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2010年8月12日木曜日

奴国、伊都国、末盧国幻影(福岡・博多シリーズ第2弾)







 中国の三国時代、英雄達が活躍した三国志の時代だ。魏の陳寿が編纂した史書。その倭人の条(魏志倭人伝と呼ばれている)は、日本国家の起源を知る上で重要な邪馬台国の記述がある唯一の文献資料として有名だ。

そこには朝鮮半島の東の海上に浮かぶ倭人の国、女王卑弥呼が都する邪馬台国に至る道のりと国々の様子が描かれている。その道程の記述から邪馬台国が九州にあったのか、近畿にあったのか大論争になっていることは有名だ。

この倭人伝に記されている国々のうち,ほぼ位置が特定出来ている国は対馬、壱岐を除くと、末盧国(松浦半島)、伊都国(糸島半島)、奴国(博多湾)の3カ国だけである。とりわけ奴国については魏にさかのぼる漢の時代の史書「後漢書東夷伝」に倭の奴国王が朝貢したことが記述されており、そのとき漢の光武帝が奴国王に与えた金印「漢倭奴國王」が江戸時代に博多湾の志賀島から出土していることから、文献上の記述が考古学的な物的証拠で証明された貴重な例とされている。

博多ベイサイドプレイスから博多湾内をクルーズするレストランシップマリエラに乗船。古代の奴国と伊都国の幻影を追いながら水辺都市福岡の景観を楽しんだ。
このクルーズ企画自体は、MATfukuokaという、福岡の近現代建築を探訪する「建築ツアー」イベントの一つで、福岡の都市景観を海から見て回ろうという画期的なものである。これに便乗した。

福岡はこれまであまり知られていなかったが、世界中の著名な建築家が設計、建築した建造物作品が集積している都市である。磯崎新、黒川紀章、前川國男、アルド・ロッシ、シザー・ペリー、等々。これら建築物を文化的な景観,文化的資産として見直し、福岡という町の付加価値創造に役立てようという志のもとに、福岡の若手建築家、建築学生たちがプロデュースした活動がMATfukuokaである。建築物と都市景観を新たな福岡の魅力として再発見しようというなかなかユニークな試みであるし、何よりも参加して面白いツアーである。

こうして海から福岡を見ると奴国の時代からこの博多湾が大陸への重要な窓口であったことがあらためて体感出来る。中世に栄えた港湾都市博多は、元寇や戦国の争乱など幾多の戦火による破壊を乗り越えて江戸時代の鎖国でその役割を終えるまで、日本を代表する国際貿易都市として発展してきた。大航海時代のオランダの世界地図にもFacataの名前が刻まれている。遣唐使の時代から謝国明のような華僑商人、神屋宗湛、大賀宗九などの豪商が活躍した「博多の黄金の日々」だ。

その後鎖国時代に入り、博多の国際貿易港としての役割は長崎に移り、しばらくは停滞の時期に入る。終戦直後は大陸からの引き揚げ船の着く港となり、日本人がかつて体験したことのない未曾有の悲劇の舞台ともなった。博多湾には戦後間もなくから博多埠頭や須崎埠頭などの港湾施設が設けられ、香椎沖には最近アイランドシティーにコンテナ埠頭が新設されてガントリッククレーンが並ぶ姿が、再び新たな国際港湾都市福岡への再生の印象を強く主張している。

目を西に転ずると、シーサイドももちから姪の浜のマリノアの都市景観は、新しい水辺都市福岡を強く印象付ける。大きな港湾施設を設けず、工場もなく、水辺をコンクリートで護岸せずに人工ではあるが砂浜で縁取り、福岡タワー、シーホクホテル、福岡ドームなど斬新なデザインの高層の建築群が軒を連ねる。今川橋に住んでいた子どもの頃,この辺りは地行浜、百道浜の海水浴場だった。近場の海水浴を楽しんだものだ。そこをアジア博(よかとぴあ)の時に埋め立てて新しい人工海浜都市、シーサイドももちが生まれた。近代的で自然と調和した都市生活、という福岡での暮らしを形容するにふさわしい景観となっている。

博多湾は志賀島を陸地と繋ぐ長大な砂州、海ノ中道に囲まれた静かな内海になっている。その志賀島と能古島の間からは玄海島が望め、ここが天然の良港であり、朝鮮半島、大陸へのゲートウェーであることをあらためて感じることが出来る。また西には今津湾、糸島半島の可也山(糸島富士)が夕陽に染まり、古代の伊都国の残照を見る思いがする。

船から陸地をぐるりと見渡すと、古代の倭国の国々(ムラムラ)の舞台はこのように博多湾という意外と狭いエリアであったようだ。邪馬台国の卑弥呼の代官、一大率が駐在したという伊都国もこの博多湾を囲む糸島半島の付け根あたりに位置していた。平原遺跡や三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡など、大陸伝来の副葬品が大量に出土した遺跡群が集まる場所である。魏志倭人伝に登場する伊都国の存在を考古学的に証明するものだろう。

さらに西へと歩を進めると、末盧国のあった唐津、松浦半島となる。ここは福岡から地下鉄乗り入れで1時間余の所だ。昔は国鉄筑肥線であったが、福岡市地下鉄開通と同時に電化され、姪の浜から西は地上を走る。景色の美しい路線だ。伊都国のあった糸島半島を過ぎる頃、右手に美しい海と島が織りなす海岸線が車窓に広がる。この美しい風景に囲まれた豊かで平和な風土が古代から人々を寄せ付けて国家(ムラ)を形成したとしても不思議ではない。晴れた日には壱岐が望める。やがて虹ノ松原と鏡山が優美な姿を展開する。万葉時代から時空を超えて続く景観に見とれてしまう。

この唐津は「唐津焼」で名の知れた土地でもある。中里太郎右衛門窯が現在も窯元として古唐津伝統の作品を生み出している。朝鮮唐津や高麗唐津など茶器として古唐津は外せない。他にも若手作家が多く育ち、駅前にはギャラリーには様々な「唐津焼」の作品が並んでいる。古代末盧国時代から大陸との交流が盛んであった土地の記憶を、こうした伝統陶器に重ねることができる。

青い空、青い海、白砂青松、緑の島々... 近代的で個性的な建築群と都市景観... このような自然と都会、時空を超えた歴史と未来が織りなして美しい景観を生み出している。今も昔もアジアへのゲートウェーというポジションは変わってない。アジアの時代にこの福岡がどのように発展してゆくのか楽しみだ。









伊都国遠望





伊都国







那の津
鵜久島





































2010年8月9日月曜日

デジタルオリンパス・ペンF復活 F.ズイコーレンズ再び...

 オリンパスのE-P1は、マイクロフォーサースフォーマットのデジタルカメラで、一眼レフ特有のペンタ部がないコンパクトな外観で人気商品の一つだ。

 往年のオリンパス・ペンFの外見もペンタプリズムを廃し、ダッハプリズムという当時画期的な光学技術を用いたスマートな独特のボディー形状となっていた。そういう意味では、デジタル化されて同じ外見を継承したことはファンにとって嬉しい限りだ。

 ただ、往年のオリンパス・ペンFユーザは、お小遣いをコツコツ貯めて買いそろえたペンF用のコンパクトなズイコー交換レンズ群を付けて撮りたいではないか。それでこそデジタル化したオリンパス・ペンFの復活だ。

 ペンFは35mmフィルムの半分、すなわちハーフサイズ用カメラなので、35mm換算でレンズ焦点距離は40mmなら1.3倍の約50mm相当となる。フォーサーズフォーマットなら2倍となるので、40mmのFズイコーレンズは80mmの中望遠レンズとなるはずだ。

 ところが、意外にペンF⇔マイクロフォーサースマウントアダプターがない。
オリンパスからもパナソニックからも純正アダプターはラインアップされてない。その他のブランドメーカーからも、このF用だけがリリースされていない。
どうやら香港製のモノがある、無名のガレージメーカが出しているそうだ、という噂は聞いていたが、実際にお目にかかることはなかったので、ほぼ諦めていた。

 先日、福岡へ行ったとき、時々ぶらりと立ち寄る天神のカメラ屋のショーケースを覗いてみると、たまたま発見。探している時はないが、忘れた頃に見つかるもんだ、こういうたぐいのモノは。

 どこの製造か全く表示もない(PEN-m4/3と白抜きで刻印してるが)が、とりあえず使ってみる。
ボディー側のマウント外周にはローレットが切ってあり取り付け時の手がかりがよい。カチッと装着。しかし、レンズ側のマウントが甘い。ガタガタする。取り付けたズイコーレンズのフォーカスリングをまわすと、マウントロックが外れてしまう。無限大ピンとも少し甘い。工作精度はいまいちだ。

 写りはさすがに、最新のデジタル専用のレンズのようなシャープさとコントラストの良さはないが、「そうそうこんな写真だったよ、あの頃撮ったのは...」というノスタルジックなテイストが出ている。シーンモードでポップアートを選んで撮ると面白い。遊べる。

 しかしFズイコーレンズ装着した姿はなかなかのもの。コンパクトでスマートなE-P1ボディーにコンパクトなFズイコーレンズ。とにかく「デジタルオリンパス・ペンFの完成です!」マウントリングの出来上がりは「いただきました、☆三つです」とはいかないが、Fズイコーレンズ群を生かせるデジタルオリンパス・ペンFの復活にマニアックな一人喜びの感動を味わってる。

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2010年7月31日土曜日

新益京(あらましのみやこ)藤原宮趾

 新益京といってもピントこないが、藤原京と言えば教科書で習っただろう。しかし日本書紀には「藤原京」という名前は出てこない。飛鳥浄御原宮から遷都した新たな都は「新益京」(あらましのみやこ)と記されている。藤原の名はその宮殿をさすとされる。女帝持統天皇は日本で初めての本格的な都城、藤原京(新益京)を造営、694年に遷都した。

 持統天皇の夫であった天武天皇は、壬申の乱の後、天皇親政を敷き、皇祖神天照大神を伊勢神宮に祭り、「公地公民制」を定め、割拠する豪族の上に立ち、King of Kings, Lord of lordsとして天皇を中心とした国家体制を構築。遣唐使を中止し、仏法と律令制に基づく「近代的な」大国「日本」を築くことに力を注いだ。「倭」から「日本」への大きな転換である。

 この時代は、その1200年後の日本の歴史のもう一つの転換点、明治維新の時代に似ている。国際情勢の緊迫、大国や列強の外圧への恐怖。内乱。天皇中心とした統一国家体制への変換。新たな国家を律する法体系の整備、首都移転。「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」を計った点でも共通する。いや、明治維新時の尊王攘夷思想は、この時代の宮廷「革命」に範を求めたものかもしれない。事実その後の歴史の中で天皇は政治権力の表舞台から徐々にフェードアウトしてゆき、再びその表舞台に踊り出すこととなったのは明治維新の時である。それ故の「王政復古」であった。

 話は戻り、持統天皇はその夫の意思を継ぎ、新生日本を象徴する首都の造営に力を注いだ。それまでは狭い飛鳥の地であらたな天皇が即位するたびに点々と宮殿を移していたのを、いわばpermanent residentを設け、宮殿を中心に唐に習った壮大な都を形成することとした。これより平城京へ遷都する710年まで文武天皇、元明天皇の三代に渡り都を営む。ここに外国風の飛鳥文化とは異なり、日本としてのアイデンティティーを主張する白鳳文化が花開いたわけだ。後に菅原道真が説いた「和魂漢才」の原点がここにある。

 藤原京は、畝傍、耳成。香具山の大和三山を包摂する東西南北条坊制に則った広大な都城であった。大極殿、朝堂院などの宮殿は平城京とは異なり、都城の中央に配置されている。都には薬師寺(平城京に移転する前の)、大官大寺が建立された。都城を囲む城壁や堀はなかったようだが、南には朱雀門趾が発掘されている。270pxfujiwarakyo2

 諸外国からの使節はこの都の壮麗さに目を見張ったことであろう。しかし、先に述べたように、都はわずか16年で、奈良盆地の北、平城山の平城京へと再び遷都される。その理由は謎に包まれた部分が多いが、一説にはその地形の水はけの悪さがあげられている。宮殿の位置する地点は盆地の中央で、南西に比較的小高い山を抱える地形から、宮殿地域は常に水が流れ込む場所に位置する。当然汚水の滞留が起こり、疫病発生の原因となっていたと言われる。

 そんなお粗末な... ということは、そもそも都市計画が初手からずさんだった,という事なんだろうか。大国としての体裁を整えることを急ぎすぎたのか?ともあれ現在、大極殿あとの基壇が残されており、そこに立ち周囲をぐるりと見渡すと、ここは奈良盆地の中央。北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山が展望出来る。大和国中ど真ん中で、都のロケーションとしては理想的なのだが、いかんせん水はけまでは考えなかったのか。

 今は、国指定の史跡となっており、発掘が続いている。広大な原っぱになっており、野球少年達が真っ黒になって元気にグラウンドよろしく走り回っている。その空き地の一部に地元の人々が、蓮田を設けて、いつも夏のこの季節は珍しい蓮の花の競演を楽しむことが出来る。また、黄色コスモスの群生もあり、古代を忍びつつ花々を楽しむ絶好の場所となっている。

 しかし、このクソ暑い猛暑のただ中、日差しを遮る場所もない野っパラで蓮にカメラ向けてる酔狂なヤツは我一人。車でやって来て「ここやここや」といって降りて、「あっついなあ」と汗ふきながらそそくさと蓮見てまた車に戻る人以外、訪れる人もない。蓮もコスモスも盛大に私一人の為に咲き誇ってくれている。「夏草や強者どもが夢のあと」だ。おおっと、カメラが熱くなってる。