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2010年1月19日火曜日

天空の城、高取城 その城下町土佐町






それにしても凄い山城だ。標高583.8メートルの高取山の山頂に延々3キロに渡って縄張りされ,大天守、小天守はじめ33もの櫓で構成された高取城。まさに「天空の城」だ。

元々は南北朝時代に豪族の越智氏が築いた山城であったが,その後筒井順慶が改修し、さらには、天正3年(1585年)大和郡山城主豊臣秀長の命を受けた重臣本多正俊が入城して郡山城の詰城として大改修を行ったのが、今の威容を誇る高取城だ。

本城である大和郡山城も堅固な城であるが、城内が周囲約3キロ、郭内は周囲約30キロの規模を誇り,平地からの高低差446キロの高取城はいかにも難攻不落の山城である。また、山城は通常天守等なく、いわゆる「かきあげ城」という砦のような城が多いが、ここは山上に、まるで平山城と同規模の連郭式縄張りで、大天守、小天守、御殿はじめ数々の櫓の白漆喰塗籠の建物が延々と立ち並んでいた。これが別名、芙蓉城と呼ばれたゆえんである。麓の城下から眺めた城の姿を「巽高取 雪かとみれば 雪ではござらぬ 土佐の城」とうたわれるほどの景観であった。

江戸期に入って徳川譜代大名の植村氏が入城し、明治4年の廃藩置県まで植村氏の居城であった。今でも植村氏の子孫が山麓の土佐町に居を構えている。あのナマコ塀の長屋門の館がそうである。

明治26年には天守等の建造物はことごとく破却されてしまう。今建物は何も残っていな。破却直前の写真を見ると、石垣だけの姿も異様に壮大だが,さらに山上に立ち並ぶ櫓と大手門がその山城としての重装備加減を押し出している。このような山上の城では手入れが行き届かず,当時は補修するにもいちいち幕府の許可を取らなければならないので、徐々に放置され、廃墟化することが多かったようだが、高取城は三代将軍家光から、補修は勝手にやってよい,とのお墨付きをもらっていたらしく、明治の廃城までその威容を維持して来た。

難攻不落ぶりを遺憾なく発揮したのは、幕末の1863年の天誅組の乱である。高取城を拠点とした幕府軍は十津川郷士等1000名の攻撃をたやすく撃退。天誅組の乱が失敗に終わる大きなきっかけとなった。この城に登ってみればその難攻不落ぶりが容易に体験できる。いまは登山道が整備され麓の黒門跡からは1時間半ほどで山頂の本丸跡にたどり着けるが、それでも七曲がり坂や直線の一升坂などの難所があり、ようやく二の門の石垣にたどり着く。ここからが平城の縄張りと同じで、石垣の間の迷路のように曲がりくねった坂を歩かされることになる。

本丸跡からは大峰山、大台ケ原、高野山などの紀伊山系の山々が展望出来る。まさに牙牙たる山々が連なる神々の聖域だ。神武天皇はこんな山々を越えて熊野から大和に攻め入ったコトになっている。神武東征を神格化するに充分な地形的舞台設定だ。古代人はこうした山々に畏怖の念と神秘性を感じたのだ。神々は天から降り,山々から国にやってくるのだ。高千穂の峰であれ、熊野の山々であれ。

一方、西に眼を転ずると、国見櫓跡からは大和国中、大和三山を直下に見渡すことが出来る。さらに目線を少し上げると生駒、葛城、金剛山、二上山が遠望できる。晴れた日にはこれらの山稜の合間に河内平野、大阪が展望出来る。古代官道、横大路や後の竹内街道が大和から河内へ繋がってゆく様が見える。今は高速道路が白く無粋な直線で大和盆地を切り裂いているが。雄大な眺めである。中世、近世以降この城がいかに大和一国を押さえるに重要な位置を占めているかが一目で分かる。

土佐町はこの山城、高取城の城下町として建設された。高取城へ一直線に続く大手筋、土佐街道沿いに武家屋敷や商家が寺が並び、道の両側には水路が整備されている。建物は通りに面して棟を平行に軒並を整えて,外観は「つし二階建て(屋根裏物置付き)」に連子格子、虫籠窓で黒壁白壁で意匠を競っている。細長いこじんまりした城下町だが今もその町並みと景観は良く保存されており、伝建地区に指定されてはいないが、かなり濃厚な歴史景観地区になっている。阪神大震災の際に掘り出された神戸の路面電車廃線跡の敷石がいまはこの土佐街道の両端を縁取っている。

織田氏の山城、松山城の城下町として発展した大宇陀松山に類似性を見ることも出来る。紀伊山系、吉野山系から採れる豊富な薬草を資源とした薬の町として発展している点も両方に共通している。

ところで、なぜここは「土佐」なのか?街道脇に設置されている説明板によれば、その昔大和朝廷に労役の為に土佐から大和に徴用された人々が、その年季明け後も帰るに帰れず,この地に定住したことから,故郷を懐かしんで「土佐町」と称した、とある。ここの人々は土佐人の末裔なのか。

ヤマト王権の時代から古墳の造営や都宮の造営などで他国から大勢の人々が駆り出された。律令体制整備後には労力の提供は租庸調の税としても定められていた訳だ。中には国に帰ることが出来ずヤマトに残った人々も多かったのだろう。勿論朝鮮半島からの渡来人もあちこちに定住していたから,ヤマトは今の東京のような地方人や外国人の雑居地域だったのかもしれない。むしろそれが大和という国だったのだろう。

今回の時空旅は,高低差446メートルを含む往復約10キロを歩き、大いに体力を消費したが、メタボ気味の体にはちょうど良い運動だった。帰りは近鉄壺阪山から特急で阿倍野橋へ直行で帰った。二上山に沈む夕陽を眺めながら所用時間約45分で日常の現実世界へ舞い戻る。

写真集1:城下町としての土佐町




見事な大和棟のお屋敷


薬草の産地でもあり薬店が軒を連ねる





武家屋敷
現在は医院となっている

旧家老屋敷








明治以降、旧藩主家族の住まいとなった








写真集2:高取城への道





猿石
明日香への分岐点に置かれている


ようやく石垣が
















写真集3:高取城からの展望

紀伊山地








二上山
明日香

畝傍山

耳成山


大和三山を望む














2010年1月12日火曜日

大和五條 新町通りの時空散策





年明けの時空旅は、奈良県五條市。ここには「新町通り」という歴史街道が延々1キロ以上に渡って続いている。江戸時代の町並みを今に残していることで有名だ。初めて訪れた。伝統的建造物群保存地区にも指定されていないが、その町家の数と、紀州街道沿いの町並み景観の保存状況は,文字通り江戸時代にタイムスリップしたような体験をさせてくれる。大和、河内にはこうした町並みがあちこちに良く残っている。今井町、大宇陀松山、富田林、大和八木、郡山、高取など。

さて,五條へ行くには結構不便。今回は近鉄鶴橋駅から近鉄大阪線で大和高田まで行き、そこでJR和歌山線に乗り換える。一時間に一本の和歌山行き2両編成のワンマン電車(電化されてるが単線)は、左右に金剛山系と吉野の山並み、高野山を見ながら、吉野川(紀ノ川)沿いを瀑走する。揺れがすごいが景色が素晴らしい。車両は旧山手線、中央線各駅停車、大阪環状線で活躍した往年の名車達。第二の人生という訳だ。途中吉野口で近鉄南大阪線と、また橋本で南海高野線と接続している。奈良県は本当に「奥深い」県だと痛感。

さて、ここ五條は歴史上の大きな出来事に関わるヒストリアがあちこちにちりばめられていることに驚く。

まず、明治維新の魁、天誅組の乱の発祥の地である。桜井寺を本陣とし、幕府の五條代官所を襲撃して代官はじめ6名を殺害し、一時五條政府と称していた。これは孝明天皇大和行幸に先駆けて決起する尊王攘夷クーデター。結局京都での尊王攘夷派は破れ天皇行幸がなくなってしまい、はしご外された天誅組は転戦の後、幕府2万の兵に取り囲まれ抹殺される。しかし、これが明治維新に向けての尊王攘夷運動の先駆けとなったことは我々も歴史で習った。

次に、この歴史の町並み、新町通り。ここは関ヶ原後に大和二見城に入城した松倉重政によって建設された商業地区であった。多くの町家が立ち並び、殷賑を極めた。今井町や富田林のような寺院が中心となって集落が形成された寺内町ではなく、大宇陀、高取のような城下町として建設され,後に城が破却された後も街道沿いの商業地として発展した町である。新町通りの半ばくらいに西方寺という寺があり、その小さな広場に松倉豊後守重政の顕彰碑が地元の人々によって建立されている。

しかし、松倉重政?! どこかで聞いたような…..
もしかして、あのキリシタン弾圧、苛斂誅求で歴史に悪名轟く暴君の肥前島原藩主松倉重政? 島原の乱を引き起こす原因を作ったあの男? そうその通り。その男はここにいたんだ...

松倉重政はもともとは大和郡山の筒井順慶配下の武士。関ヶ原では東軍で参戦。家康にその武功を認められて、ここ大和五條1万余石を領地として拝領。その後、大坂夏の陣ではいち早く豊臣方の郡山城を攻めて活躍。今度は肥前島原4万3千石城主に出世。大出世ではないが戦国生き残りゲームの中くらいの勝ち組だろう。

島原では小藩の規模に似合わぬ壮麗な島原城を築き,今日までその町割りを残す立派な城下町を整備。そしてこの分不相応な町づくりの為に地元農民から徹底的に年貢を搾取したことで有名。その後、三代将軍家光のキリシタン禁教令、追放令が出るや、残虐な方法で領内のキリシタンを弾圧、処刑。さらには長崎奉行所にまで提案して長崎中のキリシタンを雲仙阿鼻叫喚地獄に集めてで殺戮した。彼の死の7年後には島原の乱が起きており、その原因を作った暴君とされている。彼は57歳で急死している。あまりの苛烈さに幕府の間者に暗殺されたとの噂さえある。

ありがちではあるが、跡を継いだその息子は凡庸で、いかにもどうしようもない2代目。しかし、領民に対する容赦ない税の取り立て、苛斂誅求さとキリシタン弾圧の苛烈さは父にも勝るとも劣らぬモノだった。結局、江戸幕府開闢以来、最大かつ最悪の反乱、島原の乱が起きる。全国から集められた幕府軍の原城攻略で乱は鎮圧したものの、その責めを問われて松倉家は断絶。武家としては後世に恥を残す斬首刑に処せられる。

ここ五條では名君としてその遺徳をしのぶ為に石碑が建てられている。大和二見城主であった期間はわずか8年しかなく、その間にこうした町割りを作ったのは功績であろうが、領民を搾取する間もなく、出世して肥前島原にご栄転になったのだから,五條の民には良い思い出しか残っていないのだろう。肥前島原の領民はその苛政に苦しんだというのに。

悪名高いキリシタン弾圧も最初のころはそれほどの厳しさはなかったようだが、いざ幕府から取り締まり強化の指示があると、「そこまでやれとは言ってないだろう」といわれるくらい、期待以上の弾圧で幕府に存在感をアピールする。要するこの松倉という人物、時の権力者に取り入って、おもねることで出世するタイプに見える。その為には下に無理難題を押し付けてはばからない。良く出来るが「上を見て,下を顧みない」現代の管理職の一類型みたいな人間だったのだろう。

もうひとつのヒストリア。ここには未完成の旧五新鉄道線のアーチ橋が残る。新町通りを横切る形で高架橋が吉野川に向って伸び、突然川岸で途切れている。奈良県五條市から和歌山県新宮市までの鉄道新線計画!! 明治期に構想され、戦前から建設が進められ,戦後に至って鉄道建設公団により工事が継続されたが、吉野川橋りょうの所で工事が中止されてしまう。

国鉄が、採算性とは無関係に次々と建設される新線の経営を押し付けられて,ついに破綻してしまったことは戦後の政治と官僚と経営が、バラバラにそれぞれの思惑で自己実現を果たそうとした公共事業、官業の無責任さの典型として語られる。その「産業遺産」がここに残っている。

しかし、このアーチ橋、アッピア街道を横切るローマの水道橋のようで美しいのが皮肉だ。新町通りの歴史的景観を破壊してないのが面白い。こうした「負の産業遺産」も時代とともに熟成し,発酵して古い酒と混じりあって独特の味わいを醸し出してゆく。歴史の積み重ねというものだろう。





1キロメートル続く新町通


吉野川













昔、銀行だったそうだ!
写真撮ってたら自転車の少年が「スンマセ〜ん」と首をすくめて通過してくれました。


立派なウダツ




国鉄五新線の高架橋

吉野川手前で建設中止












五條代官所






幕末の天誅組の乱
五條代官所を襲撃するも乱は鎮圧されてしまう