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2010年8月12日木曜日

奴国、伊都国、末盧国幻影(福岡・博多シリーズ第2弾)







 中国の三国時代、英雄達が活躍した三国志の時代だ。魏の陳寿が編纂した史書。その倭人の条(魏志倭人伝と呼ばれている)は、日本国家の起源を知る上で重要な邪馬台国の記述がある唯一の文献資料として有名だ。

そこには朝鮮半島の東の海上に浮かぶ倭人の国、女王卑弥呼が都する邪馬台国に至る道のりと国々の様子が描かれている。その道程の記述から邪馬台国が九州にあったのか、近畿にあったのか大論争になっていることは有名だ。

この倭人伝に記されている国々のうち,ほぼ位置が特定出来ている国は対馬、壱岐を除くと、末盧国(松浦半島)、伊都国(糸島半島)、奴国(博多湾)の3カ国だけである。とりわけ奴国については魏にさかのぼる漢の時代の史書「後漢書東夷伝」に倭の奴国王が朝貢したことが記述されており、そのとき漢の光武帝が奴国王に与えた金印「漢倭奴國王」が江戸時代に博多湾の志賀島から出土していることから、文献上の記述が考古学的な物的証拠で証明された貴重な例とされている。

博多ベイサイドプレイスから博多湾内をクルーズするレストランシップマリエラに乗船。古代の奴国と伊都国の幻影を追いながら水辺都市福岡の景観を楽しんだ。
このクルーズ企画自体は、MATfukuokaという、福岡の近現代建築を探訪する「建築ツアー」イベントの一つで、福岡の都市景観を海から見て回ろうという画期的なものである。これに便乗した。

福岡はこれまであまり知られていなかったが、世界中の著名な建築家が設計、建築した建造物作品が集積している都市である。磯崎新、黒川紀章、前川國男、アルド・ロッシ、シザー・ペリー、等々。これら建築物を文化的な景観,文化的資産として見直し、福岡という町の付加価値創造に役立てようという志のもとに、福岡の若手建築家、建築学生たちがプロデュースした活動がMATfukuokaである。建築物と都市景観を新たな福岡の魅力として再発見しようというなかなかユニークな試みであるし、何よりも参加して面白いツアーである。

こうして海から福岡を見ると奴国の時代からこの博多湾が大陸への重要な窓口であったことがあらためて体感出来る。中世に栄えた港湾都市博多は、元寇や戦国の争乱など幾多の戦火による破壊を乗り越えて江戸時代の鎖国でその役割を終えるまで、日本を代表する国際貿易都市として発展してきた。大航海時代のオランダの世界地図にもFacataの名前が刻まれている。遣唐使の時代から謝国明のような華僑商人、神屋宗湛、大賀宗九などの豪商が活躍した「博多の黄金の日々」だ。

その後鎖国時代に入り、博多の国際貿易港としての役割は長崎に移り、しばらくは停滞の時期に入る。終戦直後は大陸からの引き揚げ船の着く港となり、日本人がかつて体験したことのない未曾有の悲劇の舞台ともなった。博多湾には戦後間もなくから博多埠頭や須崎埠頭などの港湾施設が設けられ、香椎沖には最近アイランドシティーにコンテナ埠頭が新設されてガントリッククレーンが並ぶ姿が、再び新たな国際港湾都市福岡への再生の印象を強く主張している。

目を西に転ずると、シーサイドももちから姪の浜のマリノアの都市景観は、新しい水辺都市福岡を強く印象付ける。大きな港湾施設を設けず、工場もなく、水辺をコンクリートで護岸せずに人工ではあるが砂浜で縁取り、福岡タワー、シーホクホテル、福岡ドームなど斬新なデザインの高層の建築群が軒を連ねる。今川橋に住んでいた子どもの頃,この辺りは地行浜、百道浜の海水浴場だった。近場の海水浴を楽しんだものだ。そこをアジア博(よかとぴあ)の時に埋め立てて新しい人工海浜都市、シーサイドももちが生まれた。近代的で自然と調和した都市生活、という福岡での暮らしを形容するにふさわしい景観となっている。

博多湾は志賀島を陸地と繋ぐ長大な砂州、海ノ中道に囲まれた静かな内海になっている。その志賀島と能古島の間からは玄海島が望め、ここが天然の良港であり、朝鮮半島、大陸へのゲートウェーであることをあらためて感じることが出来る。また西には今津湾、糸島半島の可也山(糸島富士)が夕陽に染まり、古代の伊都国の残照を見る思いがする。

船から陸地をぐるりと見渡すと、古代の倭国の国々(ムラムラ)の舞台はこのように博多湾という意外と狭いエリアであったようだ。邪馬台国の卑弥呼の代官、一大率が駐在したという伊都国もこの博多湾を囲む糸島半島の付け根あたりに位置していた。平原遺跡や三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡など、大陸伝来の副葬品が大量に出土した遺跡群が集まる場所である。魏志倭人伝に登場する伊都国の存在を考古学的に証明するものだろう。

さらに西へと歩を進めると、末盧国のあった唐津、松浦半島となる。ここは福岡から地下鉄乗り入れで1時間余の所だ。昔は国鉄筑肥線であったが、福岡市地下鉄開通と同時に電化され、姪の浜から西は地上を走る。景色の美しい路線だ。伊都国のあった糸島半島を過ぎる頃、右手に美しい海と島が織りなす海岸線が車窓に広がる。この美しい風景に囲まれた豊かで平和な風土が古代から人々を寄せ付けて国家(ムラ)を形成したとしても不思議ではない。晴れた日には壱岐が望める。やがて虹ノ松原と鏡山が優美な姿を展開する。万葉時代から時空を超えて続く景観に見とれてしまう。

この唐津は「唐津焼」で名の知れた土地でもある。中里太郎右衛門窯が現在も窯元として古唐津伝統の作品を生み出している。朝鮮唐津や高麗唐津など茶器として古唐津は外せない。他にも若手作家が多く育ち、駅前にはギャラリーには様々な「唐津焼」の作品が並んでいる。古代末盧国時代から大陸との交流が盛んであった土地の記憶を、こうした伝統陶器に重ねることができる。

青い空、青い海、白砂青松、緑の島々... 近代的で個性的な建築群と都市景観... このような自然と都会、時空を超えた歴史と未来が織りなして美しい景観を生み出している。今も昔もアジアへのゲートウェーというポジションは変わってない。アジアの時代にこの福岡がどのように発展してゆくのか楽しみだ。









伊都国遠望





伊都国







那の津
鵜久島





































2010年8月9日月曜日

デジタルオリンパス・ペンF復活 F.ズイコーレンズ再び...

 オリンパスのE-P1は、マイクロフォーサースフォーマットのデジタルカメラで、一眼レフ特有のペンタ部がないコンパクトな外観で人気商品の一つだ。

 往年のオリンパス・ペンFの外見もペンタプリズムを廃し、ダッハプリズムという当時画期的な光学技術を用いたスマートな独特のボディー形状となっていた。そういう意味では、デジタル化されて同じ外見を継承したことはファンにとって嬉しい限りだ。

 ただ、往年のオリンパス・ペンFユーザは、お小遣いをコツコツ貯めて買いそろえたペンF用のコンパクトなズイコー交換レンズ群を付けて撮りたいではないか。それでこそデジタル化したオリンパス・ペンFの復活だ。

 ペンFは35mmフィルムの半分、すなわちハーフサイズ用カメラなので、35mm換算でレンズ焦点距離は40mmなら1.3倍の約50mm相当となる。フォーサーズフォーマットなら2倍となるので、40mmのFズイコーレンズは80mmの中望遠レンズとなるはずだ。

 ところが、意外にペンF⇔マイクロフォーサースマウントアダプターがない。
オリンパスからもパナソニックからも純正アダプターはラインアップされてない。その他のブランドメーカーからも、このF用だけがリリースされていない。
どうやら香港製のモノがある、無名のガレージメーカが出しているそうだ、という噂は聞いていたが、実際にお目にかかることはなかったので、ほぼ諦めていた。

 先日、福岡へ行ったとき、時々ぶらりと立ち寄る天神のカメラ屋のショーケースを覗いてみると、たまたま発見。探している時はないが、忘れた頃に見つかるもんだ、こういうたぐいのモノは。

 どこの製造か全く表示もない(PEN-m4/3と白抜きで刻印してるが)が、とりあえず使ってみる。
ボディー側のマウント外周にはローレットが切ってあり取り付け時の手がかりがよい。カチッと装着。しかし、レンズ側のマウントが甘い。ガタガタする。取り付けたズイコーレンズのフォーカスリングをまわすと、マウントロックが外れてしまう。無限大ピンとも少し甘い。工作精度はいまいちだ。

 写りはさすがに、最新のデジタル専用のレンズのようなシャープさとコントラストの良さはないが、「そうそうこんな写真だったよ、あの頃撮ったのは...」というノスタルジックなテイストが出ている。シーンモードでポップアートを選んで撮ると面白い。遊べる。

 しかしFズイコーレンズ装着した姿はなかなかのもの。コンパクトでスマートなE-P1ボディーにコンパクトなFズイコーレンズ。とにかく「デジタルオリンパス・ペンFの完成です!」マウントリングの出来上がりは「いただきました、☆三つです」とはいかないが、Fズイコーレンズ群を生かせるデジタルオリンパス・ペンFの復活にマニアックな一人喜びの感動を味わってる。

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2010年7月31日土曜日

新益京(あらましのみやこ)藤原宮趾

 新益京といってもピントこないが、藤原京と言えば教科書で習っただろう。しかし日本書紀には「藤原京」という名前は出てこない。飛鳥浄御原宮から遷都した新たな都は「新益京」(あらましのみやこ)と記されている。藤原の名はその宮殿をさすとされる。女帝持統天皇は日本で初めての本格的な都城、藤原京(新益京)を造営、694年に遷都した。

 持統天皇の夫であった天武天皇は、壬申の乱の後、天皇親政を敷き、皇祖神天照大神を伊勢神宮に祭り、「公地公民制」を定め、割拠する豪族の上に立ち、King of Kings, Lord of lordsとして天皇を中心とした国家体制を構築。遣唐使を中止し、仏法と律令制に基づく「近代的な」大国「日本」を築くことに力を注いだ。「倭」から「日本」への大きな転換である。

 この時代は、その1200年後の日本の歴史のもう一つの転換点、明治維新の時代に似ている。国際情勢の緊迫、大国や列強の外圧への恐怖。内乱。天皇中心とした統一国家体制への変換。新たな国家を律する法体系の整備、首都移転。「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」を計った点でも共通する。いや、明治維新時の尊王攘夷思想は、この時代の宮廷「革命」に範を求めたものかもしれない。事実その後の歴史の中で天皇は政治権力の表舞台から徐々にフェードアウトしてゆき、再びその表舞台に踊り出すこととなったのは明治維新の時である。それ故の「王政復古」であった。

 話は戻り、持統天皇はその夫の意思を継ぎ、新生日本を象徴する首都の造営に力を注いだ。それまでは狭い飛鳥の地であらたな天皇が即位するたびに点々と宮殿を移していたのを、いわばpermanent residentを設け、宮殿を中心に唐に習った壮大な都を形成することとした。これより平城京へ遷都する710年まで文武天皇、元明天皇の三代に渡り都を営む。ここに外国風の飛鳥文化とは異なり、日本としてのアイデンティティーを主張する白鳳文化が花開いたわけだ。後に菅原道真が説いた「和魂漢才」の原点がここにある。

 藤原京は、畝傍、耳成。香具山の大和三山を包摂する東西南北条坊制に則った広大な都城であった。大極殿、朝堂院などの宮殿は平城京とは異なり、都城の中央に配置されている。都には薬師寺(平城京に移転する前の)、大官大寺が建立された。都城を囲む城壁や堀はなかったようだが、南には朱雀門趾が発掘されている。270pxfujiwarakyo2

 諸外国からの使節はこの都の壮麗さに目を見張ったことであろう。しかし、先に述べたように、都はわずか16年で、奈良盆地の北、平城山の平城京へと再び遷都される。その理由は謎に包まれた部分が多いが、一説にはその地形の水はけの悪さがあげられている。宮殿の位置する地点は盆地の中央で、南西に比較的小高い山を抱える地形から、宮殿地域は常に水が流れ込む場所に位置する。当然汚水の滞留が起こり、疫病発生の原因となっていたと言われる。

 そんなお粗末な... ということは、そもそも都市計画が初手からずさんだった,という事なんだろうか。大国としての体裁を整えることを急ぎすぎたのか?ともあれ現在、大極殿あとの基壇が残されており、そこに立ち周囲をぐるりと見渡すと、ここは奈良盆地の中央。北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山が展望出来る。大和国中ど真ん中で、都のロケーションとしては理想的なのだが、いかんせん水はけまでは考えなかったのか。

 今は、国指定の史跡となっており、発掘が続いている。広大な原っぱになっており、野球少年達が真っ黒になって元気にグラウンドよろしく走り回っている。その空き地の一部に地元の人々が、蓮田を設けて、いつも夏のこの季節は珍しい蓮の花の競演を楽しむことが出来る。また、黄色コスモスの群生もあり、古代を忍びつつ花々を楽しむ絶好の場所となっている。

 しかし、このクソ暑い猛暑のただ中、日差しを遮る場所もない野っパラで蓮にカメラ向けてる酔狂なヤツは我一人。車でやって来て「ここやここや」といって降りて、「あっついなあ」と汗ふきながらそそくさと蓮見てまた車に戻る人以外、訪れる人もない。蓮もコスモスも盛大に私一人の為に咲き誇ってくれている。「夏草や強者どもが夢のあと」だ。おおっと、カメラが熱くなってる。


2010年7月24日土曜日

トラトラトラ 信貴山朝護孫子寺




 暑い、暑い、連日の猛暑。35℃越えも珍しくない毎日。

信貴山朝護孫子寺は国宝の信貴山縁起絵巻図で有名だ。
近鉄上本町からは大阪線河内山本まで準急で。そこからは信貴山線にのりかえ、二駅目の(終点の)信貴山口まで。ここの線は電車が二両編成で20分ごとのピストン輸送してる。信貴山口からは今度は西信貴山ケーブルで高安山へ。そこからさらにバスで15分程。ちなみにこのバスは40分毎に出発。別にケーブルカーにも連絡していない。

関西の人たちには人気のご利益満載の寺にしてはなんと行きにくいこと。
もっとも、クルマで行けば早いとか。たしかに立派な有料道路と広々した駐車場が整備されている。従って私のとったルートで行く人は少ないのか、ケーブル+バスの乗客は私含めて4名。どんなに寺は空いてるかと思いきや、結構な人出。やっぱりクルマかあ。
私のように基本が徒歩の旅人にはこのゆるゆるした時間効率の悪いプロセスも楽しみの対象だ。そもそも旅はそのプロセスも重要な要素だから。

朝護孫子寺はトラが守護神。今年は寅年で私は年男。やっとお参りに来ることが出来た。入り口におなじみのシンボル「世界一の大福寅」が参詣の人々を迎えてくれる。しかしこの寅、よく見ると新しいものだ。大阪で商売やってる人の奉納だ。大阪やなあ。

縁起を見ると聖徳太子ゆかりの古刹だが、山上の寺域には様々な現世利益の仏様や神様が所狭しと並んでいて多くの参詣客で賑わっている。ここだけは明治期の神仏分離の影響を受けなかったのか、寺の入口に大きな鳥居が立ち、灯明燈籠がずらりとな並ぶ。大きな栢ノ木がご神体の栢ノ木稲荷など古代精霊信仰の名残だろう。

関西ってなかなかに日常の生活の中に社寺詣でが重要な行事として入り込んでいて面白い。大阪や京都の街中にもあちこちにお地蔵様が祀られているのを見ることが出来るくらいだ。多くの善男善女はそれぞれに家内安全、商売繁盛、不老長寿、健康増進、恋愛成就、安産etc.をお願いする為にやってくる。ここはなにからなにまでone stop shoppingで祈願出来る場所として賑わっている。それが行楽と兼ねている所にお寺参り、神社参りの原型を見るような気分がする。

本堂の舞台からは奈良盆地が見渡せる。気持ちいい。新たな人生の発進と行くか。トラトラトラ。












































2010年7月20日火曜日

大阪・上町筋 昔の町家景観の痕跡を探る

 江戸時代、元禄年間の古地図により大坂の街をマクロ的に俯瞰すると、上町台地の北に位置する大坂城、これを中心とする武家屋敷が立ち並ぶ城下町部分と、その西に広がる、土佐堀川、東西横堀川、長堀川に囲まれた大商業地である船場、その南の島之内。さらに商業地が拡張した西の西船場、北の堂島、天満という商業都市部分がある。さらには天満や平野町、四天王寺辺りの寺社町が大坂城のの南北を守るように形成されている。

 上町筋(うえまちすじ)は今も昔も上町台地を南北に走る幹線路で、ちょうど東側城下町部分の武家屋敷地区と、西側商業地区部分、本町の町家地区とを隔てる道路になっている。さらにこの道を南に下ると西側には谷町筋周辺の寺町地区、南の四天王寺終点に至る。

 この上町筋は私の通勤経路でもある。バスに乗って町並みを眺めていると、ビルやマンションの合間に点々と古い切妻の町家が生き残っているのに気付く。特に道の西側に顕著であるのは、先程述べた江戸期の街割りの残映であろうか。あるものは見るも無惨に改造され、あるものは取り壊されてその残影のみを残し、あるものは見事に補修復元され。しかし都市近代化の波にのまれ、数の上からも間もなく全てが消えてなくなるであろうことを予見させる状況だ。風前の灯という奴だ。

 都市の景観は、近代化だけでなく、戦争や災害、バブル期の地上げに伴い大きく変貌して来た。江戸/明治期の町並みがドンドンなくなってゆく。東京日本橋や銀座辺りはもはやその痕跡すら見つけるのは困難になっている。間口の狭いペンシルビルが乱立している姿に往時の町割りの面影を求めるのみである。しかし、ここ大阪上町筋は、よく見るとこうしたビルの谷間に取り残されたように町家が存在し、やがてこれらもマンションに建替え間近であっても、まだ今は残っているではないか。そしてこの点と点を繋いでゆくと、線となり、繁栄の大坂、上町筋の町並み景観が蘇ってくるではないか。

 こうした時空を超えた空想は楽しい。感動だ。まるでCG再現のような江戸期から昭和初期の天下の台所、大坂の上町筋の景観が蘇って来る。大阪は時代の痕跡を今にとどめながら生きている街だ。京都のようにそれを売り物にしていない分だけ、妙にリアリティーと想像とが時空を超えて交錯している街だ。



(町家は間口が狭く奥行きの深い、いわゆる「うなぎの寝床」だ。いかにも町家壊して建てましたという風情の、薄っぺらマンションビルの奥行きを見るとよくわかる。現存する町家は切妻造りでどこも平入(軒下に玄関を設けている)となっている。ビルの谷間に点々と残された町家を追っていくと町並みの線が脳内で視覚的つながり、昔の上町筋の町並みを想像することが出来る。)



(無惨にも切り取られた町家。その跡は現在駐車場に。しかし、切り取られた部分の後ろをご覧あれ。昔の町家の奥がどのような構造であったのか、その屋根のラインがシルエットで教えてくれる。まさにA瀬川G平先生のトマソン芸術だ。)




(このように美しく修復されて使われている町家もある。しかもちゃんと両側に立派なウダツが上がっている。クーラー室外機が惜しいが。この建物の所有者と住人の方々の文化センスをうらやましく思う。建築や町並みへの愛着と景観保存への深い理解を感じる。同時にこの建物をこのように維持するご苦労を思う。)


(古い外観を残した町家と改造された建物と。時代に応じて幾度かの外観変更があったのだろう。外装の看板建築を取り除けば往年の町家外観がまだ残っているのではないかと思う。しかし今後、この連続した家並が復活することはないのだろう。残念だが... 子供の頃読んだ「小さな家」という童話を思い出す。アメリカの童話作家が書いたニューヨークの街の発展の中に取り残された小さな一軒家の話だった。)



(こちらも立派なウダツを残す商家。軒下はシャッターに改装されているが、これからもご商売を続けていただきたいものだ。でないとここも両隣の様な建物に建て替えられてしまうことだろう。)


2010年7月19日月曜日

西ノ京 睡蓮を巡る 喜光寺、唐招提寺、そして薬師寺遠望

 やっと梅雨が明けた。各地に集中豪雨と土砂崩れの災いをもたらした今年の梅雨。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

 夏の花と言えば、ムクゲ、酔芙蓉、百日紅... 睡蓮も今の季節だ。
睡蓮は朝花が開いて、夕方には花を閉じてしまう。また花の命は2ー3日。はかない。
しかし、6月の下旬位から8月上旬位まで、次々と異なる種類の蓮が花をつけるので、割に長く楽しめる。
蓮の台に仏がおわす。まさに...

 喜光寺は唐招提寺の北、西大寺の南の両寺の中間くらいに位置している。この辺りは奈良市菅原町。古くは菅原一族の発祥の地で菅原道真公の生誕の地でもある。この寺も創建時は菅原寺と呼ばれていた。有名な大寺に隠れて普段訪れる人も多くはないが、寺の縁起によれば721年行基菩薩により創建された。748年に聖武天皇が参詣された際にご本尊より不思議な光が放たれた、それを喜ばれた天皇が喜光寺を改名された、と。

 ご本尊は平安時代の阿弥陀如来であるが、創建当時のご本尊が何であったかはわかっていない。
行基はその後東大寺造営を指揮しているが、この喜光寺の本堂を見ると、どこかで見たことのある建物だということに気付く。そう、東大寺大仏殿の縮小版だ。行基はこの本堂を参考として大仏殿を建てたとされる。

 喜光寺はこの季節、様々な種類の睡蓮で華やぐ。鉢植えの睡蓮が境内に並び、大仏殿の「試みの堂」を背景にこの世の極楽浄土を出現させたような美しさだ。この日は残念ながら、出足が遅くなってしまい、到着したのが正午。閉じてしまった花も多かったが、それでも白やピンクの花々が咲き誇っていた。この花の白、ピンク、葉の緑、そして花心の黄が絶妙のバランスだ。またまだつぼみのほんのりとしたピンクも美しい。

 唐招提寺の睡蓮は、その本坊庭園の大賀博士の古代蓮が有名だが、こちらは当日は公開されておらず残念。これを期待して来たと思われる観光客も門を閉じた本坊庭園の中を覗き込んで「今日はあかんなあ。ホンマやったら奇麗で」と語り合っている。寺のサービスであろうか、本坊玄関周りに数鉢が並べられて観光客の目を楽しませてくれていた。しかし、誠に鑑真和上の志の高さと慈悲の心に、静に咲き誇る睡蓮は文字通り花を添える。

 この日は、花の写真撮影の常として重い望遠ズームレンズを担いで行ったので、ここまで来たら以前行った大池越えの薬師寺を景観を撮りに行こうと考えた。
ここは薬師寺の東塔、西塔、金堂全てを池越えに望むことが出来、しかも背景に若草山と春日奥山を展望出来る絶景ポイントだ。入江泰吉はじめ著名な写真家のショットにもここからのものがある。

 梅雨明けの暑い夏の日差しをもろに浴びながら、近鉄の線路を渡り田んぼと住宅街の中をてくてく歩く。暑い! 汗が吹き出る。出がけの女房の「帽子かぶって行きなさいよ」という、母親の子供に対する注意じみた言葉がしみじみ思い出された。

 ようやく大池にたどり着いた。誰もいない。我ながら酔狂な...と、思わず笑ってしまった。

 以前来た時には、あまり天気がよくなくて薬師寺も背景の若草山も霞んでいた。しかも手持ちのカメラは古いライカM4に50ミリズミクロンのみ。ちょっと引きが足りなくて悔しい思いをした。

 今日は太陽もちょうど西から射している。再建された西塔の朱と金色の水煙が美しく光る。しかも東塔はこれから解体修理で十年程お目にかかれないそうだ。遠くの山肌のグラデュエーションもいい。今回は、ニコンの70ー400ミリ望遠ズームでじっくり撮ることが出来た。こういう風景写真はやはりニコンD3sの存在感が光る。重い機材を担いで来た甲斐があった。

 写真撮り終えると、それを待っていたかのように一人の若者が近づいて来た。差し出された名刺を見ると読売新聞の奈良支局の記者でSさんという。私が一生懸命写真撮ってるんで、ちょっと話を聞かせて欲しいということで。奈良の風景の特集記事を連載しているとのこと。こんな私に奈良の風景、歴史やウンチクなどしゃべらせると終わらないことを、この若い記者はすぐに悟ることとなった。

 たいがいしゃべりたいことしゃべって、お蔭さまで私としては楽しいひと時を過ごすことが出来た。心理学で言うカタルシス状態。彼は貴重な時間を素人のオヤジカメラマンに費やされて大いに迷惑だっただろう。この場を借りてお詫びいたします。あの時はスンマセンでした。良い記事書いて下さい。