ−ムとなった19世紀末から20世紀初頭の人気旅行記で、最近日本でもその翻訳本が出されたようだ。日光の金谷ホテルにも展示されていた。

 ロンドン時代、Charing Cross RoadやBritish Museum, Russell Squareあたりに数多くあったアンティークブックショップを回り、装丁の綺麗な本や、明治の頃の日本旅行関係の本を探したり、アンティークマップをあさったりするのが週末の楽しみだったのを思い出させてくれた。特にアンティークマップは、地域別の箱にぎっしり詰め込んであって,好きなの探して持ってけ,という雰囲気であった。その中からお宝を探し出すのだ。また大抵、そうした店の隣には,買った古地図をフレームに入れてくれる額装専門の店もあって、待ってる間にちゃっちゃっと仕事して、意外なほど安い価格で仕上げてくれる。

 イギリスは、さすがにそういった古書やプリント類の宝庫だ。ケントやサセックスなどの郊外のManor Houseを訪ねると,たいがいの館に自慢げにインドや中国や日本のアンティークコレクションが並んでいる。そしてこれまた壁一面の書棚には、必ずと言ってよいほど立派な装丁の本がぎっしりと並んでいる。旅行関係や地理,歴史、植物に関する本が多い。これは19世紀、当時のイギリスの上流階級や実業家がそろって七つの海をまたがる大英帝国内を旅行して回ることをステータスとしていたことの現れである。ことに日本は帝国の版図外(Far East)であり、極東にあってなかなか行く人も少なかったので、日本関係の本や陶磁器や武具甲冑、仏像を所有していることは、さらにステータスを引き上げる効果を有していた。こうした所から流れ出す書籍やプリントが店頭に並ぶ訳だ。

 アメリカはその点,やはり歴史が浅い国だといわざるをえない。NYにも古書店や古地図の店がいくつかはあったが、店の数、そのコレクションはイギリスロンドンのそれには及ばない。希少本コレクションを有している店も幾つかあるようだが、高級ブティックみたいに敷居が高く事前予約制でしか店にも入れてくれない。やはり歴史の違いだ。British Museum とMetropolitan Museumの収蔵品の違いを見ても理解できる。

 First Avenue/37th Streetのアパートからもちょうど良い距離なので、週末になってぶらりと散歩がてら、また行ってみた。今度は店主らしいそれっぽいオヤジがいて、めがねの上から私を見ながら「なにか助けが必要だったら言ってくれ」と。この鼻眼鏡って、古書店のなにか共通のアイコンもたいなものだ。

 しばらく店内を見回ってから「アンティークマップはないか」と聞いたら、良く聞いてくれた,とばかり「勿論あるさ、あそこがアメリカ、あっちがその他の世界」と自慢げに教えてくれた。ストックはロンドンのCecil RowのAntique Maps and Printsの店には及ぶべくもないが、一応それなりのものがある。当然かもしれないがアメリカの州や都市の地図が多い。また相対的に年代が新しいものが多く、19世紀後半から、20世紀前半、という感じだ。残念ながら16-7世紀の大航海時代のものはなさそうだ。日本の地図もある。ちょうど明治維新直後の時代の地図だ。

 ロンドンのBritish Museum正門前の古書店でAbraham OrteliusのThe Theatre of The Worldの復刻版(これ自体がアンティーク本)を見つけたときには興奮した。とても持ち帰ることは出来るシロモノではない重さだった。店主は「送ってやるよ」と言ったが,見つけたものはすぐに自分で持って帰りたい人だから,駐車場に停めてあった車のとこまで、うんうん唸りながら担いで行ったことを覚えている。また、The CityのRoyal Exchangeのなかにも古書店があって、そこで16世紀末のベルギーのCartographer(地図製作者)Jan JansenのIaponia図を発見した。安土桃山時代の日本地図。先ほどのThe Theatre of The Worldにも含まれているOrteliusの原画を元に、航海者が持ち帰る新しい情報に基づいてアップデートしたものだ。オリジナルのカラーペイント版で額装すると素晴らしい。ロンドンキャブで自宅へ運んだ。今も我が家のお宝だ。

 さて、小一時間見て回った後、結局地図ではなく、NY関連書籍のコーナーでWashington IrvingのHistory Of New Yorkを見つけた。装丁もしゃれているので先ほどのオヤジに故事来歴を聞いたら、「Washington Irvingを探しているのか?」と。別にそれの特定しているつもりはないのだが「まあ、旅行関係が好きで、色々面白いのがたくさんあったけど、今日はこれが面白そうなので」というと、「ちょっと待て。こっちへ」といって奥へ連れて行き、鍵のかかった書棚に鎮座ましましているとっても美しい装丁の彼の著作、Story of Travel2分冊を出してきた。これはほとんど保存状態が良い。いわゆるdead stockだったのかもしれない。1896年の版でなかの挿画やデザインが素晴らしい。300ドルもするが、オヤジの説明だと発行部数が限られている稀少本であるし、あまりに魅力的なルックスだったのでふらふらと買ってしまう。オヤジは商売がうまい。というか,私は意志が弱い。

 また「Japanの旅行記にも興味があるけど、ここにあるだけか?」とやや挑発的に聞いたら、また「ちょっと来い」とさらに奥の鍵のかかった書棚へ。そこには稀少高価本が収められている。値札はついていない。オヤジは「別に買わなくてもいい。コレクションを見てくれ」と。出してきた幾つかの本のなかの一冊が、1914年、第一次世界大戦時に出版されたJapanese Empireというコンパクトな旅行ガイドブック。日本が史上最大の版図を維持していた時代の地図が挿入されており、誇らしく朝鮮半島、台湾、南樺太、千島列島全域が赤く塗られているではないか。また保存状態の極めて良い帝都東京の細密な都市図、日本列島各都市の詳しい地図も挿入されている。コリャいかん。また欲しくなった。値段を聞くと,オヤジはニヤリとして「300ドルだ」。数千ドルの希少本を見せた後で、私の心底を見透かすかのように... しかし、これはきっぱり断って店を出た(もっとも後でやっぱり購入してしまうが)。

 このオヤジ、さすが古書店店主という風貌で、また、それなりに幅広い知識を持っているのに感心した。饒舌ではないが、話しが面白い。文学,哲学からアートブックまでどんなテーマでもこなせそうな感じだ。イギリスのケンブリッジの古書店では、ケンブリッジ大学で古楽器演奏で学位取った、なんてオヤジに出会ったことがある。また,ケントの田舎町の古書店では、かつて外航船の船長で世界中を回ったという、精悍な顔つきの店主に出会ったこともある。なんかどれも雰囲気や人品骨柄が似ている。みな鼻眼鏡だし... このNYの店主もきっとどこかのPhD.くらい持ってたり、世界を旅して回った経験があるのかもしれない。今度聞いてみよう。

 時空を超えた膨大な歴史遺産に埋もれて暮らす古書店店主。本当のインテリ趣味人の究極の職業かもしれない。こりゃいい。第二の人生を是非こんな「知」のラビリンスで過ごしてみたいものだ..... キット金持ちにはなれないだろうがQuality of Life を楽しむことは出来るかもしれない。時空トラベラーの安息の場所を見つけた。



Orteliusの日本地図

2010年1月3日日曜日

2010年正月 初夢を見た

16世紀の大航海時代が始まる前のヨーロッパはユーラシア大陸の西端に圧迫された後進地域であった。森の中で獣を追っかけて西へ東へ移動していた狩猟民族の世界だった。文明の中心から外れた辺境の地ですらあった。ローマ帝国から広がったキリスト教はまだ世界宗教ではなく、東方の圧倒的なイスラム教世界に包囲された地方宗教に過ぎなかった。
そうした閉塞感の中、イスラムに何度も占領されたイベリア半島のポルトガルやイスパニアによるヨーロッパからの脱出行動は、ユーラシアの西端という閉ざされた地域の経済的閉塞状況の打破、大文明イスラム世界に包囲された中でのキリスト世界の生き残りをかけた挑戦だった。

10世紀から200年にわたって行われた十字軍の遠征に始まるイスラムとの戦いは,当時ユーラシア大陸東方に存在していると信じられていた伝説のプレスター・ジョン率いる幻のキリスト教王国との同盟によりイスラム世界を挟撃せんとする試みに発展してゆく。また13世紀のマルコポーロの「東方見聞録」に描かれた伝説のジパングに代表される東方世界、その黄金と香料という富に引きつけられ冒険者達が一攫千金を求めて,あるときは商人になり、あるときは海賊に変身して東方へ船出してゆく。

こうして東を目指したヨーロッパ人はアラブ世界が圧倒的に支配する陸路を避けて海路を進む。やがてバーソロミュ−・ディアスはアフリカの南端に喜望峰を「発見」する。バスコダ・ガマはさらにインドのゴア、カリカットに到達。こうしてアジアへ東航路が開拓される。さらにその後輩達はマラッカ、そして中国マカオに到達し,そこを植民地化し、ついに伝説の国ジパングに到達する。

一方、ポルトガルに東航路の制海権を支配されたイスパニアの国王はコロンブスに命じて、インド、ジパングを目指す西航路を開拓しようとした。そして偶然にも「新大陸」に行き当たる。サンサルバドルに上陸したコロンブスは最初はインドへ到達したと信じていた。やがて彼らの後続部隊がそこが未知の大陸であることに気付くと、キリスト教を持ち込み、在地の文明を滅ぼし、そこを侵略支配した。金が出た。そこはまさにヨーロッパ人にとって黄金の郷エルドラードだった。略奪帝国主義の時代のはじまりだ。

もっとも皮肉なことに,ヨーロッパ人達にとっての憧れであったはずの伝説の「黄金の島ジパング」は、時がたつにつれ、その輝きが薄れてゆく。東方へのパッセージの途中に香料諸島を見つけ莫大な利益を上げることが出来た。さらに新大陸の黄金はまさに想定外の世界帝国発展の源泉となる。わざわざジパングまで行かなくても…コロンブスもジパング探索どころではなくなった。マゼランもその世界一周航海の途中で日本近海を通過しているが、立ち寄ってみようともしなかった…

現に当時の日本は内戦状態の戦国時代。貧しく、資源の乏しい国であったし、絹も陶器などの工芸品も中国から輸入していた国であった。まして黄金などわずかしか産出しなかった。石見銀山が博多の豪商によって開発されて脚光を浴びるのはもう少し後の話だ。やがてポルトガル商人がこの銀に眼をつける。日本と中国の間での中継貿易に従事して大きな利益を上げたが、新大陸やモルッカ諸島で行ったような略奪的支配とまではいえない状況であった。

やがて旧教世界の盟主ポルトガル、イスパニアに替わって世界に躍り出たのは、ヨーロッパの新興国、旧教に対抗する新教国オランダとイギリスであった。イスパニアの植民地だったオランダは独立を果たし、イギリスに先駆けて世界へ乗出してゆく。この頃ようやくブリテン島内の混乱を治めたエリザベスのイギリスはイスパニアの無敵艦隊を破り、閉塞されていたビスケー湾を脱し、ついに大西洋へ出て世界へ進出する突破口を開いた。一時はスペインの脅威を避けて北極周りで東洋へ向おうという無謀な計画を立案,実施して,案の定手痛い失敗を経験したりもしている。これがその後のアラブ、インド、インドシナ,オーストラリア、新大陸、やがては香港にまたがる大英帝国の時代の始まりだ。

一方、大西洋の向うの新大陸では、スペイン。ポルトガルの略奪帝国主義的な支配が南米大陸に及び、インカ、アステカ、マヤなどの幾多の現地文明を破壊したのに対し、北米大陸はノバイスパニア(メキシコ)を除き、彼等が望むようなエルドラード(黄金郷)が見つからなかったせいで征服の意欲を失い、やがて後発の新興国のフランス、オランダ,イギリスが「残り物に福あり」とばかりに植民地化してゆく。そしてやがてはイギリスからの独立を獲得したアメリカという新興国が生まれることになる。

こうして世界は19世紀、20世紀を迎えてヨーロッパとアメリカといういわば欧米キリスト教文明(西洋文明)が世界を支配する時代となる。世界は欧米中心の経済、文化、政治、戦争を含む外交、思想、宗教の時代となった。世界観も欧米中心世界観となった。イスラムはキリスト教に対する異教徒.近代文明への脅威であり、野蛮な戦いの相手。インドは文明から取り残された未開地域。中国は閉鎖的な孤立した文明。日本に至っては伝説と異なり,現実は遥か東の果て(Far East)のそれほど豊かでもない島だった。

しかし、こうした欧米中心の世界観が唯一無二、無誤謬ではないことは歴史が示しはじめている。そして時代は大きく場面展開を果たしつつある。21世紀に入り時代の転換点にきた。中国やインドやアラブイスラム世界諸国と言った「新興国」が、17世紀〜19世紀20世紀、未開の文明のレッテルを貼られ、発展から取り残され、帝国主義の時代を迎えて欧米諸国の植民地というつらい屈辱的な時代を経たのち、再び世界の中心的な経済圏、文化圏として歴史の舞台に踊り出ようとしている。

このきっかけを作ったのはユーラシア大陸の東の端にあって、かつて黄金の島「ジパング」と伝説化され、しかし現実には、貧しくあまりの辺境(Far East)ゆえ欧米の植民地化を免れた日本というアジアの鎖国国家。19世紀中葉以降のその急速な近代化、「改革開放」の動きであった。欧米植民地主義への恐怖とそれへの挑戦が日本の近代化「富国強兵」「殖産興業」の大きな原動力であった。やがて世界の舞台にそろそろとデビューした小さな国日本は、中国の支配政権であった清朝を破り,南進してアジアを狙う後発帝国主義国ロシアを破り,一気にアジア随一の近代国家、軍事大国として躍り出た。しかし、列強の帝国主義的野望をくじき、アジアを解放するとした日本の拡張政策は次第に欧米列強の脅威になるまでになり、想定通り反発を招いたのみならず、皮肉にも欧米列強に伍してアジアにおける帝国主義的植民地争奪戦に参戦するという事態に突き進んでゆく。すなわち「日本の欧米化」である。その結果、宗主国である欧米列強諸国と現地双方からの激しい反抗に合い、無惨にもその野望は破綻する。

しかし、この出来事が皮肉にもアジアにおける欧米列強の植民地支配の終焉をもたらした。日本が本来意図したはずのアジアの自立と繁栄を実現させるきっかけとなる。最後まで残った欧米のアジア植民地、香港とマカオが中国に返還されたのは記憶に新しい。また欧米に永年牛耳られて、あたかも文明世界への脅威の様に扱われて来たイスラム世界が、石油という戦略資源をテコにして、また経済的な発展の可能性を武器にして、復興の時代を迎えようとしている。

世界の景色は21世紀初頭から大きく変わるのだろう。「旧世界」の中国、インド、イスラムの「新興国」が新しい世界の表舞台に復活してくる。人口で世界のマジョリティーを占めるこれらの地域が一斉に経済発展を始める。明国鄭和の大船団が再び世界を闊歩する。アラブの大商人イブンバツータが再びやってくる。大航海時代の16世紀から、世界戦争の時代20世紀にかけて世界を、そして地球文明をリードしたヨーロッパ、そしてそのエクステンションであるアメリカの時代が徐々に終焉を迎えるのかもしれない。

高校時代に大学受験で世界史を必死で覚えさせられた悪夢がなぜか今再び… 
覚えられない!という悲痛な叫び!
気がつくと汗びっしょりで眼がさめた。
よかった。もう大学受験の時代なんぞとうに終わっていた…

しかし正月早々壮大な夢を見たものだ。

2009年12月29日火曜日

富田林寺内町



富田林は大阪市の南のベッドタウンだ。あべの橋から近鉄南大阪線で30分ほどで着く。今年最後の時空旅はこの中世末に成立した一向宗の寺内町だ。こんな都心に近いベッドタウンの中に、タイムカプセルのようにこの一角だけ歴史的な景観が良く保存されている所がすごい。地区の総面積は約3万㎡で周辺部との境界には土手が巡らされていた。近畿地方によく見られる掘割が巡らされた環濠集落は低地に建設されているが、ここは高台に位置していて、集落の外縁部からは各方面とも道が大きく下っている。東からは下に石川を、遠くは葛城、金剛山が望める。当時は高台の要塞都市的な性格だったのだろう。

 富田林は、このように街の中心に今でもある興正寺を中核とした宗教自治としとして建設された。江戸期以降はそうした自治都市としての特権的な地位は失われたが,交通の便の良い地の利から在郷町と呼ばれる商業の中心としての発展を遂げた。ここ富田林寺内町は多くの木綿、油、酒等を商う商家が栄え、豪壮な町家が今でも良く残っている。

 こうした寺内町は,隣の大和の今井町が有名である。その建築物群の密集度と保存状態の良さなどの点では他に類を見ないが、ここ富田林は都市化が進む大阪の郊外でこれだけの景観が保存されている点が驚嘆に値する。近畿圏は総じて今でも長い歴史の上に人々の生活や文化、習俗、経済活動、町並みが成り立っていることにいつも驚かされるが、この富田林の寺内町はその象徴と言っても良いかもしれない。東京のような町は、江戸開府400年と言っても歴史的に見れば新興都市であることを認識させられる。




































2009年12月28日月曜日

大航海時代 東と西の遭遇 〜ウィリアム・アダムスの生きた時代〜

 久しぶりにSamurai William(Giles Milton)の和訳本「さむらいウィリアム−三浦按針の生きた時代ー築地誠子訳)を読んだが、原著が読みたくてAmazonで注文。届いた「Samurai William The Englishman who opened Japan」はなかなか素敵な装丁の本。挿画がいい。日本の南蛮屏風絵や多分イエズス会の伝道師か、オランダの商人が描いたと思われる日本の17世紀初頭の光景が新鮮だ。腹切りや、キリシタンの処刑の光景があるかと思えば、大阪夏の陣冬の陣の現場リポート風挿画、江戸城や壮大の江戸市中の光景。平戸の漁師の姿。家康の軍隊の装備など、描き方が泰西名画的で、日本ではないような感じだが、逆に当時の日本人が描いた南蛮屏風に登場するポルトガル人や、スペイン人がこれまた異様な風体に描かれているのと対比できて面白い。もちろんこうした出来事は史実としては知っているが、当時はるばるユーラシア大陸の西の端からやって来た西洋人の目で見た日本が可視化されていて、まさに時空トラベラーの視点が新鮮だ。冒険的商人、航海士らがロッテルダムの港を出て以来、様々な未知の土地で、海域で危険と遭遇しながらの航海。ようやく東の果てに見た伝説の国ジパングを「野蛮人の群れをかきわけて進んだ末に到達したもうひとつの文明国」とみている点にも興味がそそられる。当時の日本は戦国時代。おぞましい内戦が長く続く混乱の時勢であったにもかかわらず。

 当時の地図を見ると日本は不思議な形状の島として描かれている。彼らが頼りにした日本の地図はおそらくイエズス会の宣教師が持ち帰ったものを元に、オランダやベルギーあたりのメルカトール、オルテリウス、ヤンソン、ブラウ等の地図製作者(カートグラファー)が人の話を聞き、想像で描き足したものだろうといわれている。宣教師が入手した元の日本地図が何だったのかは謎だが、研究者によれば、さかのぼること奈良時代の僧、行基が作った行基図が元では?といわれている。8世紀から17世紀まで日本には正確な地図はなかったのあろうか? ともあれ、私がロンドンで買ったQuadのAsiaという地図(1600年出版ケルン)には日本がサモサ様な形で描かれている。良く見ると九州、四国、そしてミヤコのある近畿地方、すなわち瀬戸内海、大阪湾部分のみが描かれ、その他は適当に線を引いた、という感じの地図になっている。当時の西洋人が知りえた「日本」の範囲がわかって面白い。ちなみに、九州にはFacataという街が記されている。その後やはりロンドンで入手したヤン・ヤンソンのIapanの地図では、北海道を除く他の日本列島が描かれており、都市や国名がMiakko,とか、Tonssa, Bungo,などと記されている。都市や国以外では石見銀山の位置が記されており、世界史的にも重要なランドマークであったことを示している。朝鮮半島は島なのか半島なのかいまだ不明、と注記されている。

 East encouters West. 初めて日本に到達した西洋人は種子島に漂着したポルトガル人だといわれているが、その後ザビエル等のイエズス会宣教師が次々と来日する。そしてイギリスの航海士William Adamsがオランダ船Liefde号で豊後府内に漂着する(目的を持って日本に来たらしいが,到着の様子は漂着に近かった)。この頃のオランダはヨーロッパの強大な帝国スペインからの独立直後で、いよいよ海洋国家として世界に羽ばたいた時期。イギリス人もその冒険的なオランダ貿易船に乗船していた。Adamsの出身地ロンドン郊外のギリンガムには小さな石碑が建っている。日本では三浦按針として歴史に名を残し、三浦半島に領地を得て「サムライ」となったイギリス人時空トラベラーも母国イギリスではあまりたいした歴史的扱いを受けていないと見える。

 この当時の日本における、いわゆる西洋人の出入りを見ていると、16世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパにおける、スペイン、ポルトガルといった大航海時代の先進国、カトリック国(日本人がいう南蛮人)と、オランダ、イギリスのような新興国、プロテスタント国(紅毛人)が大きな時代の流れの中で激しく世界市場の利権を争っていた時代が反映されていること分かる。何故、最初に種子島に漂着した西洋人がポルトガル人だったのか。 何故その後イエズス会宣教師が日本に来て、やがて禁教令で去らざるを得なくなり、代わって新興国のオランダが日本に進出して平戸、長崎出島にとどまることが出来たのか。何ゆえイギリスは平戸に商館を開いたのに、著者の表現を借りるならば、「まるで日本になぞにいたこともなかったかのように」いなくなったのか。

 そして240年後の19世紀に入り、鎖国日本の小さな窓、長崎から外界をのぞくと、いつのまにかAdamsが警戒し、徳川将軍が排除した旧教勢力は日本の周りからすっかり姿を消し、スペインはフィリピンに、ポルトガルはマカオにプレゼンスを確保するのみであった。もはや大航海時代を切り開いた覇者の姿はなくなっていた。代わって新興海洋帝国オランダが平戸に長崎に進出した。彼等はバタビアに東インド会社の拠点を置いてジャワ、モルッカ諸島(香料諸島)などの現在のインドネシアを植民地とした。オランダにやや遅れて日本進出を果たし、しかしオランダとの日本における覇権争いに負けて平戸を後にしたあのイギリスは、中東からインド、ビルマ、香港、さらにはオーストラリアを有する広大な世界帝国に発展していた。そして新世界からはイギリスからの独立を果たしたアメリカという新興国が太平洋に進出してくる。世界地図はすっかり塗り変わってしまっていた。

 日本はこうした世界の激動の中で240年国を閉ざし、曲がりなりにも平和を維持してきた。これはある意味世界史の不思議だ。 徳川政権の先見性なのか? あるいは歴史の偶然なのか? 伝説の国、黄金の島ジパングはあまりに遠すぎて忘れられたことも幸いしたのか? William Adamsは日本を世界に開いたはじめてのイギリス人と紹介されているが、同時にスペイン、ポルトガルの帝国主義的野望から日本を守り国を閉ざさせた(彼の意図ではなかったかもしれないが)イギリス人でもある。また皮肉にも彼の母国であるイギリスの日本での活動を支援しなかった人物でもある。平戸のイギリス商館が閉鎖され商館長コックス以下商館員が全員日本を去った後にロンドンへ帰還できたのはタダ一人の商館員ウィリアム・イートンだったといわれている。後にイギリス東インド会社が再び日本へ進出を企てた時に、彼は会社からの誘いを断り、その結果日本進出計画は破綻してしまった。結局、明治維新まで長崎に残った西洋人はオランダ人だけだったのだ。歴史に「たら」「れば」はないが、その時イギリスが再び日本に進出していたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。この意味においてもこの元商館員イートンはAdams同様、結果的に(勿論意図せず)日本をイギリスの世界帝国の野望から守ったのかもしれない。歴史の皮肉としか言いようがない。

Orteliusのアジア地図.真ん中上部のオタマジャクシのような列島が日本

アダムスのリーフデ号はロッテルダムを出港し、西周りで豊後府内(現在の大分市)に到着した。
というより「漂着」と言ってよい有様であった。


Samurai William: The Adventurer Who Unlocked Japan
価格:¥ 1,379(税込)
Samurai William: The Adventurer Who Unlocked Japan発売日:2003-02-03
さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2005-10

2009年12月21日月曜日

京都 嵯峨鳥居本

京都の嵐山,嵯峨野と言えば観光スポットとしてあまりにも有名。春の桜,秋の紅葉の季節ともなれば大勢の京都ファンが押し掛けるいわば京都定番、初心者コース。渡月橋から天竜寺、大河内山荘、落柿舎、常寂光寺、祇王寺、二尊院そして化野念仏寺くらいまでは誰もが知る有名観光コースだ。嵯峨御所と呼ばれる大覚寺へもかなりの人が訪れる。この時空の旅人もその昔、彼女とデートした思い出深いコースである。今では私のツレアイとなったその「彼女」が今でも憧れるコースである。渡月橋のたもとからボートに乗ったりしたっけ.....




(渡月橋あたりは観光客で賑わうが、堰を切る水の輝きに眼を奪われる人は少ないのでは....)





(冬の太陽の光が水面に煌めいて美しい。特殊なフィルターは使ってません,念のために)






しかし、化野の念仏寺からさらに先へ歩を進める人は意外に少ない。この先の嵯峨鳥居本は観光ガイドブックにも詳しい説明が掲載されていることがまれであるようだ。この清滝に至る愛宕街道は愛宕山参りの参道でもあった。瓦屋根の町家や蔵の続く家並から、参詣道らしく茶屋や土産物の店が並ぶあたりを過ぎ、さらに進むと苔むす茅葺きの農家や山荘風の宿が続く。山に囲まれた地形と相まってこの一本の道の両側にはとてもバラエティーにとんだ景観が展開している。愛宕山の赤い一の鳥居辺りには昔から続く料亭宿、苔むす茅葺き屋根のつたやと平野屋が鳥居を挟んで二軒、暖簾を誇って建っている。嵯峨鳥居本は京という都の雅と、その郊外の農村ののどかさとがシームレスに融合する地域なのだ。




(参詣道、観光地らしくみやげ物の店が軒をつらねるが、化野の念仏寺を過ぎるあたりからだんだん人が少なくなる)



ここは元々は京のはずれの農村、山村であった所だが,その歴史は古く室町期には集落が形成されていたようだ。また何時しか愛宕山参詣の為の参道として栄えた。今はかつてのような門前町としての賑わいはなくなったが、その分静かな嵯峨野観光の奥座敷となっている。この鳥居本の町並みは平成17年には重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。景観保存という考え方は,そこに暮らす人々の生活と建造物、道、それ等を取り巻く全体の環境を景観としてまとめて保存してゆこうというものである。こうした町並み、景観保存の活動は、それ自体を歴史ある日本の文化財として未来に残そうというもので、このような活動が評価されるようになったということは日本もようやく成熟した大人の国に近づいた、ということだ。時空トラベラーとしてはいつかは全ての伝建地区を巡りたいと思っているが、さらにまだ伝建地区に指定されていないが,ひっそりと忘れ去られそうになっている情景、未来に残しておきたい景観についても探し出して見ておきたいと思う。

しかし、これまで回った中でもこの嵯峨鳥居本の佇まいは強く心を引かれる。京都という1000年の都はあちらこちらにその歴史が熟成させた本物の文化の香りを漂わせている。東京などの都市ほどではないが、街全体としては都市化により大きくその景観を変容させてしまったが、仔細に見るとそこここにそれを感じ取ることが出来る。ここも京の町家の風情と農村の茅葺き屋根と信仰と山村の自然が融合するという点でユニークな都の景観だと思う。





(ここから嵯峨鳥居本の景観保存地域。左の壁に景観保存地域の説明があり、町家資料館も開設されている。正面には愛宕山の一の鳥居が見える)





(鮎料理の老舗、つたや。苔むす茅葺き屋根がこの辺りの景観を独特のものにしている)





(ここには鳥居を挟んでもう一軒の老舗料亭、平野屋がある。)





(愛宕山の一の鳥居。山あいの街道に華やかさを添える。ここから愛宕山を目指して人々の行列が続いたのだろう)




愛宕山は京都市の北西にそびえる標高924メートルの市の最高峰である。山城と丹波の国境に位置し、比叡山や比良山を望む位置にある。山上には全国900余の愛宕神社の総本社である愛宕神社が鎮座ましましている。創建はさかのぼること1300年前、役行者によると言われる。明智光秀が本能寺に織田信長を攻める前に参詣し、神籤を引き四回の「凶」の後に五回目で「吉」を引いた、という逸話が残っている。その後、宿坊で連歌を催した。

「時は今 雨が下しる 五月かな」

これが秘めたる謀反の決意を表した歌だと言われている。

この鳥居本の愛宕神社一の鳥居から愛宕山上の本殿までは山道を遥かに登り続けなければならず、昔の参詣はかなりの苦行であったことだろう。明治の頃になって嵐山電鉄嵐山駅から愛宕鉄道、ケーブル線ができ、乗り継いで愛宕山頂まで行けたそうだ。まるで今の比叡山のような行楽地であったのだろう。これもすごいはなしだ。今人々が散策する嵯峨野に廃線跡は見つけることが出来ない。戦争中にこうした交通手段は撤去され戦後復活することはなかった。いまでは、再び古の昔に戻り、山頂へ向かうには清滝から徒歩で2時間ほど登らねばならない。元来参詣とは苦労して神仏に到達するもので、そうしてこそ法悦を感じたものだったはずだ。簡単に行けてはありがた味がないのだ。それだけにいにしえ人にとっても、参詣をすませ麓の街道沿いの集落に降りて来てからの楽しみは地元の鮎料理やおいしい酒だったのであろう。千日参りの善男善女が賑々しく行き来する光景が眼に浮かぶようだ。

2009年12月20日日曜日

帰って来た来た阿修羅 ジャニーズ系八部衆の時空旅

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(若草山から望む興福寺の五重塔、南円堂、そして奈良の街)

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(阿修羅像は撮影禁止。九州国立博物館の写真をお借りした)

紅葉の季節も過ぎて、年も押し詰まった週末はこの冬一番の冷え込み。雪こそ降らなかったが風の強い寒い一日だった。こんな時に奈良公園を散策する通も世の中にはいないと見えて閑散としている。我はよほどの趣味人だと自覚。人影のないひっそりした観光地は、どこか寂しげで、鹿のせんべい売る人達も寒そうにただ佇んでいた。もちろん角切られてさっぱりした鹿達もヒマそう。

しかし、時空旅行者にとっては、観光客のいない奈良公園は興福寺の昔の栄華を夢想するにはうってつけ。あの阿修羅像も興福寺国宝館に戻り、八部衆の一員としての定位置でいつもの決めポーズで立っている。そして阿修羅像の前には誰も並んでない。東京と太宰府での2時間待ち行列は、いったいなんだったんだろう。

改めて阿修羅像をゆっくりと拝観させて頂いたが、ほんとに今風の若者の風貌であることに時空を超えた普遍性を感じた。阿修羅だけでなく八部衆はジャニーズ系だ。ははあ、アイドル見たさにみんな行列したのかな? いや,東京でも太宰府でも後ろ姿が見れるのは今回だけ、と宣伝してたっけ。後ろ見て「ああコウなってるのか」と、これで2時間並んだ甲斐もあったと,皆さん満足して帰ったのだろう。

興福寺は平城遷都の710年に藤原の不比等によって建立された藤原一族の氏寺。聖武天皇発願の官寺,東大寺と並ぶ南都の大寺として繁栄を誇ったが、その1300年の歴史の中では度重なる戦火、天災で堂塔はで大きなダメージを受けた。特に1180年(治承8年)の平家による南都焼き討ちで寺は焼失するが鎌倉期に再建される。江戸期に入り1717年(享保2年)の大火では中金堂を始め中心伽藍のほとんどが焼失した。直近の破壊は明治維新後の廃仏棄釈の嵐によるものだ。このときは興福寺自らの仏の道の放棄による荒廃も進んだ。五重塔は250円、三重塔は20円で売却(その後破壊を免れたが)、僧侶はことごとく還俗し、あるいは春日大社に帰属し、一時は西大寺の住職によって寺としての命脈が保たれた時期もあった。

こうした中、国宝館には数多くの仏像が今もその姿を止めていることは奇跡に近い。もちろん天平のジャニーズ阿修羅もその一つ。明治期初期には多くの仏像が破却され、川に流され、あるいは海外に流出した。かつての文化大革命における中国3000年の文物の破壊や、タリバンによるバーミアン石窟の爆破の例は対岸の理不尽ではない。この日の本でも起こった。人間の歴史においては時代の大きな変換点ではこのような極端な文化の破壊が起こって来た。

阿修羅はこうした過酷な歴史をくぐり抜け、場所を換えながら生き残って来た。長く厳しい時空旅から戻った。慈愛に満ちた観音の表情とは異なる少年のまなざし。その眉はジャニ系アイドルのそれじゃなくて、人の修羅を見て来た眼と一対になった眉だ。いま興福寺の復興とその復興事業のシンボルとしての中金堂再建のための資金集めに、この阿修羅が地方巡業で一役買ったのが東京と太宰府への旅だったとはね。

この日は他に奈良国立博物館もゆっくりと見ることが出来た。仏像の宝庫とは聞いていたが.....ううん。その数はすごい。しかし、こうなると信仰の対象というよりも、如来も菩薩も明王も天もここでは鑑賞の対象だ。仏教古美術のショーケースという佇まいだ。当世はやりの「歴女」「仏女」のにぎやかな歓声がますます、抹香臭さどころか世俗の匂いをまき散らしている。楽しくなって来た。

師走の日没は早い。寒さも一段と増して来たので,そそくさと近鉄奈良線の快速急行三宮行きで大阪上本町(うえろく)まで帰る。いつもの時空旅の週末のように上本町近鉄百貨店の銀座アスターでアスター麺食って帰ろうっと.... あっ、その前に,本屋に寄っていつも立ち読みしかしなかった杉本博司の「現(うつつ)な像」を今日は買って読もう。
現な像現な像
価格:¥ 2,520(税込)
発売日:2008-12